第34話

 次第に失われていく酸素は、より私から選択肢を奪った。ヒルコはジッと私を見下ろして、問いを吐きかける。それに答えるという選択は無かった。彼あるいは彼女が何を問いているのか、わからなかった。私は帰りたいのだという意思しか伝えることは無かったし、如何にして人間ならざる者達にその事情を伝えるかという課題があった。


「何で」


 故に、私が無意識の中で零したのは、言葉の反復だった。


「何でって、何で。私、帰りたいの。それ以外にはもう、何も無いのよ。だから、ついでに、あの死体と、石を持って行ってあげるって言ってるの。貴方達、アレがあると駄目なんでしょ。だから時々、草が枯れてる。アレはきっと、塩害。海の水を、あの石が呼んだのね」


 自己解釈を伴って、ヒルコに語りかける。それが事実かどうかはこの際関係が無い。だが、少しでも現状の打開策があるなら、何か掴めるなら。それだけでも良い。好転するか悪化するかは、全て数秒後の自分へ祈るしか無かった。


「私、貴方達に連れて行かれても、この山に残っても、何も出来ないわ。だって私、ただの女子高生だもの。ただの、人間なんだもの」


 ギリギリと歯を鳴らして見せる。それが威嚇になり得るかはわからなかった。だが、一時の蓮の真似をするだけで、ヒルコが怯えてくれるのではないかと、淡い期待を込めた。


「何で」


 ふと、小さな声がした。ヒルコは垂れ流す粘液の中に、ぽつりとそう呟いた。


「何で。見捨てたの」


 何を言われているのかが、わからなかった。見捨てたという意味を、理解出来なかった。私がヒルコについて知ったのは、今日が始めてだ。前提知識を持ち合わせない対話は、ただの言葉の投げ捨て合いにしかならない。肩の力が抜けた。これ以上何を言っても無意味だと、察してしまった。

 前のめりに崩れて、進退を閉じる。立ち上がれないという意思を見せる。それが少なくとも今の自分出来る精一杯だった。無理矢理に歩かされて、ヒルコに着いて行くことも、背後に戻っていくこともしない。そうやって、時間が過ぎるのを待った。ヒルコという神が、私を諦めるようにと、誰にでもなく祈った。


「何で、迎えに来なかったの」


 瞬間、唐突に降りかかったそれは、ヒルコの声ではなかった。顔を見上げる。そこにはヒルコの口があった。けれど、ヒルコが言ったのではないという確信があった。


「何なの、貴女は」


 顔の爛れた女。あの池の底に沈んでいた彼女は、再びヒルコを隔てた向こうに、人形のような微笑みを浮かべて立っていた。しかしそれは幻影のような儚さも無く、どろどろと溶ける腐肉のようでもない。しっかりとした人間の形を持って、そこに佇んでいた。


「美代ちゃん」

「貴女は私じゃない。私、死んでないもの」

「美代ちゃん、お迎え来なかったの」


 首を横に振って見せても、言葉を否定しても、彼女はただ笑うばかりだった。だがその声が少しずつ近づいているのも確かだった。ヒルコを撫でつけながら、彼女は一歩、一歩、私の傍に歩み寄った。


「来ないで」


 私がそう言うと、彼女は穏やかに頬を持ち上げた。それは母が私の頭を撫でる時と同じ表情だった。


「美代ちゃん」


 私の名を呼んで、女は私の髪を指の隙間に通した。細いその手指は、私と似ているが、全く同じでは無かった。冷たい爪先が、耳たぶを弾く。女の息が鼻を撫でる。雨水の臭いの隙間に、僅かな花の甘い香りが感じられた。


「お兄ちゃんと、お手て繋いで、帰ろうね」


 女がそう微笑んだ瞬間、脳に霞がかかるのがわかった。重くなる意識は、所謂睡眠欲のそれと同義だった。瞼が落ちる。心地良さが混じった睡魔を、奥歯で噛み殺す。大きく息を吸った。声帯を広げる。肺に詰め込んだ空気を、衝動のままに吐き出した。


