3 転/転
「……というわけで、改めて」
中心に長机とパイプ椅子だけが置かれた、殺風景でゲーム音もしない静かな空間。まだ空き教室と呼んでしまいそうになるれっきとした部室で、椅子から立ち上がり咳払いを合図に切り出した。
「烏丸累だ。一応部長になったからには、ここにいる全員の退学を回避できるよう頑張っていこうと思ってる。何かあったら気軽に言ってほしい。よろしく」
「ひゅ〜、なんか部長っぽ〜い」
ぺちぺちという拍手で囃し立てたのは隣の椅子に座る千歳。悪い気はしないというか、正直自分でもそう思う。先頭に立つ経験に乏しいために部長が務まるか不安だったけれど、これはなかなかに良い感じでリーダーシップを発揮できているのではないだろうか。累はどこか充足した心持ちで腰を下ろす。
「では、次は私が」
「あ、副部長じゃないのな」
続いて対角線上に位置する雪名が名乗りを上げた。彼女は果実の些細な疑問を華麗にスルーし、淀みなく言葉を並べていく。
「古賀雪名と申します。私がこの世で最も高潔かつ聡明な人間であることは皆さんもご存知かと思いますが……」
両手で頬杖をついていた果実が、早速堪えかねたように口を尖らせじとりとした目つきで雪名を見る。彼女の口から出るには珍しくない発言だが、果実にとってはシチュエーションも相まって印象最悪な初対面の時を想起させたのだろう。
「ねえもうボクの番ってことでいい?」
しかし部員の自己紹介を遮るわけにもいかない。そう理由付けて首を横に振った。
「……部長権限により却下する」
「おまえ雪名がどんな自己紹介するのかちょっと気になってないか⁉︎」
「わたしも気になるから聞きたいんだけどな〜」
「では、民主主義に則るということで」
三対一の状況に置かれ、流石に果実も苦い顔をしながらも総意に従う。
「わかったよ……なるべく要約しろよな」
ありがとうございます、と綺麗に微笑む雪名。成績も良いのだし無難に振る舞っていれば人望を集めるのは容易だろうにと思いつつ、そうしないからこそ雪名らしいと感じる部分が大きい。まあ敢えてではなく、そういった考え自体が微塵も無いというだけだろうけど。
「先程申し上げた通り、私は雲の上の存在とも言うべき人間です。反面教師部はその私が所属する唯一の部活であるということを肝に銘じ、活動に全力で取り組んでいただければと思います」
とりあえず話を聞き終えた上でやはり気に食わないと感じたのか、雪名が座るや否や、果実は彼女を指差して累に抗議を行った。
「部長、やっぱこいつ追放しない?」
「うちは本人の自由意志を尊重する方針でやっていく。今決めた」
「今のところ退部の予定はありませんね」
「……あっそ」
変わらず少数派の果実は背もたれに体重をかけ、べっと舌を出す。しかし棘のある言葉ばかり投げつける彼も、いざ雪名が退部するなんてことになったらそれはもうあたふたするに違いない。飛び火が怖いので絶対に言わないが。
「……でもさ〜、ツナ子がやめたらミカさん」
「えっとそうだなじゃあ次は果実で頼めるか⁉︎」
などと考えていた累の方が大慌てになり、千歳の口を咄嗟に手で塞ぐ。
「え? い、いいけど……」
果実の反応からして誤魔化しは辛うじて間に合ったらしい。内心ほっと胸を撫で下ろした。
というか確信犯だろこいつ。よりによって一番言わなくていいことを。
累は諌める視線を右隣に送るが、千歳はどこ吹く風とばかりに果実へと自己紹介を促す。スムーズな進行に一役買われてしまってはもうこれ以上何も言えまい。諦めて軽く息をつくと同時に、果実が机に片手をついて立ち上がった。
「内海果実。……言うこととか特に無いかな。ま、あんま気張りすぎない程度にやってこ」
「お〜、それはさんせ〜い」
認めた相手に自分の信条を貶される心配はしていないのか、口うるさく言うことをせずシンプルな一言で終える。懸案課題が一つ無くなったようで何よりだ。
「じゃ、最後はわたしかな〜? 反面教師部副部長の花柳千歳だよ〜。なんかみんなもいるし、楽しく部活できたらいいよね〜? あ、ところで部長にしつも〜ん」
「ん? 何だ?」
累は一瞬で、ロクな質問ではない、に五千円を賭けた。続く千歳の言葉によって案の定、イマジナリー五千円が無事口座に振り込まれることになる。
「部室に持ってきていいゲームって何個まで〜?」
「そんな遠足のおやつみたいに……っていうか複数個持ち込む前提なのか」
「え、ここでもゲームすんの? 部室で集まるんだし時々千歳の家にゲームしに行くとかでいいと思うんだけど……」
「そうかな〜?」
累と果実の意見を受けて、千歳は思案する素振りを見せた。だがそれはあくまで素振りだけである。なぜわかるのかというと、彼女の返答があまりにもズレていたからだ。
「じゃ、とりあえず明日十個くらい持ってくるよ〜」
「話聞いてたか?」
しかし雪名は咎めるどころか、千歳の無茶苦茶な提案を前提に話を進める。
「千歳さん、もしよろしければミリオカートを持ってきていただきたいのですが」
「おっけ〜、任せて〜?」
「めちゃくちゃ気に入ってるじゃん……確かに面白いけどさ。あ、ボクはスモブラ持ってきて欲しいかも」
「ちょ、ちょっと待て。わかった、ゲームも持ってきていいから」
駄目だ、このままでは収拾がつかなくなってしまう。累は広がりかけた話をまとめようと両手を前に出し、放っておいたら雑談を始めかねない三人の制御を試みた。
「あー、そうだな……とりあえず持ち込みは各自常識の範囲で。グレーゾーンは要相談。特に千歳」
「りょうか〜い」
彼女が了解と言いつつ本当に了解していた例など数える程しかなかったような気がする。明日以降の部室がどうなるかに関しても不安は募るが、ともあれ今はもっと話し合うべきことがあった。
「それはそうと……丑満先生に言われたことについて、一旦整理しておかないか?」
「優等点を五十ポイント〜ってやつ〜?」
「ああ。聞いても結局具体的な期限も方法も教えてくれなかったけど……だとしても情報共有とか現状の把握が全然できてないよりはマシかと思って」
「確かにな。いいこと言うじゃん」
「お、おお……ありがとう」
あれもこれも、顧問となった丑満がすぐに提示してくれていれば会議の必要も無いのだけれど。せめて期限だけでも、と迫ったところ「言ったらお前らみたいな奴らは『それまではいいや〜』とかほざいて先延ばしにするだろ?」とのことだったので、ぐうの音も出なかったという次第である。偏見も入っているが、おそらくこの場にいる雪名以外の全員が夏休みの宿題を登校日直前まで放置するタイプであろう。
「では、まず各個人の現時点における優等点を推測するところから始めましょう」
「そうだな。助かるよ」
話題に誘導したはいいものの見切り発車で、どこから手を付けたものかと足踏みするところだった。そこに的確な一手を打ってくれるのは非常にありがたい。性格に難はあれど、雪名は間違いなく有能であると再確認させられる。
「と言っても、俺と千歳はほぼゼロだって確定してるんだけどな」
「そうなんだ〜?」
「いや、なんで当事者がわかってないんだよ⁉︎ 俺一回話したよな⁉︎」
危機的状況だというのに焦燥感が見られないと思ってはいたが、想像を遥かに上回っていた。信じられないくらい通常運転の千歳に、果実も呆れの混じった溜息をつく。
「……ってか、まず今の今まで不登校って時点で点の稼ぎようも無いだろ」
「あ〜、確かに〜」
以前本人も言っていたように、家柄が家柄なので退学になったとてダメージは少なそうだが、ひょっとして彼女の楽天的な態度はそこに起因しているのだろうか。だとしたらあまりの環境の違いを羨まずにはいられない。石油王の元へ生まれる来世に想いを馳せていると、今度は累に焦点が当てられた。
「でも千歳はともかく、烏丸は見てる感じそんなゴリゴリ優等点減る程酷いようには見えないけど……成績最下位とか?」
「言われてみると不思議ですね。私が知る範囲では、果実さんのように校則違反や脅迫を重ねてもいませんし」
「ねえ今ボクを引き合いに出す必要あった?」
二人の疑問はかなり初歩的なものに思えた。累にとってはその理由にあたるものが既に珍しいことでもなくなっていたからだ。
「あれ、言ってなかったか……? 俺、怪我とかで入院してて去年は半分くらい学校通えてないんだよ」
「え⁉︎ ヤバいじゃん、そんな大きな怪我……」
「ああいや、ちょっとしたやつの繰り返しって感じだから平気だ。一番重くて盲腸ってレベルだしな」
何を隠そう、烏丸累は生粋の不運体質。自慢ではないが、軽度のものから中度のものにかけてありとあらゆる怪我や病気を経験済みだ。厄災ビンゴがあったら校内でも真っ先に列を揃えられるだろうと自負している。そういった意味では、三人が見てきた不運も氷山の一角と言えるかもしれない。
「あー……うん、納得した。病室にいるおまえ、見たことないのに想像できるもん」
「それは喜べばいいのか悲しめばいいのかどっちなんだ……?」
非常に複雑な気持ちになる感想である。もしかすると非力に見えるということだろうか。筋トレの開始を視野に入れるのと並行し、話題は累と千歳より僅かに高いと思われる二人の優等点の考察に移った。
「私としましては、退学を宣告される程優等点が低い自覚は無いのですが……プログラムとやらには私の高尚な生き様が理解できないのでしょうか」
「……ボクが言えたことじゃないけど、おまえは協調性ってものを学べよ。それだけでも割と減点は抑えられるだろ」
本当に果実が言うことではない。ただしその自覚があるのは良いことだ。
「まあ雪名だって、毎日のように不和を起こしてるわけじゃないしな。細かい数字は分からないけど、成績のことを考えればやっぱり俺たちの中では一番点が高いんじゃないか?」
「でもボクたち全員に五十ポイントいけって言ったってことは、現時点では誰もいってないってことだよな?」
「じゃあどんぐりの背比べだ〜」
「……なんか、最下位と一緒にされるのも不本意だな」
「心情はお察ししますが、競う必要も無いのですから。まず今後のことを考えましょう」
雪名の言うことは最もである。一方で、この間は校内を回っても積める善行も特に見当たらなかった。となれば当初の予定通り、模範的とされる行動の逆をいけばいいという話になるのだろうが。累は指を折って、それらを思いつく限りで挙げ連ねた。
