1 起/奇

 やたら高級感溢れる住宅地。その一角に構えられた豪邸の門の前で、累は数枚のプリントを手に立ち尽くしていた。私立の進学校というだけあって金持ちが多いのは理解していたつもりだが、ここまで立派な家に足を踏み入れなければならないと思うと既に胃が痛い。「花柳はなやぎ」という表札すら仰々しく、ごく当たり前のように気圧されてしまう。

「……帰りてえ……」

 切な呟きは春風に吹かれ、どこかへ消えていく。もちろん本当に帰ってしまうことも出来るけれど、流石に退学か一時の苦行なら後者を選ばざるを得ないだろう。深い溜息を一つ。そして累はゆっくりとインターホンに指を伸ばした。

 遡ること、数十分前。


 ◆


「今なんて?」

「おいおい、聞いてなかったのか? お前を『反面教師部』の部長に任命する、って言ったんだよ」

「……二回言ってもらって申し訳ないんすけど、全く理解できませんでした」

「あ~? 仕方ねえなあ」

 逆にその一言だけで全容を理解できる人間がいるなら連れてきてほしいものだ。累は早く説明してくれという意を込めた視線を送る。丑満は右手に持った指示棒を左の掌に打ち付けながら、おもむろに口を開いた。

「結論から言うと、お前……正確にはお前らに、救済措置を与えてやる」

「お前ら?」

 当然、状況にそぐわない表現が引っ掛かる。丑満の言い方からしてむしろ追及して欲しいのだろう。それを察して疑問を口にした。教師の求める返答をしたという細やかな気遣いによって優等点が加点されないだろうか、などとふと思う。あまりにも些細な、かつ目に見える善行ではないのでおそらく、というかほぼ間違いなくされないのだけど。

「実はもう一人呼び出してあるんだけどな、生憎ここに大人しく来てくれる程いい子じゃなかったってことだ。ちなみにそいつの優等点はお前より低い」

「……それはヤバいっすね」

「ああ。ヤバい」

 丑満は累の優等点を「ほぼ」ゼロだと言っていた。つまりそのもう一人の優等点は、完全なゼロの可能性があるということか。どう考えても厄介な問題児以外の可能性が残されていない。その生徒のことは全く知らないが、たぶん暴力でコミュニケーションを図るとかそういうタイプだろう。ついでにゴツいピアスが耳の半分以上を埋め尽くしているはず。

 となればこちらはさっさと救済措置とやらに乗っかって、なるべく関わらないようにしたいものだ——などと考えていた矢先。丑満が表情一つ変えず、しれっと爆弾を投げた。

「あいつ、去年から不登校気味らしくてな。だからまずは、そいつを学校に来させて反面教師部に入れてやってくれ」

「はい、わかりま……え?」

 日本語の処理にこれほどの時間をかけたのは初めてだ。脳内で彼の言葉を反芻し、自分が置かれた過酷極まりない状況を無理矢理頭に理解させる。そして想像しうる最悪のシナリオに累の気はとんと滅入ってしまう。ちなみに脳内シミュレーションでは完膚なきまでにボコボコにされていた。

「そんな危険人物と一緒に部活しろと……?」

「危険? お前が何考えてるか知らねーけど、まあ大丈夫だろ。行けばわかる」

「……治療費は先生の負担でお願いします」

「本当に殴られでもしたら考えてやるよ」

 教師の対応がそんなに雑でいいのかと物申したくもなるが、生憎こちらは文句を言える立場ではない。累は諦めて溜息と共に抗議の言葉を空気中に放出し、先程の丑満の発言について切り出す。

「それで、あの……救済措置ってどういうやつっすか? まさか、何でしたっけ。そのー……反面教師部? とかいうトンチキな部活のことじゃないっすよね?」

「え?」

「え?」

 これが漫画なら二人の頭上に三点リーダがコミカルな音とセットでリズムよく表示され、微妙な沈黙を演出していることだろう。

 累がやや呆然として言葉を失っているうちに、丑満は眉を寄せた。

「いや、何言ってんだお前……? それしかないだろ」

「えーっと……詳細も聞かずにこういうこと言いたくないんすけど、なんかもうちょっといい感じのやつ無かったんすかね? ほら、例えば奉仕部とか……」

「……俺だってこんなこと言いたかないがな、お前レベルだともうそういうアレじゃないんだよ」

 彼なりに言葉を選んだのだろうがまるで選べていない。変な部活というのはフィクションでよく見るし、万が一や億が一で「いい感じのやつ」かもしれないと思ったのだけれど。ライトノベルの読みすぎによる副作用が出たのは人生で初めてのことだ。

 無造作に伸ばされた髪をがしがしと掻く丑満。彼は小さな溜息をついて、回転椅子に一層体を預けた。

「とにかくだ、部活って形でならなんとかできる可能性があるんだよ。聞いて驚け、俺が二十分も寝ずに考えた策だぞ」

「……健康的な生活してるみたいで何よりっす」

「おう」

 小ボケにやる気のないツッコミで返しつつ、累はほんの僅かに体を前に傾ける。それは半ば無意識で、この現状をどうにかしたいとずっとどこかで思っていたのかもしれない。

「じゃあ説明……つっても、活動内容は自然とシンプルなもんになるんだけど」

 やがて、丑満の人差し指が立てられた。

「お前らには、他の奴らの反面教師になってもらう」

 再び訪れる二人分の静寂。字面からしてロクな部活じゃないということは察していたが、こうなると本格的に行く末が不安になってしまう。優等点を稼ぐどころか、退学タイムアタックをするようなものではないか、と思わず頭を抱えた。

「……言える立場じゃないのは承知っすけど、俺らのこと救済する気あります?」

「あるっての。とりあえず聞けって」

 丁度立つのも疲れてきた頃合いで、彼が隣の空いた椅子に座るよう促される。一応教師の席ということで気は引けるが、他でもない教師が言うのだからその言葉に甘えてありがたく使わせてもらおう。

 すると丑満はきょろきょろと辺りを見回し、神妙な面持ちで手招きの仕草をした。

「よし。じゃあ耳貸せ耳」

「え? はい」

 素直に口元へ耳を寄せると、恐る恐るという表現がよく似合う声色で、彼が隠された事実を告げる。

「お前らがこれからやるのは、優等点のシステムの穴を突く行為だ」

 言葉が途切れ、体勢を元に戻す。何度目かの微妙な間。丑満の言葉を脳内で噛み砕いた累は、瞬きを複数回繰り返した後にじとりとした視線を向けた。これは聞いてもよかったことなんだろうか。もし聞かされただけでペナルティを課されたりしようものなら、とばっちりもいいところだとぼんやり考える。