「兄さんに……家族に手を出したら許さないから!」


 叫びが、霧の中をこだまする。白いワンピースを広げて、女は笑っていた。風が吹いていた。霧を吹き飛ばす風が、木々の隙間を縫うように吹いた。全身に、水滴が落ちる。睡魔は未だ私の頭に重石を乗せていた。思考がままならない。しかし目の前には、ヒルコがいた。霧と共に消えた女がいなくなった途端に、ヒルコは私の顔にその口を近づけた。


「くらみつはなめ」


 ぽつり、雨の隙間にその単語が降りかかった。その一言だけで、視界が晴れる。瞼を開いて、その口に唾を吐く。


「だからそれ、何なの。くらみつはなめって、何……」


 私が問いを立てようとした時。ヒルコはだらりと大量の粘液を私に浴びせかけた。獣と肉の混ざって腐った臭いが、全身に纏わりつく。それらは打ち付ける大粒の雨によって拭われていった。


雨贄あまにえの巫女」


 ころころと、笑うような声が聞こえた。それが私の問いに対する答えだということは、直感で分かった。だが、解答になっているかと言えばそうではなかった。もっと教えろと、腕を伸ばした。それを嬉しそうに、ヒルコ達はころころころころころころ笑う。


「教えて、あげる」


 だからおいで。と、甘い菓子で子供を誘う魔女のように、ヒルコは私の手を口に含んだ。やすりのような歯が並んだ口で、優しく包み込む。痛みは無かった。痛覚を失っているのか、それとも本当に何も傷つけることなく私の手を吸っているのかは、わからなかった。

 だが、暫くして、途端にヒルコが私の手を吐き出した。粘液と血に塗れた手は、感覚を失ったまま、落ち葉の上に落ちた。重力に逆らえず、私は腕と共に地面に伏せた。顔に泥と粘液を付けて、上げた。視界の真ん中には、丸まって饅頭のようになっているヒルコがいた。


「痛い」


 ヒルコは口を地面に擦り付けていた。まるで辛いものでも食べた幼児のように、ヒルコは粘液を吐き出しては、地面で口周りを拭き取ろうとしているようだった。


「痛い、痛い、痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い」


 その姿は、あの御神体に触れた後の蓮の姿と、よく似ていた。粘液と言葉を吐くヒルコの口周りは、人間の火傷のように幾つも水泡を作っていた。

 ふと、感覚の戻った腕を見た。ヒルコに吸われていたその手首には、蓮がつけた彼の手形があった。


「蓮の……呪い?」


 咀嚼し難い現状に、私はそう呟いた。苦しみだすヒルコの周りで、山蛭達がのたうち回る。粘液同士が擦れる音と、雨水が打ち付ける音が混ざり合って、山中に溶けた。


「――――言っただろ、先約があると」


 その雨を切り裂くように、ある少年の声が聞こえた。背後に目を向ける。頭から流れる血も、顔面を叩く雨水もものともせず、毛髪と肉の欠片がこびりついた金属バットを振り回す人影。それに恐怖感を覚えず、寧ろ晴れやかな感情を見出したのは、疲労による混乱が大きかったかもしれない。

 だが、一歩を踏みしめて、「伏せろ」と私に命令する彼の姿は、正しく救世主と言って差し支えなかった。

 

「それは僕の巫女だ」


 そう言って、蓮は凹凸に塗れたバットを、ヒルコの身体に叩き込んだ。その濡れた体から、汗とも雨ともわからない液体が、私に降りかかる。


 ――――ギィィィィィィィィ……


 弱々しい、空気が抜けるような音がした。その場に膝をついた蓮の上半身を支える。共に映した視界には、萎んでいくヒルコと、それを覆う山蛭の塊があった。

 泥と粘液の上に重たいバットを放り投げる。ガランと重い音がした。蓮の短い息を耳に焼き付ける。彼と会話をしたいという欲求はあった。けれど、何か言葉を捻り出すような気力も、お互い残していなかった。


 無言の中、互いの体温を押し付けあう内、遠くから二つのサイレンが聞こえた。同時に、こちらに向かって、二つの足音が駆け出した。


「蓮! 立花さん!」


 私達を呼んだのは、樒だった。振り返れば、全身をずぶ濡れにした彼と若桜が、山の斜面を駆け下りようとしていた。蓮が目を開けて、私と目線の方向を同じくした頃、泥の上を転げ落ちていく若桜の姿があった。そんな彼の姿を見て、私と蓮は、何故だか笑っていた。

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