第12話 思い出と
徐々に小さくなっていくマンションから、わたしはなかなか目を離すことが出来なかった。それから少しすると右側から大きなビルが現れて、マンションを覆い隠す。
見えなくなっちゃった……
タクシーは左側に曲がったみたいだったけど、それに気が付かない程、自分のマンションを見つめていた。さっき言い聞かせたはずなのに、それでも思い出にすがる自分自身に腹が立って、思わず下唇を噛む。自分自身への悔しさをぶつけるように思いっきり……
歯と歯で挟まれた唇に鋭い痛みを感じる。だけど今は痛みよりも、自分の弱さが嫌で嫌で仕方なかった。
「忘れ物ですか?」
「えっ?」
いきなりの運転手さんの声に、下唇を噛むのをやめて急いで顔を前の方に向ける。
「あっ、いえ……ずっと後ろの方見られてたので」
「なっ、なんでもないですよ! 大丈夫です」
とっさに作り笑顔を浮かべながら、急いで返事をした。
後ろずっと見てるなんて、普通はありえないよね……。変な人だって思われたかな……?
内心恥ずかしさで一杯だった。
その恥ずかしさを、タクシーの中を見渡して必死に誤魔化していると、助手席の後ろの部分に運転手さんの顔写真が張られているのに気が付いた。少し白髪の混じった短髪で、眼鏡をかけたその顔。そしてその下には、佐藤太郎と書かれていた。
佐藤太郎?
わたしは顔を近づけると、そのプレートをもう一度良く見てみる。たしかにそこには佐藤太郎と漢字で書かれていた。
「平凡な名前でしょ?」
その声に視線を戻すと、ルームミラー越しに運転手さんと目が合う。運転手さんの口元は笑っているようだけど、返事に困ってしまう。このままを肯定しても、なんか嫌な感じになっちゃうし……
「えっ、いやぁそんな……」
思わず目が泳いで、肯定も否定も出来ないまま曖昧な答えしかできない。
「いいんですよ。むしろ、その名前の方がお客さんと話す良いきっかけになるんですよ」
「そうなんですね……」
「母方の実家は少し珍しい苗字なんですけどね~。はははっ」
わたしの当たり障りのない返事にも、運転手さんは笑顔で話し続けていた。
「だからね、何でこの名前を――――――」
「もうちょっとカッコいい名前が――――――」
運転手さんの話し……というかほとんど独り言に近いマシンガントークに圧倒されてしまう。
ははっ……
わたしは愛想笑いをしながら、とりあえず相槌を打つことしか出来なかった。
「嫁にもバカかにされて――――――」
「挙句の果てには――――――」
絶え間ないマシンガントーク。だけど、それを聞いてる内に自然と不思議な感覚を覚える。
最初の名前の話から、自分の両親の話。
自分の名前がきっかけで出会った奥さんの話。
自分の子どもにも名前をいじられた話。
どの話も運転手さんと家族のやり取りが面白くて、運転手さんも楽しそうに話してて……その雰囲気に、なんだか自然と笑っちゃってた。
「あっ、すいません。ベラベラ自分の話しばっかりしちゃって」
「大丈夫ですよ。すごく面白いです」
運転手さんの話を聞いてどのくらい経っただろうか、運転手さんのその言葉に、私は笑顔で答えていた。
「ご家族、ホントに仲が良いんですね」
「いやいや~そんなことないですよ」
言葉では否定しつつも、そう言う運転手さんんは笑っている。
家族か……
「そういえばこんな時間に奥豊湖まで行くんですか?」
そう言われて、タクシーのカーナビを見ると19:40と表示されていた。乗ってからもう1時間半くらい経っていることに少し驚く。
運転手さんの話面白かったしなぁ……
改めて、運転手さんの話の多さと面白さに感心しながら、私は笑顔で答えた。
「はい。みんなが待ってるんです」
奥豊湖……
毎年みんなで来ていた場所。楽しい思い出が一杯詰まった場所。そして今年も行こうねって約束した場所。私にとっても、家族にとっても奥豊湖は特別な場所だった。
