2 承/招
ハヤシライスの味がしない。と言うより生きた心地がしない。累は死んだ魚の目をしながら無心で学食を頬張っていた。向かいには内海。ぱっと見可愛らしい少女に見えるが、その人となりに触れた今となってはもはやこの状況が圧迫面接にしか思えない。内海は面接官よろしく腕を組み、小さな体で尊大な態度をとっていた。
「あのさあ、なんでボクのこと誘うわけ? 断ったよね? 諦めろよ」
「俺だって許されるならそうしたいけど状況が状況なんだよ……」
なおこの場合の「状況」に、食べたかったハンバーグ定食が自分の前で売り切れたというつい数分前に起こった悲劇はカウントしないものとする。しかし内海でさえも見かねる程の表情をしていたのか、彼は困惑しながら「体育見学したからお腹減ってないし」という言い訳を添えて、自分のチキンカツを一切れ差し出してくれた。ありがたく口に運べば、今の荒んだ心にチキンカツが沁みていく。
「……美味い……」
「よ、よかったな……」
先程までとは打って変わって大袈裟に感情を動かす情緒不安定な累を哀れに思ったのか、内海は自分の定食に箸をつけ始めると共にホームルーム前の話題に戻る。
「……別にボクだって退学したいわけじゃないけどさあ」
「ああ、入る気になってくれたのか?」
「いや話聞けよ。そうじゃなくて、ボクが言いたいのはやり方の話」
学食をあまり食べないという内海はチキンカツを一口齧って、心なしか嬉しそうな顔をした。どこか微笑ましいなと思って見ていると、累の視線に気付いた内海が慌てて顔つきを引き締める。そして苦し紛れの咳払いを一つ。
「部活とか作らなくても、ボクやおまえがそれぞれ個人で普通にいいことしたらいいんじゃないの?」
「言ったよ、けど先生には『ちっと注意したくらいで変わるんなら最初からやってんだろ』って言われた。実際俺もそう思うし」
「そうは限らないと思います」
「うーん、でも……ん?」
割って入ったのが古賀の声と気付いて、累は一気に青ざめる。対する内海は半ば威嚇するような声色を放った。惨事が起こりそうな予感がしたが、やめとけそいつは爆弾だ、と警告してやれる間すらも当然無い。
「きゅ、急に何だよおまえ?」
「人に名前を聞くならまず自分が名乗ると教わらなかったんですか? 可哀想ですね……」
「は?」
内海のスイッチが入る音がした、ような気がする。完全に臨戦態勢に入った内海はトレーを持ったままの古賀に詰め寄った。どうやら彼は感情が昂ると至近距離で喚く習性があるらしい。
「先に邪魔してきて謝りもしない奴に可哀想とか言われたくないんだけど⁉︎」
「声が大きいです、オムライスをこぼしてしまったらどうするんですか」
「おまえのオムライスに興味ないから!」
「はあ……そんなに私の名前が知りたいなら、教えてあげても構いませんが……古賀雪名と申します。ああ、私ってばこんなに無礼な方にすら優しいなんて……我ながら本当に寛大な心の持ち主ですね」
「名前とか聞いてないし! っていうか誰が寛大だよ⁉︎」
どうやら想像以上に相性の悪い二人らしい。放っておいたら終わらないパターンだと悟ってからは早かった。口の中のハヤシライスを飲み込んで、累は努めて冷静に呟く。
「……古賀も内海も落ち着けって、飯冷めるぞ」
「ボクは落ち着いてるっての!」
「え? もしかして『落ち着く』という単語の意味をご存じないのですか?」
「おまえなあ!」
これは累が制止してもどうしようもないのでは、と悲観が脳をよぎったが、古賀は内海をさらりと躱して流れるように彼の隣へ腰かけた。内海が「なっ……」と中途半端な声を漏らしたのは「なんでここに座るんだよ」の成り損ないという説に一万円を賭けてもいい。昼の食堂は混み合っていて空いている席もほとんど無いから、やむを得ず言い留まったのだろう。
しかし困った。古賀に対するムーブの正解が内海同様に累もわかっていないのだ。とりあえず朝は逃げ帰ってしまったので、ちょうど姿を現してくれた彼女にあの話題を切り出しておこう。
「えっと、古賀にはまだ最後まで話してなかったけど……内海もいるし、朝の話の続きをしてもいいか?」
「もちろんです。確か部活のことでしたよね?」
「……は? ちょ、ちょっと待てよ!」
すると目をぱちくりさせていた内海が弾かれたように椅子から立ち上がる。勢いよく古賀を指す顔は般若にも負けず劣らず凄まじい。
「もしかしておまえが誘ってる奴ってこいつのこと⁉︎」
「ああ、残念ながら」
「いやそんなん尚更無理だから! 誰がこいつと一緒の部活なんかに入るか!」
「内海さん、でしたっけ……食事中に立つのはお行儀が悪いですよ」
「なんで急に正論ぶつけてくるわけ⁉︎ ムカつくんだけど!」
言いつつ内海はすとんと腰を下ろし、正論の生産元を睨み付けながらチキンカツを頬張った。それを合図と捉えたのか、古賀が累へと話の続きを促した。やっとターンが回ってきたような感覚だ。累は一つ頷いて、内海へ行った説明をほぼ同じように繰り返す。
「と、こんな感じの部活なんだけど」
「なるほど、大体わかりました」
すんなり理解はしてくれたようだが、端から期待などしていなかった。なぜならおそらくこの次に「ですが」という言葉が来るに違いないからだ。三人の中では古賀が一番、反面教師部などという意味不明な部活を毛嫌いしそうなタイプに見える。「ですが」の後は「低俗な落ちこぼれ集団に加わるなら死んだ方がマシですね」というところだろうか。累はほんの少しの間に、脳内で対古賀特訓を行う。
しかし返ってきたのは、予想と一番かけ離れた回答だった。
「私、入部しても構いませんよ」
「だよな……って、え?」
賑わう食堂の中で、累と古賀と内海のいる空間だけが静寂に包まれる。一体どうして、という疑問をおそらく内海も感じているはずだ。それを証明するかのように内海は慌ててチキンカツを飲み込み、累が口を開く前に古賀へ詰め寄った。
「え、な、なんでだよ⁉︎ 話聞いてたか⁉︎ どう考えてもおまえが嫌そうな感じだったろ、ボクてっきりおまえは『落ちこぼれと関わるつもりはないんです~』とか言うかと……!」
こちらの心情を代弁するかの如き驚愕の嵐につい頷く。そんな内海と累の反応を見て、古賀は意外そうな顔をしていた。それはまるで当然のことをしたまでだとでも言うように。
「烏丸さんは部員が集まらず困っている。それはつまり、私に助けを乞うているということで合っていますか?」
「あー……まあ、間違ってはいないな」
「そうでしょう? 助けを求められたなら、愚かな人間にも平等に手を差し伸べる。それが私の背負う高貴なる者の義務……所謂ノブレス・オブリージュですから。何も不思議なことじゃありません」
その微笑みを見る限り大真面目に言っているのだろう。大分歪んでいる理論に思えるし、こちらとしては色々物申したいところがある。それに部員が確保できたからといって喜ばしい状況ではない。説明するまでもないだろうが、古賀が入部するということは内海が入部したがらないこととニアリーイコールだと言える。現に内海は飽き足らずぎゃあぎゃあと古賀へ噛みついていた。
「おまえ勝手に人のこと愚かとか決めつけてんなよ。少なくともボクはおまえより出来た人間だって自信があるね!」
「そうですか、早く内海さんが現実を見られるようお祈りしておきます」
「オイ烏丸こいつ殴っていい⁉︎」
「駄目だな、法律ってやつがあるから。あと普通に優等点下がる」
「ちっ、あ~マジで腹立つ……なんでボクが我慢しなきゃなんないんだよ」
成績優秀にもかかわらず古賀の優等点が著しく低いのはこういうことだったのか、と一人納得する。無害そうな出で立ちから放たれる、目に余るほどの不遜な言動。内海はまだ突っかかりつつも会話出来ているが、普通の人間であれば彼女を避けたり嫌ったりするのも無理のない話だ。累も例に漏れず、可能であれば関わりたくはないと思っているのだし。
そんな内心を露程も知らない——正確に言えば知ろうとしていないであろう古賀は、逸れかけていた本題を淡々と拾い上げた。
「ですが、烏丸さん。部員集めには難航しているのでしょうし、やはり個人で優等点を稼ぐ手段を考えてみてもいいかと思います」
「ああ、そういえばさっき内海と話してた時にそれは無理じゃないかって流れになったけど……古賀は手立てがあるのか?」
古賀は首を縦に振ってオムライスを口へ運び、数回の咀嚼と嚥下を経て続ける。
「私と違ってあなたたちは、善行を積もうという考えなど持っていませんでしたよね。しかし逆境に立たされれば、少なからずどんな人間でも己を省みることが出来ます」
少し視線を横にずらせば、どこからどう見ても完全にじれったさのピークを迎えそうな内海がいた。先の気になる話なのに悠長に話すのが気に食わない、とかそんなところだと思う。内海も内海で理不尽極まりない。
「……おまえいちいち話が長いんだよ、で? 結論は?」
しかし古賀は、微塵も動じることなく最後の一口を頬張る。おまけに手を合わせ律義に「ご馳走様でした」と呟いて。そのマイペースぶりに内海が痺れを切らすほんの寸前で、にっこりと笑いながら彼女は言った。
「『早速行きましょう。善は急げ、ですから』って」
「わ〜、変なモノマネ〜。それでそれで~? 点は稼げたっぽい~?」
「……まあお察しって感じだな」
「あはは~、大変そ~」
憔悴が見え隠れする一言で結果を理解したらしい千歳がけらけらと笑う。こちらとしては笑い事ではないが、もういっそ笑い飛ばしでもしないとやってられないという気持ちもあるから複雑だ。
何故か昨日より更に散らかっているように思える部屋で、二人は協力ゲームに興じていた。昨日の今日で訪問するつもりは毛頭無かったのだけれど、きっとどん詰まりの現状を誰かに洗いざらい話すことで僅かでも楽になりたかったのだと思う。今の累は孤軍奮闘、四面楚歌、あるいは絶体絶命なのだから。
「歩いてりゃなんかあるだろって古賀が言うからとりあえず手当たり次第に校内回っても、ゴミ一つ無えし誰一人として喧嘩も校則違反もしてねえし」
「お~、見事にいい子ばっかだ~」
「本来いいことなんだけど困るんだよな……」
結局三人は行動という行動も出来ないまま、昼休みを無為に終えてしまった。顛末を丑満に報告したところ「頑張れ」とだけ言われたのは未だ腑に落ちない。
「古賀は反面教師部に入ってくれるって言ってたけど、そうなると内海は入ってくれないだろうし……他に入ってくれそうな奴なんかいるわけないし」
愚痴を零しながらも累はローラーでひたすらインクを塗っていき、敵陣へ突っ込まんとする千歳の操作キャラクターをアシストした。累がエリアを広げれば千歳が手際よく敵を倒してポイントを稼ぎ、チームを勝利に導いてくれる。そんな作業をてきぱきとこなしながら、タイムアップ寸前、千歳が呟いた。
「なんかさ〜、烏丸楽しそうだね〜?」
「え? まあ……人とゲームするとか久しぶりだからな」
「違うよ〜、二人のこと楽しそうに話すね〜って」
「……何をどう解釈したらそうなるんだよ」
終了を告げる音。すかさず抗議を入れようと右を見ると、画面を見つめていた千歳もこちらへ向き直る。常に薄ら笑いを浮かべているのでわかりにくいが、その顔はどこか機嫌が良さそうなものに思えた。
「え~、自覚してない感じ~?」
「冗談キツいぞ……」
「ほんとだってば~。そうだ、次アサルやっていい~?」
「あー、今のなんだかんだ結構長くやってたしな。いいんじゃないか?」
やった~、と心なしかいつもより語末を伸ばして対戦形式の選択を行う千歳。難易度は決して低くないゲームだが、プレイヤースキルの高い千歳が活躍してくれるはずだから次も問題ないだろう。そう考えて千歳の操作をぼんやり見ていると、ふと彼女の手が止まる。続行を前提とするくらい早く多く遊びたいと思っているはずなのにどうして、と訝しんで再び彼女の方を向けば、問いかけた矢先に放たれた。
「ね~、明日その二人連れてきてよ~」
「……え? いやいや、無理だろ⁉︎」
「なんで~?」
「なんでも何も……」
人をダメにするクッションに埋もれつつこちらを見る千歳の視線には、どこか期待が含まれている。累だって出来ることなら応えてやりたい。だが、しかし。
「話聞いてたよな……? 古賀と内海は相当仲悪いんだぞ?」
「聞いたよ~? でも烏丸とは仲悪くないっぽいし、わたしとも仲悪くないでしょ~?」
「そ、れはそうだけど……」
狼狽えすぎて謎理論を沈着冷静に正す余裕もない。一体千歳は今の話の何を聞いて興味を抱いたのだろうか。おまけに、あろうことか奴らと会いたがるなんて。予想だにしていなかった展開が唐突に眼前へと提示された。
「ね、絶対面白いから~! お願い烏丸~」
思わず頭を抱える。脳内に流れたのは雷雨のち暴風、という不穏極まる天気予報。累は千歳の家を離れてから寮に到着するまで、どう考えても一筋縄じゃいかない悪夢のような提案にうなされていた。
◆
そして案の定、千歳がした提案という名の我儘は内海によって一瞬で突っ撥ねられる。古賀が二つ返事で了承したことを鑑みれば、それは至極当然のことだった。
「なあ、それボクがいいよって言うと思った?」
「思えるほどお気楽だったらよかったんだけどな……」
彼の今日の服装はリボンにスカートと、組み合わせ的には校則違反ではないが身に付ける人間的には校則違反であることに変わりない。何故昨日はほとんど気にならなかったことに着目しているのかというと、そうするしか逃げ場が無かったからである。だからといって服装に言及しようとも思わないので、一時的な苦し紛れの逃避に過ぎないが。