「……いや、今の撮られてたらどうするんすか」

「安心しろ。職員室にはカメラもマイクも無い」

 それもそれで衝撃の事実だ。本来なら驚く場面なのだろうけど、怒涛の情報量に表情筋を動かす気力は無くなっている。今できるのは、せいぜい流れに沿った返答くらい。

「なら普通に言えばよかったんじゃ?」

「馬鹿野郎、こんなん情報漏洩なんだから他の先生が黙っちゃいないだろ」

「……それはそうっすね」

築田ちくた先生がいなくて助かったなー」と茶化すように零す丑満。築田はクラスの副担任であり、累が座っているのはまさに彼女の椅子だ。教室での彼女の挨拶からは、厳しさこそ無いものの「真面目な人なのだろう」ということが伝わってきた。確かに彼女がいたら、丑満の言動はとうに咎められているに違いない。

「まあでも、築田先生がいないからといって堂々と話せる内容じゃあない。わかってるとは思うがこれから話すことは口外禁止な」

 ついでに、今さっき話されたことも。口が固い、というよりそもそも話す友人がいない累は、自信を持って頷いた。それを満足そうに見届けて、丑満が最初よりもボリュームを抑えつつ先の発言についての簡単な補足をする。

「優等点っつーのは『いいこと』をしたら加点されて『悪いこと』をしたら減点される。ここまではお前でも知ってることだ。けど実際のとこ、減点の幅は加点の幅よりも小さく設定されてんだよ」

「え、そうなんすか」

「ああ。この学校には減点される程のやんちゃするような奴もほとんどいないから、仮にその仕組みが無くても点は減りにくいだろうが……まあ簡単に言えば『いいこと』と『悪いこと』を同じくらいやったとしても、優等点はそこそこ溜まるってこった」

 だから優等点が低いイコール何もしていない、ということで厳しい評価が下されるのか、と今更ながらに納得する。けれど頭にはすぐに次の疑問が浮かんでいた。

「ん? でも反面教師になることは『いいこと』じゃないから、優等点はマイナスになるだけじゃないんすか?」

「そこだよ、そこに反面教師部の神髄がある」

 腹が立つ類のドヤ顔を披露しながら、丑満が言葉を継ぐ。

「部活に入ってる奴は部活で良い成績を収めると優等点を得られる……あとは、言わなくてもわかるな?」

 累の成績は最下層とは言わないまでも、決して良い部類ではない。しかし彼の言う通り、その先に続くであろう言葉は推測できた。

 とどのつまり、反面教師部と称した部の構成員である以上は『悪いこと』をしたとしても、部の意義に沿った活動とみなされ同時に『いいこと』をしていることになる。そして同程度の行為であれば加点と減点の差し引きが僅かにプラスとなることを利用し、少しずつ優等点を稼いでいこうという算段だ。

 システムの穴を突いた、姑息で小賢しいことこの上ない策。救済措置を用意してくれた丑満には感謝するべきだが、教師に対して心の底から「こいつマジか」という感想を抱くのは、おそらくそう何度もあることではないだろう。

「……理論上は可能だと思いますけど、それって部の設立申請とか通るんすかね」

「部員さえ揃っちまえば審査自体はザルだぞ。まあでも流石に全部を正直に書くのはアレだから、もっともらしい理由とか考えるのはお前に任せる」

 そして渡されたのは、白紙の申請用紙。やろうとしていること自体は褒められたものではないが、ただの問題児に対する措置としてはかなり至れり尽くせりであるように思う。とにかく退学を免れるための道が拓かれたのだ、「暇なんすか?」という言葉は大人しく飲み込んでおこう。

「ありがとうございます、色々」

「なに、お前もわかったと思うが俺は結構暇だから、これくらいはやれるさ。礼なら出世払いでしてもらうから心配無用だ」

 軽く頭を下げた累に向けて、丑満がにやりと笑った。

「頑張れよ、部長」


 ◆


 丑満の力強い激励に一瞬は積極的な心持ちになったけれど、自分以上にどうしようもない人間との対面が確定している鬱々とした状況は変わらない。せめて花柳とかいう生徒のことをもっと詳しく聞いてから訪問すればよかった、と無意味な後悔に指が止まる。おそらく昨日までの累であれば、ここまで来て踵を返していただろう。けれど、今の累には逃げ場などあるはずもなく。

 今からでも申請書を紙飛行機にして屋上から飛ばしてしまえば、全部無かったことにならないだろうか——いや、まずならない。絶対にならない。

 滑稽な現実逃避に身を投じつつ、累は残された唯一の選択肢に手を伸ばした。

「……退学よりはマシ……退学よりはマシ……」

 自己暗示の如くぶつぶつと数回唱えて、どうにでもなれとインターホンを鳴らす。もし花柳がとんでもない暴君で本当に殴られたとしたら、丑満に文句を言えばいい。

「こんにちは……烏丸っす。花柳……さんに会いに来たんすけど……」

 これでいいのかと思いつつ一応の挨拶をすれば、間髪入れず、落ち着いた女性の声が機械越しに累へと向けられた。

『烏丸様ですね、丑満様からお話は伺っております。只今正門を解錠いたしますので、少々お待ちください』

「えっ、あ、うっす……」

 いっそ大袈裟ですらある礼儀正しい応答に、つい怖気付いてしまう。これ程大きな豪邸なのだから使用人の一人や二人やそれ以上いても何ら不思議ではないが、今までそのような存在と無縁の生活を送ってきたのだ。少々挙動不審でも許してほしい。なんだかこの状況が手持無沙汰に感じ、直接持っていたプリントを鞄に仕舞う。

 すると数秒後、門がゆっくりと開き出す。どうやら不審者扱いはされずに済んだらしかった。累はなんとなく門が完全に開くまでその場で突っ立っていたが、やがて先程の女性の声がする。

『どうぞお入りください』

「あ、どうも……」

 もういよいよ後には退けない。ごくりと唾を飲んで、右足から一歩踏み出した。玄関までもやや距離のある小道を歩きながら視線を上に向ける。遥か昔に幼稚園で「住みたいおうちを描きましょう!」と言われた時、確かこんな感じの家を描いたように思う。それくらい花柳の家は、いかにも豪勢な造りをしていた。

 白地に金の装飾が施されている、これまた豪華な玄関の前に立つ。そして取っ手に累が手をかけるより先に、内側から扉が開かれた。右側と左側をそれぞれ担当したらしい使用人は、一人が執事服、もう一人がメイド服に身を包んでいるではないか。

「お待ちしておりました。どうぞ中へ」

 一周回って冷静になり出して、執事はともかくメイドってリアルに存在してるんだな、なんてどうでもいい感想を抱く。玄関には鹿の顔の剥製もあって、まるでフィクションの世界を見ているようだ。

 来客用の高級そうなスリッパに履き替えたところで、また新たなメイドが姿を現した。切り揃えられた艶やかな黒のショートボブに切れ長の瞳。案内役だという彼女は優雅に一礼すると、整った笑顔ではきはきと喋り出す。

「お嬢様のお部屋まで案内させていただきます」

「え、お嬢……?」

「はい。どうぞこちらへ」

 てっきり漫画ばりのヤンキーを想像してしまっていたものだから、少し拍子抜けしてしまった。ヤンキーにこの家は似合わないだろうと感じていたが、お嬢様なら納得だ。とりあえずボコボコに殴られる心配はいらないらしい。しかしそうなると今度は、優等点が限りなくゼロに近いという問題児っぷりが高貴な身分に相応しくないように思う。お嬢様だから勉強が嫌だと我儘を言っている、とかだろうか。

