4 結/決
目が覚める。しかしたった数時間で、どれもこれも夢だったというご都合主義が発生するはずもなく。
退部届は受理されなかった。なんでも入部して一ヶ月以内の退部は、例外と呼べる正当な理由がない限り認められないらしい。累からすればこの上なく妥当な理由があるのだが、確かにそれを「不運体質」とするのは胡乱が過ぎると自分でも理解はしている。病気や怪我といった状態そのものならともかく、それらを誘発しかねない「可能性」の話を引き合いに出しても、きっと取り越し苦労だと言わざるを得ずに困り果ててしまうのだろう。まあ、わざわざ没収まですることはないと思うけれど。
不意にアラームが鳴る。大好きで設定したら、いつの間にか大嫌いになっていた曲。
「……うるせえ」
スヌーズと押し間違えないよう、やや慎重にアラームを止めた。寝返りを打って起き上がる準備を始める。行かなくていいと言われたら喜んで休むのだが、おそらく優等点からして累に休んでいる余裕などないはずだ。半ば衝動的であっても退部届を出した以上は、個人で点を稼げるよう努める必要があるのだし。つまり残されているのは登校するという選択肢だけ。たとえ待っているのが、元通りの憂鬱でも。
シャワーを浴びて、制服に着替えて、朝食を無理矢理口に詰め込んだ。食堂で果実と鉢合わせなかったことだけは運が良かったかもしれないが、それを「運が良い」と捉えるしかない状況に陥ってしまったのは、どう考えたって喜ばしいことではない。
普段よりも格段に長い通学路を猫背で進み、上履きに履き替えて階段を上っていく。普段よりも格段に遠い一段一段が、累の体力を削っていく。教室には見慣れた姿。そのことにほんの少しだけ安堵する自分がいた。当然、話しかけられはしないが。
味気なく過ぎる時間。移動教室も一人なのかと後ろ向きな心積もりで教科書の準備をする。すると、累の元へ想定外の来客が。
「烏丸おはよ〜、次視聴覚室だよね〜? 早く行こ〜」
「ああ……え?」
反射的に顔を上げた。まさか千歳の方から声をかけてくるなんて予想もしておらず、つい狼狽えてしまう。昨日で完全に愛想をつかしたとばかり思っていたものだから、雪名と果実が早々に行ってしまったからだとしても、彼女が席に来てくれたのは純粋に嬉しかった。
でも、そのことに甘えてはいけない。自分はもう関わらないと誓ったのだ。
「……いや、俺は一人で行くよ。ごめんな」
千歳は僅かな間の後に「そっか〜、わかった〜」とだけ答えて踵を返す。断られても一つも嫌そうな顔をしないのが逆に心苦しかった。席を立ち廊下を歩き出して十数秒。やっぱり一緒に行けばよかったと思ったことなんて、彼女には言えるわけがない。
それなのに、三限の後も。
「ね、この問題わかんないから教えて〜」
「……それは俺より雪名に聞いた方がいいんじゃないか……?」
昼休みに入ってからも。
「烏丸〜、お昼食堂……」
「きょ、今日は一人の気分なんだ……!」
六限の前も。
「部活について話したいことあるんだけどさ〜」
「あー……ちょっと急用を……思い出した、ような気がする」
隙あらば接触を試みる千歳。そうさせているのが自分とはいえ、未だかつてない押しの強さに若干戸惑ってしまう。そろそろきまりが悪いので勘弁してほしいものだ。以前のように振る舞っても大丈夫なのかもなんて、滑稽な勘違いはしたくない。
苦し紛れの他人行儀な態度を繰り返しつつ、なんとかやり過ごす。しかし終礼のホームルーム前。千歳は観念するどころか、累の元までやって来ると、笑みを崩さず机に片手を付いた。ただしその笑みが友好からなるものではなく、威圧する目的で向けられたのは誰の目にも明らかだ。
「烏丸ちょっといいかな〜? いいよね〜? よくないわけないよね〜?」
「……ち、千歳……?」
彼女は凄みすら感じさせる三段活用を駆使し、累をその場に縛り付ける。構図はまさしく蛇に睨まれた蛙のよう。
「放課後空けといて〜? 副部長から部長に、大事な話があるから〜」
「副部長」と「部長」の部分にアクセントを置いたのは、役職を持ち出すことで拒否しにくい方向へ持っていくためだろう。その目論見は正しい。先程は逃げてしまったが、部活の話となれば聞いておいた方が良いのは間違いないとわかっている。選択の余地が無いことを悟り、累は目を泳がせながらもやっとのことで頷いた。
指定された場所は屋上だ。どうして部室ではないのか疑問に思ったが、部長としての自信を一切持ち合わせていない状態で部室に足を踏み入れるのは躊躇われる。だから、これが彼女の気遣いであろうと気まぐれであろうと、正直ありがたいだなんて。
屋上までの階段に臆病な足音が響く。重い扉を押し開けると、夕暮れの空でフェンスに手をかける白髪の少女の背中があった。
「……お待たせ」
彼女がくるりと振り向いて、その場を動かずに間伸びした声で出迎える。
「待ったよ〜」
小さな手はフェンスから離れない。それはまるで累から歩み寄るのを待っているようだった。だから大人しく、拒む足を意志に従わせて千歳の隣に並ぶ。隣と言っても二、三メートル程離れている二人の距離。けれど千歳は、その微妙な空間に言及することはなく早速本題について切り出した。
「で、呼ばれた理由はわかるよね〜?」
怒気を含んだ尋問により完全に退路を断たれる。あまりの気まずさに思わず顔を逸らしてしまった。明後日の方向を見つめつつ頷くのがやっとだ。
「なんでわたしのこと避けてるの〜?」
まして、正直に言うなんてもってのほか。洗いざらいぶちまけてしまいたい心持ちを捩じ伏せ、代わりの言葉を口にする。
「……それは……言えない」
「え〜? 教えてよ〜、報連相は大事って義務教育で習ったでしょ〜?」
お前に義務教育の何たるかを説かれる義理は無い、というツッコミを辛うじて飲み込んだ。それにしたって、先程より僅かに彼女の声がにじり寄ってきている気がするのは何故だろうか。だが累は尚更たじろぎながらも、頑なに決意を貫き通す。
「い、言えないものは言えないんだ……悪く思わないでくれ」
「……ふ〜ん? 本当にわたしに言わなくていいの〜?」
「え?」
言葉の意味を掴みかねて、つい千歳の方を向いてしまう。目が合うと彼女が顔を傾けてにんまりと口端を上げた。
「どうしてもってことなら別にいいよ〜? でも烏丸が言わないならわたし、何があったのかくらいツナ子とミカさんにぱぱっと聞けちゃうんだけどな〜?」
同時にフリック入力のジェスチャー。被害者の二人に事情聴取をすれば、事がより深刻に伝わってしまうのはほぼ確実と言えるだろう。想像して一気に肝が冷えた。
「勘弁してくれよ……そんなん脅しじゃねえか」
「何のこと〜? ちなみに聞く準備はできたからいつでもどうぞ〜」
普段のんびりしているからこそ、こういう嫌な頭の回転の速さが際立っている。千歳を含め、本当に自分以外の三人は厄介極まる人間だ。
何にせよ、背に腹は代えられない。諦めて累は大筋を訥々と語った。時に事実だけを取り出し、時に抱いた感情を交えながら。千歳はどんな顔をしていただろう。飛ぶ鳥をぼうっと眺めていたままでは、知る由もなかった。
「……って感じだよ。ほら、わざわざ聞き出すような話でもなかったろ」
自虐気味に呟けば、納得いかないとばかりに「ん〜」と軽く唸り出す千歳。
「でもそれ、わたしを避ける理由になってなくない〜?」
「……なってるんだ」
何度も何度も理解させられた。一瞬でも雪名に軽蔑の視線を向けたこと。信じてくれた果実を裏切ったこと。千歳を引き摺り出しておいて置いてけぼりにしたこと。理不尽な目に巻き込んだこと。反面教師部という共通の居場所を壊したこと。それら全部が、疑いようもなく自分のせいだということを。
大切なものから離れるには、誰が何と言おうともこれ以上ない程の理由だろう。そう信じて、もういっそ諦めたかったのに。
「……じゃあ仮に二人との問題が解決したら、烏丸は戻ってきてくれるってこと〜?」
期待なんかさせないでくれよ。戻ってきてほしいみたいな言い方しないでくれよ。どうせ同じ結末を辿るなら、俺に失望してくれた方がよっぽどいい。放たれるのはもっと冷たい声色でいい。
じゃなきゃきっと甘えてしまう。首を横に振るだけの至極簡単なことさえも、ずるずると引き延ばす程。
「……さあな」
累は先んじて屋上を後にする。大した理由なんて無い。自分が長く側にいるせいで運悪くフェンスが壊れないように離れただけ。断じて、それだけ。
◆
アラームの鳴らない朝は、愛おしくも微かに物悲しい。見慣れないワイドショー。閑散とした食堂。沈黙を貫くスマートフォン。学校の無い週末にやることと言えば、昼寝か読書かネットサーフィンくらいなもので。
三人と仲良くやれていたならたぶん、こんなに無味な土曜日にはならなかった。千歳の思いつきでどこかへ遊びに行くことになったり、あるいは家に招集されてゲームに興じたり——というのは、些か夢の見過ぎだろうか。累は重力の強いベッドの上で叶いもしない理想に数分を捧げる。
思考の流れに身を委ね、なんとなく見返したのはRINEグループの履歴。雪名と果実との軋轢が生まれたあの日から、会話は更新されていない。当然、いくら画面を見つめていてもメッセージが送られることはなかった。そのまま画面を閉じようとしてふと思い出されるのは、先日目にしたあの動画。数秒迷った挙句、履歴からもう一度裏サイトを検索してみる。
怖いもの見たさとは違う。ただ、もう一度確かめたかったのだ。雪名がどうして見捨てる選択をしたのか。動画を撮影して投稿したのは誰なのか。あのスレッドの勢いは凄まじかった。数日見なかっただけでも、何か新しい情報が確認できるかもしれないと思わせるには充分すぎる。
また閲覧することになるとは思っていなかったけれど、想定よりは抵抗感を覚えていない。慣れていい代物でもないので少し複雑だ。つい、と指でスクロールすれば目当てのタイトルはすぐに見つかった。
スレッドは相も変わらず賑わいを見せている。しかし一部には、以前と異なる雰囲気を醸し出すコメント。
『完全に悪ってわけでも無いのな』
『むしろ被害者では?』
『嫌いなのは変わらんが真相わかると違って見える』
最新のものから目を通しているため流れすら掴めない。急いでスレッドを遡る。やがて、流れの境目と見られるコメントに辿り着いた。そのコメントには本文が無く、URLが一つ添付されているのみ。強い既視感を覚えると同時に条件反射で不安が胸をよぎってしまう。だが比較的良い流れを生んでいるコメントなのだし、以前の動画と同じような内容ではないはずだ。そう自分に言い聞かせ、累は深呼吸の後にURLの中身を開いた。真相とは、一体何なのか。
固唾を飲んでいる間に動画が読み込まれる。映像のサイズからして、前の動画とは違うカメラで撮られているようだ。
カメラが寮の側にいる何人かの女子生徒を映す。そして累の目には真っ先に、雪名の姿が飛び込んできた。雪名は寮の壁に背を向ける形で、三人の女子生徒と対峙している。聞こえるのは中心に立つ女子生徒の声。やはり音声は明瞭で、雪名に浴びせられている罵倒も全て聞き取れた。不和、というよりおそらく一方的な恨みの原因は、どうやら男絡みらしい。怒鳴る女子生徒は、自分の思い人が雪名の容姿に惹かれているとの噂を聞きつけたようで。不運では負ける自信が無いが、雪名も雪名でとんだ災難だ。
自身の主張が言いがかりであるとも気付かない程に平静を欠く女子生徒。心の底から雪名が憎いのだろう。声と表情が物語っていた。その鋭い声と殺気立った顔は、今まで目の当たりにしたことのない——いや、待て。本当にそうだろうか。
「……違う」
頭の中で回路が繋がりかけている。
『死ねよ! 折角元彼と別れたのもあんたのせいで全部無駄になったんだけど⁉︎』
『……何度も言っていますが、その方を誑かした覚えはありません』
そうだ。声を聞くのも、顔を見るのも初めてなんかじゃない。
でも一体どこで、という疑問はすぐに晴れた。
『うるっさい! あたしはそんなこと聞いてんじゃないっての!』
同じ台詞で合点がいく。彼女は男子生徒と喧嘩していた、雪名に助けを求めた、あの女子生徒だ。累はとある可能性に至り、咄嗟に動画の日付へと目を向ける。