累の混濁した思考回路が収集のつかない事態になるすんでのところで、内海は組んでいた腕をするりとほどく。
「まあ、今はそれよりもっと物申したいことがあるかな」
「ああ……大体察しはついてるから、いつでも言ってくれ」
そして左の人差し指を突き刺さんばかりの勢いで、累と内海の席の近くに向けた。
「なんっでこいつがナチュラルにここにいるわけ⁉︎」
「内海さん、鳥頭なんですか? 私が反面教師部に入ると烏丸さんに言った時、あなたも同席していましたよね?」
「違う! そういう話じゃないってことくらいわかれよ!」
二年に進級して三回目のホームルーム前。既に丑満への報告、古賀と内海との会話に順応し始めている自分がいた。他の生徒がどんな学園生活を送っているか詳しく知る由は無いが、現時点ではおそらく学年、いや全校生徒の中でもトップクラスに濃度の高いスタートを切っているだろう。一つ注意しておかねばならないのが、これではまるで充実しているかのような表現だけれど、累の身に降りかかっている出来事は基本的にロクなものではないということだ。
二人の言い合いに口を挟める隙間を探していると、古賀が内海からこちらへと視線を移した。
「ところで、烏丸さん。先程は内海さんが登校してきたので遮られてしまいましたが……」
「ボクのせいみたいに言わないでくれる⁉︎」
「そんなつもりじゃありませんよ。被害妄想も大概にしてください」
「こいつ! こいつ!」
内海は言い返せないのが悔しいのか、唇を嚙みながらジタバタと手足を無駄に動かすことで怒りを散らす。また始まったよ、とやや呆れる累を見て、すかさず古賀が内海を放置したまま「入部するにあたってのことなんですが」と前置きして話を進めた。偉そうなだけあってそれなりの洞察力は備わっているらしい。
「早速、申請書に私の名前を記入させていただけますか? 体裁だけでも整えておいた方がいいかと思いまして」
多少の抵抗を感じつつも頷こうとした矢先、一昨日のことを思い出す。申請書がゴミの山に埋もれていないことを祈りながら、累は落ち着きなく首元に手を添えた。
「あー、悪い。今ちょっと千歳の家にあって……」
「そうなんですね。なら折角ですし、訪問した際に記入しましょう」
「わかった」
そんなやり取りが一段落したと思えば、普段よりどこか低めのトーンで内海が問うた。
「……なあ。そいつ、入ってくれる見込みあんの?」
痛い所を突かれ、一瞬言葉に詰まる。あの様子では確かに千歳は学校に来てくれないだろうし、部活に入るなんて尚更だ。その上内海の入部も望めないとなれば部活の設立可能人数に到達できず、本格的にお先真っ暗だろう。
「……今のところ薄いけど、そうだな」
たぶんタイムリミットはあまり残されていない。このままでは最悪の場合、四人全員退学になってしまう。最悪の場合とは言っても充分に有り得る話で、それを少し惜しいと思ってしまっている自分がいて。
だから、どうせ同じ結末を辿るとしても、やれることをやりきってからだ。
「もしかすると内海が入ってくれるなら、可能性は上がるかもしれない」
それは調子の良い言葉に聞こえるかもしれないが、半分以上は本心だった。何回も断られたし、諦めた方が賢明かとも考えた。けれどそうするには、まだ早すぎるような気がしている。きっと累一人の力じゃ現状を変えるには及ばない。ならば身近な人間の手を借りるのが、最善の手ではないだろうか。
束の間きょとんとする内海。累の言葉の意味を咀嚼すると、ふいと顔を逸らして再び腕を組み始める。
「は、はあ? 何適当なこと言ってんだよ。そんなんでボクを無理矢理そいつの家に連れて行こうとか思ってないよな?」
「あなたをそこまでして連れて行く理由は無さそうなので、適当じゃないと思いますよ」
「うっさい! おまえに聞いてないから!」
内海の態度が照れ隠しだとわかる程度には、彼の振る舞いにも慣れてきたのかもしれない。少なくとも先の言葉を悪くは思っていないように見えた。手応えらしきものはあったけれど、念のため返答を促す視線を内海へと向ける。それを感じ取った彼は焦りつつもごもごと口を動かした。
「……行ってもいいけどボク、そいつが古賀みたいな奴だったら帰るぞ」
「本当か? ありがとう。あと古賀みたいな奴がそんなにいたら日本も終わりだろ、色々。だから安心してくれ」
「そうですよ、私のような崇高な人間が他にいると思いますか?」
「おまえ自己肯定感ヤバ……」
そんなくだらない会話をするうちに、チャイムが高らかに響いた。例の如く丑満と築田が教室に入ってくる。丑満は累と目が合うと含みのある笑みを浮かべた。彼の考えていることが手に取るようにわかってしまう。あれは間違いなく「うまくやってんじゃねーか」みたいな感じの笑みだ。そうでもないっすけどね、と抗議したい気持ちを抑え、累は出かかった溜息を飲み込んだ。
そして時間は長くも早く流れていき、迎えた放課後。教室もすぐに賑わい出した。一言二言交わした後、教科書を鞄に仕舞う累を眺めながら、置き勉派だという内海があくび混じりに問いかける。
「えーと、これから行く……なんだっけ? 花柳? ってやつ、ほんとに学校来ないのな」
ふと振り返り、千歳の席に視線を飛ばした。そこは相変わらずの空席で、未だ埋まる気配を見せない。
「そうみたいだな。といっても、俺も二年に上がるまでは知らなかったんだけど」
何気ない一言。しかし内海にとっては驚くべき発言だったらしく、彼は元々大きい目を更に大きくする。
「え、おまえ元々知り合いなんじゃないの?」
「いや、三日前に初めて会ったばっかりだ」
「マジ? それにしては親しげじゃん、普通二日連続で家行く?」
今朝丑満を訪ねた時もほとんど同じことを言われた。累はつい苦い顔をする。丑満はともかく内海にそんな意図は無いのだろうが、やたら自分が千歳を気に入っているかのような物言いがむず痒かったからだ。さてどう言おうか、と寸刻迷った。けれど元の目的を考えれば、わざわざ大袈裟に繕う必要も無いということに辛うじて気が付く。半端に生まれた間の後に、事実と少量の誤魔化しで返した。
「のっぴきならない事情があるんだから仕方ないだろ……」
「まーね」
問答の末の返答を内海はさらりと受け入れる。その他愛なさは邪推するだけ無駄だっただろうか、と思わせる程だった。
ところがどっこい、累と千歳とのことについて深く聞かない代わりに、彼は千歳自身のことへと話題を移す。
「で? 花柳ってどんな奴なの」
認めた奴としか関わらないと豪語していた通り、彼にとっては面識のない千歳の存在が、古賀と同等かそれ以上にネックなのだろう。まあ千歳も千歳で問題児だが、流石に古賀みたいに関わっていても神経が衰弱することはないので、どうか安心してほしいものだ。
「どんな、か……だらしなくて人任せで怠惰で、ゲームが好きだな。あと、結構話しやすい奴だと思う」
「……ふーん」
累が率直に述べると、内海は軽そうな鞄を肩にかけながら立ち上がる。背の低い彼の声が上から聞こえてくるのは新鮮な気がした。そんな呑気な思考を咎めるかの如く、内海は言葉に棘を孕ませ強く圧力をかける。
「もう一度言っとく。そいつが認められるような奴じゃなかったら、ボクは絶対に部活に入ってやらないからな」
「……ああ、わかってる。でも」
もし二人が仲良くやれるなら、それはきっと大きな前進に繋がるだろうと確信していた。同時に、千歳なら、とも。
「大丈夫だよ、きっと」
累の表情を見て何を思ったのかは読めないが、彼はそれ以上の抗議はせずに小さく頷いた。時を同じくして、下校の準備を終えた古賀が累と内海の元へやってくる。
「お待たせしました、お二人とも。このまま花柳さんのお宅へ向かうということでよろしいでしょうか?」
「あ、そのことなんだけど。俺ちょっと丑満先生に用があるから、一回職員室に寄ってもいいか? その間……」
次の言葉を予測したのか、内海が表情だけで露骨に不快感を示す。しかし嫌がられたからといってやることは変わらないので、少しぐらいは耐えてもらいたいものだ。累は無言の叫びを無視してやや強引に続ける。
「……その間、古賀と内海は廊下で待っててほしい」
「了解しました」
「な、なるべく早く話終わらせろよ⁉︎ 絶対だからな!」
「出来たらな」
教室から職員室への道のりは、一昨日や昨日よりも少しだけ短く感じた。
一歩離れればすぐ口論を始める古賀と内海をちらと見やり、二回のノックと共に「失礼します」と誰に言うでもなく飛ばす。二年の教員のデスクが集う場所には相変わらず丑満がいた。どうやら今日は築田もいるようだ。丑満は累の方を振り向くとひらりと手を挙げ、築田はよどみない会釈を一つ。累は会釈とお辞儀の中間とも言える角度で頭を下げた。丑満の手招きに従い彼の元へ向かう。
そして築田と反対側に位置取り、立ったまま状況報告を始める。これまでは運良く築田がいないタイミングでここへ来ていたため座ることが出来たが、今日はそういうわけにいかない。数分としないうちに既に椅子を恋しく思いつつ、辛抱して報告を進めた。
「って感じっす。だから、今から三人で千歳の家に行こうかと……それとこれ、たぶんもう必要ないんで。助かりました」
「おー、わかった。役に立ったならよかったよ」
勧誘用に丑満から渡されていた、古賀と内海に関する資料を返却する。受け取った丑満は軽く頷くとそれらを引き出しに仕舞った。
「にしてもいい感じだな。俺の想定よりずっと上出来だ」
「あざっす」
「てことで、もう報告には来なくていいぞ」
「はい……え?」
彼の言葉が示すところの可能性を脳内で挙げ連ね、悪寒が走る。初めに退学だと告げられた時も絶望したが、あの時は唐突すぎて頭が追い付いていなかった。今は状況を整理できている分、余計にリアルな危機として累の前に迫ってくる。気付けば累は築田の存在も忘れて丑満に詰め寄っていた。
「それってた、退学じゃないっすよね⁉︎ 先生、まだ猶予あるって」
「ったく、お前はいつになったら話を最後まで聞くんだ? しばらくの話だよ、しばらく」
何やら作業をしていた築田が不穏な単語に反応し、驚いたようにこちらを向いた。咄嗟に「すみません」と小声で謝罪を入れる累を見て、丑満が目尻を下げる。
「わざわざ毎日来るの普通にめんどいだろ? おまえもちゃんとあいつらとの付き合いが出来つつあるんだし、次に個人的に顔を見せる時は部活の設立報告で」
「あ、そういう……わかりました」
「いやぁ楽しみだなー、俺はのんびりお前らが顔揃えて現れるのを待つとするか」
とてつもなく楽天的な声色で彼は緑茶を啜る。すると大体の話を聞いていたらしい築田が一つ溜息をつき、丑満に釘を刺した。
「もう、丑満先生……あまり烏丸くんに無茶振りしないであげてください」
「まあまあ、大目に見てくださいよ。俺はこいつに期待してるんで」
くるりと築田に向き直ったかと思えば、親指をこちらへ向ける。そんな言葉と共に再び累を振り返ってほくそ笑むものだから、反抗し辛いことこの上ない。諦めて息をつき、彼らに宣言し、そして自分を戒める意味を込めて口にした。
「頑張ります……」
「おう、それでよし。頼んだぞ」
「……丑満先生に困った時は、私に相談してくださいね」
◆
千歳の家が学校から徒歩圏内で助かった。公共交通機関を使う必要があったとしたら、古賀と内海の口論を公衆の面前で垂れ流してしまうところだったかもしれない。今後もしそういう機会があれば全力で他人のフリをしようと固く誓う。
そんなことを考えつつ二人の声を右から左へ聞き流して歩くうちに、やがて巨大な豪邸が目に入った。到着もそう遠くないだろうと声を掛ける。
「もうそろそろだな」
「え、まさかあれが花柳の家とか言わないよな……?」
内海は指を指してわなわなと小刻みに震えていた。古賀はあまり動じていないようだったが、やはりこういう反応をするのが普通なのだろう。つい先日、累も度肝を抜かれ胃を痛めたものだ。日も経っていない記憶を懐かしく思いながら受け答える。
「そのまさかだ」
「うっわ、えげつない金持ちじゃんか……」
「ええ。とても立派なお宅ですね」
「あ、古賀も流石にそう思うのか」
内海の意見に賛同する古賀という構図は珍しい。それ故に自然と素朴な感想が湧いた。
「もちろんです。私は良いものは良いと素直に認められる審美眼の持ち主ですから」
「……ふん、いちいち自分を持ち上げる物言いしか出来ないのかよ」
「煽るなって。ほら、着いたぞ」
横並びで歩いていたところから累は数歩先導する。三回目のインターホンとなれば、もう緊張は僅かしか残っていなかった。ボタンの確かな感触、数秒して『どちら様でしょうか?』と尋ねる声。雰囲気からしておそらく昨日とも一昨日とも違う使用人のようだ。累はマイク部分に向かって初日よりも慣れた挨拶をする。
「俺、烏丸っていいます。千歳さんに会いに……」
『あら!』
言い終わらないうちに使用人は声のトーンを上げる。その理由は考えるよりも先に、彼女の言葉から間接的に示された。
『烏丸様でしたか! 本日は友人の方もご一緒なんですね。お待ちください、只今門を解錠させていただきます』
「え? あ、はい……」
音声が途切れ静寂が訪れる。背後から内海の笑いを含んだ声がした。
「おまえ、もう覚えられてんじゃん」
「みたいだな……まだ三回目なんだけど」