 花柳の姿をぼんやりと想像しながら、赤い絨毯がひかれた廊下を進んでいく。そういえば、第一声を何にしようか全く考えていなかった。たった今日同じクラスになったばかりの女子生徒に突然の来訪をどう説明するのが正解かなんて、青春のせの字も無いような男子高校生には皆目見当がつくわけがないのだ。

 前を歩くメイドが立ち止まる。「こちらでございます」と累へ告げると共に、彼女は扉を三回ノックした。

「お嬢様、烏丸様がいらっしゃいましたよ」

 しかし部屋の中から声は返ってこない。再度声かけとノックをするも、依然変わらず。しゃんとしていた彼女が小さく溜息をつくのを見て緊張がほぐれ、ここへ来て初めて会話らしい会話が交わされる。

「……いないんすかね?」

「いえ……いつものことなんです」

 その言葉の意味を問うよりも先に「失礼」とだけ呟くと、彼女は次の行動に移った。

「お嬢様? 入りますよ⁉︎」

 彼女がドアノブを回す。そして、廊下と部屋が僅かな隙間で繋がる瞬間、大ボリュームの電子音が一気に溢れ出した。一瞬怯んでしまう程のそれは、部屋の中にゲームセンターがあると言われても納得してしまうくらいだ。予想外のことに呆然としかけるが、そんな暇すらも与えられることはない。

 扉が開け放たれて目に入ったのは、一言で言えば惨状。

「お、ヒナヒナ~ご飯持って来てくれたの?」

 気の抜けた声は、ペットボトルやお菓子のゴミ、積まれたゲームの中から発されていたようだった。やがて、どこか眠たそうな目をした白髪の少女がひょこりと顔を覗かせる。だぼついたパジャマに寝癖のついた髪。彼女の出で立ちは、脳内で思い描いた深窓の令嬢とは遥か程遠い。自分でも知らず知らずのうちに開いた口が塞がらなくなっていた。

「違います、先程RINEでお客様をお連れすると連絡したでしょうが」

「あ~、確かにそうだったかも~」

 流れるように二人の間で軽いやり取りが交わされる。段々と、ヒナヒナってなんだとか、主従関係でもRINEは交換してるのかとか、平凡な思考が出来る程度の余裕が生まれていく。だが、それにしても全てが予想の斜め上、と言うより斜め下だ。

「で、その人が烏丸~?」

 更に体を傾けた花柳が、ようやく累の存在を捉える。薄暗い部屋でテレビゲームの光を反射する黄色い瞳にたじろいでしまいそうになったのは、花柳があまりにも想像と違っていたからだろうか。強いて動揺を隠そうと、短い返事を一つだけ。

「……ああ……」

「そうですよ。わざわざお嬢様のために来てくださったんです」

「そっか~、それはお疲れ様だね~。いらっしゃ~い」

 花柳はコントローラーを左手に握ったまま、右手をひらりと振ってみせた。ヒナヒナと呼ばれていたメイドは先程よりも大きくわざとらしい溜息をつくと、どこからか取り出したゴミ袋を花柳に向けて放り投げる。そのやや粗野にも見える振る舞いに面食らっていると、ヒナヒナとやらは累のことなどお構いなしに説教の雨を降らす。

「ったく……お客様が来るというのにこの有様だなんて信じられません、今日という今日は部屋を綺麗にしてもらいますよ。後で回収しに来ますから、烏丸様がお帰りになるまでにその辺のゴミはまとめておいてください。いいですね?」

「はいは~い、了解了解~」

 花柳の返事は本当に聞いていたのかと問いたくなるくらい張り合いの無いものだったが、紙一重で許されたのかこれ以上言っても無駄だと判断されたのか、ヒナヒナがくるりと向き直り礼儀正しくお辞儀をした。

「では烏丸様、私はこれで。お客様の前で見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ございませんでした。どうぞごゆっくりお過ごしください」

「あ、はい。どうも……」

 ようやく部屋に入るよう促されたが、当然断れるはずもないので素直に足を踏み入れる。扉が閉まって、部屋は累と花柳だけの空間と化す。

「あー……えっと、一つ聞いていいか? ヒナヒナって……」

 想定外の連続に自分でも焦っているのがわかっていた。そうでなければ元来の性格からして、必死に何か話をしようだなんて思うはずがない。初対面の相手だ、最初は自己紹介から始めるのが普通だろう。けれどセオリーに反した唐突な質問にも、花柳は動じることなくさらりと答えてみせた。まるで気心知れた友人同士の何気ない会話のように。

「さっきのメイドの朝比奈さんだよ~、朝比奈だからヒナヒナ!」

「ああ、なるほど……」

 少しゲームの音量を下げてくれたのか、ヒナヒナ、もとい朝比奈が扉を開けた時よりも声は聞き取りやすくなっていた。花柳は数回部屋の中を見回してから「ここ座って〜」と、辛うじて一人分空いたスペースを手で示す。返事か礼かの区別もつかない曖昧な反応を受けて、満足そうに頷く花柳。それから、座りきるか座りきらないかというところで、累はやっと目の前の問題児の本名を知る。

「あ、わたし花柳千歳ちとせ。よろしく~」

「……烏丸累」

 一目でわかる通り本当にだらしないのだろうが、お嬢様の割にはかなり親しみやすい雰囲気だ。朝比奈が彼女に対して袋を投げたりと雑な扱いが出来るのも、きっと本人が纏う緩い雰囲気によるものに違いない。

「うんうん、烏丸だね。え~っと、それで今日は何の用事で来たのかな?」

「ああ……まあ来たっていうか、来させられたっていうか……」

 どう説明しようものかと目線が泳いだ。そのついでに少々不躾ながら部屋全体を一瞥する。

 床に散らかった娯楽の跡とは対照的に、壁や天井は金持ちの家そのものだ。七桁はしそうなシャンデリアや、精巧な模様が描かれたシルクのカーテン。使われた形跡は無いが、よく見れば暖炉も備えられていた。良い部屋なのに勿体ない使い方してるな、と庶民らしい感想を抱く。

 あまりじろじろと観察しすぎないよう、花柳に視線を戻した。次いで未完成のシミュレーションを思い出しながら、累は十数秒前よりも僅かに声を張って。

 それは、上手くやれば退学せずに済むというたった一つの動機による、半ば強引な手段。

「……単刀直入に言う。学校に、来てくれないか」

 言い終わった途端、テレビゲームのタイトル画面のBGMだけがやけに騒がしく場を支配する。厳密にいえば沈黙ではないというのに、花柳の返答を待つ時間は何故かどうしようもなくきまずく感じられた。自然と顔を落として彼女と目が合わないようにしていたことすら自覚できないくらい。

