第6話 水色の瞳
坂を降りるにつれて、徐々に早まるスピード。そっして所々に見える湯煙、ほのかに香る硫黄の匂いは全くと言っていい程、いつもの鶴湯の姿だった。
大きい道路を横切ると、今度は徐々に上り坂になっていく。それをしばらく進んで行くと畑へと続く農道が見えてきた。
さすがにここからは自転車きついな……坂を上りきれる気がしない。
チャリを引いて行くのも有りだけど、この道幅で途中で車と行き合ったら避けるのに一苦労なのは目に見えてる。俺は近くの原っぱにチャリを置くと、鍵をかけて畑に向かって農道を歩き始めた。
こうして、右に左に曲がりくねった坂道を歩き始めて20分。予想以上の道のりの長さと、勾配のキツさに苦しめられたけど、何とか畑に着くことができた。
畑に着いた瞬間、これから向かう洞窟のことを考えると、足の疲れも気にならない。おもむろにリュックから飲料水を出して2口程飲むと、大きく息を吐く。そして洞窟の上にある森を見つめると、休むまもなく歩き始めた。
砂利の道路を段々畑沿いに歩き、途中に現れる畑道を更に上へと歩き進める。するとその先には前に来た時と同じ、地層の壁に覆われ拓けた場所があった。
そしてその脇に見えるのが例の洞窟。今日の目的の場所。迷うことなく一直線に……っと、その途中でふと思い出す。
あっ写真撮んなきゃ!
危ない危ない、前来た時はスマホ忘れて写真撮ってなかったんだ。スマホスマホ。
その場に立ち止まり、リュックを地面へくと、スマートフォンを探し出す。
あれ? ないな。まさか忘れたのか? いや確かにリュックに入れたはずだ。ここまで来て忘れるなんて、最悪もいいところだぞ。
少し焦りながら必死に探していると、
ん?
手になにか堅い物が当たった。
それをゆっくりと触ると、それは間違いなくスマートフォンの形。どうもリュックの内ポケットに入っていたみたいだ。
はぁ~良かった。
なんてしみじみ安心しながらスマートフォンを手にすると、徐に顔を上げた時だった。いきなりの突風が顔面に直撃する。思わず目を閉じて顔を後ろに逸らすと、一瞬で風は収まった。
びっくりしたぁ。
そう思いながら目をゆっくり開けると、その先に……大きな穴のようなものが見えた。
ん? 穴? なんだあれ?
1度洞窟の方を見ると、確かに行こうとしていた洞窟はあった。今見たその穴は、その洞窟の反対側。下部分にぽっかりと開いている。
なんだあの穴。前に来た時はあんなのなかったぞ? たしか周りを一通り眺めて、それであの洞窟を見つけたんだ。あんな穴はなかった……
なかったものがあることに、疑問しか出てこない。だけどそれと同時に、なかったはずのその穴がとてつもなく気になって仕方がなかった。スマートフォンを片手に、好奇心が赴くまま穴の方へと歩みを進める。
そして目の前に着いた俺は……じっと穴の中を覗き込んだ。
うわぁ、何だよこの穴。
穴の中は、少し角度がある様で斜め下に空洞が続いているようだった。先はまったく見えない。1度落ちたら上がっては来れない。直感でそう感じる。
……写真撮ろうかな。
俺は持っていたスマートフォンを両手で握ると、穴の中を再度覗き込む。画面越しに延々と続く暗闇が映し出されると、おれはシャッターボタンを押した。
パシャ、パシャ
2枚ほど写真を撮ると、もう1度穴の中を見てみる。まるで暗闇の中に体が吸い込まれそうな感覚だ。
あぶない、あぶない。こんな穴落ちたら絶対に上に戻ってこれないぞ。それだけは勘弁だ。
そう思って、本来の目的だった洞窟の方に体を向ける。そして穴に背を向けたその時だった、
「たすけて」
後ろから、囁くような声が聞こえた……気がした。それがものすごい速度で耳を通って頭の中に響いてくる。その聞き覚えのある声に一気に心臓が早くなる。
そして思わず後ろを振り返ったけど、そこにはさっきの穴があるだけだった。
今の声……今日の夢の……
そう、それは朝に見た夢。川岸で着物を着た女の子に言われた言葉。そして声。それとまったく一緒だった。
唾を飲み込んで、もう1度穴の前に行くと、ゆっくりとしゃがみこんでじっと穴の中を覗き込む。
穴の中はやっぱり何も見えなくて、暗闇が広がっているだけだった。なんでしゃがんだのか、なんで穴の中をもう1度覗き込んだのか、自分でもよく分からない行動。体が勝手に反応したというか、何かに動かされているような、そんな気さえする。
それからしばらく穴の中を眺めてたけど、さっきの声はもちろんなんの音も聞こえはしない。
……聞こえたはずなんだけど、気のせいだった……っ!?