累の名前だけを聞いていたため、カメラに映った時点ではなく名乗ってようやく合点がいったのだろう。それにしても話したことのない使用人にすら存在を周知されているというのは、少しばかり気恥ずかしい。あいつまた来てるよ、とか思われていないだろうか。思われていたところで来るのをやめられる状況ではないのだけれど。
門が開き、三人は玄関へと進む。二人も過去の累と同じように辺りを見回し、感嘆の息をついていた。今日も今日とてご丁寧に先んじて扉が開かれたことに対しても(主に内海が)驚きを見せる。それを誰かと共有せずにはいられなかったのか、彼はこそこそと小声で耳打ちをしてきた。
「花柳って何者なんだよ……? マジのお嬢様とか聞いてないぞ」
「まあマジのお嬢様、ではあるんだけどな……」
次いで奥から出てきたのは、もはや千歳と同じく見慣れてきた朝比奈の姿だ。
「お三方、どうぞこちらへ。案内いたします」
「ありがとうございます」
平然と応答する古賀。確かに千歳がお嬢様であることは事実なのだが、千歳を知っている身からすれば、立ち居振る舞いは明らかに古賀の方がお嬢様然としていた。正直にそれを言ったらきっと内海は眉間に皺を寄せるに違いない。
朝比奈に負けず劣らず堂々とした古賀と、終始そわそわしながら歩く内海の差を観察しながら、千歳の部屋へ続く廊下を進んでいった。累が歩む速度を落とすと同時に朝比奈は振り返る。
「こちらがお嬢様の部屋でございます。どうぞごゆっくりお過ごしください」
「そうだ、朝比奈さん。今日はゴミ袋あいつに渡さなくていいんすか」
二回目に訪れた時も、朝比奈は累を案内するついでにゴミ袋を千歳に投げていた。二度あることは三度ある、ではないけれど、てっきりいつもの習慣かと思っていたものだからつい疑問が口を突く。
素朴な問いを受けた朝比奈は、どこか困ったように微笑んだ。
「実はご友人の手前、遠慮していたのですが……折角ですし烏丸様にお渡ししますね」
「ああ、なるほど。了解っす」
累の時はイレギュラーと言おうか、彼女からすると日頃から溜まっていたものを出さずにいられなかったという塩梅だったのは、傍から見ていてもわかった。同じ轍を踏みたくない気持ちも充分に理解できる。部屋の中を見れば、おそらく朝比奈は古賀と内海の前だとしても物申したくなってしまうはずだ。それを避け、なおかつ部屋を片付けるなら、累が受け取っておくのが最善の策だろう。ありがとうございます、と頭を下げ、彼女は綺麗に口角を上げた。
「お嬢様によろしくお伝えください」
「はい」
その姿と足音が消えるまで、三人は朝比奈の背中を見送る。そして角を曲がって完全に視認が不可能になると思うが早いか、内海は心底不可解だと言わんばかりの表情で呟いた。
「ゴミ袋……? 何に使うんだよ?」
「あー、これはまあ……すぐにわかると思うぞ」
真実を正直に述べてもいいのだが、万が一内海に帰られでもしたら困るのは累の方だ。苦し紛れに袋を後ろ手に隠すと、今度は古賀が問いという名の催促をこちらへ向ける。
「烏丸さん、入らないのですか?」
「え、俺?」
「はい。これまでの情報から、あなたと花柳さんは随分気心知れた仲だと見受けられたので。間違っていましたか?」
つまり扉をノックするのは累が適任だと言いたいのだろう。しかしまさか古賀にまでそんなことを言われるとは思っていなかったため、若干慄いてしまった。ついでに必要のない言い訳が半ば自動的に口から流れ出る。
「いや、お前らに比べたら相対的には仲良いかもしれないけど……俺だって別に大して千歳とは関わってないんだからな?」
「そういうのいいって。ほら烏丸、ボクが来てやってるんだからグズグズしてんなよ」
これまでと異なる状況だからか少し踏ん切りがつかずにいたけれど、確かにただ拳を三回叩きつけるだけのことを躊躇する理由はない。それにノックしてもどうせ千歳は気が付かないはずだ。だったら一思いにやった方がいい、と累は千歳への呼びかけと共に三回乾いた音を鳴らした。
だが案の定、中から返事はない。古賀と内海はそれを不思議に思ったらしく互いに顔を見合わせていた。間を置かず、古賀が訝し気な声色で言う。
「もしかしていらっしゃらないのでしょうか?」
「いや……いるよ、たぶん」
初めて来た際に朝比奈と交わしたやり取りが想起された。少なくとも一回千歳の部屋に訪れたことがあれば、留守でないにも関わらず声が返らないことにも納得がいく。古賀と内海も、それを知るようになるのだろうか。今はまだ、わからないけれど。
いつかそうなってくれたらと、心のどこかで期待している自分がいた。
「千歳、入るぞ」
そうして重い扉を開ければ、例の如く大きなゲーム音が三人の元へダイレクトに響いてくる。「え⁉︎」と驚く内海の声も掻き消されそうな程だ。今日も累の忠告を素直に守り、適度に照明が付けられた部屋。色々なものが積み上がった山のうちの一つから、コントローラーを握った千歳が顔を覗かせる。
「烏丸やっほ~……あ~! ちゃんと連れて来てくれたんだ~?」
「まあ、一応約束したからな」
ゴミ袋を放ると累は振り向き、部屋へ入るよう促す視線を向けた。古賀はすぐに足を踏み入れたが、内海は信じられないものを見たという顔で、明らかにかなりの動揺を示していることが読み取れる。彼にとってはさぞ衝撃のファーストコンタクトだったに違いない。しかし「お前に会いたがっている奴がいる」と言われ訪問した先にこの惨状を目にしたら、誰だってそんな表情にもなる。おそらく顔色一つ変えない古賀が異常なだけだ。
やがて内海は渋りながらも、諦めたようにゆっくりと部屋に踏み入った。僅か二秒程の間に、彼の頭の中では様々な思案が駆け巡っていたのだろう。心中お察しする。
扉が完全に閉ざされた。更に内部へと進んで、累は様子を窺うように後ろを振り返る。
「じゃあ二人とも。千歳に一通り話してはいるけど……改めて自己紹介頼めるか?」
すぐさま古賀が千歳に一礼し、持ち前の適応力でそつなく累の要求をこなした。その様を見て自分だけ断るわけにもいかないと思ったのか、内海も歯切れ悪く名前だけをぼそりと呟く。
「はじめまして、花柳さん。私は古賀雪名と申します。以後お見知りおきを」
「……ボクは内海果実」
「ふむふむ」
頷きながら聞いていた千歳は暫しの思案を挟み出した。四人の空間は、直ちに騒がしい電子音だけに包まれる。不思議に感じた累が「どうかしたのか」と問うより少しだけ先に、元々緩い表情を一層緩めて満足そうな笑みを浮かべる千歳。おおかた大したことは考えていないのだろうと思っていたが、その口から放たれたのは想定の斜め上の発言だった。
「じゃ、ツナ子とミカさんだね~」
朝比奈がヒナヒナと呼ばれていることを知らなければ、それが彼女によるあだ名の命名であると一瞬で理解するのは難しいだろう。自己紹介の受け答えとしてとにかく不可解極まるのは間違いない。現に内海は固まり、古賀は首を傾げていた。
「……は? な、何? ツナ……?」
「親愛の意を込めたあだ名だよ~」
だが古賀は早速千歳の意図を理解したらしく、一人すっきりとした表情になる。
「花柳さん、もしかしてそれは『せつな』の『つな』と『うつみかさね』の『みか』の部分から取ったのですか?」
「ツナ子かしこ〜い、合ってる合ってる〜。どんどんぱふぱふ〜」
古賀が行き過ぎた自信家なのは間違いない。しかし千歳のように色々なことを気にしない大雑把な性格の人間とは大した不和なくやっていけるのかもしれない、と僅かな安堵を覚える。
さて内海はどうかと見れば、視界に入るのは何か言いたげな顔つき。千歳は内海が現在進行形で悩まされているであろう葛藤を見透かしてか、はたまた適当にか、苦々しい顔にダメ押しを入れた。
「ね、そう呼んでいいよね~? お願いミカさん~」
根っからの邪悪でもない彼にとって、悪意の無い真正面からの懇願を一蹴するのは流石に躊躇われたらしい。内海は文句の一つや二つぶつけたそうにしていたが、ほどなくしてしかめっ面を元に戻し、腕を組みながらぶっきらぼうに吐いた。
「……ま、まあ? おまえがどうしてもって言うなら、別にいいけど?」
「お~、ミカさんもなかなかに話がわかるね~? ありがと~」
軽いやり取りを経て千歳は二人を、二人は千歳を互いに悪くは思っていないようだった。それは威圧感を与えない千歳の振る舞いによるものか、この部屋を見て逃げ出さない二人の器量によるものか。いずれにせよ、二人と千歳とのコミュニケーションは思っていたよりずっと円滑に行われそうだ。となれば、気になるのはまた別のことだった。
「……いや、俺は?」
古賀と内海には会って数秒であだ名が付けられた。しかし千歳は三日連続で顔を合わせているにも関わらず、何故か累を初めから何の捻りもなく苗字でそのまま呼び続けている。暗に、累にだけは親愛の意を抱いていない、と言っているのだろうか。あまり考えたくはない可能性だが。
当然の疑問に、千歳が「ん~」と唸って考える素振りを見せる。体をゆらゆらと左右に傾け二往復したところで、彼女は動きを止めてへらりと言い放った。
「烏丸は烏丸かな〜」
「ええ……?」
回答を得てもいまいち釈然としないが、千歳が自分にだけあだ名を与えないという些細なことに相応の意味があるとは思えない。累は諦めて、代わりに三人分のスペースの有無を問う。見たところ足の踏み場と言えなくもない場所が数か所あるくらいだったが、千歳は片手で雑に何かの山を押しのけて無理矢理空間を作った。そして中に埋もれていたクッションを引っ張り出すと手を広げ、得意気に胸を張る。
「ほらほら、みんな座って~」
「ありがとうございます」
またも古賀は平然と受け入れ腰を落とす。内海はクッションと千歳と古賀を順繰りに見つめた後、累を見上げて死にそうな顔で呟いた。
「……これで帰ろうとしないボクを褒めてほしいんだけど」
「ああ、本当に恩に着るよ……」
一応簡単に埃を払い、累も同じように座る。とは言え累は三回目で抵抗が減っているから、内海に比べれば心理的ハードルは低いはずだ。心の中で同情しながら内海が腰を据えるのを見届けた。
千歳は累と内海の困惑も気に留めず、ゲームソフトの箱をいくつも床に並べて鼻歌を歌う。ほどなくその中から一つを選び取り三人に表面を向けた。描かれているのは見慣れたキャラクターがカートに乗っているイラスト。
「烏丸とはスモブラとかスペラしたから~、今日は四人いるしミリカやろ~?」
そういえばこれも遠い昔に友人とやったことがあるな、なんて思い出に耽りながら累は頷いた。しかし他二人はこのタイトルに馴染みがないようで、揃って頭上にクエスチョンマークを浮かべている。
「それはどのようなゲームなのですか?」
「ボクも知らないな」
最後にプレイしたのはいつだったか思い出せもしないので人のことは言えないが、こいつらも友達いなさそうだもんなと一人納得する。対して、古賀と内海の言葉に大袈裟に驚く千歳。
「え、ミリカやったことないの~? じゃあ尚更やらなきゃだね~」
彼女は有無を言わさない勢いで準備を進めている。次いで山の中から発掘された予備とみられるコントローラーは、全く使われた形跡が無かった。動くのかどうかも怪しいそれらを強制的に握らせ、千歳がどんどんと話を進めていく。
「あ、お菓子食べながらやりたくない~? ヒナヒナに持ってきて~って連絡しよ~」
「少しは朝比奈さんに気を遣おうとか思わないのか……?」
「思わな〜い」
「お前なあ……」
千歳は控えめな制止を無視し、朝比奈にRINEを送った。内容は「なんかのパーティーパックみたいなやつ持ってきて」だ。ちなみに文末には鼻につく絵文字が添えられている。どうでもいい業務連絡を止めることができなかった償いとばかりに、心の中で朝比奈に数回頭を下げた。
そして最初のレースが始まろうとする。古賀と内海はカートやキャラクターの選択肢の多さに新鮮な反応を見せつつ、なんだかんだ初めての体験を楽しみにしているように見えた。これでゲームにハマった二人が、案外入り浸ったりするかもしれない。そう思わせる程度には。
「こ、こんなにいっぱいあるのか。どれ選ぼうかな」
「このキャラクター、私に似て非常に可憐ですね。私はこれにします」
「はあ⁉︎ 全然似てないしなんならボクの方が似てるから! 目付いてる⁉︎」
「あ、でもミカさんはこっちの方が似てるんじゃない〜?」
「……いやどこがだよ⁉︎ 烏丸! おまえは違うって言ってくれるよな!」
「確かに似てるとは言えないかもな、内海は人間だし……」
「全然フォローになってないんだけど⁉︎」
そんな風に騒いでいるうちに、ステージが決定される。ここは確か視界があまり良くない上に狭い道が多かったり、選ぶ道によって駆け引きが生まれたりする、初心者にとってかなり難しい作りの場所だ。しかもCPUに加え厄介極まりない三人が相手になる。どんなレースが繰り広げられるのか、皆目見当もつかない。
横を見れば三者三様の表情。スタートの合図は間もなく。
「一位を獲ってしまうかもしれないので、先に謝っておきますね」
「どこからその自信が湧いてくるわけ⁉︎ っていうか絶対おまえにだけは勝つから!」
「いいよいいよ〜、ミリカは運と気持ちとちょっとの技術だからね〜」
言いつつ千歳はこちらを一瞥する。その視線は、運のない累がこのレースにおいて一体どう出るのかを試すような、鋭くはないのに挑戦的なものに思えた。やってやるよ、と口には出さず発起する。
雲に乗った亀が降りてきた。カウントダウンの途中からボタンを押して、最高のスタートダッシュを脳内で思い浮かべて。
◆
「やっぱツナ子、すっごく上手くなってるよね〜」