「基本的なところでいくと、遅刻、早退、服装違反、喧嘩……とかか?」
「そもそも、部活動の時間帯以外の素行不良はどういった扱いになるのでしょうか?」
「運動部じゃないし、うちは割と特殊だからいつでも部の活動ってことになる……と、ありがたいんだけど」
「それもうっしーに聞いてみる〜?」
「あの人が教えてくれる気はしないな……」
「……あ、丑満のことね? 千歳もだけど、烏丸もぬるっと適応するなよな」
「え? 悪い。気付かなかったよ」
「マジで?」
半ば無意識に脳内で変換が行われていた。良い言い方をすれば適応だが、悪い言い方をすれば毒されてきているとも表現できる。千歳のペースに慣れすぎてしまうとこういった弊害が起こるらしい。今後は申し訳程度に気を引き締めていかなければ。
「でもさっきのことなら、ミカさんが一番得意そうだよね〜」
「おまえらの中でボクの印象どうなってんだよ⁉︎ 服装は違反してるけどさあ!」
「単純に感情の起伏が激しいからでしょうね」
「冷静に分析しなくていいから!」
果実で遊んで満足したのか、千歳はやがて前方へと両手を伸ばし机に突っ伏した。
「ん〜、他には何かないのかな〜? 意外と裏サイトとかに書いてあったりして〜」
「今時裏サイトなんてあるのか?」
「え〜? でも割とどんな学校でもそういうのあるんじゃないの〜? ノベルゲーで出てきたよ〜?」
「いや、ゲームと現実は違……うん、違う……だろ」
「おまえ今ちょっと探すのもアリかもって思った?」
「……鋭いな」
本当に有り得そうなギリギリのラインだったものだから、闇の香りを察知しつつも選択肢に入れようかどうか迷ってしまった。これこそが溺れる者は藁をも掴む、の現代版にあたるのかもしれない。置き換えると嫌なことわざが過ぎる。
累は首を横に振って悪魔の誘惑を払い、まともな意見を絞り出した。
「まあ漫画でよく見るのは、誰かと一緒に授業をサボる……とかだろうな」
「あ、それちょっと楽しそ〜! みんなでやろうよ〜」
「やろうよって言っても……千歳が授業のある時間に来ないと無理だろ?」
千歳はきらきらと目を輝かせていた(当社比)。非日常感溢れる行為に、ゲームにも似た楽しさを見出しているのだろう。
「じゃあそれやるためだけに来ようかな〜?」
「……動機が動機だけど、まあ着実に進歩はしてるからいい、のか……?」
「わ〜い、楽しみ〜」
そして大した案も出ないままチャイムが下校時刻を告げる。千歳が学校に来た時間が遅かったため時間の流れとしては妥当だが、もうそんな時間か、という感覚。果実も「早かったな」とまだ取り付けられていない時計を見上げる仕草をした。
「千歳さん、明日から来られるのですか?」
「今はそのつもり〜、だから迎えに来てね〜? 起きられなかったら行かないけど〜」
「それってこっちはおまえに振り回されるってことだよな……?」
「諦めよう果実、今更だ」
加えて累は頼み込んで来てもらっている立場なので、どうしても千歳には強く出られない。別に誘ったことを後悔しているわけではないけれど、彼女の奔放さに対するブレーキ役として自分が機能しづらくなってしまったことには少しの後悔を覚えている。当の本人はというと全く悪びれもせず、何かを思いつくと名案とばかりにぽんと手を打った。
「そうだ、帰る前にRINE交換しない〜? 部活RINEってやつ〜」
「なるほど……報連相の効率化ですね、私は構いませんよ」
「え、グループ作るってこと?」
「そうだよ〜、くだらなかったりくだらなくなかったりする話しよ〜?」
果実が急にそわそわし出す。彼の反応を見れば、学校の誰かとRINEをするのが初めてだろうということはすぐにわかった。喜びを隠しきれていないのがなんとも微笑ましい。
全員の了承を得ると、千歳がスマートフォンで三人のQRコードを読み取り、友達登録の後にグループへと招待する。グループメンバーには確かに四つの異なる名前とアイコンが並んでいた。こうして見ると、なんだか妙にこそばゆい気分だ。
校門の前で解散して寮へと帰り、諸々を済ませ寝床に入った。スマートフォンを確認すれば、何故か千歳からどさくさに紛れて朝比奈のRINEの連絡先まで送られているではないか。いや、あの人と何話せって言うんだよ。そう思いつつ、一応押してみる追加ボタン。一方、グループでの軽い会話はひと段落を見せた。果実の「おやすみ」に千歳が謎のスタンプで返したのを見届け、累は自然と眠りへ落ちる。
◆
その一日は『起きるから八時半に集合〜』というこちらへの配慮の欠片も無いRINEによって始まった。
将斉高校の朝ホームルームが始まるのは八時四十五分。千歳の家から高校まではおよそ十分。問題は校門から教室まで五分で辿り着けるか怪しいという点と、今日は小テストがあるという点である。昨夜のRINE上での会議にて「小テストがある日は遅刻しない」という注意事項が定められた。中間テストや期末テストだけでなく小テストでも優等点は加算されるため、受けないデメリットが大きいのだ。しかも遅刻すると受験すら許可されない。
つまり、千歳の適当極まる匙加減が三人を瀬戸際に立たせている状況。八時二十八分の現在、果実は腕を組んで一定のリズムで爪先を地面に打ち付けていた。
「あ〜もうさあ……遅い遅い遅い! まず『起きるから』って言うならそれ送った時に起きろっての! あれ六時くらいに来たでしょ⁉︎ なのにそれ以降既読つかないし! 二度寝する前提なのおかしいだろ!」
「果実さん、一番先に着いて一番待たされているその気持ちはお察しいたします」
「えっ? な、何だよ、気遣うなんて珍しいじゃん。ありが……」
「ですが果実さんは、仮に小テストを受けても受けなくてもあまり大差ないかと」
「は……はあ〜〜〜⁉︎ ボクが馬鹿ってこと⁉︎ ふざけんなせっかく礼でも言ってやろうと思ったのに! うっざ!」
朝から元気なのは良いことだ。それはそれとして千歳に早く来てもらって、この不毛なやり取りに終止符を打ち学校に向かいたいのだが。累は届かない祈りを屋敷の中へ向けた。あと数分もしないうちにいよいよ間に合う可能性は本格的に低くなってしまうが、果たして。
すると、門がゆっくりと動き出す。
「動いた! ってことはもう来るのか⁉︎ 烏丸、今何時⁉︎」
「二十九分だな。これで来てくれなかったら困るんだけど……」
最悪の事態も想定していたものの、期待が裏切られることなく、玄関が開くと時間通りに制服の千歳が姿を現した。その口にパンを咥えていることは、流石に予想外だったが。
「ひんはほはほ〜、ひはんひっはひはほへ〜?」
「朝食済ませてないのかよ⁉︎ ボク現実でパン咥えてる学生初めて見たぞ⁉︎」
「さぞかし貴重な光景でしょうね……」
「……しかも優雅にジャム塗ってるな」
千歳は食べかけのパンを口から外し、切羽詰まった事態にも関わらずのんびりと手を振って歩み寄る。余裕のある朝ならまだしも、今は悠長にしていられないのだ。いつもに増してまだ眠そうな彼女の手を思わず掴む。
「なんか、ヒナヒナが一刻でも早く行けって言うからさ〜? 三度寝で夢見心地だったのに叩き起こされちゃった〜」
「言ってる場合か! 走って行くぞ!」
「わ、引っ張らないでよ〜。烏丸転びそうでやだ〜」
「……寝惚けてるくせにリスクヘッジは完璧なのな」
巻き込んでしまわないよう大人しく手を離す。思いの外、走り出した雪名と果実の足が速い。本調子でない千歳が彼らの速度に遅れを取るのではと心配になった累は、確認がてら後方を振り返った。
「あ、烏丸そこ縁石あるよ〜」
「えっ、うわ⁉︎」
千歳の指摘から間を置かず、何かに躓き後ろ向きのまま派手に転倒する。視点が一気にぐらついた。どさ、という音が前方の二人の元にも届いて到来した不運を知らせたはず。
だが痛がっている暇も無いと、慌てて体を起こした。受け身は不完全だったが、鞄が下敷きになりいくらか衝撃を吸収してくれたことは不幸中の幸いだろうか。
「あは、烏丸最後尾じゃ〜ん、早く早く〜」
「少しくらい心配してくれてもいいと思うんだけどな……」
「え〜? してるよ〜?」
「いややっぱり心配しなくていいから先にパン食いきってくれ……!」
軽く汚れを払い三人を追いかける。累の足の速さは男子の中で平均程度なのだが、果実だけでなく千歳も雪名も同じペースで無理なく走っていることを考えると、どうやら女子陣の運動能力は相当なものらしい。千歳に関しては引きこもっていたくせに余裕綽々なのだから尚更驚異的だ。しかもパンを食べながら。累は静かに天が二物を与えるということを悟った。
そして四人は全ての信号に引っかかるも、予定時刻間際に校門が見える距離まで辿り着く。だが門は今にも閉まろうとしていた。
「ヤバい入れなくなる! 急げ!」
一本道の途中、前を行く果実が振り向いた。彼は累を見るなりぎょっとする。けれどその理由は誰でもない自分が一番よく理解していた。累がすっかり息を切らし、満身創痍とばかりの表情をしていたからだろう。
「……そろそろ、俺、かなり……しんどいんだけど……」
「せめて! せめて敷地に入るまでは足動かせ!」
鞭の如き激励に応えようと必死に前へ進んでいくが、滑り込めるか否かはおそらく五分五分。万年帰宅部だったのがこんなところで仇となるとは。満足に話すことも難しい中、駄目そうなら俺を置いて先に行け、と言いかけた時だった。
「ま、烏丸だけ入れなくてもそれはそれで面白いけど〜?」
息の一つも切らしていない千歳が、最初とは逆に累の手を引いた。
「どうせなら、あとちょっとだし頑張れ〜」
「おお、た、助かる……」
そもそもお前が一発で起きて集合時間を早く設定していればこんなに走る必要も無かったけどな、という言葉は手助けに免じて飲み込むとしよう。彼女のおかげで、まさに文字通りの関門も突破する。あとは三階にある教室へと全力で向かうだけ。
「あ〜、パン二枚目も持ってくればよかったかも〜」
「……おま、え、ば、化け物……?」
「烏丸さんは話さずに体力を温存した方がいいのでは?」
「千歳も余計なこと言うなよ、烏丸がツッコみたくなっちゃってるだろ!」