十月三十日。つまり、今見ている動画の方が先に起こった出来事。その事実を認識し、ようやく女子生徒の助けを拒んだ雪名の行動が腑に落ちる。雪名が抵抗しないのをいいことに、女性生徒がバケツ満杯の水をかけようとする瞬間で動画を止め、累は一人呟いた。
「……言ってくれよ、そういうことはさ」
それは果実が部屋で話していた、雪名に対する過去のいじめを撮影したものだった。酷い仕打ちをしておいて自分だけは助けてもらおうだなんて、あまりにも虫が良すぎる。雪名がそれを拒むのも当然だ。
なのに俺はてっきり、お前が実は冷たい奴なんじゃないかと思った。どうして聞いた時、先に教えてくれなかったんだよ。ちゃんと理由があったんです、って。そしたらあんな目を向けなかった。悲しませずに済んだ。
でもそんな風に言ってたって仕方ないよな。俺にできることなんてたかが知れてるけど。だからこそ、数少ないそれらに全力で向き合わなきゃならない。たとえ、誰に何を言われようとも。
『掌クルックルで草』
「……うるせえよ」
◆
日曜日を心の準備に費やし、とうとう月曜日を迎える。丑満の定めた猶予がどの程度残されているのかは定かでないが、善は急げの精神で挑んで間違いないだろう。事前にRINEで雪名には「月曜日に話がある」と連絡済みだ。
早起きの彼女に指定された、朝の八時という非常にシビアな時間。遅れるわけにいかないと、累は死ぬ気で目を覚まし早足で学校に向かった。場所は部室だ。部長に相応しくない自分が、退部届を出した自分が、もう一度足を踏み入れていいわけもないけれど。
「おはよう、雪名」
「おはようございます、烏丸さん」
長机に手を添える雪名の表情は、他に場所が無かったからと渋々ここを指定したものには見えない。だから仮に累がいなくなっても、反面教師部として三人は上手くやっていけるはずだと安心した。
同時に累は色々なことを思い出す。初めて千歳の部屋に訪れた際の衝撃。雪名と果実に抱いた手強さ。ゲームに明け暮れた放課後。雪名の意外な一面。垣間見えた果実の本音。自分でも知らなかった思い。会議にならなかった雑談。四人だけの屋上。この場所が「部室」になるまでの、短くも長い道のりを。
でもきっと、その道は続いていない。自分がいる限り続いていかない。だからこれで終わらせると決めたのだ。
願わくば三人の未来にいたかった。それが叶わないのならせめて最後くらいは、心残りを残さないように。
「話があるんだ。聞いてほしい」
「はい」と澄んだ声が返り、累は立ったまま頭を下げる。
「……本当に悪かった」
最初に言わなければならないことを伝えてから、全てを包み隠さず話した。裏サイトで動画を見てしまったこと。あの時、少しでも軽蔑の視線を向けてしまったこと。雪名の行動に理由があったのだと知ったこと。
雪名は時々頷きながら正面で謝罪を受け止める。下がった目尻にもう、不安や悲しみの類は見られない。
「……話してくださり、ありがとうございます」
「いや、そんな……俺の方が礼を言う立場だよ」
正直「弁解は以上ですか?」くらいは言われても仕方ないと覚悟していた。そうならなかったのは、精一杯言葉を尽くそうとする心持ちが、少しは雪名に伝わったからだと思ってもいいのだろうか。
「あと改めて謝らせてくれ。俺が逃げる前、何か言おうとしてただろ?」
そう、今でもありありと再生できる。動画が事実であった衝撃に耐えられなくなって走り出す直前。雪名が、累の名前を呼んだことを。
「たぶん、訳があったって説明しようとしてくれてたんだよな」
だとしたらあの時場に留まっていれば、こんな風にはなっていなかっただろう。丑満に幾度となく投げかけられてきた台詞が身に染みて、自省を禁じ得ない。
しかし彼女は累の推測をきっぱり否定する。
「いいえ。私が言いたかったのは、そうではありません。私にも確実に非はありますから」
「……そんなことはないと思うけどな」
「お気遣い感謝いたします。ですが、彼女の手を払い除けてしまったのは事実です」
こちらに背を向け、雪名が窓の側まで歩いていく。窓の手すりに手を置いて、どこかへ視線を飛ばす。つられて彼女から景色に意識を移すと、ガラスの遠く向こうには屋上が見えた。
「たとえそれが私を虐げた手であろうと、本当は、見捨てるような真似をするべきではありませんでした。ましてこの私が……古賀雪名が」
それはいつでも揺るぎない自信に満ちる雪名が見せた、最初で最後の弱さだったのかもしれない。累は肯定も否定もしなかった。彼女の大切な信念の話に干渉することなんて、許されないと思ったから。
けれど、振り向いた雪名の瞳には自分がいた。霧を晴らす清々しい顔が、確かに自分に向けられた。
「だから言おうとしたのです。もう同じことを繰り返さないと。伸ばされた手は全て掴もうと……自分自身はもちろん、千歳さんや果実さんに、そしてあなたに恥じない私でいたいと」
嬉しい、と思ってしまった。雪名が出した答えの中に、まだ自分が含まれている。たったそれだけのことが、心の底から嬉しいと。
原因の一つが解決を見せた途端「潔く三人の元を離れる」という誓いが脆くなり始める。このまま上手くいけば四人でいられる日が来るんじゃないかなんて、馬鹿みたいに楽観的な思考が真っ先に浮かぶ程。けれど自ら身を退くというのは、自分なりの最良の選択であり固い決断だった。簡単に覆していいものじゃない。
すると続く雪名の一言が、累の葛藤に割って入った。
「見ていてくださいますか? 烏丸さん」
「えっ」
最後のつもりで部室に足を踏み入れた。だというのに何故か彼女の口ぶりは「次」どころか「これから」を思わせるもので。予想外の事態に飛び出るのは、いくら何でも煮え切らない返答。
「かっ……考えとくよ」
だが雪名は満足そうに微笑んで、窓から離れると再び累の側へと近付いた。話が一応の区切りを見せたのを計らい「それにしても」と空気を切り替えながら。
「てっきり私、告白されるのだとばかり思っていました」
「……一応聞くけど、冗談だよな?」
「もちろんです。今は、の話ですが」
「今はってお前……」
要するに、初対面の時は大真面目だったということだ。雪名の自己愛に接してきた今にして思えば納得もいくが、当時は危うく脳の異常、あるいは人格の異常を疑ってしまったのを覚えている。結果としては限りなく後者だったわけで、ニアピン賞は貰ってもいいくらいなのだけれど。
何にせよ、以前と同じ台詞でありつつ、それが本気から冗談に変わったのは良い傾向に違いない。きっかけでもあったのだろうか。意味深な表情一つから押し図るには、洞察力が足りなかった。やはりこういう時、彼女くらい他人の機微に聡かったなら、と考えてしまう。
しかし雪名は答えを教えてやる気なんて無いとばかりに、累の横を通り過ぎて引き戸の前まで歩みを進めた。取っ手に指を差し込むと、部室に入った時とも以前とも違う、穏やかな笑顔で振り返る。
「行きましょう、もうすぐホームルームが始まってしまいます」
「え? ああ……そんな時間か」
決して流されたわけじゃない。目的地が同じで、時間差で部室を出ている余裕が無いという、一時でも共に行動するに足る立派な理由があるだけだ。そう内心で強く繰り返し、慌てて雪名の後を追った。
小テストに挑み、授業を受け、昼休みがやってくる。累は一人で食堂へ向かう。
雪名とした部室での話の中で、少しだが裏サイトのコメントの内容に触れた。累と雪名が二人でいると、否応なく雪名に白羽の矢が立ってしまう。二つ目の動画が投稿されてから風当たりは多少和らいでいるものの、まだ二人だけで行動するのはよろしくないだろうと。雪名は累のたどたどしい説明にもしっかりと理解を示し、別行動を了承してくれたのだった。
食券の列に並ぶ。なんとなく鯖の味噌煮の気分だが、自分が食べたいものは毎度の如く売り切れるため、端から期待などしていなかった。ところが何の奇跡か、今日はまだ鯖の味噌煮が利用可能となっている。ボタンは累の人差し指を待つかの如く発光していた。
「おお……」
一年に一度と言っても過言ではない幸運に思わず漏れる感激。迷いなくボタンを押した。伝わるのは確かな感触。食券を渡し、空腹感を刺激する匂いを心待ちに受け取り口に並ぶ。鯖の味噌煮がトレーに乗せられた瞬間、累はえも言われぬ喜びに包まれた。間違っても零したりしないよう、周囲に警戒して空いた席まで移動する。
「いただきます」
箸で切れてしまう柔らかい鯖。風味豊かな味噌の味わい。添えられた生姜が生み出すコントラスト。出来立てを口の中に運んだ瞬間、たちまち頬が落ちる——はずだった。しかし、期待していた程の高揚は無い。それどころか、あまり味がしない。
「……?」
累は無意識に首を捻った。偶然味付けの薄い部分だったのだろうか、と思い二口三口と食べ進めていく。食べても食べても味は同じ。変だ。前に食べた時は、もう少し美味しかった気がしたのだけど。
将斉高校の学食は定評が高い。とすれば、原因は累の方にあると考えるのが自然だ。でも一体何故なのか。いつもと違うのは一緒に食べる人間の有無だけ。そこまで思案し、やがて累は安直な仮説に辿り着く。
「……まさかな」
首を振って、浮かんだ心当たりを物理的に振り払う。第一、そんなことで味がガラリと変わってしまうわけがない。そして何よりも、自分でさえ知らなかった程の執着が存在しているという事実が許せなくて。
お前らがいないと目当てのメニューすら美味しくない、とか、言えるわけないだろ。
◆
時間を持て余すとは、きっとこのこと。そう思うくらいに累は暇な昼休みを過ごしていた。雪名と一応和解した今、本来ならば次は果実に謝罪をしなければならないわけだが、肝心の果実が全く見当たらない。人に聞いて回っても有益な情報は未だゼロ。
流石にくたくたになってしまい、座れる場所探しにシフトチェンジした。しかしここは特別教室棟だ。無断で入れる場所は限られている。なんとか普通教室棟まで移動するのが先決か、と思われたその時。視界の端に、赤髪が映った。
「……ん?」
鮮やかな色の方を向けば、家庭科室につまらなそうな顔でスマートフォンを弄る果実。基本的に特別教室には鍵がかかっているはずだけれど、どうやって中に入ったのだろうか。たまたま開いていたにしても、そのまましれっと入るのは反面教師部部員として非常にポイントが高い。断じて見習うべきではないが。
いや、そんなことはどうでもいいのだ。今は見つけたチャンスを無駄にしないことが最重要事項。累は我も忘れて家庭科室の扉を勢い良く開け放つ。
「果実!」
「うわ⁉︎ な、烏丸……何の用、だよ」
こちらに気付くと彼は明らかな動揺を見せるも、取り繕うようにすぐしかめっ面へ戻った。あくまで平然としている体を保ちたいらしいので、手に持っていたスマートフォンを落としそうになっていたのは見なかったことにしておこう。
「やっと見つけた……言いたいことがあって、お前を探してたんだ」
「……ふーん?」
言葉の途切れ方で累の疲労を悟ったのか、果実がスマートフォンを仕舞い、ひとまずは歩み寄る態度を見せる。
「内容によっては、聞いてやらなくもないけど」
「……ありがとうな」
息を整えている間で数秒後の策を練る。正直に言うと、見切り発車でここまで突っ走ってしまった節があったからだ。実際、果実の教師嫌いは克服されたわけではないし、これから嘘をつかないと宣言したところで、信用に値する行動を積み重ねられているわけでもない。この瞬間、累を動かすのは自責と焦燥だけ。
でも、きっと意味がないわけじゃない。たとえ犯した過ちが許されなくとも、自分の行動が、壊してしまった三人の居場所を再び作り出すきっかけとなれたなら。そう願って口を開く。
「……俺、本当に」
しかし累が振り絞ったなけなしの勇気は、突然の第三者の乱入により遮られた。
「内海ー、探したぞ……ってなんだ? お前ら一緒だったのか」
聞き慣れた低い声。咄嗟に出所を向けば、これまた見慣れた無気力な顔。
「げ」
「う、丑満先生」
面と向かって話すのは退部届を出して以来。すっかり頭から消えていたが、そういえば丑満とも若干気まずい状態なのだったと今更に思い出す。これが本当の四面楚歌、というくだらない洒落を考える余裕が残っているのがせめてもの救いか。
次に頭によぎったのは、丑満から放たれるであろう苦言。何せ退部届を出した部長が部員と一緒にいる上に、無断で家庭科室へ侵入しているのだ。案の定、丑満の目は物言いたげに累に纏わりついた。