「ありがとうございます、自分でもそう思いますよ。既に内海さんと争っていた時期が懐かしいくらいには」
「はあ〜⁉︎ 烏丸の青甲羅じゃなくてわざわざボクにクラクション使っといてよく言うよな! ほんっと最悪! 次こそ勝つ!」
「ミカさん腕まくったら〜? そんなに盛り上がってて暑くない〜?」
「い、いいんだよ! それより早く次だ次!」
初めて三人でここへ来てから一週間が経とうとしていた。可能性が無くはないと思ってはいたものの、古賀はともかくあれだけ嫌がっていた内海が毎回来てくれているのは、想像以上に良い状況と言えるだろう。下の名前で呼んでくれという要求は何故か飲めないようだが、それ以外は彼も千歳とすこぶる順調に交流を重ねている。
これでひとまず第一関門は突破したと言っても良いのかもしれない。となれば次は、そろそろ進展を見せていなかった部活の話を改めて千歳と内海に切り出すだけだ。その機会を窺っているうちに一週間が過ぎてしまったことは、誤算と言わざるを得ないが。
我ながら意気地ないとは思う。部活に入ると決めてくれている古賀がいない場所で話した方が良いだろうかとか、ゲームで遊べる仲になったとはいえもしかしてまだ時期尚早だろうかとか、そんなことで尻込みしているうちに時間があっという間に過ぎていた、なんて。けれど三人の交流がなまじ上手くいっているが故に、それが自分のせいで壊れてしまったらと考えると部活設立どころではなく、今度こそ本当に詰んでしまうという確信にも近いものがあった。ただダラダラとゲームをするだけならそのリスクも無いわけで、累は当然のように安全な方へ逃避しているという塩梅だ。
上昇気流に乗っている最中で雷に打たれ、累のカートは奈落の底へと落ちていく。こんな不運は慣れっこだけれど、現実もこうなってしまったらたまったものではない。
「あはは、烏丸また最下位だ〜かわいそ〜」
「ここまで来るとやはり偶然の域を越えていますね。技術には問題無いように見えるので、私たちがCPUの邪魔をして烏丸さんの順位を上げるというのはどうでしょう?」
「古賀に賛同とかしたくないけど、ボクも流石におまえを救ってやりたいな……」
三人がレース終了と同時に種類の違う哀れみの視線を向けた。ただし正確に言えば純粋に累を哀れんでいるのは古賀だけで、千歳と古賀はむしろ面白がっている。
「そんなに堪えてはないけど、お前らの気持ちは受け取っておくよ」
「え〜、それじゃつまんないって〜。次ベイビーランドにしてみない〜?」
「お前は俺のこと勝たせる気ないだろ……」
チョコプレッツェルをぽりぽりと齧りながら、千歳は「そんなことないよ〜」などと心にも無い供述をした。累もせめて味覚だけでも美味しい思いをしたいと、袋ごと引き寄せて一本抜き取る。千歳のスマートフォンが鳴ったのは、流れるままにプレッツェルを口に咥えたその時だ。その通知が誰から送られたどんな内容なのか、画面を見ずとも全員がわかるようになっていた。
「あ、時間か〜。ざんね〜ん」
「ベイビーランドは明日にしましょうか」
「結局やるのかよ⁉︎ 烏丸の連敗記録が更新されるだけだろ!」
明日も来ることが前提の会話で、誰も疑問すら覚えない。それは望ましいことであり、同時に累へ圧力をかけるものでもある。自分にはまともな人間関係なんて持てやしないし持つだけ無駄だとこの一年で諦めかけていたけれど、持ったら持ったで新たな悩みの種となるとは、一体どうやって予想できただろうか。
今日も言い出せなかったという少しの後悔と鞄を拾い、累は三人と共に玄関へ歩く。ここ数日は千歳も三人を見送るようになった。部屋から一歩も出ないという究極の出不精から、ほんの僅かに成長したと言っても差し支えないかもしれない。
深くお辞儀する使用人と「またね〜」と言って大きく手を振る千歳に会釈で返し、累は二人と現地解散する。古賀は実家から、累と内海は寮から学校へ通っているわけだが、内海は毎回「寄るとこあるから」と言って反対に向かうため、一緒に寮へ帰ったことがない。内海が用件を口にしない以上は累も無理に聞かない方がいいだろうと考え、一人の下校が板についていた。少し前まで騒がしかったのが急に静かになる感覚には、まだあまり慣れないけれど。
こんなことなら猶予は具体的にいつまでなのか丑満に聞いておけばよかった、とにっちもさっちもいかない思いを溜息に混ぜて、累は真っ直ぐ寮へと足を動かす。
寮に帰れば繰り返されるのは、夕飯を食べて、風呂に入って、動画を見ながら寝落ちするという味気ないルーティーン。その最終段階に辿り着き画面をぼうっと見つめていた時にふと、数時間前との落差を実感する。そしてそれをごく自然に「落差」と表現する自分がいるという事実に、累は我知らず苦笑いを浮かべた。
◆
金曜日。それすなわち蓄積した木曜までの疲労を、週末が待っているという一点張りで踏ん張らなければならない魔の曜日。いつものように猫背気味で登校すると、いつものように見ていた顔が今日は隣に見られなかった。ホームルームまであと五分。彼は普段からギリギリで現れるが、このくらいの時間には来ていることが多かったはず。おまけに昨日ベイビーランドで奇跡的な連敗を重ね、攻略法を調べるうちに夜更かしをして軽く寝坊した累よりも遅いということは、もしかして欠席だろうか。まああいつ体育嫌いみたいだしな、などと考えながら教科書を取り出したり教室の前方を無心で眺めるうちに、チャイムが高らかに鳴り響く。隣の席は空いたまま。初日以外は登校していたから忘れていたけれど、どうやら「学校に来るかはあまりわからない」と話していたのは本当だったらしい。日課のようにもなっていたホームルーム前の内海との軽いやり取りが無いとなると、なんだか微妙に変な感じがする。
出席確認に覇気のない応答をし、何らかの委員による何らかの連絡を聞き流し、周りの生徒よりは不真面目に、それでいて以前の自分よりは心なしか真面目に授業を受け、ようやく昼休みを迎えた。いつもここまでがやけに長い。しかし是非はともかく、昼を乗り切ってしまえば眠気が時間感覚を曖昧にしてくれるため、やり過ごすのは昼飯後にして朝飯前なのだ。今日こそ目当てが完売していませんようにと願いながら、午前の苦痛に耐えた褒美を受け取らんと食堂に向かう途中。背後からかけられたのは、もうかなり聞き慣れた声。
「烏丸さん、昼食をご一緒してもよろしいですか?」
振り返ると古賀がいた。累ももう彼女に話しかけられても前ほど困惑しなくなっていたし、順応したのか麻痺したのか、言動に翻弄されることなく割と普通に話せるまでに進歩を遂げている。
「ああ……内海はいないけど、それでもいいなら」
そう返せば古賀は薄く微笑んで、左の頬へ手を添えた。淑やかな仕草に併せて繰り出されたのは、やや彼女らしくない言葉。
「内海さんがいてもいなくても、部活の話なので関係ない……と言いたいところですけど。どうやら少しだけ、そうとは思わなくなってきたみたいなんです」
「うん?」
「という話を、食堂で烏丸さんに説明しようかと思いまして」
「な、なるほど……?」
人は全く話を聞いていなかった時か、聞いても理解できなかった時に「なるほど」という相槌を打つと耳にしたことがある。その仮説を累は今まさに証明していた。だが古賀はそれでも構わないとばかりに、まずは食堂へつかつかと歩みを進める。間を埋めるついでに何を頼むのか尋ねれば、いつも通りのオムライスだそうだ。それにしても、まさかあの古賀とこれほど平和な会話ができる日が来ようとは。
券売機の列に並んでいた二人に順番が回ってきた。薄々わかっていたけれど、今日も目当ての定食は売り切れてしまっている。
「……オムライスはかなり美味ですよ。この私が保証します」
「気遣い感謝するよ……」
大人しく古賀に倣ってオムライスを頼み、受け取った後、適当な席に陣取った。些かタイミングのずれた「いただきます」を皮切りに、先の話を切り出す累。
「早速だけど……古賀が言ってたのってどういうことなんだ?」
「では、私から質問させてください」
持ち上げていたスプーンを皿に置けば、食欲をそそる香りだけが残された。しかしそれでいて彼女はこちらを差し置いてオムライスを頬張ると、飲み込んでから口を開く。
「あなた方はどうして、私と行動を共にできるのですか?」
「え?」
客観的に見れば真っ当な質問だと思う。ただしその質問が古賀から飛び出るとは夢にも思わず、つい素っ頓狂な声が自分の口から勝手に放たれた。累の動揺を知ってか知らずか、古賀はなおも淡々としている。
「私自身、周りの方々と明らかに異なっていることは自覚しています。高貴ですし、聡明ですし、非の打ち所がありません」
今まさに打ち所出てるぞ、という内心でのツッコミはおそらく届いていない。言ったところで話が逸れてしまうのも目に見えていたので、ここは口をつぐんで正解だろう。彼女は続けて紡いでいく。
「しかしそれ故に、妬まれたり避けられたりもしやすいのです」
まあ、わからないでもない。彼女の周りに人がいないのは、単に発言が常軌を逸しているということに加え、一見高嶺の花のように見えるということの二つが主な理由であると推測できる。まともに関わった人間は前者、話したことのない人間は後者となり、どちらにせよ近づき難いというハードモードだ。
付け合わせのコンソメスープが入った器を両手で持ち上げ、おずおずと傾ける。一瞬唇に触れた液体が、まだ飲み頃ではないことを強く主張していた。一方で古賀は「ですが」と初めてオムライスを口に運ぶ作業を中断し、青い瞳で累を捉える。
「あなたも、千歳さんも……内海さんでさえ、口ではああ仰っていても、私のことを完全に拒絶してはいません」
「ああ、それはわかってたのか」
「心から私を嫌っているなら普通は同じ空間に何時間もいられないと、これまでの経験から学んでいます。内海さんが特殊な性癖か何かをお持ちでなければ、の話ですが」
「その可能性は……考慮しなくても大丈夫だろうな」
実際累も最初は二人の仲が最大の懸念点だったが、近頃は少しずつ希望が見えてきたような気もしている。彼女の言う通り、そして内海の性格からして、あまり気に食わないのは事実としても本気で古賀を嫌っているとは思えない。だからと言って同じ部活に入ってくれと頼んで頷いてもらえるかは、また別の話になるけれど。
古賀は順調にオムライスを食べ進めていく。その合間にふと手を止めて、ほんの僅かに口角を上げる。
「はい。ですので、私の目にはこのところの日々が非常に新鮮で、貴重なものに映っています。周りの人間など取るに足らない……避けられたとしても一片の問題も無いと、そう思っていたのに」
なんとなく思う。あの古賀からそんな言葉が聞けただけで、既に大健闘なのではないかと。つられて顔が綻んでしまう程度には、累にとって喜ばしいことだった。
「それは何よりだな」
「あ、ですが私だけがこの世で最も尊い存在であるという認識に変わりはありませんよ」
「はは……うん。全然構わない」
内海はともかく、たぶん千歳も同じことを言うに違いない。古賀を古賀たらしめる圧倒的な自信が簡単に揺らいでしまっては逆にこちらが困惑してしまいそうだ。それはそれとして、人を見下すのは少々控えた方が良いだろうが。
「けど、そうだな……なんで一緒にいられるのか、か」
食べるのも忘れて顎に手を添えつつ思案する。確かに初めは半ば強制的に話しかけねばならないという事情があったし、二度と関わらなくていいと言われたら思わず歓喜するであろうレベルだった。あれからおよそ一週間と少し。単純に慣れたというのも理由としては挙げられるはず。しかし、それよりも強く思い当たるものがある。
これまでのことを想起しながら、累は実感の篭ったトーンで返した。
「お前が、偉そうなだけの奴じゃないってわかるからじゃないか?」
普段が慇懃無礼そのものであるため認識しにくいけれど、古賀には確かに長所が存在している。動機はともかく人に手を差し伸べることが出来るし、上から目線にも関わらず礼はきちんと言えるし、そういえば初対面の時も棒立ちの累に座るよう促す気遣いを見せていた。ついでにオムライスの件も。
もちろん、だからと言って彼女の尖り過ぎた短所が帳消しにされるわけではない。しかし人は相手に抱いた第一印象が悪ければ悪いほど、往々にして後の行動に対するハードルが下がるものだ。所謂捨て猫ヤンキー理論である。
言い終えて視線を上げる。視界に入った古賀は空中でスプーンを静止させ、どこか唖然としているようにも見えた。
「あー、えっと……もしかして腑に落ちなかったか?」
地雷を踏んでしまっただろうかと慌てて繕う。けれど古賀は悪く思うどころか、目を伏せると表情をぐっと緩めた。それは初めて目にする新鮮な表情だった。内海に見せてやりたいな、なんてついつい考えてしまうくらい。
「……ふふ、いえ。烏丸さんの意見は参考にさせていただきます」
古賀が心なしか先程よりもオムライスを大きく掬って、綺麗に口へと運んでいく。飲み込むと一呼吸置いて、軽く頭を下げた。
「私としたことが、話が長くなってしまいましたね。申し訳ありません」
「いや、大丈夫だ。まだ時間には余裕あるし」
「お気遣い感謝いたします」
スープを喉へと流し込む。いつの間にか適温になっていた。優しい味を楽しみつつ古賀が話し出すのを待っていると、何度目かのらしくない発言が喧騒を縫って耳に届く。
「結論から言うと、部活設立のお手伝いをさせて欲しいのです」
「手伝い?」