叩かなくていい無駄口を叩きながら二段飛ばしで階段を上る様を視界に入れ、死にそうになりながら一段ずつ上っていく。謎に体力のある三人へとなんとか食らいつき、累は自分史上最速で教室へと駆け込んだ。後ろに回っている時間が惜しいと判断し前の入り口の扉を開ける。一気に視線が集まる感覚は決して気分の良いものではないが、今はそんなことすら気にならない。
「お、はよう、ございます……」
「おー、お前ら揃って……なんか死にそうだけど大丈夫か?」
なんとかチャイムまでに間に合ったという安堵でどっと疲れが襲ってきた。既に教壇に立っていた丑満は、膝に手をついて前のめりになる累へ好奇と配慮の目を向ける。奥の築田も何か言いたげではあったが、ちょうど今からテストが始まるということもあり控えているのだろう。
「大丈夫だよ〜、ね〜烏丸〜?」
「あ、ああ……大、丈……」
「どっちにしろこいつはボクが席まで動かすし大丈夫」
言いつつ果実が首根っこを掴む。仮にもう少し体力が余っていたとしたら、雑な扱いに異議を唱えることもできたのだけれど。
「そうか、とにかくお疲れ。あと十秒でチャイム鳴るぞ。もうテスト配ってあるから早く席つけー」
四人はそれぞれの席へと移動する。果実は本当に累を掴んだまま連行した。有言実行自体は素晴らしい心掛けだが、もっと別の形で行ってほしいものだ。
鞄から急いで筆箱を取り出した。程なくして、息も整わないうちにチャイムが小テストの開始を告げる。「受けても受けなくても大差ない」という果実に向けられたはずの雪名の言葉は己の身にも当てはまることだったのだと今になって痛感しながら、累は悪足掻きでシャーペンを走らせた。
一時間目の倫理、二時間目の丑満による数学、三時間目の体育、四時間目の英語総合をそこそこ真面目に受けた後、再び集合する四人。気のせいだと一蹴するにはやたらしつこく纏わりつく視線を流し、食堂へと向かっていく。
「そういえばツナ子、小テスト何点だった〜?」
「百点でしたよ。当然の結果です」
「え、あれで百点取ったのか? かなり難しかったのに」
「……なあ烏丸、千歳、おまえらはボクを裏切らないよな?」
「安心して〜? わたしはミカさんの味方だよ〜」
「俺としてはぜひとも裏切りたいんだけどな……」
口ぶりからして雪名はほぼ毎回満点を取っているのだろうが、それでいて優等点が最下位層なのだから反面教師の鑑と言える。もし自分が彼女の優秀な頭を持っていたら退学に怯える日々とは縁も無かったろうに。つくづく宝の持ち腐れだ。
そんな具合に何気ないやり取りを交わしていたら、あっという間に食堂へと到着した。久々の学校はやはり新鮮なのか、千歳は色々なことに興味を示している。
「あ、日替わりメニューの種類増えてる〜。いつから〜?」
「去年の秋からだったと思われます。元からあったメニューも、品数が一つ増えていますね」
「さすが〜、唯一まともに学校通ってただけあるね〜」
「事実なんだけどおまえに言われると腹立つな……」
今日の気分だったハンバーグ定食は売り切れていたので、ついこの間新規開拓を行って美味しさに気付いたオムライス定食のボタンを押す。千歳は日替わり定食、雪名はオムライス定食、果実はハヤシライスを頼み、窓際の席に陣取った。例に漏れず千歳も食前の挨拶は欠かさない。この辺は腐ってもお嬢様ということか。
「あ、茄子入ってるじゃ〜ん。はい烏丸にあげる〜」
「知らずに頼んだのか? 食ってもいいけど一個だけだぞ」
「やった〜、じゃあ茄子あげた代わりにオムライス一口くれる〜?」
「なんで俺が代償を払わなきゃなんだよ……」
「しかもどう考えたって茄子とオムライスは等価じゃないしな」
早くも前言撤回したくなる。温室で甘やかされ我儘に育ってしまった可能性もあるが、お嬢様たるものこんな理不尽な要求は控えてほしいものだ。でないといつかエスカレートしそうで怖い。有り得ない話ではないと思う。何せ初手で茄子とオムライスの交換を持ちかけてくる奴なのだし。
「……一般的にオムライスに軍配が上がるのは理解できます。しかし茄子は食物繊維を含んでいますし、栄養価で見れば価値は高いと言えるかもしれませんよ」
「だよね〜? やっぱり持つべきものはツナ子だな〜」
「持つべきものじゃなくて悪かったな。他の食材と一緒に食べればいくらか紛れるだろ。そうだ、お前好き嫌いでシェフの人とか困らせてないだろうな?」
「うわ、ヒナヒナと同じようなこと言ってる〜。烏丸メイドさん向いてるんじゃない〜?」
「適当なこと言ってないで潔く食べろって。あとせめて執事だろ、絶対ならないけど」
毒にも薬にもならない会話を交えながら、普段の数倍の時間をかけて全員が完食し、清掃までの間にあてもなく校内を歩く。相変わらず刺さる視線も気に留めず、千歳は一歩先を歩いていたかと思うとくるりとこちらに向き直った。
「ね、朝バタバタしてて打ち合わせ忘れてたから普通に受けちゃったけどさ〜、午後の授業はみんなでサボっちゃおうよ〜。昨日話してた時からずっとやりたかったんだ〜」
彼女の足取りは心なしか軽く、言葉通りその行為が楽しみなのだと伝わってくる。理由がどうあれ累にとっては、これまで来ることを拒んでいた場所で千歳が笑顔を見せているという事実が喜ばしかった。そんな感情は、澄ました顔で隠せているだろうか。
「……まあ、サボるにしても成績が心配だし、五限か六限かのどっちかだろうな」
「六限は築田だから普通に受ける?」
サボりの計画を堂々と行うなんて、常にカメラとマイクが潜む将斉高校の生徒とは思えない。だが丑満の理論を信用するなら、これだけで反面教師部としての活動と見なされ優等点が微量ながらも加算されるはずだ。言い出した千歳はそんなことなど微塵も考えていないのだろうけど。
「清掃が終わり次第集合ということですね。場所はどうしましょう?」
「体育館はどっかしらのクラスが使うだろうし……空き教室ってのも芸が無いよな」
「はいは〜い。それならわたし屋上がいいな〜」
挙手と共に発された案は、果実の懸念点をクリアしていた。しかし同時に新たな問題も。
「……屋上って、立ち入り禁止じゃなかったか?」
「え〜、堅いこと言わないでよ〜」
「いや堅いとか堅くない以前に、鍵無いんだし入れなくない?」
「へ〜? じゃあわたし清掃場所が職員室らしいから、うっしーに頼んで鍵貸してもらお〜」
顧問を介しているとはいえ校則違反に躊躇いが無さすぎる。「反面教師部部長の俺より副部長の方がよっぽど反面教師なんだが」とかいうタイトルのライトノベルでも出版できそうなレベルだ。本能で良心が留まろうとするけれど、累も彼女を見習うべきなのかもしれない。そんなことをぼうっと考えていた時だった。
「花柳さん」
「ん〜? わたし〜?」
これまでずっと四人を遠巻きに見ていた大勢のうち、一人の女子生徒が千歳に声をかける。確か彼女はB組の委員長だったような。態度は落ち着いているが、心なしかそれは意を決して呼び止めたという様子に見えた。
「私たち、清掃班同じだと思うから……よかったら職員室まで一緒に行きましょう? 学校久々なら、案内とかもした方がいいだろうし。ね?」
コミュニケーション弱者からすると恐ろしい程、スムーズに距離を詰める誘い。だが不登校明けでも親切に接してくれる存在は千歳にとってありがたいはずだ。女子生徒が千歳からこちらへ視線を移す。意図はよく掴めないけれど、千歳を借りても大丈夫かという問いと解釈するのが自然だろう。累は名前も知らない彼女へと感謝しつつ、三人を振り向いた千歳に言った。
「良かったな、せっかくだし連れて行ってもらったらどうだ?」
「いいかしら? 花柳さん」
こういった誘いに二つ返事で乗っかりそうな千歳が、何故か表情を強張らせた。覚えたのは微かな違和感。慣れないアプローチのせいか、それとも。
「……なら、お願いしよっかな〜?」
しかし千歳の顔はすぐに元に戻る。あの顔をしたのはほんの一瞬、気のせいだと言われてしまえば否定のしようもない程。
「じゃあまた後で屋上付近に集合ってことで、ボクたちもそろそろ清掃場所向かう?」
「そうですね、時間からして程よい頃合いかと」
見るに、二人は千歳の表情の変化に気が付いていないようだった。果実はまだしも洞察力に優れた雪名ですら見逃すとは。もしかすると本当に、累の気のせいだというのだろうか。
どこか晴れない気分を抱えたまま、その場で四人と解散する。女子生徒は千歳を連れて遠ざかっていく。少しだけ進んだ先で顔だけを後方へ向け、反対方向に消えていく彼女たちを眺めていた。あの時なんとなく、自分たちの前で見せていた千歳の笑顔が曇ってしまった気がして仕方ない。この不安が杞憂であってほしいと願い、累は猫背も伸ばさずだらだらと歩いた。
累が捻った蛇口が壊れて清掃が立ち行かなくなるというそこそこの事態に胃を痛めながらも、清掃の時間は終了を迎える。急遽駆けつけた業者に頭を下げてから集合場所に向かうと、既に雪名と果実が待っていた。喧嘩してなかったんだなと言えば「別にいつもしてるわけじゃないだろ」と果実は仁王立ちで返す。目を離すと割と常に言い合っている気がするけれど、まあそれは心に留めておこう。
「にしても、こういうの初めてだからちょっと落ち着かないな」
「千歳さんが心待ちにしているのも頷けますね」
千歳のことを話題に出しても、昼休みに見られた表情については二人とも触れずにいる。だが「あれ」を感じ取っていたならば、忘れてしまうとは考えにくい。やはり累だけが感じ取ったと思うのが自然か。若干の不可解さともどかしさに見て見ぬフリを決め込み、三人で千歳が来るのを待った。
そして時を待たずして、彼女の間伸びした声が階段の下から投げかけられる。
「お待たせ〜、鍵ちゃんと持ってきたよ〜」
人差し指に鍵を引っ掛けて回す千歳。段を上って歩み寄る足音はリズミカルだった。別れ際のこともあり勝手に心配していたが、見た限りでは特に調子が悪いだとか、表情筋がぎこちないだとか、そういった状態には思えない。目は離さずとも、ひとまず安心しておこう。累の取り越し苦労で当の本人が問題ないのならそれが一番だ。
「お疲れ。丑満、すんなり貸してくれたんだね」
「特殊な事情があれば貸し出し可能なんだって〜。そもそも反面教師部の活動が特殊だし、うっしーが顧問だしで楽勝だった〜」