「えっと、これは……その、違うんすよ」
罪状が二つ出ていることに気付いて慌てふためき、ひっくり返りそうな声で弁明を試みる。けれども丑満は、溜息一つを交換条件に累を不起訴処分とした。
「……まあいい。とにかく俺は内海に用があんだよ」
同時に彼の眠たげな目が果実へと向けられる。
「内海、お前ももうわかってるだろ?」
「は? ……知らないし」
シラを切ろうとした果実。その些細な抵抗も虚しく、丑満はがしがしと右手で頭を掻きながらご丁寧に理由を述べる。
「お前が知らなくてもこっちはわかってんだよ。ったく、面談の時間だけちゃっかりサボりやがって。今からやるぞ……つっても、めんどいから俺はパスしたいとこなんだけどな」
「じゃあパスしろよ、ボクだってやりたくないんだけど」
「仕方ねーだろ、どうしてもお前と面談してほしいって誰かさんに頼まれたんだから」
誰かさんとはおそらく築田のことだろう。とは言っても、丑満に対して注意ではなく依頼をするという点はやや腑に落ちない。頼むくらいなら築田本人が果実と面談すればいいものを——と思ったけれど、果実が問題児だから避けられたのかもしれない。かもというか、たぶんそうだ。絶対にそうだ。自分が教師なら、果実との面談などもはや罰ゲームも同然。
などと考えていると、不愉快を露わにした果実の顔がそっくりそのまま丑満から累へとスライドされる。
「今おまえ失礼なこと考えてるだろ」
「……俺ってそんなにわかりやすいか?」
仲違いの最中にも関わらず普通に応答してしまった。少し前に雪名にも同じことを言われたが、そもそも失礼なことを考えないというのは難しいので、思考を読ませないポーカーフェイスの習得が早急に望まれる。未来の自分にはぜひとも頑張ってほしい。
丑満が累と果実の会話が途切れるのを待って「さっさと行くぞ」と果実を連行した。嫌々丑満の後につく果実が振り返って、一度目を逸らしてからぽつりと呟く。
「話あるなら後で聞いてやるから」
「……ああ。助かる」
「ほんとだよ、マジでボクの寛大な処置に感謝しろよな」
雪名に似てきたんじゃないか、という一言はまだ胸に仕舞っておくことにする。
家庭科室は本来入ってはいけない場所だ。違う所に行くことも考えたが、果実を探し回った疲れでここを離れる気にもなれない。息を整えつつ他の教師が通りかからないことを願って十分。遠くの方から、丑満と果実の声が近付くのが聞こえた。座った場所から動かずに廊下を覗くと、二人は存外仲良く並んで歩いているではないか。それこそ、果実が遠慮なくギャンギャンと喚き立てられるくらいに。
累の視線に気が付くと扉の前で、丑満が果実の背中を軽く押した。
「ほれ、行ってこい。取り込み中だったんだろ」
「……まあ、そうだけど」
彼の方を振り向く果実の顔は見えない。けれど、嫌悪はほとんど含まれていないはずだと累の直感が言っていた。もしかして、面談を経て教師嫌いが緩和されたとでもいうのだろうか。直感は体感打率四割だが、果たして。
「邪魔して悪かったな。これにて俺はドロンさせてもらう」
「うわ古っ⁉︎ 死語だよそれ」
「知ってるお前も同類だっつの」
丑満は言いつつこちらに目配せらしき何かを送ったかと思えば、手をひらりと振ってみせる。
「じゃ、またな」
その「また」が指すのは、次に退部届を出す時じゃない。暗にそう言われている気がして、会釈にすら詰まってしまった。彼の背中が見えなくなるまで見送るのが関の山。
すると果実が累を呼び戻すように音を立てて椅子を引き、雑に腰を下ろす。
「……で? グダグダしてないで話せよな」
口調は厳しいが、それは累を糾弾する声音ではなかった。良いように考えているわけじゃない。ただそれくらいは、少しでも一緒にいたからわかるだけだ。
頷いて、必死に言葉を選び出していく。
「許してくれとは言わない。けど、謝らせてくれ」
「……何を?」
「嘘をついたこと、嘘を隠し続けたこと……それに、お前を傷つけたこと」
青い瞳が累の発言を反芻するように揺れた。黙っていても言葉に足るその様を見ると、目は口ほどに物を言うというのは本当なのだと実感できる。だから、累も今度こそ偽らずに。
「お前と、お前たちといる時間が楽しくて大切だったことは全部本当だ。お前がその言葉を信じられないのは俺のせいだし、もちろん今だって信じてほしいと思って言ってるわけじゃない。でも、どうしても伝えたくて」
予行演習とは全然違う。考えるより先に、拙いものばかりが湧いてくる。こんなつもりじゃなかったのに。謝って誠意を見せて、それだけがやるべきことで、言うべきことだったのに。
やっぱり俺はどうしようもない奴だ。
「ありがとう、って」
一番言いたいことを言い終え、無意識に俯いてしまっていた顔を上げる。何故か果実は柄にもなく視線を彷徨わせると、左手を二人の中間地点に、右手を眉間の辺りに置いた。
「……待ってよ」
次いで大きな溜息を一つ。気を悪くしたかと不安になったのも束の間。顔に被せた手が除けられて見えた顔は、彼が照れ隠しの時にする表情とよく似ている。
「そんな風に言われるとか、ちょっと予想してなかった」
「え?」
「あー……お前ほんとさあ、ボクもちゃんと言わなきゃいけないって思っちゃったじゃん」
疑問を呈する暇も与えずに果実は口を開く。
「あれからずっと考えてた。でもやっぱり、部屋の時とか四人でいる時とかも、お前が嘘ついてる感じには見えなかったんだよね。だからたぶん、本当なんだろうなって。それに最初は嘘つかないとボク話も聞かなかっただろうし、そんな状況でつかれた不可抗力の嘘でお前を切り捨てるなんて決断、できそうにない」
「……果実」
予想していなかったのは累も同じだった。もう離れるしかないと思っていたし、離れるべきだとばかり。また揺らいでしまいそうだ。一緒にいたい、と。でも。
いっそ許さないでくれたら、辛くなることも無かったのだろうか。
「……まあつまり許すっていうか、ボクはお前の言葉を信じることにしたってこと。ウザいのは確かだけど、丑満のことも……嫌いではない、かもだし?」
一つずつ良い方向へ向かっている。だというのにどうも累の微妙な直感は、全てがこのまま丸く収まるなんて甘い言葉をかけてはくれなかった。不穏な予感から目を逸らし、改まった礼と共に、努めて普段通りに振る舞う。
「……本当にありがとうな」
「別に? お礼が欲しかったわけじゃないから」
「それくらいは言わせてくれよ。許してくれたこともそうだけど、雪名と和解できたのもお前のおかげなんだし」
脳裏に累の部屋で交わした会話が蘇る。陰で行われていた雪名へのいじめのことだ。話を聞いた限りでは果実の他に目撃者がいないようだった。唯一現場を見ていた果実がどこかから裏サイトの存在を知り、撮っていた動画を載せてくれたのだろう。となれば千歳と二人だった時に彼が雪名と話していたのは、裏サイトのことだと考えると納得がいく。
しかしそんな筋の通った思考で導かれた結論に対し、頭上で大きなクエスチョンマークを浮かべた果実。
「え? ボク何かしたっけ? っていうかおまえ雪名とも喧嘩してたの?」
「え?」
一瞬とぼけているのかとも思ったが、様子を見る限り本当にわかっていないらしい。累は雪名との間にあったことと裏サイトのことを詳らかに述べた。全てを聞き終えて、果実が眉を吊り上げ一言。
「いやもっと早く話せよ!」
心からの叫びが家庭科室に響き渡る。ぐうの音も出ない正論だ。
「そ、それは悪い……」
「めちゃくちゃ重要なことじゃんか、報連相くらいちゃんとしろよな。ていうか……だからさっき雪名とのこと、ボクのおかげって言ってたわけ?」
累は頷く。雪名への悪質な嫌がらせは、わざわざ人気の少ない寮の前を選んで行われたものだった。改めて考えてみても、やはり偶然それを目撃していた人物は少ないはず。加えてスレッドのコメントは概ね雪名に否定的で、あの中に雪名の心象が良くなる動画を載せるような人間がいるともあまり思えない。しかし「じゃあ一体誰が」という問いはきっと迷宮への入り口。深く考えるのはやめておこう。
「……あの時はああ言ったけど。ボクたち、なれたらいいよな。友達に」
「え? あの時って」
「はあ〜? 聞いてなかったのかよ? 言っただろ、友達になりたかったって」
数秒考え、それが去り際に残した台詞のことを指していると気付く。累の精神状態が芳しくなく、耳を通り抜けていった言葉だ。そう謝罪と共に告げると果実は呆れたような顔で息をついた。
「ま、いいけど……今度から最後まで聞けよな」
「善処するよ」
清掃時間が本格的に近づく頃合いに、二人は家庭科室前で解散した。持ち場に向かいながら先のことについて思いを馳せる。
客観的に見るならば、三人から距離を置くべきだ。けれど雪名とも果実とも関係を修復することができた今、累がいることで反面教師部が壊れてしまうという心配はする必要が無くなった。残る懸念点は自信の不運だけ。だけ、と言うには些か深刻な問題だが。
とりあえず今は、部長としての義務を果たすのが最優先だ。累はスマートフォンを取り出して、RINEの一番上に表示された連絡先へと通話をかける。相手は余程暇だったのか、二回目のコールで繋がった。
「……もしもし、千歳?」
『もしもし〜? 烏丸どしたの〜? 珍しいね〜』
「まあ、ちょっとな。なるべく早く報告した方がいいかと思って」
屋上での意味ありげな台詞が蘇る。真意は未だ掴めずとも、彼女が累と二人のことを気にかけていたのは明らかだ。だからあくまでこれは、副部長への速やかな情報伝達。
「二人にちゃんと謝って、わかってもらえたよ。もう普通に話せる」
決して、反面教師部が元通りになるための糸口が欲しいわけじゃない。
ところが千歳は『そっか〜、よかったね〜?』なんて返したかと思えば、累の葛藤もお構いなしにあっけらかんと言い放つ。
『じゃ、明日また八時にみんなうちの前で集合ね〜。よろしく〜』
「……うん?」
間もなくして途切れる音声。抗議も交渉もさせてもらえないまま、無理にでも迷いを払拭しなければならない状況に置かれてしまった。こっちは良かれと思って離れようとしてんのにとか、一緒にいたくても我慢してたのにとか、色々言いたいことはあるものの。思わずへたり込んだ累の口から最終的に出てきたのは、複雑な感情が混ざった溜息だった。
◆
ひょんなことからまた四人での学校生活を送ることになりそうな折、累には心に決めたことが二つある。一つはなるべく三人を不運に巻き込まない努力をすること。もう一つは、千歳が不登校に逆戻りしてしまうのを阻止すること。特に後者は達成されるか否かが今日一日にかかっていると言っても過言ではないため、累はいつになく気を引き締めていた。鞄の中には、いつ雨が降ってもいいように大きい二本の折り畳み傘と、どんな怪我にも対処できるように救急セットが入っている。
「その重い鞄で逆に怪我したりするんじゃないの?」
「……何なら果実が持ってくれてもいいんだぞ」
「はあ〜? なんで華奢なボクが……」
「力で言えば、果実さんが持つのは妥当かと思われますが」
そんな会話を交わすうちに、程なくして千歳が玄関から姿を表す。緊張感でつい背筋が伸びた。
「おはよ〜、お待たせ〜」
「あ、ああ……おはよう」
三人に向けて挨拶すると、累の右側、つまり車道側につこうとする千歳。少しでも害が及んではならない状況だ、その位置取りは見過ごせない。累は不自然に思われない程度の素早さで千歳の更に右へと移動した。
「え、なになに〜? どしたの〜?」
「なんか……車道側を歩きたい気分で……」
流石に苦しすぎる。馬鹿か俺は。でも他にいい言い訳が思いつかない。
すると累の意図を察したらしい雪名と果実が咄嗟のフォローを入れた。
「烏丸さん、最近車が気になると仰ってましたもんね」
「あー……そうそう、車見たいならやっぱ車道側歩くに限るよな」
「え〜、何それ〜」
本当に「何それ」だよ。お前らも言い訳下手くそじゃねえか。そう言いたい気持ちもあったが、一応助け舟を出してくれた点でチャラにしておくとしよう。
学校に着くまでは些細な不運に数回遭った。被害を受けたのは累だけであり千歳も笑っていたからまだいいものの、やはり辟易してしまっているのではないかという不安が消えない。それに、どこか彼女の振る舞いには違和感があった。累はすかさず小声で尋ねる。
