外聞 蓮

第35話

 四肢が重い。否、全身が水を含んだ布のように重たい。瞼を開けることさえ億劫で、このままずっと光を得ないままくたばってしまおうかと思う程だった。ただ、そうも出来ないという現実感も、同時に僕の怠惰な精神と並列に動いていた。

 ゆっくりと、視界を開く。白い光は僅かに抑えられていた。毎朝、先生の研究室に向かう前に見る風景。いつもと違うのは、ベッドの傍、僕のデスクチェアに座って、長身の女性が眠りこけているくらいだった。


「リサ、さん」


 乾いて貼り付く喉を震わせる。名を呼ばれた彼女はその一瞬で目を覚ました。僅かに滑り落ちかけた上半身を、その強い体幹で支える。彼女――――韮井リサは頬を緩めて僕と目線を合わせた。


「おはよう、蓮君。気持ち悪くない? 頭痛くない?」

「吐き気も痛みも無いです。ただ、体が重い。多分、軽く脱水」

「お水、ぬるくなっちゃったけど、用意あるよ。飲む?」


 僕が頷くと、彼女は「わかった」と微笑んだ。デスクに置かれた盆の上、ストローと色の褪せた子供用のプラスチックカップを見る。齢十五の男へ差し出すには幼すぎるそれらを、リサさんは満面の笑みで僕の胸元に置いた。両腕を支えにして、上半身を起こした。壁で背を支えながら、室温と同化した水を啜る。そんな僕と目線を合わせようと、リサさんは長い胴を丸めていた。


「蓮君、二日くらいかな、寝てたけど、魘されてはいなかったね」


 僅かに拙さを残す日本語で、彼女は淡々と状況を口にする。どれくらい眠っていたのか、というのは、深い眠りから覚めた僕がいつも訪ねることだった。


「夢も見ないほど、深く眠っていたんですよ」

「じゃあ、疲れてたからかな。頭、殴られてたから、それのせいかなって、ミツキが心配してたよ」

「先生は今、何してるんですか」

「今日はねえ、学校に出勤。理事長に呼び出されたって怒ってた。一緒にね、警察にも行くかもって。死体ね、いっぱい見つけちゃったからね」


 彼女の言葉で、ようやく思い出す。僕はヒルコを殴り飛ばした後、美代の腕の中で眠ってしまったのだ。否、意識や記憶が飛んだと言えば良いか。僅かに覚えている彼女の熱は、僕が微睡んでいたことを示していた。


「蓮君、あんまりお手てにぎにぎしちゃ駄目だからね」


 無意識に動いていたのだろう。リサさんはそう言って、僕の両手に指先を置いた。感覚の薄い掌には、分厚い包帯が巻かれていた。物を掴むくらいは出来るものの、指を開こうとすれば、その隙間が裂けるように痛んだ。


「お医者さんには薬品火傷ってことにしてもらったって。水脹れ全部潰れてたから消毒沢山してるからね。お医者さんが良いって言うまで外しちゃ駄目。お風呂も少し気をつけようね」


 そう言って、リサさんは僕の頭を撫でた。彼女の言葉で、大体の状況は理解した。柄にもなく僕は無理をしてしまったらしい。こうなるとわかっていて、神の体に触れた。そして爛れた手に力を入れて、神を殴り飛ばした。所謂『罰当たり』が降りかかっているのだろう。この手と全身への不快感は、一種の呪い――――祟りであることは明白だった。

 だが、それをどうすることも出来ない。諦めと理解を伴って、僕は小さく息を吸った。


「……それで、現場はどうなってます」

「現場?」

「えーっと……海と山。僕達が行ったところ。警察とか行ってる筈でしょ。事件になってるだろうし」


 僕が尋ねると、彼女は少しだけ首を傾げた。言葉を選んでいるようだった。多分、彼女には説明が出来るだけの語彙が無い。金の髪と白い肌、晴れ渡る空のような瞳は、彼女がこの国の人間ではないことを示している。