「それ四捨五入したら職権濫用にならないか……?」
「細かいことはいいじゃ〜ん? それよりもうすぐチャイム鳴っちゃうし、早速いっちゃお〜」
言い終わらないうちに千歳が鍵穴に鍵を挿入し右に回した。同時に鳴った小気味良い音で、無事に解錠されたことを悟る。直ちに流れで扉を開ける——かと思いきや、彼女は後ろを向いて声を弾ませた。
「じゃ、あとは烏丸が開けて〜?」
「え? なんで俺……」
まず真っ先に浮かんだ可能性が「いざとなった時『扉を開けたのはあくまで烏丸だ』と知らん顔をして罪を擦り付けたいのでは」のあたり、おそらく累にも千歳にも問題がある。自省するので是非彼女にも反省してほしい。
けれど、その予想は外れのようで。鍵を抜くと千歳は累の顔を覗く。
「いいでしょ〜? わたし、烏丸に開けてほしいんだ〜」
「……わかったよ」
ドアノブに手をかける。理由は聞かない。予想的中というどんでん返しの回避が一割、理由がどうあれ応じてやるかと思うのが二割、上部だけの言葉じゃないとわかってしまったのが七割。
僅かな高揚感と共にドアノブを回した。前へと力を加えれば、空間は扉の向こう側と繋がっていく。人一人が通れる程度の隙間から吹き抜けた風は涼やかで。累の踏み出した右足が屋上の床に触れると、雪名も果実も、千歳もそれに続いた。
「ここが屋上か〜、初めて入った〜」
「パンフレットにも写ってたし窓からもちょっと見えてたから雰囲気は知ってたけど、やっぱ実際来てみると違うよな」
「ええ、私の想像よりも広々としていました」
たぶん屋上自体は普通の学校と大して変わらないものだろう。だが累も自然と、この場所には特別な何かを感じる気がした。それは自分でさえ輪郭を掴めない、ひどく曖昧な感覚。それが肯定的な感情であるということだけは唯一理解できる。
千歳は周囲をぐるりと見回した後、数メートル先まで歩いてから座り込んだ。一体何をと思う間も無く、そのまま背中から仰向けに倒れ大の字になる。床にふわりと広がる白い髪。
「あは、すっごい解放感〜。みんなも寝転んでみよ〜?」
「ボクはパス、制服汚れるだろ」
「え〜? せっかく来たんだし、いつもしないことしようよ〜」
「……仕方ないなあ」
果実は溜息を挟むと千歳の側まで近寄り、スカートを押さえつつ恐る恐るしゃがみ込む。了承したとはいえまだ多少の抵抗を覚えるあたりは、服にこだわりのある彼らしい。迷った挙句、累の部屋でそうしたようにうつ伏せで頬杖をつく姿勢をとったようだ。さて雪名はどうするのかと左を向けば、彼女は先程まで空いていた手に文庫本を携えていた。
「あれ? どこかに仕舞ってたのか?」
「いつでも読めるよう、制服の内ポケットに携帯してあるんです。……あ、申し訳ありません。烏丸さんの分もお持ちしておくべきだったでしょうか」
「はは……そういうことじゃないから大丈夫だ、けどありがとな」
累と雪名も並び、二人の元へ歩く。雪名に倣い、適当な場所で腰を下ろしてから斜め後ろに手をついた。不意に目が合って、千歳が顔を緩ませる。それはいつも目にしているものと似た穏やかな笑み。きっと無意識に微笑み返した自分の顔も、少なからず彼女に影響を受けているに違いない。
馴染んだ三人の声と些細なやり取りに身を委ねる。やがて、チャイムが鳴り響いた。ひょっとしたらクラスでは「四人もいないけどどうした」とか言われているのだろうか。想像するのは容易いが、最後の音が消えても誰一人授業を受けようなんて言い出さない。それぞれ寝転んだり、頬杖をついたり、本を読んだり、ただ座っていたり。こうしていると屋上は授業中の教室と全く別の世界で、四人の時間だけがゆったりと流れているなんて錯覚してしまいそうだ。
会話の間を縫って音楽室から届く合唱。グラウンドから聞こえるホイッスルと体育教師の声。太陽を隠す曇り空を見上げながら、千歳がぽつりと呟いた。
「……なんかいいね〜、こういうの」
累もつられて視線を上げる。雨が降りそうだ。
考えるより先に願っていた。青空でなくてもいいからどうか、この時間が終わるまでは降りませんようにと。
「そうかもな」
◆
四人が五限に出席しなかったことを担当教師から耳にした築田にそれとなく釘を刺された以外は、至って平穏に時が過ぎた。千歳の学校復帰初日としてはなかなか好調な出だしだったのではなかろうか。最終的に判断するのが千歳としても、累はわりかし手応えを感じていた。とにかく「また明日ね〜」と笑っていたことが何よりの収穫だ。
ただし累には、と言うより四人にはもう一つやるべきことがある。期限までに優等点五十ポイントを達成しろという丑満からの指令だ。千歳が継続して学校に来てくれるようになるのも大事な目標だが、まず退学を回避しないことには始まらない。一方で今日はどのくらい点を稼げたのか、具体的な指標が無いのでとんと見当もつかないという袋小路なのだけど。
頭を抱える代わりに寝返りを一回。そういえば明日は小テストが無いから遅刻をした方がいいはず。RINEで三人に連絡してみよう。そんな思いつきでスマートフォンに手を伸ばした時、ふと昨日の千歳の発言を思い出す。
——意外と裏サイトとかに書いてあったりして〜。
脳内で罪悪感と危機感が天秤にかけられ、ぐらぐらと揺れる。しかし虚しく退学を命じられ路頭に迷う未来を想像し、時を置かずして秤は勢いよく右に傾いた。累はロックを解除するや否や、心の中で何らかの上位存在に向けてすみませんすみませんと繰り返す。これで数グラムか罪が軽くなったと思っておこう。
累は検索欄に『将斉高校 裏サイト』と入力した。検索結果をスクロールしていくと、それらしきサイトの名前が七つ目に表示される。いやまさかそんなあからさまに、と思いつつリンクをタップした。束の間の読み込みを経て画面に現れたのは、どこからどう見ても我が高校の裏サイトだ。
「……マジか」
つい漏れる独り言。黒地に白文字で高校名の表記、その横には見慣れた校章が添えられていた。内容を閲覧するには、およそ関係者しか知らないであろう情報をパスワードとして入力しなければならない作りになっている。幸い人に比べて出席日数の少ない累でも知っているものだったため、迷いなく答えを打ち込んだ。再度の読み込みを挟み、今度こそ深淵に辿り着く。
画面上部には四十一という数字。何かと思えば、リアルタイムでこのサイトを閲覧している生徒の数らしい。全校生徒は約六百人だったはずだから、十五人に一人程が今まさに裏サイトにいるという計算だ。クラスの中で言えば二人ないしは三人。しかもそれがあくまで現在の話でしかないことに戦慄する。ひょっとするとサイトの存在を知っている生徒が過半数なのではとすら疑ってしまった。学校生活を常に監視されている反動で、色々と吐き出したくもなるのだろうか。
スレッドはどれも数字を裏付けるように賑わいを見せていた。累は気になるタイトルのものを一旦スルーして、優等点のシステムに関するものが無いか、過去のスレッドも併せて確認する。捜索開始から数分、結果として該当するものは見当たらず。少々がっかりしかけた。だがよく考えれば、そう簡単に機密情報が漏洩する方がおかしいのだ。自分たちを救済するためとはいえ、丑満のやっていたことが築田や他の教師に晒された暁には大目玉を喰らうに違いない。わざわざ綱渡りをしてくれた恩師に感謝しておこう。
累は諦めて最新のスレッドが表示されるページへと戻り、タイトルを流し読みする。部活動の愚痴、テストの過去問、三年の可愛い女子ランキングなど実に普通の高校生じみたものがいくつもあった。なるほど、確かにこれらは監視下にあっては出せない話題だ。時たま個人を対象としたスレッドも散見される。
その中に、よく知る名前が並んでいた。タイトルに入っていたのは雪名のフルネーム。文字列を認識すると同時に覚えたのは、心臓を細い針で刺される感覚。他にも専用のスレッドを立てられている生徒がいるのだし、特段珍しいことでもないのかもしれない。加えて、雪名の言動はあらゆる方面から反感を買ってしまうものだと理解もしている。——けれど。
きっと見ないのが賢明な判断だと頭ではわかっていても、心を制御するには及ばない。累は覚悟を決めてスレッドを開く。新学期が始まる少し前に立てられたばかりにも関わらず、既に何百のコメントで埋め尽くされていた。深呼吸の後に古いものから一つ一つ目を通す。それらはどれも、累の想像を優に超えたもので。
『また同じクラスになっちまったwww一生来ないで欲しいんだが』
『なんか新学期からいつも複数人でいるけど猫被ってんの? 騙されてるんなら周りの奴らがマジで可哀想だわ』
『弱みでも握ってるんだろ じゃなきゃあんなのと一緒にいるわけない』
『類友でしょ、古賀以外も色々有名じゃん』
『だとしたら全員性格終わってて草』
……いや、いやいや。何だよそれ。お前らが何を知ってるんだよ。陰口言うにしてもせめて「腹が立つ」とか「上から目線」とかだろ。しかも雪名が嫌いだからって、勝手な憶測で千歳や果実のことまで悪く言ってんなよ。確かに最初は嫌々だったけど、俺たちはちゃんと好きで雪名と一緒にいるのに。
沸々と怒りが湧いていた。言っていいことと悪いことがあるだろうと。しかし確かに、雪名の良いところはきちんと接してみないとわかりにくいのも事実だ。累はもう一度深呼吸して気を落ち着かせようと試みる。吸って、吐いて。比較的冷静になってきた頃合いでスクロールを再開した。そして指を離し一番上に来たコメントが目に留まる。
『こんなことしといて平気で学校来れるのヤバすぎ』
「……『こんなこと』?」
唐突な指示語に首を傾げた。コメントと共に添付されていたのは、とあるURL。写真か何かだろうか。暫し迷った挙句、怖いもの見たさにタップする。その不穏な言葉が示すところを知りたかった。
間髪入れず映るのは一組の男女がいる教室。続いて口論と思わしき音声が流れる。日付は去年の十一月五日。画角と画面サイズからして、どうやらデータはロッカーの中に仕込んだスマートフォンで撮った動画らしい。女子生徒の顔がわかるくらいで画質は良くないが、近くにいるからか音声は口論の内容は非常に鮮明だ。元彼が何だのと言っている様子を見ると、よくある痴話喧嘩に見えた。