「……なあ、大丈夫か?」
「ん〜? 何が〜?」
「いや、その……俺に関することで、思うところがあったりするのかな、って」
嫌気が差してないかと聞くのはあまりにも直接的すぎる気がして、咄嗟に言葉を濁した。しかし千歳は累の言わんとするところを汲み取ったらしい。累の顔を見上げたままほんの少し黙ったかと思えば、あまり聞きたくなかった言葉を返す。
「せいか〜い、よくわかったね〜?」
「う、やっぱりそうだよな……悪い」
わかってはいたがやはり雪名や果実は関係なく、原因は累にあるということだ。それが純粋に不運を嫌うものであれば、自分の手で変えられるものなど全く無いに等しい。けれども千歳はへらりと笑うと、やけに含みのある表現で言う。
「でもヒントはあげたから、どうすればいいかは自分で考えて〜?」
「え? ああ……」
歯切れの悪い返事をしつつ必死に思考を巡らせる。その言い方からして「どうすればいいか」の答えは存在しているということ。二人とは和解をしたし、四人での行動も可能となった。となれば、不運が起こるのは仕方ないとしても、累なりに最善を尽くせという意味だろうか。それならば合点がいく。植木鉢が落ちてきた時もたまたま運が良かっただけで、あわや大怪我寸前だったのだから。
とにかく、可能な限りの準備をしてきて正解だ。今日は絶対に千歳に負の感情を抱かせまい、と決意を固めて校門をくぐり、辺りに絶え間なく目を配りつつ教室へ進んでいく。B組の扉を開けた時には既にかなりの心労が溜まっていた。雪名と千歳がそれぞれの席についたのを確認し、隣の果実がこちらに呆れを含んだ笑いを向ける。
「顔死んでるじゃん、ウケる」
「恩を着せたいわけじゃないけど、一応こっちはお前らを気遣ってるんだからな……?」
「わかるよ。だけどちょっとくらい肩の力抜けって」
折り畳み傘と救急セット入りの重い鞄を下ろした途端、一瞬にして楽になる。同時に、抱えていたものの重さを知る。そんな累を見つめる果実が頬杖をついて、お気楽な調子で呟いた。
「なんだかんだで『いつも通り』にするのが、結局一番上手くいったりするもんだし」
「……簡単に言ってくれるな」
少しだけ。本当に少しだけ、累もそう信じていた時期があった。
小学生の頃。確か四年生か五年生の時、ゲームの話でクラスメイトの男子と仲良くなった。初めて話してからすぐに彼の家に誘われ一緒にゲームで遊んだのを覚えている。小さな傷を作りながらも、不運に笑って付き合ってくれるのが心底嬉しくて。それまでずっと周囲から避けられてきた累にとっては初めて築いたまともな対人関係であり、間違いなく彼はかけがえの無い存在だった。
ある日、普段のように彼の家に向かう途中。風の強い日だった。並んで話すのはクラスで起きた面白おかしい出来事や、今日遊ぶゲームについて。どれも他愛のないことばかりだ。だからお互いに、それが最後の友人らしい会話になるなんて露程も思っていなかっただろう。
「なあ、今日もミリカやろーぜ!」
「いいけど、お前いつもベイビーランド選ぶからな……」
「運次第ってロマンあるじゃん? 心配すんなって、お前が勝てるように違うステージも選んでやるからさー」
彼の家のすぐ近く、曲がり角に差し掛かった時。びゅう、と突風が吹きつける。大きな音をたてた古い駄菓子屋の看板。きっとそれが剥がれ落ちるとわかったのは、経験則以外の何物でもない。
「でもさ、やっぱ最下位だろうとアイテムで……」
「危ない!」
「え⁉︎」
咄嗟に体が動いていた。彼を守れば、この居場所も守れると思った。
累は力の限りで彼の腕を引っ張り、後方へ倒れ込む。遅れて凄まじい衝撃音。僅かな体の痛みを無視して恐る恐る目を開けると、今さっきまで彼のいた場所に看板が横たわっていた。瞬間、少しでも遅かったら、と考えてゾッとする。
しかし幸いにも彼に怪我は無いようだ。とりあえず一安心と息をつく。腕から手を離し、黙ったままの彼を覗き込む。
「なあ、大丈夫、か……」
累はたぶん一生忘れない。自分の目が捉えた、逸らしたいくらいの顔を。
恐怖に歪む表情。看板を見つめる瞳。震える唇。嫌でも理解してしまった。自分は、これまでの小さな擦り傷なんかより、遥かに強く痛む消えない傷を、彼に残してしまったのだ。
何と言葉をかけるべきか迷っていると、音を聞きつけた彼の母親が玄関から飛び出してくる。
「っ、どうしたの⁉︎」
地面に座る二人と目の前の看板と轟音の組み合わせで状況を把握したらしく、母親は彼に駆け寄った。彼の無事を確認すると母親がきっと累を睨む。悲しいかな、刺すような視線の意味も子供ながらに読み取れてしまったものだ。
「あなた、自分が何したかわかってるんでしょうね⁉︎」
自分が悪いのだと、自分には人と関わる資格が無いのだと色々なものを諦めるようになったのは、今思えばその時からだった。耳をつんざく金切り声は、今でもはっきり再生できる。
「聞いてる⁉︎ 一歩間違えてたら大変なことになってたのよ⁉︎」
「……ごめん、なさい」
「この子、あなたと仲良くなってから、いつも怪我して帰ってきて……」
彼の治りかけの傷を手で包み、母親が目に涙を浮かべた。涙はそのまま彼の膝へと零れ落ちる。耐えられないとばかりに俯いた母親の声は、風に掻き消されそうに弱々しく。
「……もう、お願いだから……」
うちの子から離れて、と。聞こえなくてもそれくらいわかる。だというのにどんな言葉を返すのが正解かは全くわからなくて、累は地面を見つめ、もう一度彼と母親に謝ることしかできなかった。
翌日。教室に入り、彼の席まで足を運ぶ。昨日怖い思いをさせてしまったことを謝ろうと。そして、また楽しい話ができたらと。声をかけて謝罪をし、ゲームの話を切り出せば彼は力なく笑う。
「ごめんな。たぶんもう、一緒にゲームできないや」
「いつも通り」になれると少しも期待していなかったと言えば嘘になる。けれど、心のどこかでなんとなくわかっていた。彼のことが大切だからこそ、自分は彼の側にいない方がいい。
「母さんに言われたから。烏丸くんと遊ぶのはやめなさい、って」
お前が悪いわけじゃないよ、と言ってくれた。それは彼が最後にくれた優しさであり、噂が広まり耳にした心無い言葉と重なって、真綿のように累の首を絞める呪いとなった。
——流石に勘弁だわ〜。俺、不幸とか移されたくないし?
——ああ、烏丸? 近寄らない方がいいよ。だってあいつ疫病神じゃん。
「いつも通り」じゃ駄目なんだ。昨日あったものが今日も明日も側にあるとは限らない。俺の不運は簡単に全部を壊してしまう。普通未満の俺が普通の幸せを求めるなら、相応の努力をしなくちゃならない。それは、大切なものを守り続ける努力と、大切なものを失ったとしても一人で歩いて行く努力。
だから呑気にしていられないんだなんて言うつもりもないけれど。
思案に耽る累の表情に何かを感じたのか、果実は「まあ」と軽く口端を上げながら、先程より更に緩い調子で呟いた。
「おまえにもおまえの事情があるんだろうな。もしそうならボクとしてもそれを捻じ曲げたいわけじゃないし、好きにしろよ」
一呼吸置いたかと思えば彼の八重歯がいたずらに笑う。
「ちゃんと、見ててやるから」
「……そりゃどうも」
見ててくれとか見ててやるとか、どうしてお前らは揃いも揃って俺なんかを捕まえておくみたいな言い方するんだよ。やっぱり変な奴らだ。でも普通の奴らだったらそもそも関わることも無かったんだろうな。この関係をそう呼ぶべきかはともかく「類は友を呼ぶ」というのは、案外真理らしい。
そんなことを考えつつ、授業中に開け放った窓から蜂が入ってきたり、累が答える時だけ決まって難問が回ってきたり、体育で累のタイムだけ計れず何度も五十メートルを走らされたりと、特に珍しくもない不運をやり過ごし、チャイムは昼休みの始まりを告げる。四人で食堂に行くのも随分と久しぶりに思えた。
「ね〜ね〜、わたしいいこと思いついたんだけどさ〜」
「千歳がそう言う時、本当に『いいこと』だった試し無くない?」
「ふふ〜ん。今日は一味違うよ? 今日はね、何が売り切れてるでしょうゲームだから〜」
「なるほど……烏丸さんが目当てとするメニューが毎度完売していることを逆手にとったのですね? 烏丸さんに発言権が無いこと以外はよくできたゲームかと。私はオムライスに一票入れましょう」
「じゃあボクはカレーに一票」
「お前ら人の不運で遊ぶなよ……」
常に必死に気を張っているのが馬鹿馬鹿しくなってしまいそうな能天気さだ。累はちらと発案者の表情を見やる。(言い方は悪いが)常に薄ら笑いを浮かべているため、千歳が実際のところ今日これまでの時間をどう捉えているのかあまりよくわからなかった。累の最大の目的は千歳に学校を楽しいと思ってもらい、不登校に戻るのを阻止すること。不運に巻き込まないというのがその過程で達成するべき目的になるわけだが、彼女の顔を見るだけではそこに一体どれだけ近付いているのか、あるいは遠ざかってしまっているのかは皆目見当も付かない。
誤差の範囲とはいえ三人の中で一番長く千歳を見てきた身として、この状況は相当に歯痒く。
「わたしチキンカツ定食に一票〜、今食べたい気分だし〜」
「な、なら俺も頼むか?」
「……え〜? もしかして烏丸もチキンカツ目当て〜? じゃあ売り切れてるだろうな〜」
「いやそういう意味じゃなくて……」
正直今は学食のことなど頭になかったので、どうせなら千歳の食べたいものを頼んで分けてやれば、文字通り美味しい思いができると学んだ彼女が今後も来てくれる可能性が上がるのでは、といういっそ安直ですらある提案をしたつもりでいた。当の本人には全く伝わっていないようだが。
そうこうしているうちに食券の列の順番が四人の元へ巡ってくる。本日売り切れていたのは、千歳の目当てでもあったチキンカツ定食。
「わ〜、試合に勝って勝負に負けるってこういうこと言うのかもね〜?」
「……千歳。二番目に食べたいものは?」
「ん〜、ビビンバかな〜?」
「ならそれ、二つ頼むか。半分分けてやるよ」
「いやいや〜、変に気遣わなくていいって〜」
意図を直接口にしたにも関わらず、返ってきたのは彼女らしくない反応。普段ならばきっと遠慮のえの字も無く「いいの〜? ラッキ〜」と言って、なおかつ奢らせようとしてくる程だと言うのに。立場的にはどう考えても俺が奢ってもらう方だろ、と累は脳内の千歳へ反射的にツッコミを入れた。
「何おまえ、奢ってくれんの? ボク日替わり定食ね」
「私はオムライスでお願いします」
「生憎お前らには言ってないんだよな……自分で買え自分で」
一応雪名と果実にも気を遣っているが、流石に三人分の昼食代を出せる余裕は無い。財布から必要最低限の小銭を取り出し、素早く食券機に投入した。ボタンをざっと眺めたところ特段ピンとくるものも無かったため、累はビビンバを選択する。
千歳はその一連の動作を制止するでもなくただ見つめていた。ひょっとして奢ってもらうことを期待していたのだろうか。それならそうと言いそうなものだが。とにかく、千歳の言動に微妙な違和感があるのは間違いない。核心を突くに至れないのが惜しいところだと我ながら思ってしまうけれど。
曖昧極まりない感覚を口にしないまま、四人はそれぞれ食券を渡し料理を受け取る。ちょうどよく空いた席に陣取って不揃いに手を合わせた。そうしてスプーンを手に取り、累は自分のビビンバを掬うと千歳の方へ食器ごと寄せる。
「分けるからどれくらい欲しいのか言ってくれ」
「……も〜、いいって言ってるのに〜」
「ボクはスプーン三杯くらいで」
「では私もお言葉に甘えて一口いただくことにしましょう」
「だからお前らには言ってないんだよ……」
もはや断られるとわかっていてわざと言っているようにしか聞こえない。雪名と果実はいつの間に息ぴったりのボケコンビになったのだろう。雪名はともかく生粋のツッコミ役である果実までボケに回られると、ボケとツッコミの比率が三対一になり到底追いつかないから勘弁して欲しいのだが。
とにかく今は千歳のことを気にかけねばならない。累は三分の二を食べ進めた頃合いで、ビビンバが乗ったスプーンを空中に留め、千歳の丼から千歳自身に視線を移す。
「本当に食べないのか? 遠慮しなくていいぞ」
「してないよ〜。欲しかったら自分で言うし〜、もしくは言わずに勝手に取るし〜?」
