第37話
蓮がいる。ただそれだけのことだ。翡翠の話で、来るとはわかっていた。
だが、何故だか違和感があった。初めて見る服を着ていたからか。それとも過る横顔が、いつになく病人のような顔をしていたからか。或いは、その両方だったかもしれない。
翡翠の方に目線を戻す。彼女は好奇心を秘めた表情で、両手を合わせていた。それが食事時間の終わりを指し示しているというのは、すぐに理解出来た。一礼を置いて、すぐに席を立った。背後でころころと笑う声が聞こえた。
「廊下は走っちゃだめよ」
翡翠の言葉に、私は「はい」とだけ置いて、部屋を出た。
葦皐神社の境内は、私一人の眼では把握しきれないほど広大だった。幾つにも分岐した廊下は立体的な迷路のようになっていて、それぞれ自然に出来ただろう小川を渡る橋が何重も重なっていた。所々朱に塗られたそれらは、所謂ゲームで見るような迷宮を思わせる。
数十分は歩いただろう。人間の気配を全て失ったところで、私はようやく足を止めた。周囲は水が滴る音に満たされていて、方向感覚は失われつつあった。
「えーっと……一回、戻ろうかな」
いや、戻れるのか?
頭の中で空想上の蓮が私を罵倒していた。彼が隣にいたら、多分、「馬鹿が」と怪訝そうな目で見られていただろう。そんな様子は容易に想像がつくというのに、元の場所に戻る方法は考えつかなかった。
数秒考えこんでいると、滴る程度だった水の音が、次第に早くなっていくことに気づいた。壁の無い神社の廊下は、横殴りの雨というものを遮ることが出来ない。私は大きく息を吸って、吐いた。一瞬で暗くなっていく空を、足元の揺れる水面に見て、前に進んだ。
とりあえずは、雨をしのげる場所を探さねばならない。ただそれだけのために、走ってはいけないと言われた木の板の上を、摺り足で駆けた。何故だか水が生臭く感じた。先程までは清涼な、都会にあるまじき草花の露の香りが漂っていた筈だ。それらに混ざって、二日間置いた清掃用バケツの水のような臭いが、鼻腔に入り込んだ。顔面の筋肉に力が入る。強くなっていく臭いから逃れるように、私は再び神社内をゆらゆらと歩き続けた。
そうしている内、方向感覚を失っていく。自分が、飽和した水蒸気の中に溶けていくような感覚があった。息をしてもしても、足りない。空気を吸っている筈なのに、水の中にいるような気がした。
記憶が巡る。ヒルコの沼に落ちた、その時のことを思い出す。全身に重く冷たい水がへばりつく感触。息をしたくとも何も出来ない焦燥感。引っ張られた足。蓮の血と肉の匂い。
――――挽肉になった、人間の雌の、神経と骨と、肉。
フラッシュバックしたそれを吐き出すかのようにして、私はその場で前のめりに倒れた。否、顔を廊下の外に出して、湿った空気を舐めた。
えづく自分を俯瞰する。清らかな水面の上に、自分の穢れを文字通り吐き出していく。先程まで食卓に並んでいたそれらは、私の胃液と混ざって、ぐちゃぐちゃの液体とも固体ともわからない吐瀉物と化す。
好意で作ってくれたのだろう料理を無駄にした。穢れを嫌う神社の境内で、不浄なものを撒き散らした。美しい水を汚した。人を殺した。
罪悪感で息が上がる。吐き気が止まらない。吐き出すものが無くなれば、唾液だけがダラダラと鼻穴や歯の隙間から垂れていく。
流転する脳の中身が、落ち着いた冷気を求めた。目の前の水を、求めていた。
幸いにして、廊下に落下防止の柵はなかった。木目の隙間から水の揺れる音が聞こえるほど、水面は近くにあった。
手を伸ばした。上半身の重みが、私を水の中へ引き込もうとする。重力が作用する。反発するものは私の中には無かった。誘われるように――――飲み込まれるように、私の体がずるずると睡蓮の隙間へ引き込まれていく。
とても、とても、眠くて。それが酷く心地よくて。
私は清らかな花とその底にある泥へ溶け込もうとした。
だが、その動きは、意識の外で止められた。
私の肩を押すものがあった。視界の上半分が、黒と白に覆われていた。水面は円弧の小さな波を大量に作っていて、状況を鏡写しにすることは出来ていなかった。
「何をしているんだ、お前は」
声が聞こえた。知っている声だった。誰がいるのかはわかった。
顔を上げる。そこには、怪訝そうな顔で私を見下ろす蓮の姿があった。
「僕を探すくらいで何故嘔吐するんだ。食あたりでも起こしたのか。それとも何だ、食中毒か」
蓮はそう言って、私に座るよう指差す。廊下の縁に腰を下ろせば、足が水に付いた。私が吐き出した吐瀉物は、既に水の中に沈むか、何処かへと流れていた。清らかな流水は、静かに私へ冷静さを加えていく。上がっていた息はいつの間にか収まっていた。未だ染み付いた血肉の匂いは頭の隅で蠢いているが、それらを意識的に無視することは叶っていた。
「…………蓮は何をしてたの」
彼の質問に答えることは出来なかったが、言葉を絞り出すことは出来た。蓮は一瞬、困ったように眉を下げた。濡れた白装束を着た彼は、数秒無言を貫くと、下半身を水に沈めたまま口を開いた。
「禊だ」
禊。オウム返しをする私に、彼は呆れた顔で頭を掻いた。なんと説明するべきか。と呟いて、溜息を吐く。そんな彼のよく動く指先を見て、ふと違和感に気づく。
あの時、御神体に触れた彼の手は、まるで焼け爛れたかのように皮膚が捲れ上がり、肉が見えていた筈だ。だというのに、今の彼の手指は、白魚のように白くきめ細やかな皮膚に覆われていた。
「……貴方、本当に蓮? また樒が真似してない?」
私がそう尋ねると、彼は「は?」と苦虫を潰したように犬歯を見せた。獣にも似た表情で、彼が本当に夜咲蓮であることを理解した。
「その質問の本意については、理解する。が、僕は蓮だ。夜咲蓮。樒じゃない」
「わかってる。ごめん」
「理解できているなら良い。お前がそう思ったのは、手指の傷のことがあるからだろう。それも禊が上手く効果を発揮したということだ。その辺、全部説明するべきか」
蓮の言葉に、私は小さく頷いてみせた。すると、彼は鼻で溜息を吐いて、廊下の縁に手をかけた。
「……もう先生も来ている筈だ。合流しよう。温かな珈琲が飲みたい。流石に冷えた」
そう言って、彼は濡れた体のまま、廊下へ上がる。冷たい水が木目の隙間を落ちていく。白い布は蓮の白い皮膚と同化しているようにも見えた。黒く長い髪と、夜よりも暗い瞳が、その白さの上で際立って、息を呑むほど艷やかに美しかった。
蓮の髪が揺れる。その一瞬だけ、彼が清廉な少女に見えた。
雨贄の巫女 棺之夜幟 @yotaka_storys
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