運転手さんに奥豊湖のこと聞かれた時、まだ残ってたつらい気持ちが少し和らいだような気がした。それに自分がなんで奥豊湖に行こうと思ったのか……それを思い出させてくれる。
特別な場所、思い出の場所から、みんなに会いに行くんだ……。
★
それからどのくらい経っただろう。私は運転手さんとの話に夢中になっていた。
自分の家族のこと。奥豊湖には毎年来ていること。その他にも自分でも驚くくらい、家族の話をしていた。運転手さんもわたしの話を笑顔で聞いてくれる。その雰囲気がとても心地よくて楽しかった。
「おっと……そろそろ到着ですね」
運転手さんの言葉に、私は窓の方へ視線を向ける。気が付けばタクシーは見覚えのある橋の上を走っていて、下には月の光に照らされた奥豊湖が見えていた。
「あっという間だった……」
無意識に口からこぼれた言葉に、
「そう感じていただけたなら幸いです。私も楽しかったですよ。お客さんのお話」
運転手さんは優しい口調で答えてくれた。それがなんだか自分の家族を褒めてくれたようで……。そんな感じがして少し嬉しくなる。
「どの辺りで停まりましょうか?」
「あっ、橋を渡った先の
「わかりました」
運転手さんの問いかけに私は笑顔で答え、窓へと視線を戻した。目の前には月明かりに照らされた奥豊湖。その光景がすごく幻想的に見えた。
それからしばらく経った時、道路の脇に【水蓮郷】と書かれた大きな看板が見えた。その先の道路は大きなカーブになっていて、そこを曲がると山の陰からライトに照らされた立派な旅館が現れる。
いつ見てもでっかいな……
湖の近くにそびえるその旅館は、周りに建物がないからなのか、いつもながらとても大きく見えた。タクシーはそのまま旅館の方へと向かって行くと、ブレーキ音とともに停車する。
「ここでよろしいですか?」
「はい。ありがとうございます」
運転手さんの問いかけに答えると、わたしはポーチの中から財布を取り出して、お金を払う準備を始めた。
「いえいえ。それでは代金の方ですが、えぇっと……25,000円ですね」
運転手さんは一旦カーナビの方を向くと、表示された料金をわたしに伝える。
……やっぱりそれくらい掛かっちゃうよね。
わたしはそう思いながら財布を開けて、中に入っていたお札を手に取った。
「じゃあ、これで」
「30,000円からですね。今お釣り出します」
お札を受け取った運転手さんは、座席の脇に置いてあった黒いセカンドバックを開け始めた。
お釣りか……運転手さんの話面白かったしなぁ。
それにもうわたしにはお金……必要ないか……。
「あっ、お釣りは結構です」
「えっ!?」
私はドラマでしか聞いたことのなかった台詞を堂々と口にしていた。内心しゃべるのにドキドキしたけど、噛まずに言えた自分を褒めてあげたい。運転手さんもそんなことを聞いたのは初めてだったのかな? すごく気の抜けた返事だった。
「えっ、いいんですか? ……それでは、頂戴します」
運転手さんは暫く考えた後、そう言いながら一礼して、持っていたお釣りを鞄の中へ戻した。
その様子を見た私は、
「本当にありがとうございました」
運転手さんにお礼を言いながら軽くお辞儀をすると、ゆっくりとタクシーから降りる。
「楽しんでくださいね」
後ろから聞こえる運転手さんの声に、わたしは振り向いてもう一度お辞儀をする。そしてドアの閉まる音と共に、乗ってきたタクシーは来た道を戻っていった。
短い時間だったけど、本当に楽しかった……
わたしはタクシーが見えなくなるまでずっと眺めていた。そしてしばらくするとタクシーの姿も音もなくなり、辺りは静けさだけが残っている。
その静けさと、じわじわ感じる蒸し暑さに汗がこぼれ、思わず手で拭っていると、思い出したかのように喉の渇きを感じた。