「そこはせめて俺の許可を取ってくれ……」
相槌代わりに黄色の瞳を細めると、千歳は累が寄せた食器を片手でそっと押し返す。
「でもほんと大丈夫だよ〜? ……なんか、お腹いっぱいだから〜」
「そうか……?」
ビビンバは定食ではなく単品。いつも彼女が食べているお菓子や食事の総量に比べたら少ない方だ。しかし満腹だと言うなら、いくら好物でも無理に勧めるのはよろしくない。まあそういう日もあるか、と累は少しの引っ掛かりごと一口分のビビンバを飲み込んだ。
ややあって全員が昼食を食べ終え、食堂を後にする。ヒヤヒヤする場面があるにはあったが、これで勝負の一日、その前半戦を乗り越えることができたと言ってもいいはずだ。少なくとも、三人を大きな不運に巻き込んでしまうような事態は避けられていた。部室に行こうと言い出して先頭を歩く千歳も、このままの調子なら本当に登校を続けてくれるかもしれない。いや、あくまでもそう思っていたいだけ。
やはり今日の千歳はどこか変だ。それでも登校の際に千歳が放った言葉の意味を推察して、現時点でやれる限りのことはやった。あらゆる事態に備えて準備をしたし、注意深く周りを見たし、過剰なくらいに気遣いもしたし、なるべく千歳にとって利になる状況も作り出した。他にやれることなんて思いつかない。
大切な存在を不幸にしてしまうくせして、それでも離れたくないと言える勇気は無くて。自分がこんな不運体質じゃなかったら、自分がこんな性格じゃなかったら、千歳も愛想を尽かすことなく一緒にいてくれるのに。そう思うと、いよいよ胸中はやるせなさに支配されてしまう。
気付けば少し急く足取り。三人の数歩先を行く背中に一歩分だけ近付く。じれったさを誤魔化すかの如く、累は千歳の名前を呼ぼうと口を開いた。
だが累が意を決する瞬間は、いつでも間が悪いようで。
「すみませーん! ちょっといいですかー?」
出そうとした言葉は廊下の後方から築田が放った声に被せられ、あっけなく消えていく。出鼻を挫かれた累の情けない表情を、きっとどこかのカメラが捉えていることだろう。
走り寄ってきた築田が雪名と果実の目の前で速度を緩めた。
「少し誰かに頼みたいことがあって……二人くらいで大丈夫なんです。えっと、古賀さんと内海さんにお願いしたいんですけど、大丈夫ですか?」
ちょうど累が前に出ており、後方、すなわち築田の手前側に雪名と果実がいたため二人を指名したのだろう。タイミングは違えど二人は頷き、軽く言い残して築田とその場を後にする。おそらく書類運びか些細な雑用の類。共に残されたのが千歳なのはあまり穏やかでないものの、二人を不運に巻き込む確率が減ったことに累は僅かな安堵を覚えていた。
「……じゃあ、部室行くか。足元とか気を付けろよ」
「そうだね〜?」
しかしどう見ても千歳の視線は、足元ではなく四方八方に飛ばされている。危機感が著しく足りていない。累は溜息を押し殺し、千歳の分まで警戒を払った。常に監視されている状況で堂々と廊下を走ったりしている生徒など全くいないのだが、念には念を入れておかねば。
すると累の気苦労など微塵も悟っていないであろう千歳が横に並び、呑気に顔を上げて話しかける。
「ね〜烏丸〜、今日部室で久々にゲームしようよ〜。いろんなやつ持ってきたから〜」
「え? ああ……いや、俺はいいよ」
累は千歳に押されて三人と行動しているだけだ。今日だって三人を、千歳を、既にいくつもの不運に巻き込んでいる。傷つけて平気な顔して、それなのに甘い汁だけ吸うなんて絶対に許されない。何より自分自身が許さない。
その後も周囲に警戒しつつ千歳の発言に最低限の答えを返し、ようやく部室まで辿り着く。とにかく怪我をさせることなく無事ここまで来られてよかった。パイプ椅子へ腰を下ろして机に上半身を預ければ、一気に力が抜けていく。
「あー、疲れた……大丈夫か? 千歳」
数秒の沈黙が流れる。千歳が返答に詰まるのは珍しいな、なんて思い彼女専用のクッションに目を向けたが、そこに千歳の姿は無い。咄嗟に振り返った場所。何故か、千歳は扉の前で立ったまま。
「千歳?」
「……あんま大丈夫じゃないかな〜」
「え⁉︎」
弾かれたように立ち上がる。どこか変だと思ったが、まさか怪我をしていたとは。完全に見逃したこちらの落ち度だ。
「どこか痛むのか⁉︎ 悪い、俺気付かなくて……! 早く保健室に」
「だから〜、違うって」
俯きがちだったところから顔を上げる千歳。自分はその顔をなんだか長い間、真っ直ぐに見つめていなかった気がした。どうしてだろうか。累は今までで一番彼女に気を配り、守ろうとしていたのに。
「違う……って、何が」
「大丈夫じゃないのは烏丸の方でしょ〜?」
千歳が笑った。違う。歪んだ顔が、笑顔に少し似ていただけ。
初めて見る表情に戸惑いを隠せない。発言の意味すら聞けない。そんな累の動揺を加速させるように、千歳は言葉を継いだ。
「ね〜、烏丸どうしたら戻ってくるの〜?」
「……戻るも何も……朝から、ずっといただろ」
二人きりの屋上で千歳は言った。雪名と果実と関係を修復できたら、戻ってきてくれるのかと問いかけた。そして、累は形だけでも三人と一緒にいる。だというのに——ああ、ちっともわけがわからない。千歳が不思議なことを言うのは今に始まったことじゃないけれど、これまでと今の千歳は確実に一線を画していた。瞬きするたびに不安が増していく。
俺、間違ってたのかな。なら、何が駄目だったのか教えてくれよ。もう繰り返すのは嫌だ。
「……いないよ」
冷たい声音。笑みの消えた顔。ずっと、自分だけが理解できると思っていた些細な変化。今はもうわからない。累の目に映る千歳はまるで別人だった。
「烏丸は、いない」
「……意味、わかんねえって……」
なんでそんなこと言うんだよ。なんでそんな顔してるんだよ。俺はただ、笑って欲しかっただけなのに。今度こそって、何度目かの誓いを立てたのに。目が合わなくても、側にいるために努力したのに。それも全部無駄だったのかよ。
壊れていく。飽き飽きするくらい覚えた、いつまでも殺しきれない、寂しさに擬態した絶望が膨らんでいく。
「……あ〜あ、なんかつまんなくなっちゃったな〜。もう学校来なくていいや〜」
手を掴んでしまいたかった。行かないでくれと言いたかった。だけど彼女の顔を見れば、そんなことが許されるわけもないとすぐにわかってしまった。
行き場の無い両手を下ろすと、千歳がくるりと背中を向ける。そうして最後の情けとばかりに一度だけこちらを振り返り、
「わたし、もう帰る〜。じゃあね〜?」
「またね」じゃない言葉で、扉の向こうへ消えていく。
途端に静かになった部室。動悸と呼吸音だけが響き渡る。千歳と初めて会った時も間違えてしまったものだ。けれどあの時よりずっと怖い。もう彼女の存在が自分の中で、あまりにも大きくなりすぎていた。
動けないまま立ち尽くす。終わってしまったのだろうか。全部、戻ってはこないのだろうか。
今度こそみんな、愛想を尽かしてここからいなくなってしまう。また、一人きり。
やっぱり俺には無理だったんだ。誰かと関わるなんて、そんな普通みたいな、
「……烏丸さん?」
「何やってんだよ」
はっと顔を上げる。いつの間にか開かれていた扉の前に、雪名と果実がいた。累は扉の音にも二人の影にも気が付かない程ぼうっとしていたらしい。しかしそんな累にも容赦なく飛ばされる、果実からの質問。
「てか、千歳が部室から出て行ったの見たんだけど、あれ何?」
「……っ」
「俺のせいなんだ」と正直に言ったら、きっと二人は失望する。けれどどうしても今は上手く誤魔化せる気なんかしなくて、思わず視線を逸らした。
やっぱり俺はいない方がいい。三人の側から離れた方がいい。そう思うのに、足が動かない。最悪だ。周りを傷つけることしかできない俺に、一丁前に縋り付く資格なんかあるわけないだろ。
言わなきゃ。もう俺は、
「……俺、は……」
声が震える。息が詰まる。けれど絞り出そうとした。それは本当だった。
しかし雪名と果実は顔を見合わせると、何故か揃って呆れたような笑顔を見せる。
「まあ、大方いつもの不運が発動してしまった、というところでしょうね」
「……え?」
「だろうな。仕方ないからボクたちが話くらい聞いてやるか」
「え、いや、ちょっと待っ……」
有無を言わせぬ勢いで雪名が背中を押し、果実が腕を引っ張った。一瞬何が起きているのか理解できず混乱する頭。視線で訴えかけるも、二人の表情は確かな意志で出来ている。
「さあ、座ってください」
「さっさとしろよ。お前の席だろ」
扉から見て右手前。累の目にはただのパイプ椅子が、何より大事なものに見えた。
仮に全部が許されたわけではないとしても、今だけは、座れと促されている。自分のための椅子がここにある。その意味を理解して泣きそうになるのを必死で堪えた。
ほんの僅かに伸ばされたこの余命だけは、何が何でも全うしなければ。
◆
「それで千歳が帰って、って感じ……だな。もう俺、何がなんだかわからなくて」
「は〜〜〜ん……」
出来うる限りで理路整然と話したつもりだ。改めて考えてみても、やっぱりわけがわからなかったけれど。
雪名は顎に拳を添えて考える素振りを、その横で果実は気の抜けた相槌と共にじとりとした視線を累へと向けていた。そうして深い溜息の後、彼が煮え切らない様子で呟く。
「……ボクはその気持ちわかるな」
「や、やっぱりそうだよな⁉︎ ありがとう果実……」
「違うっつーの! おまえじゃなくて! 千歳の気持ちに決まってんだろ!」
「えっ」
突然大きな音を立てて椅子から立ち上がる果実。続けざまに両手をバンと机に置いて累に物凄い形相で詰め寄った。しかし最近めっきり見なくなったその習性を、呑気に懐かしむ暇は無く。
「あ〜も〜……! おまえそれマジで言ってんのかよ⁉︎」
「烏丸さんは鈍感ですね。それも信じられない程に」
「雪名まで⁉︎」
辛辣に物申す雪名の顔は、まるで当然のことを口にしたまでだとでも言いたげだった。しかし反応からして二人とも、千歳の発言の意味とそこにある意図をある程度理解しているということだろうか。直に体験した累ですらさっぱりだというのに。
「なあ、わかってるなら教えてくれないか? ほら、第三者の意見は聞いておきたいし」
「それはできません」
雪名が間髪入れず切り捨てた。彼女の青い瞳は累を厳しく諌めている。
「どうしてあなたはそういつも結論ばかりを急ぐのですか? 愚かです、本当に愚かです」
「そ、そこまで言わなくても……」
「いいえ。あくまで私個人の推測に基づく意見ですが、これは私が言うことでも果実さんが言うことでもないかと」
「ボクも同意見」
「ええ……?」
わからないことを聞いたはずなのに更にわからないことが重なってしまった。その上、二人の方が千歳を理解しているような気がして若干面白くない。だが今はその事実を受け入れることも重要なのだろう。そう自分に言い聞かせ、頭を抱えていた手を降ろす。
「ま、それがわかったところで、どうすれば千歳が学校に来てくれるかってのはボクたちにとっても難しいんだけどな」
「ええ。そもそも不登校になった原因自体が不明ですし」
「……そこなんだよな」
以前千歳に尋ねた時は「面倒だから」と返され「こいつマジか」と思ったのを覚えている。当時は千歳の人間性をほとんど知らなかったため、百パーセント真に受けたものだ。しかしなんとなく累には、学校に来なかった理由がそれだけだとは思えない。「面倒」というのは本当なのだろうし、深読みされるのを千歳は嫌うかもしれないけれど。
謎だけが深まっていく。陰を潜めていた不安がどんどんと募っていく。累は誰に言うでもなく零した。否、零れたと言う方が正しい。
「……もし、本当に千歳がまた……不登校になったら」
考えただけで怖くて仕方ない。いつもと同じく弱気になり、自分でも知らないうちに俯きがちになる。何度も繰り返してきた。音を拒む耳。狭くなる視野。何も聞こえなくなって、何も見えなくなって、奈落へ叩き落とされる感覚。
そんな累の顔を上げたのは、目の前の二人だった。
「烏丸さん」
「烏丸」
飽きる程聞いた声。すっかり見慣れた顔。なのに何故か心強い。二人は累を勇気づけるように、精一杯の励ましを——
「現時点においてその仮定は無意味かと思われます」
「最悪のことばっか考えてクヨクヨしてる場合かよ、馬鹿じゃないの?」