『別れ話なんてまともにされてねーから!』
『うるっさい! あたしはそんなこと聞いてんじゃないっての!』
ヒートアップする言い争い。男子生徒が女子生徒に詰め寄り胸倉を掴み出す。その光景を形容し難い心持で眺めていた直後、現れたのは。
「……雪名」
片目を隠す紫髪は、確かに彼女のものだ。見間違うはずもない。
教室は扉が開いたままだった。声を聞きつけたのか、それともただの通りすがりに覗いただけか。真相は定かではないが、雪名が彼らの諍いを目撃したのは明らかだろう。男子生徒が視線を飛ばしたことで、廊下側に背中を向ける形の女子生徒も雪名の存在に気付いたようだ。
『お、お願い! 助けて……!』
女子生徒は振り向くと男子生徒から逃れ、雪名の元へ涙ながらに駆け寄る。雪名の腕にしがみついて怯える女性生徒。即座に怒鳴り声を発した男子生徒。それは議論の余地なく緊急事態であり、実感しにくいながらも優しさを持つ雪名であれば、彼女を助けるだろうと信じていた。けれどその予想は、他の誰でもない雪名によって裏切られることとなる。
『……申し訳ありませんが、あなたのことを助けるつもりはありません』
『え……?』
女子生徒の顔は見えない。だが、累のものとそう遠くないはずだ。雪名の言葉の真意を理解しようと必死になるも、続く言葉が頭をショートさせてしまう。
『私が助けるのは、私が助けるべきだと判断した人間だけです』
『……何、言って——』
表情一つ変えないまま雪名は彼女の手を払い除ける。その瞬間、耳障りな音がブツ、と鳴って画面は暗転した。動画はそこで途切れている。念のため二回目のタップをしても、再生時間の表示は変わらない。累はたった今目にしたものを脳内で反芻した。動かない表情。冷たい声色。非道な台詞。そのどれもが未だに信じられなくて。
嘘だろ、と呟く自分の声は酷く掠れている。何かの間違いであってくれと、誰かがおかしな点を指摘してはいないかと、スレッドに戻りコメントを片っ端から確認した。
『いや薄情で草』
『男もクソなのは間違いないが監視下で見捨てるのは共犯ですらある』
『女無事でよかったな もし何かあったら責任取れなかっただろ』
『噂自体は当時からあったけど事実なんか、教師にバレて退学になればいいのに』
『なんでここに映像載せられるんだって思ったけどそんなん気にならんくらい外道ですわ』
この動画は去年の秋の出来事だが、投稿されたのは昨日の夜。四人で歩いている時にやたらと視線を感じたのはそういう理由だったのかとようやく合点がいく。しかしこれだけ技術が発達している世の中なのだから、あの動画も合成により作られたものだったのではないかと、累は限りなく低い可能性だけを見つめた。
人差し指を止める選択肢は無い。やがて、雪名よりも見慣れた名前が視界に入る。
『そういや俺この前あいつが烏丸のこと食堂に誘ってんの見た』
『性格ダメなら顔で釣ろうってか? 居場所無いからって男作ろうとしてんの死ぬほどキモいな』
コメントの流れは今に至るまでずっと同じ。累は危うく思考停止しかけた。雪名にありもしない人格を見出して馬鹿にしている匿名コメントへの嫌悪感と、より強い罪悪感に。それは裏サイトを見たことではない。累が雪名の側にいるということそのものだ。
自分が側にいなければ、謂れのない悪口も少しは減るのだろうか。千歳は女子で、果実もぱっと見は女子だから、強引に色恋に結び付ける者もいないはずだ——なんて、思ってしまった。好きで一緒にいるんだと胸を張っておきながら、すぐに離れるという考えが浮かぶことに辟易する。裏サイトで叩かれる陰口ごときに自分たちの関係を変えられて堪るものかと、迷いなく前を向けたらどれだけいいか。前を向くどころか心は面白いくらいに掻き乱されていた。
つくづく嫌になる。あの動画が本当かもまだわからないのに。雪名なら気にしないかもしれないのに。散々偉そうなことも言ったのに。やっと四人でいられるかと思ったのに。
スマートフォンを枕の横へと伏せた。天井を見つめて、視界を無理矢理両手で塞いで、累は誰にも届くことのない言葉を零す。
「……なんで……」
空気と正反対の軽快なRINEの通知音。見る気にはなれない。もしも早めに起きられたら、その時は明日の自分が返信してくれることだろう。
◆
急ぐ必要も無いので四人横並びにのんびりと歩く通学路。昨夜は結局満足に眠れず悪夢まで見てしまった。ただでさえ鬱屈とした足取りが拍車をかけて重苦しくなっているのを、勘の良い雪名が当然見過ごすはずもなく。
「烏丸さん、今日はあまり調子が良くないように見受けられますが大丈夫ですか?」
「え、あ……ああ。ちょっと眠れなかっただけ、だから」
過少申告ではあるが虚偽申告ではないためセーフだと思いたい。側から見れば何気ない二人のやり取りに、累の左を歩く千歳と果実も加わった。
「ほんとに〜? チムチムとかで夜更かししてたんじゃないの〜?」
「あれってそんな長時間やるゲームだったか……? でも何にせよ、睡眠は取った方がいいぞ。肌にも悪いだろ」
「そうだよな……あ、ありがとな」
会話の発展を阻止すべく礼で強制終了する。雪名はまだ何か言いたげだったが、今の累には普段通りの態度はおろか目すら合わせられない。昨夜見たものが見たものなので多少不審でも許してほしいものだ。
しかし、ずっとこのまま避けるような真似を続けるのはいかがなものか。真相が判明する前に何も無かった体で振る舞える自信は持ち合わせていない。となれば早いうちに聞いておきたいのだけれど、流石に二人の前で話せることでもないから弱った。
要領を得ない返事でやり過ごし機会を窺っている間に、校門の前まで辿り着いてしまう。累は部長の責務と半ば千歳に押し付けられる形でインターホンを鳴らし、職員室の教員に門の解錠を要請した。朝のホームルームまで五分を切ると門は閉まってしまうものの、こうして頼めば入ること自体は可能なのだ。もちろん、遅刻についての軽いお叱りは免れないが。
開けてもらった門から校内へと入っていく。現在時刻は九時十分、一限が始まって十分程度。千歳曰く今日のテーマは「地味な遅刻」らしい。何だそれはと思いつつ特に質問はせず廊下を進むと、すぐに四人のクラスに到着した。窓から見えないよう屈んで後方への移動を行う。入室を躊躇っていたところを果実に小声で催促され、累は思い切って謝罪の言葉と共に扉を引いた。瞬間、全ての視線が四人に集い、そして。
昨日までの累ならば何の視線かなど全く掴めなかっただろう。今はもう、それらを完全に理解していた。雪名へと移される意地の悪い視線の数が、きっとあの動画を見た生徒の数だ。
悪寒が走る。非常に鋭い雪名のことだ。視線にも、込められた意味にも気付いていたとしたら。想像したくもないものに埋め尽くされた頭では思考さえままならず、あれよあれよと時間は過ぎた。当然、二人になるチャンスなどそう多くはない。昼食も終えてしまい、もうすぐ清掃時間となってしまう。
「えっと、ボクが教室で確か千歳が職員室だったっけ? おまえらは?」
「俺……は理科室だな」
「私は特別棟一階の西側廊下ですね」
累の清掃場所と雪名の清掃場所は隣接している。千歳と果実は別方向でここからは少し距離が遠いため、今から向かえば丁度良い頃合いではないだろうか。果実がその旨の提案をすると同時に気付いた。これが最初で最後のチャンスだと。
階段へと向かっていく二人の背中が消えた瞬間に口を開く。
「……雪名。俺、聞きたいことがあるんだ」
「はい、何でしょうか?」
人通りの少なくない廊下。突っ立ったまま話す累と雪名に向けられたものの中にも、ほぼ間違いなく邪推を重ねる視線が存在している。それでも、聞いておかなければならない。目の前にいる雪名が、あの動画の冷酷な彼女と同一人物だなんて信じたくなかったから。
「仮に違ったら、言ってくれ」
息を吸った。空気と一緒に言葉を吐くことでしか聞けないと思った。
「去年の秋……放課後に、空き教室で喧嘩してるカップル、見たりしたか?」
「……」
その間と表情は、彼女に思い当たる節があるということを如実に物語っていた。やや伏し目がちになり「はい」とだけ呟いた声が累に与えたダメージは甚大だ。
正直、この先を聞きたくない。疑念を確信に変えたくない。痴話喧嘩なんてよくあることだし、雪名が見たのは違う男女かもしれない。嫌な予感を紛らわせる可能性はいくらでも転がっていた。転がっていたのに、どうしてそれらをちっとも心から信じきれていないのだろう。
「……女子が男子に胸倉掴まれてて、お前に助けを求めたのは……」
「覚えています」
淡々と返す雪名。累はいよいよどうしようもなく動揺していた。
俺、本当はお前のこと何も知らなかったのかな。偉そうで無駄に自信家で無遠慮だけど、人のことはよく見てるし人並みの優しさも持ってる奴だって思ってるのに。後にも先にも助けを求める人間を突き放すなんてことしないって、思ってたのに。それも全部、ただの期待のしすぎだったのかな。
頼むから、違うって言ってくれよ。私がそんな人間に見えますかって、堂々とさ。
「……本当は助けたんだよな? そう、なんだよな?」
自然と俯いている。雪名の顔は見えない。雪名の顔が見られない。
流れる数秒の沈黙。累の顔を上げたのは、あの動画にも似た慈悲のない声だった。
「……いいえ」
三文字が突きつける現実。もう、信じたいものだけを信じることはできないのだ。今日初めて目が合うと、雪名は悲しそうに微笑んだ。
「私は、彼女のことを見捨てました」
衝撃的な光景と裏サイトのコメントと数多の視線が頭をよぎる。自分だけは違うと一蹴していたそれら全てが、限りなく距離を詰めて。
「……烏丸さん」
「っ、悪い……俺、もう、行くよ」
清掃場所はすぐそこだ。反対の方向に走り出したって意味なんか無い。無いけど、だけどそうするしか、目の前の事実と己の情けなさから逃げ出すことはできなかった。だって、雪名の言葉を聞いて、一瞬でも向けてしまったから。まともに話したことなんてない奴らや、必要以上に鋭い言葉で刺そうとする奴らや、心底軽蔑していた奴らが雪名に向けていたのと、同じ視線を。
何やってんだよ。お前らも、お前も、俺もさ。