 どれくらい経っただろうか。やがて、花柳の声が降ってくる。

「……あ~、なんだ」

 思わずばっと顔を上げた。数分前と同じく間延びした、けれど全てを撥ねつけるような、冷たさを孕んだ声音。一瞬で、ああ間違えたんだ、と気付く。

「……そういう感じ?」

 強く殴られた気がした。だというのに、花柳はへらりとした笑顔を貼り付けたまま剥がさない。それが余計に己の言動の愚かさを自覚させる。彼女が抱えているかもしれない理由も、聞きたくないかもしれない言葉も、傷つくかもしれない可能性も、一つだって考えられていなかったということを。

 何してんだ、俺。

「っ違う、今のは」

「や、気にしなくていいよ。慣れてるし~」

「待ってくれ花柳、聞いてほしい」

 優等点が低いというだけの共通点で、立場が全く異なることすら忘れてしまうとは。花柳は、惰性で学校に行って何もしていないだけの累とは違う。おそらく事情があって登校していないのだろう。しかも「慣れている」と言った。それは以前もこんな風に、相手のことなど考えもしない自己満足に苦しめられていたということだ。

 累は正座をし頭を下げた。花柳の声はもうとっくに温度を取り戻していたが、だからといってなあなあにしていいわけがない。

「悪かった。俺、自分のことばっかりで……」

「も~大丈夫だって言ってるじゃんか~」

 無理矢理両手で掴まれて、物理的に頭を上げさせられる。大丈夫だという言葉がどこまで本当なのかはわからないが、向けられた表情も頭を掴む手付きも、そして声のトーンも、先程より穏やかなものに思えた。

 累の頭から手を離し、床に埋もれた何かを探す素振りをする花柳。

「ほら、逆にそんな重く捉えられてもって感じだから。とりあえずゲームしよ~」

「いやでも……うん?」

「ヒナヒナとも昔は一緒にゲームしてたんだけど、最近遊んでくれなくなっちゃってさ~? だから、ね? 折角来たんだし~」

「え、いや、今はそういうのじゃ……」

「あったあった~」と二つ目のコントローラーを発掘した花柳は悪戯っぽく笑う。累のささやかな抵抗など、聞き入れてやるつもりはないとでも言うように。手渡されたコントローラーのボタンにあるマークは、花柳が持つそれよりも遥かにはっきりと残っていた。

「お願い烏丸。罪滅ぼしだと思って、さ」

 そう言われると飲み込むしかない。たぶん花柳も、そのことを理解してわざと言っているのだろう。諦めて両手でコントローラーを握り、カチャカチャと手に馴染ませてみた。

「……わかったよ」

「やった~」

「でもゲームするなら電気付けてからな、目悪くなるだろ」

「うわ、烏丸お母さんじゃ~ん」

「生憎お前みたいなのを産んだ覚えは無え」

 今日会ったばかりで、よりによって致命的すぎるディスコミュニケーションをするなんて。すんなりいくとは最初から思っていなかったが、初手としては最悪に近い。それでも大体は、これまでの自分と今日の自分による自業自得だ。退くという選択肢など残されてはいないはず。

「ね、スモブラでいい~?」

「……なあ、花柳」

「うん?」

 だから、悪足掻きをする。それはあんなに軽率な発言をしておきながら、花柳と関わるという決断のこと。謝って仲直りするなんて、友人みたいな過程を踏むこと。そうしないともうここに来られないだろうと累は確信していた。

 もちろん、主目的は変わらず退学の回避だ。けれどただそれだけじゃなく、花柳への償いと、許してほしいというほんの少しの甘えがたった今、純粋な利己の中に加えられた。

「ごめん」

「……うん」

 誰がどう見ても今さっきの累がしたのは、反面教師部の部長とかいうふざけた肩書に見合ってしまう、どうしようもない言動だ。この部屋にもカメラとマイクがあったなら、皮肉なことに優等点はプラスになっていただろう。彼女に与えた心証とは全くもって裏腹に。

 けれど、それでも、目が合って花柳は黄色い瞳を細めた。ずっとタイトルで止まっていた画面から抜け出すように、スタートのボタンを押しながら。

「いいよ」


 ◆


「烏丸、わたしいいこと思いついちゃった~」

「……どうせロクでもないんだろうけど聞いてやるよ」

「烏丸がわたしに勝てるまで帰れま10《テン》とかどう~?」

「しれっと監禁宣言すんな」

 遥か昔に友人と対戦した以来でブランクがあったのは事実だが、それすらも言い訳として機能しない程に圧倒的な大差をつけられて累は花柳(ハンディキャップ有)に連敗し続けていた。もちろん、純粋なゲームスキルも花柳に遠く及ばない。しかしそれに加え、ステージやアイテムなどの運要素にことごとく恵まれなかったというのも、大いに原因の一つと言える。

「にしても烏丸さあ、もしかしてめちゃくちゃ運悪い~?」

「そうだな、認めたくはないけど」

「あはは、やっぱり~? そうじゃないと説明つかないし~」

 何回もの対戦で花柳はこのゲームにかなり詳しいと判明している。あらゆるケースを知り尽くしているであろう花柳にこうまで言わせるということは、つまりそういうことだ。

「……俺の不運ってそのレベルなのか……」

「そのレベルだね~」

 言われるまでもなくわかってはいたけれども、改めて突きつけられると微妙な気分になるのも無理はない。アイデンティティとしては些か悲惨すぎやしないだろうか。六戦目くらいで「俺とやってて楽しいか?」と聞いたところ「珍しいもの見れてるから楽しい~」と返された。今になって花柳の発言の意味を理解する。それはどうやら本当らしく、花柳は「次いこ次~」と上機嫌でコントローラーを余分にいじっている。もう断るという発想も無くなりつつある中で、累も無意識にスティックを動かした。

 打ち解けてきたと思ってもいいのだろうか。同じ轍は踏むまいと肝に銘じたばかりだが、当初の目的を忘れているわけでもない。やがて同じ部活の仲間になるかもしれない花柳には、聞いておきたいと感じることがある。すぐさま核心に触れるとまではいかずとも、少しずつ歩み寄るための取っ掛かりのようなものが欲しかった。対戦も終盤、花柳の操作するキャラクターへと距離を詰め、累は呟く。

「花柳」

「ん~?」

 二人とも、画面を見つめたまま、手を動かしたまま。彼女の意識がこちらに向きすぎていない状況が心理的なハードルを下げてくれるように思う。キャラクター同士の距離感を測りながら、累は探り探りで言葉を紡ぐ。

「不登……学校に来ない理由とか、何かあったりするのか?」

「え~、気になる?」

 タイミングを見て技を放つが、同時にガードされてしまう。後隙にカウンターを食らうことのないよう、一旦飛び退いて体勢を整えた。

「いや、言いたくないなら無理には聞かない。けどやっぱり少し気になって……仮に花柳が話してくれるなら聞きたいってだけだ。任せるよ」

「……ふ~ん? じゃあ特別に教えよっかな~」

「え、ああ……」

 攻撃を受け、累のキャラクターが宙に浮く。そして寸前までいた場所に強力なアイテムが投下される。チャンスとばかりに花柳のキャラクターがアイテムを回収し、一気に近付いて技の予備動作を行う。ちらと画面下部の状態を確認する。ダメージ蓄積はあまりしていない。一撃で吹き飛ばされる可能性はほとんど無いと言って差し支えないだろう。余程運が悪くなければ、の話だが。

