第33話
息が上がる。声が出ない。叫ぼうとしていた気がする。何度打ち付けても消えない肉の塊に、嫌気がさしていた。今すぐ目の前から消えて欲しかった。私の腕は既に、本能という無意識では無く、意識と願望が支配していた。女が誰なのか、何故ここに来たのかもわからないまま、私はずっと、腕を動かしていた。精神の自動化を果たした頃、唐突に体が動かなくなった。それはおそらく、体力が底をついたということらしかった。
顔を上げて、空を見た。分厚い雲は黒く、大粒の雨を落とす。それがシャワーのようになって、私を濡らしたが、貼り付いた肉片と血は染みとなって胸と腹に広がるばかりだった。
口の中に入り込む雨水が、唾液と共に首筋を伝っていく。それらと共に、再び周囲を霧が覆った。黒かった雲を、白い水分が掻き消していく。雨の音も、風の音も、それらに吸い込まれるように消えて行った。
停滞した悪寒が心地悪くて、私は目線を落とした。蓮の息を、その背の動きで確認した。顔に触れてみれば、小さく唸る彼の声が聞こえた。安堵は全身から力を奪う。脱力した腕が、重くて持ち上がらなかった。肩で息をする。飲み混んだ水分が、喉と胃を冷やした。
冷えた体の芯が、冷静さを引き戻す。霧に満たされながらも、視界は明瞭だった。故に、自分の目の前に
「ヒルコ、いるのね。そこに」
出来得る限り穏やかに、私はそう問いかけた。粘液同士が混ざり合う音。それが耳の穴を這うようにして、次第に大きくなっていった。
眼前にまでその口を向けて、ようやくその実体を知る。やすりのような歯の隙間には、腐敗した肉の欠片が見えた。生臭さに顔を顰めることすら出来ないまま、私は静かに、ただヒルコの中身を見ていた。黒い、マンホールの中身のような孤独感。息を吸えば吸う程に、自らが一秒一秒朽ちていく存在なのだと理解させられるような、そんな無機質さ。
「ねえ、この御神体って、貴方ではないんでしょう」
そう言って、私は目線をあの石に落とした。返答は期待していなかった。ただ、己の中で答え合わせがしたかった。アンモナイトとは、タコやイカのような、海の軟体動物の先祖だ。ヒルコのような環形動物とは全く異なっている。もしもかつてこの地に住んでいた人間が、巨大なカタツムリか何かだと勘違いしていたとしても、そこからヒルコ達が発生するとは思えなかった。
「何処に持って行けば良いの。これは、ここにあったらダメなものでしょう。壊すことは難しいと思う。もしもここから移動させることが重要なら、私達を外に出して。ここから遠い所に持って行ってあげるから」
まるで子供でもあやすように、私は声を上擦らせた。出来る限り甘い声を鳴らす。それでも背だけは曲げずに、胸を張った。蓮の言っていたように、ヒルコが私達を推し量っているのなら、不安感を出してはいけないと思った。成程確かに、ヒルコは私の表面をなぞる様にして口を宙で伸縮させ、私という形を感じようとしていた。その形というものが物理的な要素ではなく、私の感情を視ているというのも、その動きの質感で理解出来た。
「ねえ、お願い」
数分の後、そう唱えると、ヒルコはジッと動かなくなった。口を下に向ける。丸まった姿は饅頭のように見えた。
――――蜃コ縺ヲ陦後▲縺。繧?≧縺ョ?
瞬間の応答。音ではない。だが、意思表示ではあった。脳の内側で囁くような声を、理解することは出来なかった。しかしそれがいつか聞いた蓮の、寝ぼけた時の言葉と同じであるということは、直感でわかった。ヒトから離れたその言葉は、震えるヒルコの身体から直接吐き出されていく。
――――髮ィ雍??蟾ォ螂ウ。
――――縺薙%縺ァ證ョ繧峨◎縺。
――――谺イ縺励>縲∫カコ鮗励↑邯コ鮗励↑螂ウ縺ョ蟄。
立て続けに脳を震わせる。女のような、男のような、老人のような、赤子のような声。それらが混ざり合っては、粘液のぶつかり合う生命的な動作と共に私に近づいていく。
唾液が、口元から零れるのが分かった。口を閉めることも出来ずに、私はずっとその声を聞き続けていた。混乱という言葉では飾れない。身体が動かない。というよりも、全身の筋肉が細やかに震えて、制御を失っていたというのが正しい。
しかしそれは恐怖ではなく、理解しなければならない事項が多すぎて、思考回路が壊れたというのが正しい。実際、私の口は確かに笑っていて、拒絶感というものを失っていた。ヒルコの言っていることこそわからないが、どうして欲しいのかくらいは何となく察することが出来た。
意識はあるというのに、自分の意思とは別に、足が動いた。ふらふらと立ち上がって、前に進む。ゆっくりと山の中に戻っていくヒルコの背中を追う。周囲には大量の山蛭達が蠢いて、私だけの道を作っていた。
――――縺薙▲縺。縺?繧、縺薙▲縺っち、こっちだよ。
唐突に、意味のある言葉を連想する。否、ヒルコの声を認知する。確かにヒルコは、私を呼んでいた。幼い子供のような知性が染み渡る。その声に押されて、足を進める。そこに私自身の意思は介在していなかった。
「待って。蓮を置いて行けないの」
唇だけが私の精神を示す唯一の手段だった。声を張り上げても、全く異なる言語が通じるかはわからなかった。けれど、ヒルコはクスクスと鈴を転がす様に笑って、私に返答を重ねた。
「あれは要らない」
「要るとか要らないとかじゃないの。私を帰して」
「帰る? 何で?」
「家に帰らないといけないの。皆心配してる」
「何で?」
ヒルコの動きが止まった。同時に、私の足も止まる。無理矢理立たされていた神経を解き放つ。濡れた落ち葉の上に膝を落とす。両手を見下ろして、息を吸った。
「何で?」
声と共に、冷たいものが頭髪の表面を滑った。それは雨水でもなく、唾液でもない。ヒルコの口から垂れる粘液は、先程までとは比べ物にならない程溢れ、周囲を濡らしていた。
「何で」「何で」「何で」「何で」「何で」「何で」「何で」
木々のさざめきの如く、ヒルコの問いが脳に溢れる。処理の追い付かない精神が、吐き気を催す。けれど胃からは何も持ち上がることはなく、ヒルコの粘液と似た唾液が、唇の端から垂れるばかりだった。
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