少し暑い。喉渇いたな……自販機とかないかな……
そう思いながら辺りを見渡すと、駐車場の真ん中あたりに自動販売機があるのを見つけた。わたしはそこへ向かって歩きながらポーチの中から財布を取り出す。
自動販売機にはたくさんの虫が集まっている。水辺が近いからか、家の近所の自動販売機とは比べ物にならないくらいの数だ。
うわっ。虫一杯だ……
そう思いながら財布から取り出した小銭を入れると、近づけた手や腕に小さな虫がくっついてくる。それを振り払いながら、自動販売機の飲み物を眺めながめていると、今度は顔にまで虫が寄ってきた。
顔に近づく虫を払いながら素早くボタンを押すと、ガタンッと落ちてきたお茶を取って急いでその場を後にする。
虫いすぎだよ~。
そう思いながら何度か顔や腕を払った後、手に持っていたお茶の蓋を開けると、お茶に口にする。冷たいお茶が体に染みてとってもおいしい。何口か飲み込んだところでペットボトルから口を離して見ると、喉の渇きもあったのか、気が付いたら一息で半分くらいのお茶を飲んでしまっっていた。
ふう……
大きく息を吐き出すと、目の前に見える水蓮郷を眺める。その7階建てのホテルは、周りが湖という事もあってかその階数よりも一際大きく見えた。客室の殆どに明かりが点いていて、その人気振りが一目で分かる。
1回でいいから、みんなで泊まりたかったな……
水蓮郷には何度も来た事がある。だけどそれはログハウスの受付をする為に寄っただけだった。
いつか働いて、そのお給料で家族みんなを……なんて思ってたけど、それももう無理なんだよね。
もう十分分かっているはずなのに、その事実を思い出すだけで悲しくて、どうしようもなく胸が痛くなる。そんな痛みを感じながら、私はゆっくりと水蓮郷に背を向けておもむろに歩き出した。
目の前には、薄暗い外灯の並ぶ道路。その左手には奥豊湖が広がっている。今いる水蓮郷の明るさに比べると、その先はかなり暗くて、飲み込まれそうな程だった。
そのまま暗い道を歩き続けていると、右側にポツリと明かりが見えてくる。私は一瞬その明かりの方を見ると、すぐに視線を戻した。
ログハウス……見たくないな……
たくさんのログハウスが並んでいる広場。そこは毎年私達が遊びに来ていた場所だった。その思い出の場所に徐々に近づいていく。わたしは視線を湖の方へと逸らすと、そのまま歩き続ける。
見たらまた思い出しちゃう……でももう来ることもできない、見ることもできない……
そう思った瞬間、わたしは広場の入り口の前で立ち止まっていた。そして、見ちゃいけないのに分かっているのに、ゆっくりと視線を広場のほうへと移していく。
ログハウス広場と書かれている木製の看板。そして、その奥に何棟も建っているログハウス。
夜は皆でバーベーキューして花火をするのが好例だったな……
昼は湖に入りに行って……あっ、スイカ割りやった時、真言フラフラでそのまま湖の方に行って倒れこんだっけ。ずぶ濡れだったなぁ。
ふふっ。
皆で過ごしてきたことを思い出すと、やっぱり面白くて楽しくて笑ってしまう。
皆で楽しく笑って……わたし本当に幸せだったんだな……
そう思いながら、明かりの点いているログハウスを眺める。
何でもない日常が、そんなにも幸せなことだったなんて……
もっと……もっと……
失ってから大切だったことに気付く。テレビとか話ではよく聞いていたけど、今のわたしにはその意味が痛いくらいにわかった。
わたしは唇を少し噛むと、道路の方へと体の向きを変える。そして、薄暗い道路の先へとゆっくりと歩き始めた。
もう戻らない……
もう誰もいない……
だったら、だったら早く……
もっと遠くへ。もっともっと遠くへ。
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