三章
第36話
洗面台の冷たさは、梅雨の湿り気をもってしても緩和されることは無かった。湿度を吸い取った板が、足裏に貼り付く。上質な木材特有の爽やかさが、自分の皮膚を覆うようだった。
痛みだとか、苦痛は無い。ただ、孤独感は必要以上に煽情されていた。
「美代ちゃん」
ふと、背後から女の声が聞こえた。あの私と似た首の長い女ではない。土で出来た鈴をコロコロと転がすような、柔らかい声だった。
振り返った目線の先には、小柄な白い女が立っていた。彼女はまたコロコロと喉を転がして微笑むと、赤い巫女装束の裾を掴んで、私にすり寄った。
七竈翡翠――葦皐神社の巫女である彼女は、この神社の宮司の家系であり、同じく神社に関わる家系に生まれた私の姉のような存在だった。細く小さな手指と、透き通るような白肌。墨で塗りつぶした様な黒い瞳と艶やかな黒い髪は、蓮や樒に重なる程神々しさを醸し出していた。
「お顔洗えた? 昼食用意してるから、行こ」
そんな彼女が私にこうして声をかけているのは、ここがその葦皐神社であり、彼女自身が私の世話係を買って出ているからだった。
ヒルコの事件――私が正当防衛的であるとはいえ、一人の人間を殺したあの出来事は、酷く淡々と何も無かったかのように処理されていった。警察はまるで私が何もしていないかのように振る舞い、世間は怪異などいないように認識し、私やアザミをただの被害者のように扱っていた。ただそれでも、儀式的な殺人というものは、世間を騒ぎ立てる要素としては十分過ぎたらしい。そんな事件の渦中にいる人間を、報道者というものが追わないわけが無い。まして私は被害者側であるとされているのだから、犯人について一言くらい喋ってくれると思われているのだろう。「君は見た目だけは儚く見えるから、庇護欲を煽りやすいんだよ」と言ったのは、多分若桜だったと思う。線の細い自分の姿を、これほど恨んだことは無かった。
そんなわけで、一人身を隠す場所として与えられたのが、葦皐神社の境内であった。先祖代々縁の深い場所ではあるが、私自身がここまで奥深くに足を踏み入れたのは初めてだった。
冷たい水に満たされた境内は、温もりに欠ける。一般的な神社という場所は、もっと地面が多いものだろう。だが、葦皐神社のそれは、何処からか湧いて出る地下水で冷やされていた。
「午前中少し体調悪そうだったね。午後大丈夫?」
ふと、長い廊下を歩く中で、翡翠はそう首を傾げた。冷えた四肢を擦り合わせていたのを見て、彼女は更に「今も良く無さそう」と付け加えた。
「平気ですよ」
そう私が肩を竦めると、翡翠は「そう」とだけ置いて、再び人形らしい表情を浮かべた。口角が上がっただけの、動きの少ない顔は、美しいが人間性を欠いているように見えた。
「午後に警察の人が来るって、聞いてたと思うんだけど」
「はい」
「一緒に大学の先生も来るみたい。美代ちゃんの知り合いって言ってたけど、心当たりある?」
翡翠の言葉に、私は小さく首を縦に振った。恐らくは韮井先生のことだ。あの先生に供する警察官ということは、
「ママ……いや、七竈宮司にね、たまに会いに来る人でさ。赤毛で緑色の目の人。美代ちゃんはお名前知ってる?」
「韮井先生ですね。背が高い、ちょっとハーフっぽい」
「そう、背が高ーい先生。私ね、今初めてお名前知ったの。韮井先生って言うのね」
じゃあさ。そう付け加えて、翡翠は私と目を合わせた。
「韮井先生と一緒にいる男の子とも知り合いだったりする? 私と顔がちょっと似てる、女の子みたいな顔してる子」
それは。と、間髪入れずに、自分の口が滑り出しそうになる。口を押さえて、言葉を閉じた。未だ閉じない翡翠の口元に目をやる。