それは一瞬だった。自分の気のせいだと思い、立ち上がろうとした途端……背中に感じる何かの感覚。そして、それに気付く間もなく……自分の体はゆっくりと前に傾き始めていた。穴の中に吸い込まれるように。
あれ? なんで俺前のめりになってるんだ? 押された? なにに? それよりこのままだと落ちる!
周りの音は全然聞こえず、景色も自分の体の動きも全てがスローモーションのように感じる。だけど頭の中だけはいつも通りはっきりしていて、今がどういう状態なのか、どう対処するべきなのか……必死にそれを考えようと頭をフル回転させていた。
とりあえず腕を伸ばして、横の地面に捕まるべきだと思っても……腕を動かすことはできない。
足で思いっきり踏ん張って、何とかできないかと思っても……足に力が入らない。
腕はしゃがんだ時の位置のまま、足は踏ん張るどころかすでにかかとが浮いている状態。
この不思議な感覚が、とても苦痛でもどかしかった。いくつもの解決策を考えても、体はまったく言う事を聞かない。自分の体の行方を、今はただ流れに任せることしかできない。
ゆっくりとゆっくりと時間が進んでいく。自分で言うのもおかしいけど、体の動きを見る限りどうやら後ろを振り向こうとしているみたいだ。
そういえば背中に何か当たったのを感じて、振り向こうとした瞬間こんなことになったんだっけ。
体はゆっくりと前のめりの状態になり、顔は徐々に後ろへと向きを変えていく。視線も徐々に横から斜め後ろに変わっていって、少しずつゆっくりと後ろの方が見えてくる。
俺の背中に当たったのはなんだったんだ? 人なのか? それと物なのか?
そんな疑問の中、視線の先に見えてきたのは……白い袖と手。その横には、白い帯が見える。
白い……帯? 着物? 誰だ? でもこの着物、どこかで見たような。
そう思いながら目線を上へと向けようと必死になる。その先には、その人物の顔があるはずだった。動かない目玉に何度も力を入れる。それが幸いしたのか、目線は上の方に向いていく。こればっかりは押された後の自分の反応を褒め称えるしかない。
斜めに重ねられている襟元に、肩。そこに付くか付かないかの長さの髪の毛。
そして、白い肌に透き通るような水色の瞳。
あっ……
その目を見た瞬間、おれは今朝の夢を思い出した。白い着物に短い髪の毛、そして水色の瞳。
この子、今朝の夢に出て来た女の子だ!
そのことに気付くと、おれは無我夢中でその女の子に話しかけていた。
君は誰なんだ? 俺を知っているのか? 俺に何をしたいんだ!
もちろん声は出ない。頭の中で必死に問い掛けるものの、当の女の子はただ見ているだけだった。少し悲しげな表情のまま。
なんだよ……その顔。 自分がしたんだろ?
おそらく彼女が俺の背中を押して、今こうして目の前の穴に落ちようとしている。そうしようとした本人がなんでそんな悲しそうな顔をしてるのか。行動と表情の違いがとても不快で苛立ちを感じ始めた時だった、
「ごめんね」
その言葉を聞いた瞬間、全てが元に戻る。まるで時間が、自分の体が早送りになったのかと思うくらい、俺は勢い良く前にのめりになって、前転をするような形で穴の中へと落ちていく。
幾度となく体のあちこちが岩肌にぶつかって、そのたびに痛みを感じる。終わる事のない回転運動に休む事なく脳が揺れて、だんだん気持ち悪くなってくる。
その両方を味わいながら、これから自分がどうなるのかすらわからず、体を流れに任せるしかなかった。
次第に、体が熱くなってきて、感じていた痛みが少しずつくなる。頭の中が暖かくなってきて、何だか眠たくなってくる。
その感覚にゆっくりと包み込まれていった俺は、眠るように意識を失った。
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