「わたしが学校に行かないのはね、学校に行くのがめんどくさいからだよ~」

 大技を入れられ、一瞬で場外へ飛ばされるキャラクター。残機は既にゼロだった。威勢の良い男性の声で、無情にもゲームセットが告げられる。リザルト画面に移行して数秒、ようやくフリーズから解ける累。

「……ん?」

 反射的に右側の花柳へ向き直った。花柳は左手の指を折りながら、理由と呼べるのか怪しい理由を連ねていく。

「まず朝起きるのが大変でしょ~? それに学校まで歩くのが疲れるし~、授業中はゲーム出来ないし~、寝たら怒られるし~」

「え、えっ? ちょっと待ってくれ。俺てっきり、誰かに何かされたとか、辛いことがあったとか、そういう……」

「ええ~? そんなわけないじゃ~ん、重く捉えないでって言ったでしょ?」

「……」

 思いも寄らない回答に全身の力が抜ける。別に、何か大層なことがあってほしかったわけじゃない。もちろん花柳が辛い思いをしていないならそれが一番だ。けれど、それとは別に気遣いを返してほしいという気持ちもあり。

「お前な……じゃあ、もし退学になるかもしれないって言われたらどうするんだ?」

「え~、まあそうなったらここでゴロゴロして暮らそうかな~? かじれる脛はかじり尽くさないとね~」

 本日二度目になる「こいつマジか」の視線を向けた。ふてぶてしいとはまさにこのことだろう。花柳の辞書に、罪悪感という文字は存在しないらしい。累の視線の意味に気付いていないのか、それとも気付いていて無視しているのか、花柳が対戦を続行しようとした。しかしその時、床に転がっていた彼女のスマートフォンから軽快な通知音が鳴る。

「ん? あ、ヒナヒナからRINEだ~」

「朝比奈さんか。何だって?」

「え~っとね、遅いからそろそろ烏丸帰してあげてって言ってる~」

「あー……もうそんな時間なんだな、長居して悪かった」

「いやいや、謝ることじゃないって~。遊んでくれてありがとね~」

 入った時よりも明るくなった部屋は、カーテンから漏れた夕陽でオレンジ色に染まっていた。日の長い季節だ。暗くなってこそいないが、確かにここに来てからかなり時間が経っている。時間の流れはあっという間で、久々に楽しくて、いざ帰るとなると名残惜しさすら感じてしまう。絶対に本人には言えないし、言ってやるつもりもないけれど。

 累は帰宅の準備をしようと鞄を手元に引き寄せた。その弾みに視界に映り込んだのは、空っぽのゴミ袋。

「……そういえば、お前朝比奈さんにゴミまとめろって言われてなかったか?」

「あ~、まあどうせ後でヒナヒナが文句言いつつ片付けてくれるから大丈夫~」

「人任せにも程があるだろ……」

 花柳の発言で完全に確信する。俺なんかよりもこいつの方が、遥かに反面教師に向いていると。もし花柳が反面教師部に入ったとしたら、とんでもないスピードで優等点を稼ぐことになるかもしれない。そんな風に考えてふと、鞄に眠ったままのプリントの存在を思い出す。部活名と累の名前しか記入されていない、いつ生徒会に提出できるかもわからないプリントを。

 数秒考えて、累は鞄のファイルを取り出した。不用意なことをしたくない一心で反面教師部の話を避けていたが、これではただゲームをしに来ただけだ。無理強いは出来ないが、自分の将来のためにも、諦めるという決断はもっと出来たことではないだろう。せめて、きっかけを掴むための提案くらいはしておきたい。なけなしの勇気未満の何かを振り絞って、ファイルを握る右手に力を込めた。

「……なあ、花柳」

「あ、それちょっとストップ~」

「えっ?」

 想定していなかった制止に間の抜けた声が出る。累の声の調子に少し口端を上げつつ、花柳は言葉を継ぐ。

「いつ言おうかな~って思ってたんだけど、ちょうどいいから今言うね~」

「な、何だ……?」

「わたし自分の苗字好きじゃないから、次からは下の名前で呼んでほしいな~」

 言葉の処理にやたらと時間がかかる。さらりと言ってのけるには、あまりにも色々な意味を持つ言葉のように思えた。思わず復唱して、聞き間違いでないことを確認しなければならなかった程。

「……次から?」

「次から~」

 累の中には、ファイルを取り出す代わりに飲み込んだ言葉があった。それは「また来てもいいか」という取るに足らない、そのくせ腰抜けにとっては口にすることすら怖くなるもので。

 けれど花柳は「次」をくれた。ごく当たり前のように、軽々と。それが純粋に嬉しくて、素直に告げてしまうにはやっぱり臆病すぎる自分がいて、なんだか心が浮ついてしまう。いい奴じゃないし部屋は汚いのに、この数時間は累にとって確かに居心地のいいものだった。不思議なこともあるものだ。嫌々訪れたはずが、また来られるという事実を噛みしめるまでになるなんて。

 混ざり合う感情を押しのけ、滲む喜びを隠しながら、強いて呟いた。

「……わかったよ、千歳」

 すると千歳は何故かにやにやしていた。しかしそれがデフォルトの表情の延長なのかこちらの反応を面白がってのものなのか不明なので、謎の笑顔には触れることなく当初の目的の遂行を優先する。累はその顔やめろという視線を送りつつファイルの中身を手渡した。

「じゃあこれ、渡しておくから」

「うん? なになに~?」

「部活の申請書。詳しいことはまた今度来た時に話す」

 申請書を受け取るや否や、千歳は得体の知れない表記に興味を示す。ただしこの興味というのはおそらく、というか十中八九、他人事として面白がっているだけのものだろう。

「……今のところ、学校に来る気は無さそうだけどな」

「ん~、まあゲームより面白いなら考えとく~」

「そうか……」

「うん、じゃあまたね〜」

 ほぼ不可能とも言える条件を提示され、再び力が抜けた。あまり実現できるとは思えないが「いや無理だろ」と返さなかっただけでも、ひょっとしたら進歩かもしれない。あるいは進歩ではないかもしれない。なんにせよ、依然として累は崖っぷちに立たされたままだ。変わったことと言えば、より落ちそうな位置にのほほんと立っている千歳が視界に加わったことだろうか。

 千歳と朝比奈とその他大勢の使用人に見送られた後、とっぷりと日の暮れた空の下を歩く。信号が点滅を繰り返して半強制的に累の歩みを止める。これまでのこととこれからのことを考えて、すぐに消えてしまうくらいの他愛もない呟きを、空気中へ一つ放った。