「その子が今日、突然来ることになってさ。沐浴するんだって。いつもは宮司が準備してくれてたんだけど、今日は忙しいから私がやってねって投げられちゃった。横顔見たことがある程度だからさ、何か情報入れておきたくて。ほら、変な地雷踏んじゃったら嫌じゃない? 何か事情がありそうな雰囲気出してるし」
軽やかに言葉を吐く彼女は、転じて年相応の若々しさが溢れる女性に見えた。そういったところは何処かアザミにも似ていた。
「……夜咲蓮と夜咲樒といって、双子なんです。今日来るのはどっちかわからないですけど、よく喋る、眼鏡をかけてる方が樒で、全然喋らなくて、裸眼なのが蓮ですね」
自分が記憶する二人のことを、ただ並べていく。そこに感情を含ませないように、丁寧に意識した。
二人の第一印象を悪いものにしたくなかった。少なくとも彼女は二人ないしはどちらか一方に対して、違和感というか、警戒心を抱いているように見えた。無理も無い。二人の、特に蓮の纏う雰囲気は、氷のようにも感じられる冷たい鋭さがあった。話してみればなんてことは無いが、人間とは警戒に対して不信感を返すものだ。その鋭さが刺さる様な不快感に変じることが、何よりの恐れだった。
「それで、蓮はあまり話すのが得意ではないので、寧ろ黙ってジッとしている方が、好まれるかもしれないです」
そうやって、私が口を閉じると、翡翠はコロコロと喉を鳴らした。昼餉の席に座り、彼女の顔を見る。人形のようだった表情筋は、僅かに柔らかく解されているように見えた。
「蓮って子のこと、好きなのね」
袖の奥から、微笑交じりに彼女はそう言った。一瞬、自分の中で何か小石がストンと落ちるような感覚があった。数秒、呆けていたのかもしれない。一瞬の無意識の後、「無自覚」とまた翡翠が笑っていた。
「いや、好きというか……何だろう。警戒心の強い野良猫が懐いてくれて、可愛いなって感じで……」
言い訳のようなものを口から吐き並べていく。翡翠の笑みは増していくばかりだった。揶揄われているわけではない。自分が滑稽なことを連ねているのは理解している。それが正常な気恥ずかしさなのも、承知の上だった。
「午後、会わせてあげようか。それくらいのお暇はあるでしょう? 樒君にしたって、お友達なんでしょう。息抜きにはなる筈だよ」
翡翠の提案を、間髪入れずに飲み込んだ。半分くらいは無意識だったかもしれない。首はいつの間にか縦に動いていた。
「じゃあお昼ご飯食べちゃお。お腹いっぱいになったら少しは顔色も良くなるでしょ」
目の前に広がる色とりどりの品を指し示して、彼女は確かに笑った。転がるようなそれではなく、酷く人間的なそれは、私の口元から笑みを溢れさせた。
箸を持って、素麺に触れた。静かに口へ食物を運んでいく。昨日まではあまり入らなかった物体が、スルスルと胃の中に入っていく。喉を抑えていた何かが腹の中に落ちたようだった。
そうやって口の中から胃の中へと清涼さを流し込んでいる内、ふと、翡翠が顔をあげていることに気付いた。丸い硝子玉のような目が、ジッと、遠くを見つめていた。
どうかしましたか。そう言うよりも前に、翡翠の口角が、ぎゅっと上がったのがわかった。彼女は静かに箸を置いて、指を視線の先に向けた。
無意識に、導かれるままに。自分の眼球が動いたのがわかった。
人影があった。黒い髪、黒い目、黒い服。全てが黒に塗りつぶされた身体の、その隙間に見える白い皮膚は、以前より一層、真珠のように冷えた白を際立たせていた。
「――――蓮?」
視線の先、朱に塗られた廊下を怪訝そうに歩く彼の名を、私は唱えた。
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