程なくして呼吸が浅くなる。脇腹が痛み出す。帰宅部生まれ帰宅部育ちの体力で走り続けられる時間など、精々数分くらいのもの。ふらついた足取りで駆け込んだ教室は、動画のものとそっくりだ。床に座り込んで椅子に上体を預ける。春と思えないくらいの温度が、容赦なくとどめを刺してきた。
「……冷てえ……」
◆
同じ清掃班の女子から「清掃場所来なかったけど大丈夫?」という遠回しな「サボりやがったな」の注意を受け、作り笑い未満の何かを浮かべる。曖昧な応答で返す累を怪しんでいるかもしれないが、こればっかりは清掃班の女子どころか千歳や果実にも言えるわけが無いのであやふやに誤魔化すのが関の山だ。ひとまず彼女がしつこく理由を聞かず席へと戻ってくれたので、ほっと息をついた。
五限は自習と並行して担任との面談が行われる。自習は大抵生徒同士の雑談タイムも同然になったりするけれど、この高校では流石に監視下にあるからか、ほとんどの人間が真剣に教科書や参考書と向き合っていた。まともに勉強していなさそうなのは見る限り千歳くらいのようだ。反面教師部としては望ましいけれど、成績の方が心配になってしまった。
そして面談も累の順番が来るまで、およそ数分程度。教師と話すのが嫌で保健室でサボったと思われる果実の分があるとはいえ、本当に他の生徒は所謂「優等生」揃いらしい。前の番号の生徒が帰ってきたら最寄りの空き教室へ移動するという暗黙の了解に則り、累は数学の問題集を閉じて席を立った。そう遠くない距離を歩き「失礼します」と扉を開ける。沈んだ気分を丑満に悟られないよう、強いて平静を装った。
「よっ、待ってたぞ。感動の再会だな」
「……感動の基準バグってますよそれ」
椅子を引いて腰を落とす。机の上にあるのは前の生徒の資料らしいが、丑満は今から面談を始める累の資料を出す素振りを見せない。まあ、他の生徒からすればこれが担任と一対一で会話する初めての機会となるが、累にとっては今更だ。ならば彼にとっても同様なのだろう。
「で、最終的にどうやってあいつら引き入れたんだ? 話せる範囲で構わないから教えてくれよ」
「顔ウッキウキじゃないっすか……別にいいっすけど」
想定通りの質問にこちらまで笑ってしまいそうになった。彼には事細かに伝えていなかったわけだし、一応顧問ではあるので質問としては確かに妥当である。五限の間に限りこの教室のカメラとマイクは電源を切ってあると彼がクラス全員に説明していたのを思い出し、累は最後に報告へ行って以降の経緯を余すところなく正直に話す。
一部始終を聞いた丑満は顎髭を撫でで満足とばかりに口端を上げた。
「あの一週間でそんなことがなあ。お前、意外とやるじゃねえか」
「そ、それはどうも……」
「おう。面白いもん聞かせてもらったよ」
言いつつ彼が机に出ているものとは別に、また新たな資料を取り出す。透明なファイルを手渡されるがままに受け取り内容を確認すると、それは新たなものではなく随分と見覚えがあった。
「礼と言っちゃなんだが、これはお前が持っといてくれ。話の種にでもするといい」
それは累が一度返却した雪名と果実の資料。二人を反面教師部に誘うため、丑満が用意してくれたものだ。話しかけるべき対象が明確になっただけで、肝心の対話の手助けとなったわけではないのだが。つい最近だというのにずっと前のようにも感じる初対面のやり取りを回想し、ふと懐かしくなった。そして当時を思えば思う程、雪名に関することが飲み込めず膨らんでいく。
「……あざっす。でも俺、資料貰って誘ってることは二人に伝えてなくて」
「あ〜? そういうのは黙っとくと後が面倒になりがちだろーが。しっかりしろよ」
「そ、っすよね……はは」
新学期二日目、果実に嘘をついて無理に話を進めたことを思い出す。今更資料が原因でどうにかなるとは考えにくいけれど、おそらく丑満の言葉はそういう意味ではないと理解できた。最初とは状況が違う。部活が作れればいい、退学を回避できたらいい、では駄目だと言いたいのだ。たぶん。
口元で手を組む丑満。センター分けの長い前髪がかかった顔が、一気に神妙なものになる。
「……どうだ、部長は務まりそうか?」
昨日までなら普通に出たであろう返答に詰まってしまう。現在進行形で直面している一件は、それ程までに累にとって負の影響を及ぼしていた。コチ、コチ、と鳴る秒針の音を数回聞いてから、探るように口を開く。
「……まだ、わからない、っす」
これからどうなるのかも、どうしたらいいのかも、全部。
「そうか」
丑満は目を伏せ、静かに息をついた。続けざまに腕を組み椅子にもたれかかる。流石に呆れられたのだろうかと冷や冷やしたがどうやら違ったらしい。彼が目を開けた時には、もう先程の真剣な表情など欠片も見当たらず。
「じゃあお前に三つ、俺からのありがた〜いアドバイスをしてやるよ」
「え?」
「一つ、周囲をよく見ろ。二つ、とことん悩め。三つ」
長い指が順に立てられていく。三本目が立つと同時に目が合うと、丑満はにやりと笑った。
「話は最後まで聞け。以上」
本当にそれで話は最後というオチがつき、空き教室を後にする。静かなB組の扉を開けて空いている自分の席についた。あれで面談になっていたのかと言われれば当然疑問符が浮かぶけれど、全体を通してあくまで丑満が主導したものだ。問題があれば築田が丑満に物申すだけだろう。累が気にかけるところではない。
と、思いつつ。
「……ま、烏丸! 聞いてんのか?」
「えっ」
「いつまで数学やってんだよ、もうとっくに自習終わったって」
「あ、ああ……そうか」
チャイムに全く気が付かなかったが、教室を見渡すと本当に帰りのホームルームの準備が行われていた。故に累は一見、柄にもなく勉強熱心な生徒と化す。本当にそうなれたらいいのだが。
話を聞いていなかったことについて詫びると、果実は特に怒ることもせず「いいけどさ」と軽く流した。
「部室に持ってくもの、放課後に寮まで取りに行くのはどう? 千歳も家近いし今日行くって感じで」
「あー……そうだな。でもそうすると雪名が……」
ごく自然に返そうとして、はたと止まった。累のイメージからすると、彼女は多少の気まずさなど意にも介さない器を持っている人物だ。しかしそれはイメージでしかない。抱く印象が本来の在り様と乖離しているなんてよくあることだと、昼休みに知ったばかり。
非常にやりにくい。何かの間違いで、雪名がいつも通りに接してはくれないだろうか。
「烏丸さん」
「っ⁉︎」
完全な死角から話しかけられ、肩はびくりと大きく跳ねる。雪名にまつわる都合の良い願望で現実逃避をしていたこともあり、より決まりが悪かった。振り向いて立った彼女を見上げても目が勝手に逸らしてしまう。
「あ、せ、雪名……」
「……今日は部活を欠席させていただこうかと思い、報告に参りました」
表情は今まで見てきたものと大差ない。声のトーンにも変化はない。それが逆に気を遣わせているようで、累にはもはや立つ瀬までなくなっていた。だが幸か不幸か、果実は二人の間にある微妙な空気を察知していないらしく、雪名が去るとあっけらかんと言い放つ。
「何あいつ? 珍しいじゃん、雪降るかもね」
その言葉にどう返したか忘れてしまった。また上の空だと果実に心配されたかもしれないし、そうではなかったかもしれない。ただ、選択を間違えたという感覚だけが胸中を支配している。
その自業自得で不愉快な感覚は、累が果実の提案に乗って寮の廊下を歩いていても、消えないどころか次第に主張を激しくするばかり。
「ねえ、あの漫画持ってきてよ。ボク部室で読みたい」
「ああ……そうだな」
正体不明の胸騒ぎがする。雪名のことだけじゃない。もっと他に、何かを違えてしまいそうな。ちょっとした不運の前触れに過ぎないことを願う。これ以上拗れてしまったら、自分の力だけでは元に戻せるかどうかさえも自信が無かった。
やがて辿り着く累と果実の部屋の前、鞄の中からカードキーを取り出そうとした時。いつも触れる感触が今日は手に伝わってこない。その意味に気付いて慌てて鞄を漁り出すと、果実が不思議そうな顔をする。
「どうしたんだよ?」
「……カードキー入れてるケースが見つからない」
「ええ⁉︎ ヤバいじゃん、もっとよく探せって」
自分のことのように焦る果実を横目に、必死で捜索活動を進めた。普通に考えれば絶対に入るはずもない筆箱の中だとか、スマートフォンのカバー裏だとか。そうして片っ端から確認するうちに中身のバランスが崩れ、教科書とファイルがいくつか床に落ちる。反射で拾おうと身を屈めれば、果実が素早く制止した。
「ボクが拾うから大丈夫だって、おまえは探すのに集中しろよ」
「た、助かる……」
彼の言葉に甘えて引き続き確認を行っていく累。最後の教科書に一縷の望みをかける。これで駄目なら終わりだというシチュエーション。思い切って確認すると、ページの間には行方不明のケースが挟まっていた。
凄まじい安堵で力が抜ける。累はいち早くケースを救出し、嬉々として果実に向けた。
「あった……! 果実、あった、ぞ……」
けれど果実が見ていたのは、累の顔でもケースでもなく、床に落ちたままの透明なファイル。教科書を片手にしゃがみ込んだまま、彼はその場から動かない。
「……果実?」
一瞬、具合でも悪いのかと思った。健康なのが一番とはいえ、単に具合が悪いだけだったらどれほどよかっただろう。体の不調は、大抵適切な治療をすれば治るから。
けれど違った。表情でわかってしまった。そんな生易しいものではないと。でも一体何が、と答えを理解しかねる累に、呆然としていた果実が震えた声で尋ねる。
「……何、これ?」
視線の先にあるのは、彼の情報が載った資料だ。今日、丑満から再び受け取ったばかりの、何の変哲もない資料。薄いファイルに透けるそれが果実の目に入ってしまうことの意味を、面談の時に改めて思い出したばかり。
まずい。どうしよう。何か上手い理由は——
「黙ってないでなんか言えよ……これが何かって、聞いてんだけど」
その痛々しい声音で、自分が冒した失態の大きさを知る。嫌な汗がたらりと頬を伝う。
バレてはいけないことがバレてしまった。頭の中でぐるぐる巡るのは、通ってきたいくつもの分岐点。
俺はどうすればよかった? 徹底的に隠し通すべきだった? 資料を受け取らずに丑満に突き返すべきだった? 寮に寄るべきじゃなかった?