「……退学したくねえ……」


 ◆


「で、花柳はどうだった?」

「それはもうボコボコにされましたね」

「おおそうか、俺の目には外傷一つ見当たらないけどな。とりあえず大きなトラブルが無いようでよかったよ」

「いいわけないでしょ、あいつのこと引っ張ってくるとか絶対無理っすよ。トラブルが無いっていうか千歳自身がトラブルみたいなもんなんすから」

「おっ? なんだなんだ、随分仲良くなったみたいじゃねーか。『千歳』と」

「……法律さえ無ければ殴ってました」

「はは、ボコボコにされるのは俺だってオチか? 優等点やりたいくらいだな」

 二年生になって二日目の朝、累は丑満に呼び出され職員室で成果報告を行っていた。行っていた、というよりたった今早々に行い終わった。当初想定していた最悪のシナリオに比べれば幾分かマシではあったものの、大して報告するような成果も無かったというのが正直なところだからだ。

 しかし丑満はわかっていたと言わんばかりの事もなげな様子で頬杖をつく。

「まあ、あれだ。初めからトントン拍子っつーのも現実的じゃないだろ。それくらいは俺も想定済みだったし」

「え、つまりダメ元で行かせたと……?」

「おいおい、人聞き悪くないか? けど、その様子だと知らないみたいだな」

「何をっすか?」

 返答に代えて、彼が真ん中の引き出しから予備の申請書を一枚取り出した。昨日自分の名前を記入する際に目を通したばかりなのでレイアウトは記憶に新しい。しかし改めてよく見ろと言われている気がしたので、もう一度まじまじと細部を確認する。やがて、累はあることに気が付いた。

「あ、これ部員のところ……」

「そう、部長の他に三人分の名前を記入する必要がある。つまり?」

「……俺と千歳だけじゃ申請は出来ないってことっすか?」

「正解」

 かなり危機的な状況に置かれ、自分が記入する欄を埋めることで頭がいっぱいだった。だがそうなると、新たな問題が発生してしまうのではないだろうか。今度はすぐにそれに気付き、昨日ぶりに血の気の引く感覚に襲われる。

「……え、待ってくださいよ、あと二人も集めなきゃならないとか……!」

「落ち着けー、話聞けー、緑茶飲むか?」

「いや先生の飲みかけならいらないっす」

「よし。ムカつくけど最低限の冷静さは残ってるな」

 こちらへ寄せた湯呑を引き戻し、丑満はそれをぐいっと飲み干した。ご丁寧に口元を拭ってから、体を累に向け、仕切り直すように両手を組む。

「記入欄は部長を含めて一応四つ用意されてるが、部活設立に必要な人数は最低三人だ。そんで今から俺は、あと二人の生徒をお前に紹介してやろうと思う。そいつらもあと一歩で退学宣告ギリギリの似た者同士だしな」

 微妙に合点のいっていない累を見て、丑満が続ける。

「だから、もし花柳を引き入れられなくても、反面教師部は設立出来る」

「でも……」

「まあ待て待て、まだ少し時間あんだろ? そう焦るなよ」

「……焦ってないっすけど」

「わかったわかった」

 何故か咄嗟に抗議の言葉が口を突いて出ようとしていた。目的は退学の回避であり、それは反面教師部が無事に設立されればおのずと達成されるであろうことだ。少し居心地が良かったからといってわざわざ千歳にこだわる必要はどこにもない。いや、自分としては別にこだわっているつもりも無いのだけれど、何か誤解していそうな丑満の物言いがやや腑に落ちない。ついでに、軽くあしらわれたことも。だが恨めし気な視線を受け流し、丑満は資料を手に取って眺め出す。

「えーと……うん、この二人だな。じゃあさくっと説明するぞ」


 ◆


 渡された資料を斜め読みしながら、累は職員室から教室へ向かう。二人の生徒はどちらも累や千歳ほどではないが優等点が低く、反面教師部に入部することで優等点が伸ばせる見込みのある人材らしい。「そういうの教えていいんすか?」と尋ねたところ案の定「いいわけないだろ」と返されたが、丑満は共犯であり恩人でもあるので、細かいことは気にしないでおこう。

 まだ馴染みのない教室へ足を踏み入れる。ホームルームまではあと十五分ほどあり、登校している生徒としていない生徒が半々程度のまばらな状態だった。累はすぐに資料を確認し、二人の生徒の姿を探す。一人は昨日教室に来ていなかった気がするし、今も見当たらない。となれば、もう一人が来てくれていないと困るのだが。

「……あ」

 数秒ぐるりと見回したところで、資料に載った顔写真にそっくりな人物を見つける。名前は古賀こが雪名せつな。薄紫の髪を後ろで一つに束ねる彼女は、かなり成績優秀な女子生徒だという。にも関わらず何故か優等点が低く、反面教師部での救済が望まれるらしい。丑満が教えようとしなかったためにその理由がわからず不思議に思ったが、自分の頭の中だけで疑問を呈していても始まらないだろう、と累は彼女の席へ近づいた。きっと大丈夫だ。千歳とは違って学校にきちんと来て勉強もしているのだし、二の舞を演じることは無いはず。

 資料を鞄へ仕舞い、静かに本を読む彼女に斜め後ろから声をかけた。

「……古賀、だよな? ちょっといいか?」

 呼びかけに反応し、ぱっと顔が上がる。片目が髪で隠れているが、見えている方の青い瞳には確かに芯があるように見えた。しかし彼女は累と目が合うと一瞬だけ明後日の方向へ逸らし、また戻して言葉を返す。どこか上品さを感じさせる、いかにもまともな女子という雰囲気だ。千歳の横柄とも言える態度を見たからか、彼女が良心そのものに見えた。

「はい。何でしょうか?」

「実は話があるんだ。突然で悪いんだけど、聞いてほしい」

 二度瞬きをした後、静かに本を閉じた古賀。次いで向けられた言葉が彼女から発されたものであると気付くには、しばしの時間を要した。

「わかりました、見る目があるんですね。聞いてあげてもいいですよ」

「……え?」

「え?」

 なぜなら、優雅な佇まいから飛び出すには、発言とのギャップが大きすぎたからだ。

 見る目があるとはどういう意味だろうか。それに謎の上から目線も気になる。累の胸中は瞬時に嫌な予感で埋め尽くされた。

「……いや、なんでもない……」

「? そうですか。なら早く話してくれると嬉しいです」

 何だこのいちいち棘のある言い方は——と考えてから、人見知りで緊張して少し言葉選びを間違えてしまっているだけかもしれない、という可能性に辿り着く。あらゆる可能性を考慮すべしという、昨日千歳の件で反省したことを活かせている自分を褒めてやりたい。

 累は軽く息を吸って話し出す。

「ちょっと今、部員を集めてて……古賀、部活入ってないって聞いたから」

 すると古賀は少し面食らったような表情をした。そこに特段の感情のようなものが含まれていないことに、図らずも一種の不気味さを覚えてしまう。だがそんな累の様子も気にかけることなく、彼女は次々爆弾を投げていく。