「え」
——してくれるはずもなかった。それどころか無駄に鋭利な言葉でもって刺してくる。全く予想もしていなかった展開。暫しぽかんと口が開いてしまっていたが、なんだか次第に笑えてきた。
「……ははっ、うん。そうだよ、そうだよな」
だって、雪名も果実も最初から全然普通じゃない。累の予想通りに動くような人間でもない。だからこそ二人が放った言葉は、奥深くまで届いたのかもなんて。
背後でかたん、と音が鳴る。振り返れば床に落ちているいくつかのゲームソフト。それらは別のソフトが沢山積まれた近くの山から落ちたものらしい。タイトルを目に入れて、自然と口角が上がった。
ほんの僅かに伸ばされた余命。またの名をボーナスタイム。ずっと一人だった自分に許された、最後の誰かとの時間。
なら、やれるだけのことは全部やりきるしかないだろ。
累は二人に向き直る。この部屋から消えてしまった、彼女の薄ら笑いを思い出しながら。
「雪名。果実。俺、今ちょっと考えてたことがあるんだ」
協力してくれるかはわからない。実現できるのかはわからない。意味があるのかはわからない。でも、それでも、俺は反面教師部の部長だ。
大切なものを大人しく諦める程、いい子になんかなれやしない。
「聞いてくれるか?」
二人の表情を目の前にすれば、もう答えなんて待つ必要も無かった。
◆
水曜日も木曜日も千歳は学校に来なかった。けれどこちらだって、ただ指を咥えて待っていただけじゃない。この日のために進めてきた準備は万全だ。反面教師部だからこそできることを。自分だからこそ届けられるものを、千歳に。
花柳邸の門の前。現在時刻は七時半。最後まで手伝ってくれた雪名と果実には、本当に頭が上がらない。
「二人とも、ありがとうな。助かった」
「お礼を言うのはまだ早いですよ」
「そうそう、本番はこれからじゃんか」
「……ああ。わかってる」
累は深呼吸を一つ。すっかり覚えた道順。驚かなくなった豪邸。やがて自動的に開かれる門。でも、今日はいつもと違う。ここにいてもきっと千歳が玄関から出てくることはないだろう。
だから、この手で変えるんだ。
覚悟を決めてインターホンを押した。応答するのは朝比奈だと、声が聞こえる前からわかっている。
「おはようございます、朝比奈さん。迷惑かけてすみません」
『いえ、とんでもありませんよ。私としてもお嬢様がこのまま四六時中家にいるなんて堪ったもんじゃないですから』
「あはは……」
相変わらず千歳に対してはズバズバ言ってのける。それを累に隠さなくなったのは、僅かだとしても見知った仲になれたからだと思ってもいいのかもしれない。
『それに、お嬢様は皆様と学校に行き始めて、前より楽しそうな顔をするようになりました。部屋でゲームをしているだけの時よりも、ずっと』
機械を通して無機質になっているはずの声が、累の耳に柔らかく響く。楽しそうな顔をする千歳とそれを見る朝比奈を想像し、つい顔は緩んでしまっていた。
『あ、お嬢様には内緒でお願いしますね』
「了解っす」
『では、話はこの辺にしましょうか。少々お待ちください』
軽い返事をして、累は息をついた。すると後方で二人の会話を聞いていた雪名と果実が、ほぼ同じタイミングで各々が気になったのであろう点について言及する。
「事前に朝比奈さんに連絡なさってたんですね」
「てか連絡先知ってんだ? やるじゃん」
「まあ、念には念を入れてっていうか……朝比奈さんのRINEは何故か送りつけられたんだよ」
ちょうど今、メイドの小脇に抱えられて玄関から連れ出されるパジャマ姿の「お嬢様」から。
「ね〜下ろしてよ〜! 嫌だって言ってるじゃ〜ん!」
「うるっさいですねつべこべ言わずさっさと行った行った!」
長めのTシャツにハーフパンツという無造作な格好でじたばた暴れる千歳。しかし朝比奈は少しも体勢を崩すことなくぽいと千歳を放り投げると、一仕事終えたというように両の手をはたいた。
「いってらっしゃいませ、お嬢様?」
送られる目配せ。頷きと共に受け取り、累は一歩前へと踏み出して。
「おはよう、千歳」
「……おはよ〜?」
アプローチに座り込んだまま、千歳が困惑の面持ちで累を見上げる。もう学校に行かないと言った手前かなり気まずいのだろう。だが朝比奈が待ち構えているとはいえ玄関へ逃げ戻らないあたり、まだ希望は残っているはずだ。
屈んで右手を差し出した。その手と累を交互に見つめる千歳に、素直な言葉を。
「一緒に、来てくれないか」
二度の瞬きの後、千歳が視線を累の顔に定めた。口をきゅっと結び何か言いたげな表情をしたかと思えば、目を瞑ってTシャツの裾を掴む手に力を入れる。
「……も〜……!」
そうして彼女は累の手を掴んだ。たとえ立ち上がるためだけの一瞬だとしても、強く。
千歳がくるりと振り返る。朝比奈は何を言われるかなんてお見通しだという顔で。
「……いってきます〜!」
半ばヤケになる千歳。ひょっとして結構珍しいものを見ているんじゃないだろうか。とにかく、千歳が応じてくれたことが三人にとっては既に大きな一歩だった。制服に着替えなくたって、鞄を持たなくたって、学校へ来てくれるならそれでよかった。
信号は青ばかり。何度も転びながらがむしゃらに走り続ける。以前より足は頑張ってくれていた。それがたとえ高揚に支配された脳がもたらす効果だとしても構わない。
少し前の方で交わされる会話。まるでいつも通り。累さえいなければ三人はこんなにもつつがなく日々を送れるのだと思わされて心苦しいけれど。今は、今だけはここにいることを許してほしい。もちろんそんなことをいう体力も胆力も無い累には、振り返った千歳に向けて辛うじて口端を上げることしかできなかった。
迷いと勢いを足して二で割らずに学校まで辿り着く。登校する生徒が最も多い時間帯。他の生徒を追い越していく四人組(しかも一人はパジャマのまま)は、面白いくらいに周囲の視線を集めていた。しかしその程度で立ち止まる人間はこの中にいない。
正門を抜けて校内へと駆ける。無事に着けた、という基本的かつ些細な不運体質ならではの喜びは未だ健在だ。
一番遅れて踏み入って膝に手をついた。顔を上げれば、雪名と果実は促すようにこちらを見ている。わかってるよ、という言葉の代わりに頷いて、二人から千歳に視線を移した。
「……千歳。ゲームしよう、今から」
途端に、千歳の顔が少しだけ明るくなったような気がした。
あいつみたいにしっかりしてないし世話焼きどころか焼かれまくりなのに、ゲームの話になるとテンションが上がるところだけは、本当によく似てる、なんて。
「わ〜、前断ったのにどういう心変わり〜?」
「……根に持ってるのか……?」
「冗談だって〜。それでそれで〜? 何のゲームするの〜?」
あの時はただ無碍にしたわけでもないので複雑だが、まあ一旦置いておこう。今は彼女の問いに答えるのが先だ。これまで遊んできたものからまだ遊んでいないまで、あらゆるゲームタイトルを挙げる千歳。
しかしどれも違う。首を横に振って、溜めの後に告げた。
「……学校、ってゲーム」
正直苦し紛れだと自分でもわかっている。雪名と果実に朝の五時半から手伝ってもらって言うのもなんだけれど、一見全く意味がわからない。
だが千歳はぽかんとした顔で累の言葉を咀嚼したかと思えば、突然けらけらと笑い出す。
「あは、何それ〜?」
本当に「何それ」だよな。でもなんか、お前が笑ってくれたからそれでいいか、って。
雪名は累の足りない説明を補わんと言葉を継いだ。
「校内に入ればわかるかと思いますよ」
「え〜、ほんとに〜?」
言いつつ下駄箱で上履きに履き替える。一回だけ角を曲がり、真っ直ぐに伸びる廊下に広がる光景は、きっと千歳も想像していなかっただろう。
廊下の向こうまで等間隔で床に貼られたテープ。人数分のピコピコハンマーが入ったカゴ。その側には麻袋。壁には手作りの球体のロゴ。千歳はそれら全てを目にしてから、はっとして累を振り向く。
「……もしかしてこれ、スモブラ的なやつ〜?」
「ああ……一応、って感じだけど」
三人と累の間には体力差があるし、そもそも現実の人間に対して全力で殴ったり蹴ったり百パーセント以上のダメージを与えるなんてことは御法度だ。それ故に多少ルールは変更した。雰囲気だけでも再現しようという奮闘の結果、かなり原形からは遠のいてしまったがこの場合はやむを得ない、と思いたい。
累はおもむろに麻袋を引っ掴んで中へと足を突っ込んだ。そうして千歳に向き直り、雪名と果実と取り決めた文章を暗唱する。
「第一ステージはこれで跳びながら、ピコピコハンマーで誰かの頭を叩く。ライン三本目から攻撃を可能とする。叩かれた奴はテープで引かれたライン一本分後ろに下がる。一番先に向こうに辿り着いた奴が勝ち。妨害行為は無し……っていうか、麻袋押さえるのとハンマー持つので両手塞がるから、たぶんできないだろうけど」
好き勝手やっているが今日はごく普通の登校日。累が説明し終えるまでにも、意味不明な四人組とテープだらけの廊下は、通りかかる人間全員から派手に視線を集めていた。
けれど、いや、だからこそ意味がある。立派に優等生たちの反面教師を務められるように。そして、千歳にとって学校が楽しいものとなるように。これは二つを同時にやってのける最も天才的な方法であり、最も馬鹿げた方法。
僅かに逸れた視線を千歳へと戻す。彼女の意志を確認するためだ。しかしその手には既に、ハンマーと麻袋が携えられていた。
「わたし動きやすい格好だから、ちょっと有利かもね〜? それでもいい〜?」
「……もちろん」
準備を済ませていた雪名と果実も並び、四人は横一列で合図を待つ。やや前傾姿勢になって数秒。そこでようやく果実が肝心なところに気付いたらしい。
「……いや、誰が合図すんのこれ」
「そういえば決めていませんでしたね」
「あは、こんな色々しといて大事なとこ忘れるとかある〜?」
主導者は累であり、すなわち詰めの甘さもほとんど累の責任だ。心の中で静かに反省しつつ「誰が言うのか決めるか」と言うと、一斉に三人の視線が集う。
「え? な、何だよ……」
「いえ、私はてっきり烏丸さんが言うものだとばかり」
「ボクも。てか部長なんだし適任じゃない?」
「そうだよ〜、烏丸いけいけ〜」
「お前らこういう時だけ調子良いよな……」
別にいいけどさ。大した仕事でもないし、何より大切な部員が今でも俺を部長として見てくれているなら、喜ばしいことこの上ないし。
軽く息を吸い前を向く。どうせなら、ゲームと同じ掛け声で。
「……3、2、1」
GO、という声と同時に、両足へ力を入れた。一回。二回。慣れない跳躍。勢いのまま進み、ハンマーを持つ手に意識を向ける。左右を警戒。すると、ハンマーが視界の端で振り下ろされる。咄嗟に仰け反れば、頭があった場所をハンマーが通過していった。
「あ……っぶね」
「ちっ、当たんなかったか」
舌打ちの時点で、揺れる視界だろうとそれが果実の放ったものだとわかる。ひとまず攻撃を凌いだと安心しかけたところに繰り出されたのは、ゆったりした口調と裏腹な素早い一振り。
「隙あり〜」
「うわ⁉︎」
ピコン、というおよそ学校で聞かない音が廊下に響き渡った。千歳に頭を叩かれた果実は、彼女の方を振り向き悔しそうな顔をする。なるほど、これは油断ならない。
たまたま転んで攻撃を避けるミラクルがありながらも、時たま後退を繰り返していた累。しかし前方の三人は固まってハンマーを振り合っているではないか。これを好機と見て跳躍に集中した。三人が累よりも一足先にゴールラインに到達したため、ハンマーで叩かれる心配はなく、最後の一回を大きく跳んで無事に距離を詰める。
「なかなかやるね〜、最初からそういう戦略だった〜?」
「生憎そこまで考えてはいなかったな……」
麻袋を脱ぎ捨てると、前を行く雪名が微笑みかけた。
「お二人とも、悠長に会話をしている暇はありませんよ。まだ始まったばかりです。次は二階に行きますのでついてきてください」
凛として優雅な風貌に似合わず、雪名は階段を二段飛ばしで駆け上がる。すれ違った男子生徒がその様子にぎょっとするのを見て、つい共感の言葉をかけそうになった。
間も無く二階へ到着する。ここでは主に千歳に動いてもらい、三人は千歳が目的地に辿り着けるかどうかを見届けるという計画だ。しかし累がその旨を伝えようとしたところ、何故か雪名と果実から制止がかかった。