反射的に疑問の声音が口をついた。それはまさかあの古賀が、ということでもあり、これ以上何をするのだということでもある。しかし彼女は累が尋ねるのを待たない。
「入部するとは言いましたが、私がしたのは本当にそれだけでしょう?」
「あー……まあ、それだけでもすごく助かるんだけどな」
「けれど、今のままでは部活は設立できないはずです。部員が私と烏丸さんしかいないのですから」
後回しにしていた問題を前触れもなく突きつけられ、図星を刺された気分になる。だが古賀が改まってその話をするということには、何か相応の理由があるはずだ。累はいつになく前のめりになり、声音に真剣味を含ませた。
「……つまり、千歳と内海を確実に引き入れる手立てがあるってことか?」
「そんなものはありませんよ?」
「え?」
予想外の返答に飛び出たのは間抜けな声。呆気に取られる累と裏腹に、古賀が溜息をついて首を静かに横に振る。
「はあ……どうして人間というものは努力もせず最大の結果を得ようとするのでしょうか。理解の範疇を超えています。実に愚かですね」
「……それ、仮にも現時点で唯一の仲間に言う台詞か?」
「安心してください、半分は冗談ですから」
ならもう半分は本気ということになるのでどちらにしろ如何なものかと思うけれど、と累が心のツッコミを終えたタイミングで、古賀が再び話を戻した。
「冗談は置いておくとして。有効かはわかりませんが、策があるにはありますよ」
「本当か⁉︎ 早く教えてくれ!」
「まあ、そう焦らず」
もう少し焦ってもいいであろう古賀は手を合わせて「ごちそうさまでした」と律儀に呟くと、トレーを持って席を立った。この話の流れで置いていかれるだなんて微塵も考えておらず、無意識に数度の瞬きを繰り返す。古賀はくるりとこちらを振り返ると、清楚な微笑みという名の素知らぬ顔で累の動揺を受け流した。
「では、また放課後に集合しましょう」
簡潔な一言を残して伸びた背筋が遠ざかっていく。開いた口が塞がったのは、およそ十数秒後のことだった。どうやら本当に昼食を一緒に食べるだけの誘いだったらしい。しかも、あくまで自分が食べ終わるまで。まったく、マイペース極まるというか、古賀らしいというか。
顔を上げたついでに時計に目をやった。時間からしてあまりのんびりとしている暇は無い。古賀の言う策とやらが気になりつつも、累は全く手をつけていなかったオムライスを平らげた。半熟の卵に包まれた絶妙な味付けのチキンライスはケチャップの酸味とうまくマッチしている。なるほど。彼女の言う通り、なかなかどうして逸品だ。次からは目当てが売り切れていた時の筆頭候補にしてもいいかもしれない。
そして図書館で時間を潰し、小テストが自分の分だけ白紙だったり、体育で盛大に転倒するという瑣末な不運をやり過ごし、また呆気なく放課後が訪れる。累と古賀はどちらからともなく合流し、古賀に先導されるままに歩いていった。だが道中の景色は随分と見慣れたもので、どこへ行くのかと聞く必要すら無い。
「……なあ、古賀」
「どうかされましたか、烏丸さん?」
「俺はどちらかと言えば、お前にどうかしてるんじゃねえのって言いたいんだけどな」
軽口を叩きながら身を隠すのは、手入れの行き届いた生垣の中。どういう状況かと聞かれたとしても、そんなのはこちらが一番知りたい気分だ。累はついに耐えかねて、大真面目に鼻から上だけを覗かせる古賀へと抗議を交えた疑問をぶつける。
「なんで俺たち、男子寮にいるんだよ……」
それは必死の抵抗と制止でもあったのだが、古賀は何を言っているんだとばかりに不可解を露わにした。
「記憶違いでなければ、内海さんは寮から通ってらっしゃいましたよね?」
「それはそうだけど、待ち伏せってお前……今日は学校にも来てなかったんだから、会えるわけないだろ?」
頭が良いはずなのに変なところで脳筋を発揮する彼女の性質には漠然と気付いていたけれど、まさかこれほどまでとは誰も思わないだろう。欠席している人間を寮の門で待つという発想も、れっきとした女子であるにも関わらず男子寮で行うことが前提の策を講じるのも、世が世ならうつけ者の烙印を押されても仕方のないレベルだ。いや、ひょっとするとアレだろうか。天才の考えは凡人には理解できないとかそういうやつだろうか。たぶん違う。
「今、何か失礼なことを考えていましたよね?」
「……悪かったって……」
「見逃しましょう。私の慈悲深さに感謝しても構いませんよ」
彼女がからかうように笑うと、紫の髪がさらりと揺れた。もしも特異な人格を心得ていなかったなら、それは生垣の側だというのも相まって美しい花にも見えただろう。残念ながら既にある程度慣れ親しんでしまった累には、そんな錯覚も通用しないのだけれど。
程なくして、花——もとい問題だらけの少女は、脱線しかけた会話を咳払い一つで仕切り直す。
「それにしても、烏丸さん。あなたまで鳥頭になってしまったんですか? 内海さんの発言を思い返してください」
「思い返す……? って言っても、何を……」
言いつつ内海のあらゆる言動を脳の引き出しから引っ張り出した。心当たりを見つけたのは、一貫して気を立てている姿しか浮かばない、と思いかけたその時。
「あ……確かにいつも『寄るとこある』って」
古賀は満足げに頷いた。
「はい。登校はしていなくても、その場所に出向いているという可能性は大いに考えられます」
なるほど、筋は通っている。あくまで懸念材料は、それが内海に対し果たして有効なのかというところだ。古賀の言わんとするところはほとんど理解しつつ、累はこめかみに指を当てながら絞った声で問いかけた。
「……じゃあつまり、策ってのは」
「直接交渉です」
「だよな……」
千歳との一件以来、ある意味自分には出来なくなってしまった強引な芸当を率先して行ってくれること自体は助かる。とりあえず累は、二人が口論し出した際の仲裁に全力を注ごうと誓った。
そして待つこと二時間半。古賀の様子は最初と少しも変わらず、生垣にしゃがみ込んでいるのに姿勢が良いままだ。一方で累はというと、蜂に襲われかけたり剪定の甘い枝が刺さったりして、とうとう痺れを切らし始め「学校の外にはカメラ無いんだから隠れる必要無かったんじゃないのか」と今更すぎることを口にはせずに延々と考え続けていた。
門限が厳しくない寮なので理論上はまだ待つことも可能だが、もう日も傾き始めている。何にせよ、これ以上待つのは得策ではないだろう。累だって内海が普段何時頃に寮へ戻ってきているのかなど、全くもって知らないのだから。
当然、内海に入部してもらえたら助かるどころか大いに救われることは間違いない。しかし待ち伏せが有効打になるとは些か考えにくかった。累は暫しの逡巡を経て、隣の古賀に囁き声で呼びかける。
「……古賀、やっぱり明日にした方が……」
だが、彼女はこちらに目もくれず真っ直ぐ前を見つめていた。その視線を追うか理由を聞くか、一瞬の選択を迫られる間もなく古賀が淡々と告げる。
「いえ、今日で正解でした。見てください」
「え?」
素直に同じ方向へと視線を飛ばす。すると、こちらに向かって歩いてくる馴染み深い制服の歩き姿があった。特徴的な風貌は、遠くからでも誰のものなのかはっきりと認識できる。累は弾かれたように立ち上がり、感嘆の息を吐き出した。
「本当に来た……」
「やはり私の予想は的中しましたね。さて、行きましょうか」
服の汚れを手で払いつつ、生垣を抜ける古賀に続く。前方の内海が二人の存在に気が付くまでそう時間はかからなかった。仏頂面で歩きスマホをしていた彼はふと進行方向に目をやると、一瞬で大量の苦虫を噛み潰したような顔をして身を引く。
「……っな、なん、え⁉︎ なんで、おまえら」
「内海さん、お会いできてよかったです。待ち侘びていましたよ」
「はあ⁉︎ な、何それ、キモいんだけど⁉︎ ほんとに何⁉︎」
片方は随分と待たされている身であり、もう片方は学校を休んだだけで何故か待ち伏せされている身だ。古賀の物言いも内海の動揺も充分に理解できる。早速生まれた齟齬をなんとかせねばと、累は一歩分彼へと歩み寄った。
「あー、えっと……元気か?」
「え? げ、元気だけど……っていや、そうじゃなくて、ま、待って」
手を前に伸ばして後ずさる内海。その顔は元気どころか何故か青くなっていた。無論心配になり、大丈夫か、と声をかけるため口を開くも未遂に終わる。それよりも僅かに早く、内海が彼女の名前を呼んだからだ。
「……こ、古賀」
「はい?」
自分が呼ばれると思っていなかったであろう古賀の声には、珍しく驚きの感情が滲んでいた。内海はらしくもなく視線を泳がせると、俯きがちに問いかける。彼の声と手が震えているように感じるのは、ただの気のせいなんだろうか。
「知っ、てたのかよ? いつ……いつから? 今日? だから来たわけ?」
「何をでしょうか?」
内海は小さな手でスカートの裾をきつく握り締める。
「とぼけるなよ、そんなん……ボクの、性別のことしか無いだろ」
三人の間だけに響く声音は、まるで何かを怖がるみたいな。一体何をと疑問に思うまでもなく、不意に勘づいてしまう。
思い返せば、内海が男だなんて古賀には一言も言っていなかった。彼の反応を見る限り、本人からも彼女に伝えていないし伝える気なんて毛頭無かったのだろう。累も資料で知っていただけで、彼から聞いたわけではない。仮に資料が無かったら、きっと単刀直入に突っ込まれない限り内海は累にも本当のことを隠し続けるつもりだったのだと思う。関節が出ないよう可能な限り着込んだまま、男女に分かれて並ぶ必要のある体育を頑なに避けたまま。
一体何が内海にそこまでさせるのかは到底わからない。今だって、たぶんちっともわかっていない。外野から適当な憶測を重ねて、同情未満の何かを抱いているだけだ。累はただ黙って古賀の返答を待っていた。突然現れた分岐点。彼女は今の内海にどんな言葉をかけるのかと、期待と不安に塗れながら。
しかし古賀の反応は、内容、ニュアンス、表情の全てが予想の斜め上をいくものだった。彼女は狼狽えるどころか至って平然としている。それが一足す一の答えを聞かれた時の顔だと言われても、何ら不思議ではない程に。
「いつからも何も……最初から知っていましたよ?」
「へっ?」
「え?」
それ故、関係のない累も咄嗟に聞き返してしまった。いや、そもそも古賀が内海を女だと思っていたら男子寮で待ち伏せするという結論には到達しないわけで、だからなんとなく話すうちに気付いたのだろうなと、この短い時間で推測を行っていたのだけど。
混乱しているのは累だけではないらしく、内海がそのまま累の脳内を代弁する。
「最初って……さ、最初ってこと?」
「ええ。正確に言えば、食堂で初めて話した時ですね」
「……マジかよ」
一言一句同意だ。資料を見ていなかったら、今でも女子生徒だと疑わなかった自信がある。それを初対面ですぐに見抜いてしまうとは、やはり古賀は只者ではないのかもしれない。
「……ちなみに、なんで内海が男だってわかったんだ?」
「見ればわかります。いくら内海さんが女性らしくても、男女では確実に骨格が異なりますので」
口調からして、古賀は自分の観察眼を大したものだとは思っていないようだ。そのことにもまた驚かされてしまう自分がいる。さて内海はどう感じているのだろうかと視線を移せば、知らぬ間に顔には血色が戻っていた。スカートを握ったままの手にも、もう震えは見られない。
「……つ、つまり、ボクが男だってわかってて何も言わなかった、ってこと?」
「そうですよ?」
変わらず俯いている彼の表情は髪がかかって見えづらい。けれど隠しきれない嬉しさを称えるように上がった口端だけは、決して見間違いではないはずだ。累がそう思いたいというよりも、そう思わざるを得ないくらいで。
「……あっそ!」
「うわ⁉︎」
勢い良く顔を上げた内海が突然、累の腕を無理やり引っ張った。小柄な体型に似合わない強い力でただちにバランスが崩される。そして抵抗もさせないまま寮の玄関の方へと累を連れ込もうとしながら、後方の古賀に向けて指を差した内海。
「ボクたちもう行くから! 今度から待ち伏せとかわけわかんないことすんなよな! あと遅くなる前にさっさと帰れよバーーーカ!」
荒い語気も一種の照れ隠しだと、彼女のことだから理解はしているのだろう。それでも若干の申し訳なさを伝えるために自由に動かすことの出来ない手を合わせれば、答えるように薄く微笑む。もう既に多少の距離が離れていて確信には至らなかったが、彼女が浮かべたのもまた、内海と同じ類の笑みに思えた。
結局交渉し損ねたと気が付いたのは、寮の食堂へ歩いていた時だった。
◆
夕食がてら内海にざっと経緯を説明したところ、一応納得はしてくれたらしい。デザートのプリンは一つ犠牲になったけれど、その程度で許されるなら安いものだろう。こちらが必死に許しを乞うべき立場かどうかは置いておくものとして。
彼はプリンのおかげか先のやり取りのおかげか、少しだけ機嫌が良さそうだった。
「ほんと、あいつも大概脳筋だよな? もっと他の方法あっただろ。よりによって待ち伏せって」
「俺もそう思ったけど、止める隙も無かったんだ……」
「ま、別にいいよ? ボクだって元気なのに休んでるわけだし……それに」
「それに?」
「……いや、やっぱなんでもない」
内海はプリンを含めた夕食を瞬く間にぱくぱくと完食して両手を合わせた。きちんと「ごちそうさま」を欠かさないあたりが古賀と同じで、二人とも性格に難はあれど、最低限の人間性は備わっているのだと感じさせられる。