「なるほど、告白じゃないんですか。ですが初対面ですよね? どうして私の部活を知っているんですか? 私のことが好きなら、そう言ってください」

「……」

 クエスチョンマークが浮かんで止まらない。半ば理解を諦め思考停止に陥っている自分がいた。人はそれを、俗にドン引きと呼ぶ。

 前言撤回だ。古賀は良心なんかじゃない。ひょっとしてこれはもう、千歳が良心に見えてくるレベルなんじゃないだろうか。千歳に対しては「こいつマジか」と思いつつ関わっていけるだろうと感じているが、古賀は「ヤバい」と本能が言っていた。たぶん今、顔色が死ぬほど悪い。誰でもいいから助けてくれ。

 無意味に神へ祈りながら、累はやっとのことで言葉を絞り出す。

「誤解だよ……別に好きじゃないし、部活に入ってないのは先生に聞いたからで……」

「え? なら気になってはいるってことですよね? はっきり言ってもらわないと、私も返事が出来ないんですが」

 ダメだこいつ、と瞬時に悟った累は撤退の決断をする。これ以上話していても誤解に誤解を重ねてしまうだけだ。あと普通に精神力が削られていく。

「だから誤解だって……」

「何がでしょうか? あ、立ったままでは疲れるでしょう、座ってお話した方が……」

「……いや、詳しいことはまた今度話すよ。じゃあ俺もう行くからまたな古賀」

 早口でまくし立てて口を挟ませないのが関の山だ。そそくさと立ち去ろうとするのを古賀が引き留めることはない。引き留められても正直困るけれど。それにしても短時間でどっと疲れた。せめて溜まった邪気でも吐き出せないかと大きな溜息をつきながら、自分の席へと退散する。

 その時ちょうど、何かを踏んで大きく体勢を崩した。

「っ⁉︎」

 累は咄嗟に受け身を取る。正確に取れているかは定かではないが不運により幾度となく転倒してきた経験から、自分なりにダメージを軽減する転び方を身に付けていた。背中にそこそこの衝撃を受けて、間を置かず降ってきたのは男子生徒の良く通る声。

「ごめん、大丈夫か⁉︎ それ俺のシャーペンかも!」

「あー……全然大丈夫だ」

「マジ悪い! 背中お大事にな!」

 体を起こして振り返ると、確かにシャーペンが床に転がっていた。古賀の元へ向かう時には無かったはずだから、ついさっき落としたとかそんなところだろう。正直日常茶飯事すぎて謝らなくてもいいのにという気持ちですらあるのだが。雑に背中の埃を手が届く範囲で払いつつ、今度こそ席へと戻った。そして鞄を机に置くと同時に、先程までなかったものが再び目に入る。

「……なあおまえ、ほんとに大丈夫だったの? 痛そうだったけど」

「え? ああ、あれくらいなんとも……」

 昨日は学校に来ていなかった隣の席の生徒。初対面のはずだというのに何故か強い既視感を覚えた。愛らしくどこか幼い顔立ち。その正体は、時間のかからないうちに突き止められる。

「……あ、お前か!」

「は? 何だよ急に……」

 荷物を取り出すよりも先に右側に身を乗り出す。古賀のインパクトが強すぎてもう一人の存在を忘れてしまうところだったが、赤いボブヘアは資料で見たそれと同じだ。そういえば名前もかなり独特だったような、と人差し指でくるくる円を描きながら記憶の棚を漁る。その様子を見つめる紫の瞳は累への不審に満ち溢れていた。

「えーっと、内海うつみ……果実かじつ?」

「……『かさね』な。果実って書いて果実かさね

「あー、そうだったのか。悪い」

「別にいいよ。初見で読める名前じゃないし」

 ぶかぶかのカーディガンにすっぽりと隠れた手で頬杖をつく内海。だがそれにしたって、あまりにもスムーズな会話に何故か拍子抜けした。この二日で変な奴としか会話していなかったからか、内海もそうなのかと疑ってしまう。真実を確かめるように、古賀であれば言われていたであろうことについて恐る恐る尋ねてみる。

「……なんで昨日学校来てないのに名前知ってるんだとか、聞かないのか?」

「はあ? 名簿あるんだから知っててもおかしくないだろ」

「いや、そうだよな普通……うん、ありがとうな内海……」

「何おまえ……? 意味わかんないんだけど……」

 内海は僅かに身を遠ざけた。もしかしなくても引かれているのだろうか、そんな謂れはないはずなのだが。これも基準となった古賀があまりにもぶっ飛んでいたからにすぎないので、全て彼女のせいにしよう。

「とにかく、ちょっと話があるんだけど聞いてくれるか? 重要なことなんだ」

「ボクはいいけど……先に教科書とか出しておけば」

「ああ、確かにそれもそうだな」

 急いで鞄の中身を引っ張り出す。現代文の教科書を持ってき忘れたが、確か今日は国語といっても古典だから問題ないはずだ。まあ一応メモでも取っておこうか、などと考えたところで、未だ内海の視線が自分から離されていないことを認識する。内海の方を向くと、不機嫌なのか何なのかわからない視線とかち合う。

「ど、どうした?」

「……おまえこそ、ボクのこと聞かないのな」

「え、俺がお前に何か聞くようなことあったか……?」

「は? 盲目?」

 苛立ちを隠そうともせず、内海は黒いニーソックスに包まれた脚を組み替えた。発言の意図を一瞬掴みかねたが、すぐに合点がいく。内海が胸元に付けているのはネクタイ、一方で履いているのはチェックのスカート。ここ将斉高校では、男子がネクタイとスラックス、女子がリボンとスカートを身に付けるよう指定されているのだ。校則違反でもあるちぐはぐなそれらの要素を疑問に思わないのか、ということだろう。

「えーと……服装の話か。触れた方がよかったのか?」

「別にそういう話じゃないから」

「ええ……?」

 多少気難しい性格なのかもしれないが、正直なところ千歳や古賀に比べるととんでもなくまともに思えて、些細な服装の差異や性別に関してのことなど全くもって気にもならなかった。強いて言うなら内海の優等点が低いのは服装が校則に違反しているからかもしれない、というくらいで。

 とりあえず結局触れるのが正解なのか触れないのが正解なのかわからなかったので、先んじて累は予防線を張っておく。

「悪い。性別がどうとか、俺はあんまり気にしないから……」

「ふーん……って、え? いや待って、おまえボクの性別知ってんの?」

 攻撃的な視線を向けていた大きな目が途端に丸くなる。累は内海の質問に半ば無意識で頷いた。まあ、丑満の説明と彼から貰った資料に思い切り「男」と記載されていたからに過ぎないのだが。とにかく馬鹿正直に言えば怪しまれるのは確実なので、それなりに茶を濁しつつ肯定で返した。

「知ってるには知ってる……って感じ、だな」

「……あっそ。まあボクあんま学校に来るかわかんないけど、隣だし少しはよろしく」

「ああ、よろしく内海。お前だけが頼りだ」

「さっきから何なのおまえ……?」

 客観的に見て少し不可解な累の言動に戸惑うその姿は、言われなければ女子生徒にしか見えない。華奢で線が細く可愛らしい顔をしており、なんなら男だと言われても尚疑う人間もいるだろう。服装抜きで判断するのは難しく、やや中性的な声であり、よく見れば喉仏が視認出来るか否かという程度。生憎、今はそのことに感動している暇は無いのだが。