違う。そんなことじゃなくて。本当にとるべきだった行動は、
「……これは……部活に誘うならこいつらがいい、って……丑満先生が渡してくれた、資料で……」
きっと、最初から正直に話すこと。そんな簡単なことだった。
遠回りを避けるため、ひた隠しにした教師からの命令。もう二度と間違えないと誓ったのに、一番最初から間違った選択をしていたなんて、そんなの。
要領を得ない説明を垂れ流す自分の声は、とてもじゃないが聞くに堪えない。それでも最後まで言葉が紡がれるのを待ってから果実が口を開いた。上げられた口角はぎこちなくて、笑うことを知らないみたいで。
「ああ……そっか、じゃあ」
たった一言。彼がぽつりと漏らした言葉が、累の間違いを鮮やかに証明する。
「嘘、ついてたんだ」
後悔がいくつも頭を駆け巡っていく。あの時は冷静になれないくらい必死で、他に選択肢なんて残されていないも同然だった。今でもそう思っている。だけど。
「あれは……果実が、先生を嫌ってるってわかって……それで」
違う。どうして俺は、この期に及んでまだ言い訳なんかしてんだよ。
「部活に誘ったのが先生に言われたからだって知ったら、もしかしたら……話も聞いてくれないんじゃないかって」
違うだろ。馬鹿なんじゃねえの。保身に走るのも大概にしろって。
固く口を閉ざす。果実が求めているのは、累が投げるべきなのは、こんな利己的なものなんかじゃないとわかっていた。俯いたって、床は答えを教えてくれないけど。
生まれる沈黙。破ったのは果実だ。その声に涙が滲んでいるように聞こえたのは、動揺がもたらす思い過ごしだろうか。
「……教師が嫌いなのは事実だし、おまえの言いたいこともわかるよ。けどさ……大事なことに嘘つかれちゃ、本当のことだって信じらんなくなっちゃうじゃん」
「……ごめん」
「性別なんて気にしないって言ってくれたことも、ムカつく奴から庇おうとしてくれたことも、おまえの意思で一緒にいてくれたことも……嬉しかったのに、もう全部わかんない、どれが本当かわかんないよ」
「ごめん。……でも」
信じてくれ、なんて口をついて出ようとした。一体どの口が。
果実は膝の上で組んだ腕に顔を埋める。それは累に対する拒絶に他ならなかった。
「……本当はずっと、笑い物にしてたんだろ。変なのって、何あれって」
「っ、違う」
思わず否定の言葉が出た。だって、そんなはずがない。たとえ最初は嘘で始まったとしても、果実が大切な存在の一つだということは紛れもなく本当だ。信じたくないかもしれないけど、そう正直に言ってしまいたい。
「友達みたいになれたかもって、思ってたのにな」
「違う、そんなこと……!」
しかし顔を上げた果実を見れば、それが今の累に許されていないことくらい理解できる。次いで飛ばされる尖った声色。彼は、本気で怒っていた。
「何が違うんだよ? 言うタイミングなんていっぱいあったのに、おまえは何も言わなかった! ボクが聞かないからって嘘ついたまんまにしてた! おまえのことが信じられないのは、おまえのせいだろ! ボクは……ボクはたぶん、途中で本当のこと言われても……教師を嫌う気持ちなんかより、おまえと一緒にいることを優先したのに!」
遠巻きに好奇の目を向けるだけの他の奴らとは違うと、そう話してくれたことも全部、無かったことにされてしまうのだろうか。嘘を盾にして近くにいた自分は、彼の中でその他大勢以下の何かに成り下がってしまうのだろうか。
どうして、どうして俺はいつも。
「っ、果実……」
言葉を探し終える前に、俯きがちに肩で息をしていた彼が再び顔を上げて笑った。それは先程までの歪な笑みではない。
「……取り乱して悪かったよ。もう、大丈夫だから」
諦めたようなこと言うなよ。大丈夫なんて、そんな言葉で終わらせようとするなよ。お願いだからいつもみたいに口うるさく噛みついて、俺を諦めないでくれよ。プリンだって何だって、好きなだけやるから。
でも、それじゃ駄目なんだろうな。当たり前だ。信用とプリンは等価じゃない。
「……ボクも今日は部活休むから、千歳にそう言っといて」
果実が立ち上がり教科書とファイルをこちらへと手渡した。混乱する思考に割って入ったのは、少しだけ掠れた声。何を言っていたのかは覚えていない。あるいは聞き取れなかったのかもしれない。当然、返事なんかできない。それでも「また話聞いてなかったのかよ」と口を尖らせる彼はいなかった。
資料を見つめて一人立ち尽くす。もう写真の仏頂面すら満足に見られない今、これは貰っておいて正解だったなんて、くだらない感想を抱く自分に笑ってしまった。
あまりにも唐突で深刻な事態の直後に、部室へ持ち込む物を選んで運んでいく気にはなれない。累は来た道を引き返し手ぶらで部室へと戻った。未だ完璧に場所を覚えている自信のない部室の扉を開けると、視界に入るのは山積みにされたゲームソフトと人をダメにするクッション。
「烏丸おかえり〜、遅かったね〜?」
第二の城とばかりに部室を占拠する千歳がゲームをしながら振り向いた。電子音が鳴る部室は昨日までよりうるさいはずなのに、昨日までより静かに思えて仕方ない。扉を後ろ手に閉め、累はゲームの音を通り抜ける程度の声で呟く。
「……果実も、部活休むって」
「ミカさんも〜? 体調とか悪いのかな〜、明日は来れるといいね〜」
たぶん千歳は、累と二人の間に何かがあると気付いている。気付いていて、あえて知らないフリをしている。だからこそ言わなければと思った。
「……ごめん」
「ん〜? 何が〜?」
「俺がいる限り、あいつらはもう部活に来ないかもしれない」
千歳はゲームを中断し、画面から累に視線を向けた。黄金の瞳が細められる。
「……なんで〜? 喧嘩でもしたの〜?」
「そ、れは……」
言えない。違う、言いたくないんだ。雪名と果実が本当に部室へ来なくなってしまったら、間違いなく俺のせいで。その理由を知ったら、きっとこいつも——
「大丈夫だよ〜」
千歳はおもむろに立ち上がる。小さな歩幅で歩み寄ると、累を見上げてふにゃりと笑う。
「よくわかんないけど、ツナ子は懐深いし、ミカさんもすぐ怒るけど明日にはいつも通りだって〜」
憔悴しきって荒んだ精神でも、その言葉をただのいい加減な慰めだと切り捨てることはできなかった。大方、都合の良い言葉を信じていたいだけ。真実を伝えなきゃなんて思いつつ、真実がもたらす結果を恐れて動けなくなる、中途半端でどうしようもない自分に寄り添ってくれる存在に甘えたいだけ。
もし、それでもいいと言ってくれるのなら、
「ね、それよりルイトン教授やろ〜? ほら早く早く〜」
「……ごめん、本当に」
「何が〜? 次謝ったらもう十個ゲーム持ってこよ〜っと」
どうか、側にいてほしいと願うことを許してくれないか。
◆
雨が降りしきる木曜日。ビニール傘を差し、花柳邸の門の前で一人。雪名と果実から千歳を迎えに行くことはできない旨の連絡が入ったわけではない。明日は来なくて平気だと、累が二人へ個人的に告げたのだ。関係を修復する機会を一つ壊したのと大差ないけれど、二人が来ていたとしてもおそらく自分は何もできなかった。だからこれでいい。そう思うしかない。
スマートフォンを確認すれば、時刻は八時十一分。今日は小テストのある日なので集合時間も余裕を持って設定している。とはいえもう少し待つことになるだろう、と暇潰しにゲームアプリを起動した。しかし門はすぐに開き、程なくして傘と共に現れる千歳。
「おはよ〜、そういう気分だったから早めに準備しちゃった〜」
「……おはよう。まあ気分じゃなくても今日は遅刻したらまずいんだけどな」
「あ〜、そうだったね〜? じゃあわたしちゃんと起きられたの偉いな〜」
千歳の振る舞いは昨日や一昨日と、四人の時と変わらない。そこに何の意図があるのかさっぱり読めなかったものだから、歩き出すや否や思わず問いかけてしまった。
「……聞かないのか? なんで雪名も果実もいないんだとか」
彼女が傘を背中側に少し傾けて、傘越しにではなく直接累の顔を見る。
「ん〜? 聞いてほしかったの〜?」
「いや……そういうわけではない、けど」
「なら、別に聞かなくてもいいでしょ〜?」
無意識に歩幅が狭まっていることを、身体の半分程だけ先導されて気付く。
千歳は深く聞かなかった。昨日も、今も。彼女なりに気を遣っているのだろうか。もしそうなら情けないやら申し訳ないやらで複雑だ。まあ、大して気にしていない可能性も無くはないが。何にせよ累にできるのは、きちんと感謝を示すことだけ。
雨音と後方からボリュームを増して迫るエンジン音に掻き消えてしまわないよう、累は千歳に向き直りながら口を開いた。
「……ありが」
バシャッ。
一瞬だけ停止する思考。しかしその音が何によるものかは、瞬く間に水分を吸って重くなった制服が全てを物語っていた。我に返り車道側を見れば、実行犯は猛スピードで彼方へと消えていく。視線を落とすと濁った水溜まりが素知らぬ顔で足元に佇んでいた。
「……ふ、あは、早速ノルマ達成だ〜。大丈夫〜?」
「大丈夫じゃない……あとお前、俺の不運のことノルマって呼んでるのか……」
表面上こそ心配の言葉をかけた千歳も、明らかに笑いを堪えている。被害が及ばなかったのは喜ばしいと思いつつ、無事だったからって面白がりやがってと思いつつ。だが起きてしまったことは割り切るしかない。累は溜息をつき、肩を震わせる千歳に「行くぞ」と一言。