「ここから先は私と果実さん、烏丸さんと千歳さんで別行動になります」
「え? いや、初耳なんだけど……俺、何か聞き逃してたりするのか?」
「してないよ? ボクたちが決めた」
「ええ……?」
想定外の事態に混乱しつつ「前まで少し目を離せば言い合いに発展していた二人が、自分のあずかり知らぬところで協力するようになるなんて」という親心にも似た何かが芽生え出す。ついに果実も雪名に歩み寄れるようになったのか。いや違う。そんなことを考えている場合ではない。
「ま、待ってくれよ。そうなると三階の件は……」
「安心しろって。ちゃんと成立するから」
「……抜かりないな」
「この私が関わっている以上、当たり前ですよ」
若干の不安はあるものの、そこまで自信満々に言うのならとりあえず二人を信じることにしよう。今度は口に出して千歳の意志を確認する。
「……だそうだけど、大丈夫か?」
「いいよ〜? じゃあ行こっか〜」
「烏丸と二人はやだ〜」と言われようものなら、心がバッキバキに折れていたかもしれない。累はほっと息をつく。今日はあまり余裕が無くて千歳を気遣えていないが、彼女の機嫌は悪くなさそうだ。
「それでは、健闘を祈ります」
「せいぜい頑張れよ? 部長さん」
「わかったっつの……また後でな」
歩き始めてすぐ、扉に貼り紙のある空き教室。手書きの筆跡は丸く可愛らしい。おそらく果実の書いた文字だろう。累と千歳は同時にそれを音読する。
「『問一 反面教師部ができたのは何月何日?』」
下には小さく米印で「四桁の数字を入力せよ」と書かれていた。引き戸にはボタン式の後付けの鍵が付けられている。この問題を累は知らない。つまり雪名と果実の二人で考え実行されたもの。ひょっとすると、たった一問のためだけに鍵を購入し、教師の許可を得ず勝手に取り付けたのだろうか。だとしたら反面教師が過ぎる。
しかし問いの答えは記憶に新しい。頭の中でカレンダーを捲る余裕すらあった。進級初日、すなわち千歳に出会ったのが四月六日。雪名と果実に出会ったのが四月七日。果実が入部を決めてくれたのが四月十七日。千歳をもう一度誘ったのが翌日。
そして、四人が同じ部活の仲間になったのは、
「四月二十日」
再び声が重なる。千歳は累の方を向くと、にまっと悪戯な笑みを見せた。
「でしょ〜?」
「……正解。お前が覚えてるとは思わなかったな」
0420と打ち込み決定ボタンを押す。解錠された戸を引いて教室に入れば黒板には大きく綺麗な文字で次の問いが記されていた。こちらは雪名の文字だ。
「わ〜、第二ステージは謎解きだね〜? ルイトン教授?」
「ああ。やったことなかったけど、面白かったから」
問題文は以下の通り。「A、B、C、Dの中に一人だけ嘘つきがいる。Aは『Bが嘘つきだ』、Bは『Cが嘘つきだ』、Cは『AかBが嘘つきだ』、Dは『嘘つきが犯人だ』と供述した。犯人は誰か?」
さて脳内で情報を整理しよう、と考え始めたばかりのところで、千歳がすぐさま答えを導く。
「うんうん、これはBだね〜」
「え、いや早くないか……? 俺にも解かせてくれよ……」
その後も千歳の活躍に追いつかんと頭を悩ませ、散りばめられた謎を次々解いていく。一つ一つの完成度が高く文句のつけどころも無い。こういう問題を考えるのは得意そうだし雪名が多くを担当したに違いない、なんて何気なく考えて、彼女が部室で累に向けた言葉を思い出した。
——だから言おうとしたのです。もう同じことを繰り返さないと。伸ばされた手は全て掴もうと。
早速有言実行と来たか。確かに手伝って欲しいとは言ったけれど、累にも悟られないように、それでいて累の頼みを超える程のことをやってのけるとは。
「……そこまでするか、普通?」
思わず畏怖の感情が漏れた。癖の強い奴だけど、やっぱり雪名は只者じゃない。しかし累が考えた問題は一体どこへ消えたのだろうか。全てが終わったらそれとなく二人に聞いてみよう。
やがて問題の答えがとある場所を指し示す。そこへ向かうとまた次の場所が指定される。
「にしても、なんとか室って言われてそんなすぐにわかるもんなんだな。俺、お前より学校来てるけどまだわからない場所多くて」
「あ〜、わたし記憶力いいからな〜」
「それ遠回しに俺のことディスってないか……?」
移動を繰り返し、次はどの場所だと言いつつロッカーに隠されていた四つ折の紙を開くと、書かれていたのは馴染みのある場所。累は思わず千歳と顔を見合わせた。
「よし、じゃあ三階行こ〜!」
「い、行くのか……? 本当に?」
「当たり前じゃ〜ん、ほら早く〜」
つい尻込みしてしまう。けれども千歳が手を引っ張るものだから振り解くこともできなかった。やっぱりまだあそこへ行く資格が無いのでは、と延々考える癖は抜けていない。
というか三階のスタート、元は違う場所だったろ。俺と千歳を二人にしていざこざを解決させるためかなんだか知らないけど、そんなとこまで無許可で変えやがって。
内心で毒を吐き、累は大人しく千歳の後ろを歩く。特別教室棟の少し立ち入ったところが目的地だ。
覚悟を決めて引き戸を開けると、見慣れた景色の中に見慣れない物体が複数。それを見た千歳は驚嘆とも興奮ともとれる声を放った。
「すご〜い、何これ〜⁉︎」
「うちの書道部がパフォーマンス書道してるから、そこから借りてきた。筆は使ったらうちの部費で新品買って返すから、貰ったみたいなもんだけどな」
千歳の身長程ある大きな筆と、水色のペンキでいっぱいに満たされたバケツが四つ。三階で何をするのか千歳も大体予想はついたことだろう。だからこそこのテンションの上がりようなのだと思われる。
「それにしても、書道部なのに黒じゃないんだね〜?」
「間違って発注して余ってるのを引き取ったんだよ」
「反面教師部なのにやってること慈善団体じゃ〜ん」
持つべきものを持ち、部室を後にする二人。累はなんとなく振り返り、もう訪れないかもしれない部屋に心の中で別れを告げて、普通教室棟へと向かう。
いよいよもって片方がパジャマの、巨大な筆とペンキの入ったバケツを持つ二人組は、自意識過剰なんかじゃなくあらゆる生徒の注目の的となっていた。二年の教室が並ぶ廊下の端。何が起こるのか察した生徒が我先に教室へ逃げ込んでいくのを横目に、一番奥を見据えたまま言葉を交わす。
「こっからあそこまで広い面積塗れた方が勝ちね〜!」
「いや、色同じなんだから白いところを無くす協力プレイじゃないか……?」
廊下の端と端に置いたバケツ。それらの距離は片道およそ四十メートル程度だ。スペラトゥーンより圧倒的に狭い場所であり、勝負ですらない。けれども千歳の顔は累の合図を心待ちにしているようで。
「じゃあ、行くぞ」
そしてそれは、自分も同じだった。両手に力を込める。数十秒後には無味で殺風景なこの白い廊下が、水色に染まっていく。考えただけで反面教師部の血が騒ぎそうだ。タイマーをセットして、筆先をペンキに浸して、左側の彼女と目を合わせて。
「Ready?」
「GO!」
千歳の合図で地面を蹴る。重い筆を振り回せば、バシャッ、と派手な音。壁が、窓が、天井が、一瞬で色付いていく。隣から聞こえる楽しそうな声。たぶんつられて笑っていた。どうしようもなく高揚している。何かが変わるわけじゃない。こっぴどく叱られるかもしれない。なのに、そんなことも全然気にならなくて。ぐるぐる考えてたことも飛んでいって。
「あは、もうめちゃくちゃだ〜!」
「……本当にな!」
夢中になり、あっという間に端から二番目のB組の前にまで来てしまう。廊下に面した窓から顔を覗かせていたのは、以前千歳へ「一緒に清掃場所へ行こう」と声をかけた女子生徒だった。
「は、花柳さん⁉︎ 何してるの⁉︎」
「あ、委員長〜?」
「そんなことしたら優等点がどうなるか……! 私はあなたのためを思って!」
あの時の落ち着き払った雰囲気はとうに消え、表情には焦りが浮かんでいる。千歳は走る速度を緩めずに、大きな声で「委員長」へと叫んだ。
「わかってる〜! だからありがと〜!」
床にペンキが広がっていく。累も負けじと水色を振り撒いていた時。千歳は言った。
「でも大丈夫〜!」
ほんの一瞬、ペンキを塗るのも忘れて千歳の声に耳を傾ける。わけがわからないとばかりに食い気味で聞き返す委員長。
「大丈夫、って……」
笑っていた。委員長の瞳にも、教室の窓にも反射していないけれど、きっと千歳は笑っていた。何故かそう確信していた。だって、心から笑ってなきゃ、そんな声で言い放てるわけがない。
「——わたし、
咎められる行為も逆手に取れてしまう部活だから。ちょうどいい暇潰しになるから。理由なんてなんでもいい。ただそう言ってくれることが、本気で笑ってくれることが、嬉しくって仕方がない。
「だよね〜? 烏丸〜!」
「!」
振り返った顔に胸が鳴る。水色に、染められてしまう。
初めて会ったあの日。学校に来てくれないかと言った時の諦めたような表情。それをこんなに眩しく輝かせることができたのは、ほんの少しだけだとしても、自分がいたからだと思っていいのだろうか。
累は笑い返した。きらきら光る、水色の喜びを噛み締めながら。
「……かもな」
一分の中のたかが十数秒。されど、一生の中の忘れられない十数秒。そんな風に感じてることは、まだ少し照れ臭いから気付かないでくれよ。
「じゃ、窓閉めて委員長〜!」
「え⁉︎」
「ペンキ、かかっちゃうから〜!」
事後報告か否か微妙なタイミングで千歳は大きく筆を振り上げる。一気に下ろせば、水色のペンキが広がっていく。委員長の方にもほんの少しだけ飛び散っているのが見えた。
「ちょっ、制服が……!」
「またね〜! クリーニング代の請求は花柳家まで〜!」
言い残す台詞がそれかよ、と思わず吹き出しそうになる。けれど終わっていない。むしろ、ここから折り返し。突き当たりのバケツに同時に筆を突っ込み、どちらからともなく目を合わせた。通って来た道を見れば、鮮やかな色で溢れている。
でも、まだまだ。もっともっと。俺たちは、反面教師だから。
常に纏わりつく監視。浴びせられる罵倒。異質なものを見るような生徒の目。安全圏から差された指。そんなつまらない一様の景色をキャンバスにして。
カメラも、マイクも、視線も、嘲笑も。
塗り替える。全部。
「見て烏丸〜! 空みたい〜!」
「……本当だ」
スタート地点に戻ってきたところでタイマーが高らかに鳴る。白い部分残って逆に良かったかもね、と水色を頬につけた千歳が笑った。
簡易的な空に背中を向け、筆をバケツに戻して、二人は四階へと上がっていく。
「で、最後は何するの〜?」
「走る。先に屋上に着いたら勝ち」
「あは、烏丸勝機無いじゃ〜ん」
「それは言わない約束だろ……」
先程まで緑と黄色の廊下を見ていたからか、真っ白な廊下に違和感すら覚える。軽く準備体操をしながら千歳は歯に絹着せぬ感想を零した。
「すっごいたくさん用意されてたのに最後はただ廊下走るだけなんだ〜? っていうか、これ競争なのか協力プレイなのかわかんないね〜」
「……指揮系統もクソも無い突貫工事だったんだよ。許してくれ」
「いいよ〜? カオスなのは逆にゲームっぽいし〜」
一応許しを得られたのでよしとしよう。麻袋で跳び頭を動かし重い筆を振り回して、残った体力も僅かとなってしまったが、あとはもう駆け抜けるだけ。
「……位置について、用意」
「ど〜ん!」
「うわ⁉︎」
予想していなかった合図。手を掴んで引っ張られ、体は大きく前に倒れる。何が起きたのか一瞬わからなくなる累に千歳は「勝負とか置いといてさ〜」と笑いかけた。
「見に行こうよ、空〜!」
引っ張ってくれるのは嬉しいけど、力強いって。追いつけないって。お前、自分のフィジカルが常人離れしてること自覚しろよ。そんな怒涛の文句を蹴散らして口から出たのは、たった一言だった。
「行こうか」
手を繋いだまま転んで、それでも千歳は笑って起き上がり、累にもう一度手を伸ばす。それがどんなに嬉しいか、きっと千歳は知る由もない。
事前に丑満から預かっていた鍵を挿し込んで屋上への扉を開けた。すぐに数歩先へ駆けると、背中から仰向けに倒れる千歳。累もその横で寝転んでみる。疲れと達成感にじわりと包まれた。清々しい程の晴れだった。
朝練をする野球部員の声と歌う鳥の声。不意に千歳がぽつりと呟く。
「楽しかったな〜。ね、明日は何しよっか〜?」