「樒は」


 先生がいないとなれば、僕の求める応答をしてくれるのは、アイツだけだ。

 だが、リサさんは僕の問いかけに、小さく首を振った。否定を表すそれは、僅かにもの悲しさを伴っていた。


「セッキンキンシ」

「何で」

「樒君、ずっと痛がってたから。蓮君の傍にいると、またキョウカン? しちゃうからって、ミツキ言ってたよ」


 成程。と、僕は声を漏らした。樒と僕の、共感。それは、僕達が双子であることと、生まれついた血に起因していた。けれどその説明をしたとして、今の彼女に理解が出来るとは思えなかった。語彙の齟齬と、現実への解釈に対する相違は、僕達の間に壁を作っていた。


「接近禁止ってことは、アイツ、若桜の家に泊りでしょ。学校の方は……」

「学校! そう! それ!」


 何かを思い出したというように、リサさんは僕に顔を近づけた。彼女の質量で、ベットの端が沈んだ。


「一緒に行った女の子達、二人共ね、学校から少しお休みしてねって言われたんだって。あの、ミヨちゃんって子がね、お見舞いに来たいって言ってた。凄く心配してたよ。ミツキもね、ミヨちゃんになら会いに行っても良いって。連絡してあげてね」


 リサさんの言葉は、耳に残らなかった。ただ、美代の名前があることだけはわかった。


「美代は」


 美代は、無事なのか。

 

 ただそれだけを確認しようと、口を開ける。だが、彼女にそれを問いただしたところで、何も生まれない事は理解出来ていた。寝起きの理性で口を噤む。リサさんの口振りを考えれば、きっと、大事にはなっていない筈だ。学校から休めと言われたのも、謹慎などではないだろう。どちらかと言えば、日頃の僕が受けているような、寛大な措置である可能性が高い。

 枕元のコンセントは空いていた。僕が何を探しているのか、リサさんも理解したのだろう。彼女は立ち上がって、僕のデスクに手を伸ばした。


「防水のスマホにしてて良かったね」


 表面の傷が荒々しいそれを、包帯越しに撫でる。指紋認証は使えなかった。顔認証も、樒が勝手に使うことの無いようにとオフにしていた。大人しく、暗証番号を打ち込んだ。デスク付きのコンセントで充電されていたからだろう。大量の通知を表示しつつも、バッテリーは十分に保たれていた。通知の殆どは、韮井先生からのメッセージで、それらは全てメモや一種の日報のようなものだった。


『立花美代、星浦莇の二人は無事に自宅へ届けた。あまり心配しないように』

『今のところ警察は怪異事件として扱っている。立花美代とお前の行動についても公的な言及はしないことになっている。ただ、怪異事件としてきちんと話を聞きたいので、話せるようになったらちゃんと私に言うこと』

『樒が手指の痛みと全身の倦怠感を訴えている。藤井邸に預けるので、暫くはお前からも近づかないこと。神社に話を通したので早めにみそぎをするように』

『リサが心配するので起きたらちゃんとご飯を食べなさい。少し手の込んだものをリクエストするとリサが喜ぶのでそうするように。アイスクリームはお前用の冷凍庫に補充した。少しリサが食べているかもしれないが怒らないように』


 次第に小言が多くなっていく文字の羅列に、長い溜息が漏れた。けれどその細やかな言葉が、何故だかいつもより心地よかった。


『蓮へ』


 ふと、先生からの通知の隙間に、見覚えのない文字の並びを見た。僕に対するメッセージに、ご丁寧にも名前を添える人間など、そうはいない。だからこそ、予感があった。それが、美代からのメッセージだということは、直感的に理解出来ていた。


『もう手は痛くないですか。先生達にはあまり心配しないでと言われたけれど、やっぱり少し心配です。何か出来ることがあったら教えてください。目が覚めたら、すぐに返事くれると嬉しいな』


 美代の不慣れでたどたどしい言葉を、何度も読み返した。僕には彼女の言う心配という単語を理解することは出来なかった。けれど、彼女が僕の言葉を待っていることだけはわかった。


「リサさん、ご飯って、今何が作れる? 出来ればあんまり時間かけたくない。急にで、悪いですけど」


 気怠い足の裏を床に置いて、僕はそう言葉を吐いた。不遜な僕に、リサさんは「素麺茹でるね!」と明るく笑った。身体の痛みと倦怠感を忘れることは出来ずとも、リビングに向かう足は軽く感じられた。

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