そんなことを考えていると、テーブルの下から累の右足に軽い蹴りが入った。内海が誤ってぶつかったのかと思いきや、故意も故意だったようだ。
「何ボーッとしてんだよ、食べ終わってんだからさっさと部屋戻るぞ」
「……次からは口で言ってくれると助かる……」
「うっさいなー。痛くしてないんだからそんくらい大目に見ろって」
言いつつやっぱり彼はご機嫌で、目を細める表情は悪戯に興じる子供にも似ている。まあ、少しふざけているだけなのだろうし、本格的な暴力に発展するとも思えないので、言う通り大目に見ておくとしよう。そう返すと、内海はにんまりとしつつ首を縦に振った。
トレーと食器を返却し、あとは自室で過ごすだけ。今回も密度が高かった一週間がついに幕を下ろそうとしていた。
「そういえば、内海の部屋って何階なんだ?」
「四階になった。おまえは?」
既に入寮している生徒は、新たな年度と共に部屋の移動を行う。わざわざ同じ建物の中で移動するのは面倒だと思わないでもないが、進級するにつれて部屋が広くなり、間取りも変わるので新鮮さは文句なしに味わえるのだ。
「奇遇だな。俺も四階だから、何かあったら呼んでくれよ」
「何かって何だよ? Gとか? 一応言っとくけど、ボクそういうの平気だから」
「……じゃあ、俺がお前を呼ぶことになるかもな」
「ええ……?」
何気ない会話を交わし、エレベーターのある廊下へと不揃いな歩幅で進む。すると曲がり角に差し掛かったタイミングで、いきなり人影が視界に入った。先が見通せない構造のため予測もできず、こちらを見て話していた内海が身長の高い男子生徒と接触してしまう。内海は鼻をさすり、すぐさまその男子に詫びを入れる。
「悪い、前見てなかっ……」
「あれ〜? 内海クンじゃん、久しぶりじゃね?」
累が大丈夫かと聞くのを間接的に遮った声音は、ひどく上っ調子だった。こちらを見下ろす垂れた目に好意の類は一切感じ取れない。見れば、内海も累の直感を証明するかの如く、あからさまな敵意を込めて彼を睨んでいる。しかし彼は内海の態度など歯牙にも掛けないとばかりに余裕な笑みを見せた。彼の口ぶりからして二人は知り合いのようだが、関係が良好でないのは間違いないだろう。
「なになに? ちゃんと学校来てんだ? や〜、マジで相変わらずスカート似合うな。寮間違えてね? 大丈夫そ?」
「……」
彼は無神経な言葉をつらつらと並べ立てる。あまりの軽薄さに危うく聞き返してしまうところだった。これが内海を嘲っているのでなければ、一体他にどんな可能性があるというのか。
「つか前まで寮でもそんな見なかったけど、何? もしかしてワンチャン俺に絡まれるの嫌だった系? なわけないよな?」
内海は頑なに口を閉ざしている。いつになく大人の対応をしているなと思ったが、彼に言葉を返すことすら無駄だと考えているのかもしれない。やがて彼は芳しい反応が返って来ないとわかるや否や、溜息交じりに肩をすくめた。
「おいおい、つれないじゃんか。だんまり決め込んじゃってさあ〜? ま、でも」
次いで、舐めるような視線が累へと向けられる。特段勘の良い方ではないけれど、それが品定めであるということを読み取れない程ではない。強いて逸らさずにいると、彼は薄ら笑いで内海の肩に手を置いた。
「よかったな? オンナノコごっこに付き合ってくれるオトモダチができて」
馬鹿にするのも大概にしろよ。そう思った時にはもう自然と言葉が出ていた。
「おい、お前いい加減に……」
「どけよ」
だが、物申すまでもなく内海が彼の手を払い除けて先程よりも鋭い目つきで吐き捨てる。予想外の反応だったのかやや面食らっている彼に、更なる追撃を与えながら。
「聞こえなかった? 邪魔だからどけって言ってんだけど」
「……お〜、怖」
彼はすぐさま両手を上げて降参のポーズを取る。未だへらへらと浮ついた態度でいるのは気に食わないが、しつこく食い下がってはこないようだ。そうとわかると内海は夕方と同じく、累の腕を力任せに引っ張った。
「行くぞ」
「あ、ああ……」
すれ違う前も後も、一度たりとて目を向けることなく彼の横を通り過ぎる内海。振り返って彼の様子を窺おうかと片時迷ったものの、今の累がやるべきなのは、それよりも大事なことばかりだった。例えば、少し先を行く小さな背中に率直な感情を届けるだとか。
「……なんか、見直したよ」
「……今までは大したことなかったみたいな言い方すんなよな」
ボタンを押すために腕が離される。次の瞬間に降りてきたエレベーターへと、二人は同時に乗り込んだ。生まれるほんの僅かな間。打ち破ったのは内海の方だ。
「でも、ボクもちょっと見直したかも」
「え?」
一、二、三。上部のパネルが示す数字が大きくなっていく。四階へ辿り着く頃、それを眺めていた内海が累を冗談っぽく見上げた。
「なんてね」
意味を聞けないうちに扉が開く。足早に廊下へと踏み出した彼に累も続いた。素直じゃない内海のことだから、もしかすると聞かせまいとしているのかもしれない。それはそれで「らしい」けれど。
男子寮は五階建て、一階につきおよそ二十部屋が存在している。右側と左側でちょうど十部屋ずつだ。二手に分かれる突き当たりで内海は再び累を見上げた。
「おまえどっち側?」
「左だな」
「え、近いじゃん」
揃って左へ曲がる。そしてお互い自分の部屋に向かい、ドアノブに手をかけた。時を待たず状況を理解した二人は、思わず顔を見合わせる。
「……隣?」
「隣……だな」
運が良いのか悪いのか、内海とは隣の席であり寮の部屋まで隣だったらしい。しかしまあ凄い偶然もあるものだ、と軽く片付けて自室に入ろうとした。ただし、内海が累をそうすんなりと思惑の通りに行動させてくれるわけもなく。
「じゃあせっかくだし入れてよ。いいでしょ」
「え? いやちょっと……」
長らく自分の部屋に人など入れていなかったため、反射的に拒否の言葉が口をつく。内海は断られることを想定していなかったのか、不満そうにじとりとした目つきを向けてきた。それが廊下ではち合った彼に対する視線とは確実に一線を画していることが、せめてもの救いに思える。
「文句あんのかよ? 明日土曜だろ」
「そういう問題じゃないと思うけど……まあいいか、これも何かの縁だろうしな」
「やったー」
たぶん、断った時の内海の機嫌の損ね方と天秤にかければ、多少の抵抗など無いものと考えるべきだ。これが物理の問題なら「考慮しないものとする」という塩梅に。そう結論づけて累は大人しくドアを開ける。間取りは似たり寄ったりのはずだが、やはり他人の部屋は目新しいのだろう。内海は普段に比べて少しテンションが上がっていると見受けられた。けれどこんなにきょろきょろと見渡されると、どことなくむず痒い気分になる。
「へー。こんな感じなんだな……! あ、読みたかった漫画ある!」
「読んでいくか?」
「ありがと、でも今は大丈夫かな。とりあえず休ませて」
そう言うと内海は遠慮の欠片もなくベッドにダイブする。休むなら尚更自分の部屋に帰った方がいいのではないかと当然思ったが、今更口にするのも野暮かと黙って見届けた。
廊下の一件から内海に甘いのは自覚している。しかし彼の受けたであろう心労を考えれば、今日くらいはそれでいいかと思う自分もいた。
「あー、マジで疲れた……」
ベッドで仰向けに倒れた内海と座椅子に腰掛ける累の目線は、ちょうど同じくらいの高さだった。いつもよりよく見える表情には、言葉通り疲労の色が滲んでいる。
「お疲れ。何も出来なくて悪かったな」
「いや、そんなことないよ。……うん、そんなことない」
寝ていた体勢から急に体を起こし、至って真面目なトーンで呟いた。あまり聞いたことのない声色と見たことのない表情に、些か戸惑ってしまう。本当に何も出来なかったというのに何故真剣に優しい言葉をかけてくれるんだ、と。
「そ、そうか……?」
「ボクがそう言うんだからそうだよ」
けど、内海も内海で今日は累に甘いのかもしれない。だからそれ以上の抵抗はせず、彼の言葉を受け取ることにした。
「……なら、ありがとうな」
「うん」
軽く頷くと内海は枕を引き寄せ、抱き枕のように両腕の中へ押し込めた。そのまましばらく黙っていたかと思えば、視線を色々な場所に飛ばしたり僅かに左右に揺れたりして、なんだかやたらとそわそわし始める。先程から微妙に様子がおかしいとは感じていたが本格的に挙動不審だ。実は体調が悪いのだろうか。
心配の眼差しで見ていると、それに気付いたのか内海が意を決したように口を開いた。
「……あのさ、一つ聞いてもいい?」
図らずも笑みが零れそうになる。似た台詞をたった今日、どこか似ている人物から聞いたばかりだった。けれどそう正直に言えば内海が不貞腐れることは予想できたので、心なしか表情を柔らかくするに留める。
「もちろん。何だ?」
「……花柳は、ボクの性別のこと知ってるの?」
いつもの強気な目つきが同じところから放たれているなんて思えない程、不安そうな瞳。少しでも和らいだらと、真っ直ぐに目を合わせて答える。
「ああ。連れて来てほしいっていうのも、性別のことを話した上でだな」
内海は瞬きをして、枕をより強く抱き締めた。
「そ、っか」
そして強張った表情を緩めると、心底安心したように呟く。今まで聞いてきた中で一番優しい声で、今まで見てきた中で一番優しい顔をして。
「……よかった」
次の瞬間、張り詰めていた糸が切れたかの如く内海は再びベッドに倒れ込む。詳しいことは何も知らないが、彼の中で先程の問いがとても大事なことだったということはなんとなく感じ取れた。
「あ〜〜〜、マジでよかった……うん、よかった……」
ひとしきりゴロゴロと転がった後に視線がぶつかる。直後差し向けられた表情は、よかったという言葉を体現していた。今度はうつ伏せになって肘をつき、一つずつゆっくりと話し出す。
「……ボクさ、自分の格好に口出されるの地雷なんだよね」
「うん」
「でも廊下で会った……ああいう奴も少なくなくてさ。あいつら寮にはカメラ無いからって何言ってもいいと思ってんだよ、うっざ。マジで最悪」
乱暴に悪態をつく内海。同時に累の頭の中でもあの嫌味な物言いが鮮明に思い出される。言ってしまえば他人事で、一度対面しただけの累ですら腹が立つのだ。内海が抱いている嫌悪感はおよそ比にならないだろう。
「ま、それは置いといて」と彼は空気の箱を移動するジェスチャーをした。
「ムカつくけど、どうでもいい奴に何言われようがどうでもいいんだよね。でもボクにとっておまえらは『どうでもいい奴』じゃなくなっちゃってたみたい」
「……それって」
「参ったよ、ほんと」
内海が眉を下げて笑うのは珍しい。加えて、これ程までに感情を吐露することも。もちろん至極真面目に聞いてはいるけれど、傍ら、累の胸では感慨深いものが沸々と湧き上げていた。
「おまえらとなんか仲良くする気無かったのに、気付いたら一緒にいて、しかも案外悪くないなんて思っちゃってさ。だからボクが好きでやってることを、よりによって……よりによっておまえらに性別云々で難癖つけられたらどうしようって、余計に怖くて」
やたら認めないと繰り返したり、性別に対する古賀の反応を過度に恐れていたのはそういうことだったのか、とようやく合点がいく。今の関係を壊したくないと思っていたのは、内海も同じだったらしい。
「ボクの周りにいる奴はみんな理解してくれなかったから。関係ないのに文句言ってきたり、表面上ではいい顔してても裏で悪口言ってたり、無闇に持ち上げたり。まあとにかく、邪険にするか変に気を遣うかのどっちかで……でも、おまえらは違った。性別を知ってたのに何も言わなかった。ボクのことを『女装してる男子』じゃなくて『内海果実』として扱ってくれたんだろ」
確かに普通の生徒ならそうするかもしれない。しかし、その逆が正しいとも限らない。累はともかく、千歳も古賀も生憎「普通」とは程遠い人間である。服装に言及しないことが好意的に捉えられているとはいえ、その理由は無条件に持ち上げられたものとは限らないと感じていた。大方「そんな話よりゲームの方が面白いから」とか「他人がどうあれ自分が一番であることに変わりないから」とかそんなところだろう。累だって「聞くほどのことでもないか」と流しただけだ。
けれど内海が心から笑ったのなら、正解だったと思ってもいいのだろうか。口にしない累の問いかけに答えを出すように、彼は言った。
「それが、嬉しかったんだよ」
たった一言。されどある種の肯定であり、受容であり、救済でもある。それが累にとってどれだけ嬉しかったのかは、きっと内海でさえも知らない。
「……そうか」
「あと、ムカつく奴に言い返そうとしてくれたことも」
「あれは未遂だけどな」
「いいんだって」
内海は随分からりとしている。言葉が纏う空気からして気を遣っているのではなく、本当にそう思っているようだ。だとしたらこちらとしても正直助かる部分が大きく、ありがたいな、なんてしみじみしてしまう。
そんな累にもう数センチ近付くと、内海は更に予想外の言葉を放った。
「なあ、ボク反面教師部に入るよ」
「おお……え?」
あまりの唐突さに脳が追い付いていかない。発言内容は先程の話の流れからすればおかしなことではないのだが、今までの態度とのギャップも相まって累は軽く混乱する。
「そ、それって、部活に入ってくれるってことか?」
「他にどんな意味があるんだよ」