寝て起きたら大切なものが無くなっている。そういう人生だ。だから千歳みたいな人間は、累にとって初めてで。いつも「次」をくれることに、戸惑ってしまう自分がいて。
「……いや……こんな大掛かりなのはそうそうできないって」
まるで普通を装って返すことでしか、溢れそうな感情を抑えられない。
「つーか、明日……土曜だし」
眩しすぎる太陽に目を細めた。頬の温度が僅かに上がる。何だろう、と疑問に思った瞬間にその正体を突き止めたのは、じっと累の顔を見ていた千歳だった。登校しないから曜日感覚無くなったのか、という言葉は口の中で一生を終える。
「……烏丸、泣いてる?」
「え」
咄嗟に手の甲で頬を拭った。皮膚は確かに濡れていて、ばっちり現場を見られていて、今更隠しようもない。だというのに冷静さを欠く頭はそんなことさえも理解できずに、言い訳未満の否定を並べる。
「……泣いて、ない」
「あは、じゃあ天気雨かもね〜?」
両手で顔を覆った。見られたくない。失望されたくない。離れてほしくない。子供みたいな我儘ばかりが浮かんでは消えて、また浮かんで。からっとした空の下、ぐちゃぐちゃになる思考回路。
「っていうかそもそも、このまま俺がいていいはず、ないだろ」
「あるよ〜。今日のあれも烏丸が考えてくれたでしょ〜?」
「そう、だけど」
涙が声にまで侵略を始める。我ながら情けない声だ。
手をずらして数十センチ横を窺えば、彼女は笑った。嘲笑ではなく、受け入れるような優しい笑み。そうしてぽつりぽつりと話し出す。
「わたしね、ずっと嬉しかったんだ〜」
「……何、が」
「元々、家のことで周りから距離置かれてたんだよね〜。わたしは普通に話したいのに、お金持ちだからって過度に気遣われちゃって、友達って言える子は全然できなくてさ〜」
千歳は続けて語った。将斉高校では、カメラとマイクによる監視体制が敷かれている。遠慮がちに自分を遠ざける人間も、監視下にあれば友好的に接してくれるかもしれないと期待し、この高校を受験したのだと。
「期待してたんだけどね〜、みんな別の形で気を遣ってるだけで、結局本当に仲良くしてくれる子なんて……本当の言葉で話せる人なんていない気がしてさ〜?」
疑心暗鬼になり、家の財力で校内のカメラを追加してその映像を秘密裏に入手した。そして雪名に対するいじめの現場を目にし、ついに期待を捨てたと言う。不登校にも関わらず校内に詳しいと話していたのは、カメラの映像を見ていたのが理由か。
「その子、わたしには優しかったし、わたしの見えるとこでは他の子にも優しくしてたのにね〜? 嘘ばっかりなんだ〜って嫌になって、学校行くのやめちゃった〜。もう行かなくていいやって思ってたし〜」
でもね〜、と言葉が継がれる。
「烏丸もツナ子もミカさんも、みんなとは全然違ったんだ〜」
「……うん」
「なんにも気にせずに一緒に遊んでくれるとか、そんなこと今まで無かったから〜」
あいつの無邪気な顔を頭に浮かべていた。今はどうしているだろうか。母親に心配をかけない出来た友人と、仲良く笑ってくれているのを願う。
古い記憶を仕舞い、累は千歳の方を見つめる。目が合うと微笑みが返る。
「だからわたし、学校に行こうと思ったんだよね〜。反面教師部なら、四人なら、この学校でも楽しく過ごせるだろうな〜って」
この学校は千歳が嫌った偽りで出来ている。けれど彼女の言葉に偽りが混ざっているなんて、累には到底思えなくて。
「なのに烏丸、ツナ子とミカさんと喧嘩した後から急にすっごく気を遣ってみたり、あからさまに避けたりしてたでしょ〜? あれ結構悲しかったんだよ〜?」
「……ごめん」
「だから持ってた動画も載せたし、うっしーならミカさんのこと否定しないだろうから、教師嫌いが直るといいなって思って、面談してってお願いしたし」
さらりと告げられた事実は予想もしていなかったものだった。果実でも築田でもなく、全部千歳が裏で動いてくれていたということか。あの怠惰で人任せな千歳が、誰に頼まれずとも自分で。嫌いだと言った家を頼って。そこにある意味の大きさは計り知れない。
彼女は、言葉を引き出すことに集中するように目を閉じている。
「二人と仲直りしても、わたしを特別扱いしない『いつも通り』の烏丸は戻ってこなくて。もう無理なのかな〜って」
部室での発言に今更合点がいく。同時に、何故あんな顔をしていたのかも。千歳はゆっくりと体を起こし、斜め後ろに手をついて、空を見上げてからこちらを向いた。
「……だけど、今日はいた。烏丸がいた」
そんな嬉しそうな顔しないでくれよ。ロクに気遣うこともできなかっただけだ。考える余裕も無かったただけだ。一瞬の楽しさに身を投じていただけだ。なのに、そんな。
千歳は体育座りの体勢になり、こてんと頭を膝の上に乗せる。
「ね〜烏丸。聞いてなかったけど、なんでこんなことしたの〜? わたしが言うのもなんだけど、別の方法もあったでしょ〜?」
「……それ、は」
本音を押しのけ、建前が口を突きそうになった。けれども喉元で引っかかり最後までは出てこない。頭の中には、それでいいのかと問い続ける自分がいて。
三人はちゃんと変わった。果実は周りのことを考え、誰かと協力することを選んだ。雪名は決意を行動に移そうと、他人のために力を尽くした。千歳は大切な居場所を取り戻すため、自分にできることを探した。
——なら、俺は?
崖っぷちに立たされてからようやく重い腰を上げて、歩き出しても転んでばかりで、挙句大切なものを傷つけて。この後に及んでまだ、本当の気持ち一つ正直に言えやしないのか。そんなんじゃ今までと何も変わらない。大切なものが自分から離れていくのを見てることしか出来なかった、あの日の俺と同じままだ。
太陽が滲む。仕舞い込んでいた記憶が暴れ出す。
最悪のファーストコンタクト。居心地の良い電子音。初めて食べた食堂のオムライス。全力で走る通学路。昼下がりの屋上。友達みたいな会話。愛おしい全部が胸を締めつける。
もう一度自分に問いかけた。学校を滅茶苦茶にしてまで望んだことを。
とっくにわかってる。優等点を稼ぐためなんかじゃない。最後の思い出作りなんかじゃない。俺以外の三人で反面教師部としてやっていけるようにするためなんかでもない。
傷つけるかもしれないし、我儘かもしれないし、こんなこと言う資格なんて無いかもしれないと、ずっとずっと見ないようにしていた。今だって怖い。自分でも自分を許せたわけじゃない。でも。それでも。
変わるんだ。たった一言口にするだけで、きっと、世界まで。
俺は、
「——側にいたいから」
どうしようもなく眩しい光に、涙が溢れる。
千歳に学校を楽しいと思って欲しかった。ゲームという形でならその願いに近づけると思った。そして、願いの先にある景色は、
「俺も、ここにいたい……お前らと、四人で」
自分には無理だと諦めていた、なんてことのない日常。他に何もいらないと思うくらい、愛おしい時間。
滲む視界の端で千歳が笑った気がした。本当に笑っていたのかはわからなかった。けれど、顔なんて見なくたってわかる。
「……やっと言ってくれた」
彼女が累の本音を、心の底から嬉しいと思ってくれていることくらいは。
すると千歳はくるりとどこかに顔を向ける。
「ツナ子〜、ミカさ〜ん、ちゃんと聞いてた〜?」
「え」
それは扉の方向。応答するように向こう側から物音がする。それは久々に聞く、雪名と果実の言い争いだった。
「あら、果実さんのせいでバレてしまいましたね」
「はあ〜⁉︎ 人のせいにしないでくれる⁉︎」
やがて勢い良く扉が開かれた。しかし二人は盗み聞きをしたことに対して申し訳ない顔をするでもなく、一瞬きょとんとしてからくすくす笑い出す。雪名は屈んでハンカチを差し出しながら、果実は腕を組みながら。
「使いますか?」
「超泣いてんじゃん」
「泣いて、ねえし……」
強がりで立ち上がれば、この目はちゃんと三人の姿を捉える。目が合って三者三様の笑みが返った。
「……聞いてたんなら話は早いか」
累は再び息を吸い、単純で素直で他愛のない想いを口にする。
「側にいたいんだ。……最初は嫌々で、声かけたのも先生に言われたからだし」
「だとしてもボクたちみたいなの相手によくやってるでしょ」
「俺といたら、お前らまで馬鹿にされるかもしれないし」
「私たちがそんなことを気にすると思いますか?」
「一歩間違えてたら、あの時だって」
「間違っても別にいいじゃ〜ん? その時はその時って感じで〜」
ほら、離れる理由なんていくらでもあるだろ。これまでたくさん傷つけて、これからたくさん傷つけるかもしれなくて。そんなことくらいわかってるだろうに。意味不明だ。大馬鹿だ。やっぱり普通なんかじゃない。だからこそ愛おしくて仕方ない。
「それでも、俺が側にいていいかな」
情けない声も涙で濡れた顔も、全部さらけ出している。もう抵抗感すら飛んでいる。
当たり前だと千歳は笑った。きらきらして、眩しかった。
「それでも、烏丸がいいんだよ」
いつか殺した想いが息を吹き返す。あの日の自分が救われていく。どんなことがあっても、何を言われても、ただ「それでも」って笑って、側にいて欲しかった。それだけでよかった、小さな自分が。
見てるかな。俺は大丈夫だよ。ここにいられるなら、きっと。
「……変な奴」
こんな返答さえも「ありがとう」の代わりだって、すぐ理解するんだろうな。俺のこと、俺より理解してるんじゃないかとさえ思えるくらいだし。
そして四人で「いつも通り」の会話を交わしながら、扉へと足を踏み出そうとした時。
「あ、変といえばおまえ、何勝手に退部届とか出しちゃってんの?」
「え? な、なんで知ってるんだよ」
「聞いてもないのに丑満がベラベラ喋り倒してたから」
「あの教師……」
過去のこととはいえ後ろめたく、累は咄嗟に言い訳を考える。しかしそれを口にするまでもなく、雪名と千歳が援護射撃を行った。
「ですが先程ああ仰っていましたし、退部の予定は無いのでしょう?」
「あは、じゃあもう必要無いね〜?」
雪名の手には見覚えのある封筒。大方、別行動の際に丑満から受け取ったのだろう。累は数秒前と同じ台詞を、そっくりそのまま心の中で繰り返した。
「……捨てるよ、捨てればいいんだろ」
「え〜? それじゃつまんないって〜」
廃棄処分に面白味を求める人間もなかなかのものだが。半ば呆れつつ「ならどうするんだよ」と問えば、千歳はにやりと口端を上げ塔屋を指差した。
「どうせならあそこから飛ばしちゃお〜?」
「飛ばす、って……紙飛行機にしてってことか?」
「せいか〜い」
これまた反面教師らしいことを。累は苦笑いと頷きを一つずつ差し向けて、いの一番に梯子を登る。街並みの間を小鳥たちが駆け抜けていく。塔屋に登りきるやいなや、退部届でせっせと紙飛行機を作る千歳。綺麗に折れたことを自慢する顔はひたすらに無邪気で。
「あ、余分に紙貰ってきたけどどうする?」
「なんでだよ……お前ら退部する気じゃないよな?」
「『どうせ使う機会無いだろ』と丑満先生が仰っていたものですから」
「それはそうかもしれないけど……」
「なら人数分作ろ〜!」
四人だけの騒がしい屋上。それぞれの紙飛行機。合図を促す視線に応え「せーの」と呟いた。紙飛行機が手から離れて空を滑っていくのを、言葉を交わしながら見送る。
「誰のが一番遠くまで飛ぶかな〜?」
「現時点では私の紙飛行機が最もよく飛んでいきそうですね」
「は? 折り方工夫したしボクの方が飛ぶんですけど?」
「喧嘩の内容が小学生じゃねえか……」
四つがバラバラの高度で進んでいく。それでも、ずっと視界の中心にある。どこへ飛んでいくのだろう。どこまで飛んでいくのだろう。いや——飛べなくたっていい。鳥にぶつかっても、水溜りに落ちてしまっても、きっと大丈夫。
ホームルームを告げるチャイムが鳴る。太陽が輝く空を見上げながら、千歳が笑う。
「……なんかいいね〜、こういうの!」
「そうだな」
累もつられて視線を上げる。どこまでも綺麗な空。
たとえ偽物でも、誰に馬鹿にされようとも、何度間違えてもいい。
だって、駆け抜けた目まぐるしい日々は、ずっと側にいたいと願うこの気持ちは、一点の曇りも無く本物だ。
「……本当に」
四人を見下ろす広い空は、泣きそうなくらいに水色。
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