「で? 話って何だよ」

「そうだったな……まあ結論から言うと、部活に入ってほしいんだ」

「はあ? 部活?」

 聞くと露骨に嫌そうな顔をする内海。ここまでは想定内だ。しかし瞬きの後に続く発言は、予想していなかったものだった。

「……わかった。おまえさ、どうせ教師に言われたんだろ。『仲良くしてやってくれ』とか」

「えっ」

 いきなり図星を突かれ、つい狼狽えてしまう。まさか言い当てられるとは思わなかったのが一つ。そして彼の口ぶりに教師への不信感と辟易が見て取れたのが一つ。

 こちらの返事を待たずして、内海は溜息交じりに毒を吐いた。

「ほんと、余計なお世話だっての。首突っ込むのも大概にしろよ」

 彼の教師嫌いの理由を推測するのは特段難しいことでもなかった。累は内海の短いスカートを視界の中心に据える。確かに男でその服装をしていれば、教師は当然の如く咎めるはずだ。おそらく内海からするとその注意が大人からの干渉に思えて、ほとほと食傷気味なのだろう。

「おまえも無理しなくていいよ。教師には適当に言っといて」

「……違う」

 だから、咄嗟に否定してしまった。たとえ事実であっても一度認めてしまえば、内海が部活に入ってくれる見込みはほとんど無くなると瞬時に悟ったからだ。

「先生に言われたわけじゃなくて」

 案外すんなりと口から出てくる空言。待つようにして黙ったままの内海。累は焦燥と後ろめたい気持ちだけで、ほとんど勝ち目の見えない賭けに身を投じた。

「俺が、自分で……お前のことを誘ってるんだ」

「……へえ?」

 彼がまるで品定めするように目を細くした。見る限りその目つきは、累の言葉を否定的に捉えてのものではないように思える。嘘を通すのは躊躇われるけれど、今更もう後には退けないだろう。

「話だけでも聞いてくれないか?」

 やがて内海が首を縦に振る。これでひとまず、交渉自体を拒否されるという最悪の事態は回避することができた。大事なのは、彼が次の一言でどんな反応を示すかだ。

「さっきも言った通り、部活を作りたいんだ。反面教師部っていう部活で、まだ俺しかいないんだけど」

「でもボク部活は……え? いやごめん、もう一回言ってくんない? 何?」

「反面教師部」

「反面教師部……?」

 初めて丑満からそれを聞いた累と似たようなリアクションになんとなく安心感を覚える。不確かな手応えを感じた累は周囲に聞こえないよう、かなり小声で大まかな活動内容を説明してみた。全てを聞き終えた内海が真顔で頷いて、一言。

「嫌だね」

「待ってくれ内海、でも」

「話してもらって悪いけど、ボク部活やる気ないから。っていうかそんな部活に入ってまで優等点稼がなきゃいけない程、落ちこぼれてはないつもりだし」

 大きなお世話かもしれないが、累だけでなく内海もまた危険な状況なのだ。それを自覚していない故か必要以上にバッサリと切り捨てられ、思わず隠しておこうと思った事実が口を突く。

「いやでも退学……」

「え?」

 しまった、と思った時にはもう遅い。千歳とのことで学んだはずが、また同じような過ちを繰り返してしまうとは。知的生命体にあるまじき迂闊な言動だったというのは、胸倉を掴まれているこの現状が切に教えてくれた。

「おまえ今退学って言わなかった⁉︎ オイ教えろ! どういうことだよ⁉︎ ボクが退学になるってこと⁉︎」

「内海待て優等点! 優等点下がるから!」

 鬼のような形相でがくがくと累を揺さぶっていたが、退学というワードに続いて優等点が下がるという指摘を受けて、流石に内海が襟から手を離した。見た目に反して力は強く、離されてから自然と咳き込んでしまったくらいだ。

「ご、ごめんって! でも早く説明しろ! 気が気じゃないだろ⁉︎」

「今するよ……」

 謝るあたりはやっぱり根が良い奴なんだろうな、と振動の余韻が残る中でぼんやり思う。そして幾分もしないうちに回復した累は、気を取り直して失言について弁明した。教師が関与しているというだけでなく、勝手に調査されて謎の部活へのスカウト対象になっているとバレでもしたら何を言われるか。やはり真実を隠して勧誘するのは些か気が引けるけれど、この場合はやむを得ないはずだ。

「も、もしかしたら退学になるかもしれないって話だ! 何も今すぐ退学になるってわけじゃない。お前より確実に点の低い俺ですらまだ猶予が残されてる」

「……ボクの、っていうか生徒の詳しい優等点なんて公表されてないはずなんだけど?」

「そ、そこはまあ素行から判断してるというか……詳しいことには目を瞑って欲しい……ああほら、服のこととか、あと学校にも毎日来てるわけじゃないんだろ? 互いにとって悪い話じゃないと思うぞ。頼む、お前に協力して欲しいんだ」

 内海は少しだけ目を丸くして黙り込んだ後、口に手を当て考える素振りをする。それは部分的に納得は出来るが、どうも累の言葉には頷きがたいという意思を表しているようにも見えた。

「……ねえそれ、他にも部員集めなきゃなの?」

「ああ、そうだな。一応他の奴にも声かけてる」

「ならごめんだね、ボクはボクが認めた奴としか関わらないって決めてるから」

 内海は体の向きを正面へ戻し、むすっとした顔だけをこちらへ向ける。それは時を同じくして向けられた言葉が何を示すのか聞くことすら、許さないとでも言うようだった。

「勘違いすんなよ、もちろんおまえのことだってボクはまだ認めてない。ってことで、この話終わりな」

「……頼む内海、俺たち——」

 累が最後まで抗議を口にすることはなかった。悪意あるタイミングで鳴ったチャイムと共に丑満と築田が教室へ入ってきたからだ。内海は累に見向きもせず、再び頬杖をつきながらしれっと教壇の方を眺めている。

 軽い絶望感に体が重くなった。内海は比較的まともだからいけるかもしれない、などと思った自分を殴りたい。退学を回避したいというだけなのに千歳も古賀も内海も、何故どいつもこいつも厄介な奴ばかりなのだろうか。しかし自問自答するまでもなく答えは自明だった。エリート高校における「普通」未満の、退学すれすれにまで追い詰められている問題児だ。もとより何の力も持たない一生徒が容易く制御できるはずがない。

 これから累が向き合わなければならないのは、おそらく想像よりも遥かに難解なことばかりなのだろう。そう思うと一寸先すら闇で見えず、流石に鬱々とせざるを得ない。自棄になりそうな情緒を強いて制御し、心の声が漏れない程度に必死で呟いた。

 頼むよ。俺たち、崖っぷちなんだからさ。

「……マジで退学したくねえ……」

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