けらけらと笑った内海。自分が認めた人間としか関わらない、と宣言された進級二日目の朝がひとりでに想起される。同じ部活に入るということは、すなわち嫌でも関わらなければならないということで。しかも渋々ではなく、確固たる意思を持って入部の選択をしてくれるだなんて思いもしなかった。あの時の彼が今の彼を見たらどんな感想を抱くのだろうか。
「ボクたち全員退学の危機なんだろ? 前も言った通り、ボクも退学はしたくないから」
重なる時間と言葉が、少しずつ累に状況を理解させてくれる。事を百パーセント把握した時にはもう、無意識で内海に詰め寄っていた。
「ほ、本当なんだな……⁉︎ 感謝するよ、正直無理かもとすら……」
「大袈裟……って言いたいとこだけど、案外そうでもないから怖いよな」
何はともあれ、これでようやく反面教師部を設立できる。ガッツポーズしたいくらいの気分だ。退学回避も射程圏内。心の中で新たに生まれた正体不明の引っかかりを除けば、全てが好転に向かっていた。
ところがその引っかかりとはまた別に、内海が何か言いにくそうにふいと視線を逸らす。
「まあ、さっき言ったことが理由としては一番だけど。それと一応、本当に一応……あいつに借りみたいなものもあるし」
「あいつ……って、もしかして古賀のことか? それに借りって……?」
目の前にいる累は当然のこと、内海は千歳を常に花柳と呼んでいるため消去法的に古賀だと判断したが、どういうわけか彼の表情と声音は古賀のことを指しているとしか思えなかった。そして累の読みは当たっていたらしく、内海は複雑な様子で頷いた。
「借りってのも最近のことじゃないんだ。……ボク、実は去年からあいつのこと知ってて」
「え、そうだったのか」
枕をひたすら弄びながら、何から話そうかと内海が唸り出す。そういえば食堂で会った際、彼は古賀に対して「名前は聞いてない」とかなんとか言っていたような、言っていなかったような。「誰だよ名乗れよ」くらいのことは言いそうなのにと思ったけれど、あの言動も既に古賀を知っていたからとなると合点がいく。あくまで累の記憶が正しければの話だが。
「クラスは違ったんだけど……寮の近くであいつが女子に嫌がらせされてたの、偶然見かけたことあるんだ。いや、あそこまでいくともう嫌がらせとかじゃなくて、いじめって言うんだろうな」
その前置きを聞いただけで思わず唾を飲む。累の緊張は感じ取れている様子であるにも関わらず、身構えなくてもいいと言わないあたり、本当にこれから話されるのは明るい話とは程遠いのだろう。
「バケツの水かけられたり、死ねとか言われてて……その頃はあいつのこと知らなかったからさ。なんで全然反撃しないんだとか、なんで表情一つ変えないんだとか思って影から見てた。やってる奴らの細かい表情までは見えなかったけど、よっぽどあいつのこと嫌いなんだろうなってわかるくらい。名前とか呼ぶ声なんてもう聞くに堪えなくて」
「……酷い話だな」
「本当ね。そりゃ、全く気持ちがわからないでもないよ? 偉そうだし遠慮のえの字も無いし、ボクだっていけ好かないとか思ってるし。でもさ」
枕を動かす手を止め目を伏せた。そんな何気ない仕草から、彼が抱えているものの片鱗が見えた気がした。呟きは静かなのに力強くて、確かな重さを持っている。
「あいつは、あんなことされていいような奴じゃないよ」
「……ああ」
「まあ、誰であろうとダメなことだし……第一、卑怯にも程があるだろ。そいつらも今日会った奴も、学校では監視されてて鬱憤晴らせないからって……何が『安心できる学校生活』だよって感じ」
カメラとマイクによる常時の監視には、非行を抑止する効果がある。それは将斉高校が前面に押し出すアピールポイントの一つだった。入学前はなるほど確かにと納得していたが、色々なことを見たり聞いたりした今ではそれが事実であるなんて決して言えたものではない。
何か言おうか内海の言葉を待とうか悩んでしまう。しかし累がもたついている隙に、彼はすんなりと次の言葉を繰り出した。
「結局何の話だっていうと……偉そうに言ってるけど、見て見ぬフリしたボクだってたぶん、大差ないんだってこと」
「いや、そんなこと……」
「あるんだ。少なくともボク自身があるって思ってる」
違う。内海はそんなことしないしそんな奴らとは全然違う。心からそう言えるのに、否定すらも許してはくれなかった。不服ではある。けれど、累の否定を受け入れて罪の意識を減らそうだなんて、内海が考えるはずもないのは確かで。
「ボクもああいう奴とのいざこざがあって、人と関わること自体にうんざりしてたんだよね。仮にも男で力の強いボクがそれを言い訳にできるなんて思わないし、するつもりも無いし、だから何らかの形で償うって決めたんだけどさ」
お前がやったことみたいに言うなよ、と返してやりたかった。それでも黙ったままでいたのは、償うという表現がきっと大袈裟ではないと思ったからだ。少なくとも、本人の中では。
言葉通りの強い意志を見せるように、内海が体を起こして表情を引き締めた。
「ボクが入ったら、おまえらもあいつも、退学しなくて済むんだよな?」
「……ああ」
よかった。これで大丈夫になった、はず。徐々に首をもたげ出す違和感を無視して半ば無理に言い聞かせ、累は笑みを作る。
「本当にありがとう」
「礼とか言わなくていいから。その代わり、ボクがこの話したことは絶対あいつに言うなよ? 絶対だからな⁉︎」
「わかってるよ」
眉を吊り上げつつ、内海はどこかすっきりとした様子だった。だからだろうか。今までずっと聞いていなかったことすらも聞きたくなってしまうし、答えてくれる気がしていた。
「そういえばいつもどこかに寄ってるけど、今日もそこに行ってたのか?」
「……うん。これは、まあ言うなとは言わないけど……姉さんの店に行ってた」
「へえ? お姉さんがいるのもお店やってるのも初耳だな」
「言ったら馬鹿にされるかもしれないから黙ってたんだよ。雑貨屋とカフェが一緒になったみたいな、可愛いものがたくさんある店なんだ。ボクの趣味も、姉さんに結構影響されててさ」
歳の離れた姉は優しく、いつでも最大の理解者でいてくれるらしい。そんな話を聞いているうちに、秒針は二十一時過ぎを指していた。内海はすっかり長居してしまったと言っていたが、また来る素振りを見せている。次に彼が来る前に、少し部屋を片付けておこう。
「じゃあ、また月曜日にな。おやすみ」
「おやすみ。今日はありがと」
扉が閉まる。ぱたん、という音を最後に部屋は静寂で包まれた。累は風呂掃除のタスクを後回しに、座椅子からベッドへと移動する。内海が手持ち無沙汰を紛らわすだけ紛らわして放置していった枕を元の位置へ戻し、背中から沈み込んだ。目を閉じれば安堵と同時に浮かぶのは残り一人の部員候補。毎日顔を見ていただけに、何かが欠けているような感覚がして——違う、いて当たり前みたいな、最初から一緒だったみたいな、そんな関係なんかじゃない。だというのに真っ先に思うのが「欠け」だなんて、我ながら笑える。
別に約束をしていたわけじゃない。最初から毎日行くつもりでもなかったし、ベイビーランドは昨日やり尽くしたし、直接向かう以外に連絡する手段も無いし、内海の帰りが遅くなるとも思っていなかった。やむを得なかったのだ。それでも千歳の「またね」が「また明日ね」だったらと思うと、どうしようもなく罪悪感に襲われるけれど。
部活の設立人数を集めることができた。客観的に見れば事は至って順調に進んでいる。だというのに何故かずっと、ひどく落ち着かない。このまま寝てしまわないようにギリギリのところで気を張っておくのが、今の自分にとっての精一杯だった。
◆
平日と間違えて制服を着てしまっただけ。食堂の人の少なさに気付かず寮を出てしまっただけ。気を抜いていて足が勝手に向かっただけ。無理のある言い訳を重ね続けて、累は見慣れた門に辿り着いた。
インターホンを押そうと指を伸ばし、ふと冷静になる。
「……何してんだ俺……」
ここは一度千歳の立場になってみよう。
ある日突撃お宅訪問してきたかと思えば「学校に来てほしい」などと説教臭いことを言い放ち、家に呼んだのは友達だけにも関わらず何故かしれっと自分も毎日のように家にゲームをしにくる不審な男子生徒が、学校帰りでもないのにわざわざ一人でやって来たと。どう考えてもスリーアウト、試合終了である。
いや、わかっているのだ。おそらくそこまで悪くは思われていないし、きっと土曜日の今日に訪問してもたぶん千歳は受け入れてくれる。そもそも不登校で毎日が休日も同然なので、平日も休日も彼女にとっては関係無いのだろうけど。
だから必要以上に躊躇っている理由も、千歳がどうとかではなく累自身にあるということは、少し考えただけで嫌でもわかってしまった。
帰りたいと思いながら門の前で立ち尽くすのは久々だ。ただしその思いは初日の漠然とした絶望と不安ではなく、非常に明確なものに基づいていた。今からやるのはインターホンを押して、案内されて、部屋に入って、千歳に昨日訪ねることができなかった詫びと説明と、部員が集まったことの報告。
全てが終わってしまえば、累がここへ来る理由は無くなってしまう。その事実を理解してすぐに一抹の寂しさを覚えていた。否定のしようもなく、はっきりと。
けれどまあ、やりたくなくてもやらなければならないことというのは世の中に腐る程あって、これもたまたまその一つだったに過ぎない。そう自分を諭して、累はインターホンを押す。挨拶の前に聞こえた声は朝比奈のものだった。
『あら、烏丸さん……お嬢様ですよね? お待ちください。只今解錠いたします』
「……あざっす」
門が開き、玄関へ向かうと既に数人の使用人と朝比奈が待機していた。もう部屋までの道も覚えてしまったため案内が無くても構わないのだが、朝比奈の後に着いていくことが当たり前にもなりつつある。最後になるかもしれない背中をぼうっと眺めていると、やや歩む速度を落としながら朝比奈が言った。
「昨日は来られませんでしたね。何かご事情があったのでしょうか?」
「まあ、ちょっと……色々あって」
「左様ですか。私はお嬢様に『今日暇だから』とかなんとか言われて無理やり遊びに付き合わされたものですから、烏丸様とご友人の方が来てくださるのは非常にありがたいことだったのだと実感していましたよ」
横並びになり、朝比奈は含蓄のある顔でこちらを見上げる。累が自惚れていないとしたら、その表情と言葉の奥にある可能性は一つだった。
「……もしかして、暗に来てくれって言ってます?」
「さあ、どうでしょう?」
有耶無耶にするとまた前を向いて、彼女は元の速度で歩き出す。
やがて千歳の部屋に到着する。朝比奈は累にゴミ袋を託し、目配せのような何かをするが早いか「どうぞごゆっくり」と丁寧に頭を下げた。おそらく何かしら思うところがあって来訪したことを完全に見抜いているのだろう。千歳も千歳で厄介だが、この人もこの人で手強いから油断ならない。累は軽い礼で返し、小さくなっていく歩き姿を見届けた。
さて、いよいよ来てしまった。正直入りにくいけれど、引き返すという選択肢はもう浮かぶこともなく。意を決してノックを三回。今までで二番目に重い扉を押し開けた。瞬間、耳に届くのはいつも通りのゲーム音だ。そして目に入るのは、ゆっくりと振り向いた、いつも通りの顔。
「あ、烏丸〜」
「……おはよう」
「おはよ〜、っていうか朝に来るなんてどしたの〜? 登校前に寄った感じ〜?」
予想外の来訪にも顔色一つ変えない千歳。それはまるで累が来ることを予見していたのではないかとすら疑ってしまうくらいだった。どんな状況でも平然としているのは古賀もそうだけれど、二人の動じる姿がからきし想像できない。人間ってこんなだったっけ、と思うこともしばしばだ。時に内海を思い出して通常の反応というものを再認識しようと密かに誓う。
千歳がごく自然にクッションを引っ張り出し、累へと手渡す。朝比奈から託されたゴミ袋と交換した後、適当なスペースに腰を落とした。
「やっぱり知らなかったか……今日土曜日だぞ」
「そうなんだ〜? じゃあなんで制服着てるの〜?」
当然の指摘。累は視線を泳がせ、苦し紛れにそれらしい釈明を繰り出す。
「……他に着る服が無かったってことにしてくれ」
「あはは、仕方ないな〜」
どう考えてもそれは嘘でしかないのだが、千歳は追及をせずお菓子の袋を手元に引き寄せた。ほうれんそうの川とこまつなの海のパーティーパックだ。こまつな過激派の千歳は少しでも敵対勢力の母数を減らそうと企んでいるのか、迷いなくほうれんそうを掴み取り押しつける。こちらは中立かつ穏健派なので、ありがたくいただくとしよう。
「で、今日は何する〜? ムンハンとかどう〜?」
「えっと……今日は、そうじゃなくて」
例の如く二つ目のコントローラーを片手に持ちかけた彼女を右手で制する。ここで流されてはいけない。正念場という三文字が頭の中で踊っていた。
「千歳に、話さなきゃならないことがいくつかあるんだ」
「ん〜? 何かな〜?」
千歳はコントローラーを床に置き、こまつなの海をひょいひょいと口に放り込んでいく。仕草が物語る緊張感の無さは、累の心境とあまりにもそぐわない。もしこれが話しやすい雰囲気を作るため意図的に為されたものだったとしたら、もう二度と千歳に足を向けて寝られないどころか毎日拝み倒す必要がある。まずもって何も考えてはいなさそうだが。
クッションの上で胡座から正座に座り直し、累は脳内で話すべき事項の整理をしつつ頭を低くした。
「まず、昨日来られなくて悪かった。もしかして気にしてたりしたか……?」
「全然気にしてないよ〜? ヒナヒナすっごくゲーム下手だから、烏丸たちに比べて相手にもならなかったな〜なんて思ってないし〜?」