「ま、まだわたしの家近いし、戻ってジャージに着替えてから行ったら〜?」
「気持ちだけ受け取っておくよ……どうせまた汚れる気がする」
そして累の予感は的中することとなる。学校に到着するまでの間だけでも、鳥の糞が傘を直撃し、濡れた地面で転び、強風で傘の骨が折れるという地味に嫌な不運を体験した。鳥と地面はともかく風に関しては同条件なのだから千歳の傘も折れていたっていいというのに、何故か二人の傘は一緒に通学してきたと思えないくらい状態を異にしているではないか。
「なんでこう次から次へと……予備の制服持ってくればよかった」
「え〜? 超目立ってていい感じだと思うけどな〜?」
「こちとら好きで目立ってるわけじゃないんだよ……」
千歳を含め他の全生徒が当たり前に制服を着ている中、累だけが赤一色のジャージに身を包んでいた。理由は言わずもがなである。
というか
にしても、朝からこれ程ガッツリと運が悪いのも久々だ。そう口にすれば千歳は軽く驚きの声を漏らし、首を傾げた。
「いつもはそうでも無かったってこと〜?」
「……ああ。新学期からは比較的落ち着いてる方だったな」
たまに、暴走したかの如く不運が連続する時がある。今日がその日だったらどうしようという不安が、ふと波になって押し寄せてきた。千歳からしたら、自分の知らないところで周囲の関係が拗れていただけでもうんざりだというのに、更に不運にまで巻き込まれたとなれば、嫌気が差してもう二度と学校に来なくなってもおかしくない。
累は最悪のシナリオを想像してゾッとした。それだけは、何としても絶対に避けなければ。息を飲んで言葉を絞り出す。
「でも、大丈夫……大丈夫にするから」
「え〜? わたしは面白いし平気なのに〜」
「そんなお気楽な……」
気にしすぎも良くないかもしれないが、千歳はもっと警戒した方がいい。不運により怪我をしてしまう可能性だって充分にあるのだ。たとえば今二人が歩いている、体育館横の更衣室から三階の教室まで行くだけの道でも、気を抜くことは許されない。いつ来るかわからない事態に備え、前方、後方、左右、ついでに床を用心深く観察することが重要になる。
「烏丸、挙動不審になってる〜」
「し、仕方ないだろ……普通教室棟、割と遠いんだから」
「わたし近道知ってるよ〜? 教えようか〜? 校内には詳しいんだ〜」
「……今は『急がば回れ』を信じさせてくれ」
そして累の努力の甲斐あってか、二人は教室まで無事に辿り着くことができた。けれども不運はそう簡単に断ち切られることなく。
時間に間に合い小テストを受けている際、消しゴムを持ってきていないことに気が付いた。寮で勉強してそのまま置いてきたのだろう。累は答えを間違って書かないよう、本来なら払う必要の無かった細心の注意を払う。テストが終了したかと思えば今日に限って隣の席の生徒と交換して採点する形式だなんて、つくづく運が悪い。見るからに不機嫌そうな果実は一瞬だけ目が合うと思いきり逸らし、用紙の交換以外は少しもこちらに顔を向けずじまいで。
もちろん、このこともタイミングが悪くなかなかに堪えるものだった。しかしそれが序の口に過ぎないと知るのは後のこと。
教室移動で階段から足を滑らせ、食堂でぶつかられてハンバーグ定食をひっくり返し、歩いていたら呼び止められて重い書類を運ばされ、他にも瑣末な不運が続々。千歳に身体的な被害が無いといえ、そろそろ本格的に申し訳が立たない。累は千歳を連れ、逃げるようにして校舎の外で壁に背中を預けていた。人がいる場所は不運の温床だと改めて実感する。
「……迷惑かけっぱなしで悪い、本当に……」
「も〜、わたしじゃなくて自分の心配しなよ〜。気にしてないし〜」
千歳を早退させるという選択肢を視野に入れるくらいには、直接不運を被っている累の方が消耗しきっていた。一つ何かが起こるたびに、最悪のシナリオに近づいていくようで怖いのだ。顔を覆う両手を引き剥がした笑顔は彼女の言う通り崩れてはいないけど。
自分は間違えまいとしながら、今だってきっと少しずつ間違えている最中なんだろう。雪名と果実を傷つけて、二人との不和から目を背けて、何も知らせないまま千歳を置き去りにして、理不尽な出来事に巻き込んで。仮に千歳が気にしていなくても、こんなんじゃ駄目だとわかってる。けれどそれしかわからなくて苦しい。
虚しさばかりが累を支配する。その大きな隙間に、千歳の声が入り込んだ。
「いいから中戻ろ〜? あとはもうせいぜい滑って転ぶだけでしょ〜」
「……だったら、運が良いくらいだな」
確かに清掃の時間まで長くはない。やりきれない気持ちのまま重い腰を上げて立ち上がった。手で軽くジャージの汚れを払い、一つ息をつく。酷い汚れは取れないがやむを得ない。諦めて千歳の方を向いた累。
「じゃあ戻るか。俺が清掃場所まで……」
送って行くから、と言うつもりでいた。しかし言葉が言葉となって出てくることは無かった。千歳が見つめていたものと、千歳の表情が、累の間違いを嫌という程に突きつけてきたから。
窓越しに見える廊下。視線の先には何かを話す雪名と果実。そしていつもより少しだけ長い間、千歳の顔から笑みが消える。その表情は寂しそうで、涙のない泣き顔のようで、心臓がドクンと跳ねた。
ああ、そうだよな。一緒にいたいに決まってるよな。
どうして気付かなかったんだろう。当たり前みたいな存在がわけもわからないまま突然遠くなって、何も思わないわけがない。気にならないわけがない。なのに今の今まで——いや、本当はずっと気付いてた。千歳が一番不安だったことも、蚊帳の外だと無力感を抱いていたことも。気付いていて目を逸らし続けたのは自分だ。傷つけたのも自分だ。大切な場所を壊しているのは自分だ。全部、全部、自分のせいだ。
彼女が窓の向こうへ行ってしまう気がした。瞬間、考える前に伸ばしていた手。
止める資格なんて無いってわかってる。けど、もう俺は、
「危ない!」
「え」
空から降る男子の叫び声。見上げると黒い影が二人の元へ迫っていた。状況は半分理解できれば充分だ。累は地面を蹴り、伸ばした手で千歳の身体を抱き寄せる。離れてしまわないよう、強く。
刹那の滞空時間。地面へ倒れ込むとほぼ同時に、背後で何かが割れる音。身体を打つ平凡な痛み以上のものがないとわかり振り向くと、辺りには投げ出された花と茶色い陶器の欠片が散らばっていた。迫る影の正体は植木鉢らしい。
累の顔はさっと青ざめる。もし一瞬でも彼の警告が遅かったら、動き出すのが遅かったら、ほぼ確実に二人のうちどちらかの頭に直撃していただろう。無事でいられたのは、複数の要素がたまたま上手く噛み合っただけ。無事でよかったと済ませることはできないし、千歳を危険に晒してしまった事実も変わらないのだ。
何よりこれで決定的にわかってしまった。完成させないまま放置していたパズルの、最後のピースが嵌まってしまった。
俺は、側にいるべきじゃない。
「……烏丸?」
冷や汗が止まらなくなる。寒気で気温も曖昧になる。呼吸が浅くなっていく。苦しい。苦しい。それでも報いにしては、まだ軽いくらいなんだと思う。
最低だ。四人でいられる時間を壊した俺が、最後まで平気で居直ろうだなんて。そんなの、最初から許されるはずもなかった。最初から悩むまでもなかった。雪名の過去で態度を変えた俺が、果実に嘘をつき続けた俺が、千歳を傷つけてしまう俺がいなくなるだけで。それだけで、三人の平穏な日々は戻ってくる。
やっぱりおかしかったんだよ。俺が他人とまともに関係を築けるはずがなかったんだ。ちょっと運の良い日が続いたからって、思い上がりやがって。忘れたのかよ。今までもずっとそうだったろ。
——母さんに言われたから。烏丸くんと遊ぶのはやめなさい、って。
——流石に勘弁だわ〜。俺、不幸とか移されたくないし?
——ああ、烏丸? 近寄らない方がいいよ。だってあいつ……
だからこれで終わりにしよう。せめて三人の記憶が、悪いもので埋め尽くされてしまわないうちに。
周囲の音を耳が拒む。鳥も見知らぬ男子生徒も、千歳までもが無声映画の登場人物に見えて。そのくせ自嘲だけはうるさいくらいに響くものだから、反吐が出そうな思いだった。
◆
「俺は、難解なアドバイスをしたつもりは無いんだが」
「ちゃんと理解してるつもりっすよ」
「……」
周囲をよく見てよく悩め、という丑満の言葉は最後までしっかりと聞いていた。むしろそれらを全て実行したからこそ辿り着いた結論でもある。しかし彼は納得がいっていないらしく、指示棒を掌に打ち付けては深い深い溜息を一つ。
「最近、どうも聞き間違いが多くてな。今も困ってたところだ。なあ烏丸、もう一度聞くぞ」
嘘だ。はっきりと告げた時の表情の動きもこの目で捉えて確信していた。聞こえていないはずがない、と。丑満は逃げ道を用意してくれているのだろう。累に、取り下げたいと言い出すチャンスを与えるために。
だがそれは生憎、簡単に変わる考えではなかった。丑満の声音がいくら圧をかけるものであろうと。
「……何の用事だ?」
睨みつける程に鋭い視線を正面から受け止める。曲がりなりにも、自分は反面教師部の部長だ。信じてくれた部員に、価値ある時間をくれた三人に、恥ずかしい選択はもうしたくない。
息を吸って決意を吐いた。丑満の優しい嘘すら、引き剥がしてやるつもりで。
「退部届を出しに来ました」
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