「……お前それ朝比奈さんには絶対言うなよ? 折角遊んでくれてんのに……」
詫びを入れている身分ではあるが、流石に朝比奈が哀れに思えて苦言を呈さずにはいられなかった。忠告は果たして千歳に届いたのか否か。それを知るであろう未来の朝比奈の健闘を祈りながら、昨日起きたことについてかいつまんだ説明を行う。千歳は始終面白がって聞いており、特段負の感情を見せなかった。とは言っても千歳がそういった類のものを露わにしたことなど、後にも先にも累が考え無しに放った言葉をめぐるあの一回きりだけれど。
とにかくもう大部分はクリアだ。二つ目は、単に事実伝達をするだけ。
「まあ……あとは、内海が部活に入ってくれることになった」
「お〜。なんとなくさっきの話から察してたけど、よかったね〜?」
「……ああ」
反応は軽かった。それが何を意味するのか、わかっていないわけじゃないだろうに。
千歳は三つ目の小袋を空にして、またコントローラーを累に差し向ける。
「じゃ、話も終わったことだしゲームしよっか〜?」
「え」
言うべきことを言ったら帰るつもりでいたものだから、僅かな戸惑いを覚えた。帰るつもりでいたというか、帰らなければならないのだろうなと。けれど千歳はこちらをゲームに誘っている。いつもの放課後と何ら変わらない表情で。
空いた間は面白いくらいに長くて、なのに千歳も返事を催促しない。散々迷った挙句、累はコントローラーを受け取った。固い決意をしてここへ来たにも関わらず結局流されたようで嫌になる。いや、でも千歳があの事実を聞いてなお累の存在を受け入れているのならこの葛藤は杞憂とも呼べるし、こちらも彼女と遊べるのなら遊びたいとは思っているのだから需要と供給は一致しているのだ。何がいけないというのだろう。そんな具合に正当化をして、二日ぶりのゲームに興じる。
爽快感あるサウンド。コントローラーのスティックを動かす音。たまに横から聞こえる鼻歌。延々と続けられる他愛のない話。千歳との時間はやっぱり楽しくて居心地が良くて、手放すには惜しいとすら感じてしまって。
だがきちんと清算することから逃れた罰とでも言うように、それは突然終わりを迎える。今日も今日とて不運が発揮されたのか、累のコントローラーがエラーを吐き、ゲームが続行不能に陥ってしまったのだ。千歳はエラーコードを確認し顎に手を添えた。
「あ〜、これはたぶんもうちょい待たないと無理なやつかもね〜」
「……数字だけでよくわかるな」
「覚えたら簡単簡単〜」
デフォルトの表情から変化の少ないドヤ顔が向けられる。何はともあれ、累より遥かに機械に造詣のある千歳が言うのだ。きっとすぐには直らないのだろう。
不意に訪れた空白の時間。累にとってはそれが何故だか、最後に与えられたチャンスにも見えた。日和ってしまった後悔を取り戻すかの如く、裏返らない程度に声に力を込める。
「……なあ、千歳。申請書ってまだこの部屋にあるか?」
「ん?」
急にゲーム以外の話をされた千歳が瞬きを二回繰り返す。
「えっとね、あるよ〜? これでしょ〜?」
しかしすぐに気を取り直すと、近辺の物の山からファイルを一枚取り出した。中身は確かに、あの日丑満から受け取った部活の申請書だ。部長以外の部員の氏名を記入する欄には古賀の名前だけがある。
千歳の手によってひらひらと動かされる紙を目で追いながら累は頷いた。
「そこに氏名の記入欄が全部で四つあるだろ」
「あるね〜」
「でも、部活設立に必要なのは最低三人だ。俺と古賀と内海で三人」
三回指を折るのは容易くとも、三回指を折れるようになるまでの経緯は決して容易いものではなかった。おそらく四本目も例外ではない。言葉を挟まずにいる千歳と自分自身に語りかける。
「これでお前が反面教師部に入らなくても俺たちは問題なく活動できるし、退学もしなくて済むことになる」
「……そうだね〜?」
千歳はどんな気持ちで累の言葉を聞いているのだろう。自分は今どんな顔をしているのだろう。知りたいけどとても怖い。そんなことばかりだ。
「けどそしたら、ここに来る理由が無くなる」
教師に頼まれたから嫌々不登校の生徒の家に行った。退学を免れるために部活を作りたいから接触した。ただそれだけの仲だ。
「確かに先生に『学校に来させてやってほしい』とは言われた。けどそれは部活を設立するための人集めのついでで、今となっては三人揃ったからその必要も無くなった。先生からの頼み事のためだけに全力を費やすほどの余裕なんて、俺にはないし」
「……うん」
多くの人間がいる中で自然と絆を深めた友人なんかじゃない。対象は初めから限定されていて、選び取ったものではなくて。そんな関係は偽物だなんて誰に言われるまでもなく、痛いくらいにわかっている。
——でも。
「でも、それは嫌だなって思ったんだよ」
「え?」
累が抱えているのはきっと、偽物だからと言って捨てられる程、意味の無いものなんかでもない。焦ったし、振り回されたし、呆れたし、楽しかった。ある日いきなり変わり果てた日常には、目まぐるしい感情が確かに存在していた。
今だってそうだ。もう来られないかもしれないと思うごとに、寂しさにも似た何かが膨らんでいく。この感情さえも偽物だというのなら、本物とやらは一体世界のどこにあるのだろう。
「……俺はたぶん、千歳に会いたいんだろうな」
「!」
少し見開かれた丸い瞳が、自分が放った言葉の意味の大きさを教えてくれる。それこそ、千歳が動揺するくらいの。
心の底から必死に言葉を掬い上げる。緊張の滲む声と、動悸と、メニュー画面で流れる音だけが響く。
「俺は臆病だから、ここへ通い続けるには……お前に会うためには、何らかの理由が欲しいんだ。例えばクラスが同じだとか、部活が同じだとか、そんなことで構わない」
我ながら面倒な奴だと辟易する。普通なら会うとか会わないだとかは、こうもうだうだと考えるようなことじゃないんだろう。だが何せこちらは、生まれてこの方普通未満なもので。
「最初は先生から言われたことで、今回は俺の我儘で、どっちにしろ気に食わないかもしれない。まあ最初は正直自分のことばっかりで考えが及ばなくて、千歳に嫌な思いをさせたって自覚もあるし。けど今はちゃんとこの言葉を心から言う理由ができたっていうか、つまり……その」
目を瞑れば頭の中で、俺より遥かに普通じゃない奴らが野次を飛ばす。要点が不明瞭です、と。言いたいことあんならさっさと言えよな、と。
こういう時だけは一致団結しやがって。わかった、わかったよ。俺もちょうど、そう思ってたところだ。
「……単刀直入に言う」
恐る恐る目を開ければ彼女の瞳が累を捉える。気圧されそうな程に鮮やかで、優しく背中を押す黄色の光。あれ程口にするのが怖かった言葉も、躊躇うことすら忘れていた。
会いたいんだ。
「学校に、来てくれないか」
それは盛大に間違えた初対面の会話と一言一句変わらない。変わらないのに、きっと何もかもが違う。千歳を見ればすぐにわかった。
「いいよ〜!」
弾んだ声に満面の笑み。その反応の一つ一つが嬉しくて堪らない。真面目な表情が崩れ去り格好のつかなくなった累の顔に、彼女はまた目を細くした。
「そうと決まれば続きやろ〜! もうコントローラー直ったみたいだし〜?」
「え、い、今からか⁉︎」
「何言ってんの〜、まだ朝なんだから一日ゲーム三昧だよ〜?」
「……いや、先に申請書に名前を書いてくれ。気が変わらないうちに。一刻でも早く」
「わ〜、悪徳商法の急かし方だ〜」
明るい部屋も、部屋いっぱいのゲーム音も、交わす会話も変わらない。変わらないのに、昨日までとは確かに何もかもが違っていた。
◆
月曜日の放課後。職員室には反面教師部(仮)が勢揃いしていた。丑満は申請書と場にいる四人を交互に見やると、短い顎髭を手で撫でつつご満悦の様子で頷く。
「ほう、一週間で有言実行とは大したもんだ。部長のお前には優等点……」
「貰えるんすか⁉︎」
「……の代わりに俺からの労いをやろう。あと人の話は最後まで聞けよ、本当に」
そして申請書をぽんとデスクに放り、今度は千歳に目を向ける。
「けどまあ、花柳まで本当に顔見せに来てくれるとはな」
「授業は受けてないけどね〜?」
累の願いを聞き入れてくれはしたものの、彼女は朝からではなく放課後に、しかも普段着のままで登校してきた。それこそ丑満に顔を見せるためだけに。
「とは言え、充分上出来だろ。まずは来ることが大事。あとは継続できたらより良し、ぐらいに思っとけ」
「え〜、もう一生このくらいのハードルで生きていきた〜い」
「副部長とは思えない台詞だな……」
申請書をよく確認しなかった千歳は、部員の欄ではなく副部長の欄に名前を記入していた。消すのも書き直すのも面倒臭いと言い、他二人からも特に異論は無かったからいいものの、決まり方は未だにあまり釈然としていない。まあ副部長というのはえてして、何らかの役職に就いているという旨味を享受し、かつ大した責任を負わなくて済むお得なポジションだ。きっかけがミスとはいえ就任を断らないあたり、そのことも理解しているのだろう。つくづく世渡りの上手いタイプだと、感心と呆れを半分ずつ抱いた。
そんな累と千歳を横目に「まあでも」と内海が腕を組んだまま呟く。
「雪名が副部長になるよりは、よっぽどマシだけどな」
「いや、案外そっちの方が……ん?」
普通に返しかけてから、時間差で違和感がやってくる。その正体を突き止めて思わず内海を二度見してしまった。どうやら千歳も古賀も、ついでに丑満も同じように思ったらしく、三者が三様の表情を彼に向けているではないか。少し遅れて場の全員に見られていることに気付いた内海は、慌てつつ目を三角にする。
「な、なんだよ……」
「だって今ミカさん、ツナ子のこと初めて下の名前で呼んだでしょ〜?」
「……呼んだけど何? 別に……ボクは雪名だけじゃなくて、千歳もそう呼ぶし?」
「え〜、なになに〜? どういう心境の変化〜?」
「う、うっさいな、そんなんどうでもいいだろ!」
嬉しそうな千歳と気恥ずかしそうな内海。おそらく、というかほぼ間違いなく、それは内海が千歳と古賀のことを認めたという証拠だろう。
やり取りを微笑ましく見守っていると、古賀も唇に手を添えて何やら呟き出す。
「……なるほど。呼び方を変えるなんて今まで考えたこともありませんでした。しかし一般的には、そのような方法で親交を深めるのでしょうね」
そして一人で何かに納得した後、内海へ問いかけた。
「では私も乗じることにしましょう。果実さんとお呼びしても?」
「うわ、え⁉︎ い、いいけど気持ち悪っ! なんか寒気したし! っていうかなんでボクたち今になって初対面みたいな会話してんだよ⁉︎」
どうして便乗しようと思ったのだろう。形から入るタイプなのか、それともただ単に興味本位なのか。だが何にせよ、いい機会が出来たかもしれない。累もそんなシチュエーションを経験した記憶など無いのでもちろん慣れているはずもないのだが、今ならなんとなく自然に輪の中へ入れる気がした。
「……じゃあ俺も、名前でいいか? 雪名、果実」
家族以外からの初めての「累」という呼び方を期待して、ほんの少しうずうずしてしまう自分がいる。しかし二人の口から出たのは全くもって想定と異なるものだった。
「もちろん構いませんよ、烏丸さん」
「……うん?」
「揃いも揃ってなんなんだよ……あ〜、もう好きにしろ烏丸の馬鹿野郎! バ烏丸!」
「だからなんで俺だけ苗字なんだよ⁉︎」
千歳もだけれど、下の名前を覚えていないだけなら素直にそう言ってほしい。だって覚えてるのに呼ばれないのはちょっと仲間外れみたいだろ……。
流石に若干の切なさを感じずにはいられない。けれどそんな累にもお構いなく、丑満は呑気に笑みを見せた。
「なんだ、お前ら意外と相性良さそうだな? どうなることかと思ったが、仲良くやれそうで安心安心」
その声には累が聞く限り、本当に安堵が滲んでいる。適当に見えてしっかり心配してくれていたのだと思うと、丑満のことがなんだかんだで良い教師に見えた。申請書を手に取ると、やがて彼が頷きを一つ。
「……よし、漏れは無いな。俺が判子押したら、お前らは今日から正式に反面教師部だ。まずはおめでとう」
終盤の単語に不穏なものを感じつつ、累は頭を下げて礼を言おうとした。したのだが、続く一言がそれを許さない。人間、嫌な予感ばかり当たると言うけれど、今回もその普遍的法則は適用されるようで。
「じゃ、次は期限までに優等点を一人あたり五十ポイントに到達させてくれ。さもなければ今度こそ退学だ」
「……え?」
彼の言葉が途切れるや否や、冷や汗が頬を伝う。瞬時に脳を駆け巡るのは様々な思考。期限はいつまでで部活はどの程度点を稼げるのかだとか、何よりそれは、つい先日優等点がほぼゼロだと告げられたばかりの身にはあまりにも重い課題だとか。
いや、ひょっとしたらまだ話が終わっていない可能性もある。普段通りなら、次に来る逆説の後に救済が与えられるはず。だがそんな期待は丑満の「俺から言っておかなきゃならんことは以上」という言葉により、淡くも消え去ってしまった。彼は千歳と雪名と果実に順繰りで視線を送り、最後に累へ向けてにやりと口端を上げた。
「頑張れよ、問題児ども」
既視感のある顔に既視感のある絶望。まだまだ安心できない状況にも関わらず、何故かしれっとした顔の三人を見て、更に体が重くなったのは言うまでもない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます