第32話

「これが呪い?」


 蓮が言っていたことを思い出す。神に嫌われている。故に、文句をつけられて、呪われるのだと。彼は確かにそう言っていた。御神体に触れた手だけが、こうやって火傷のように剥がれたのだ。これを呪いと言わずしてどう言えば良いのか。


「ごめんね、私がもっと気を付けてれば」


 彼に御神体を触れさせたのは私だ。私が女に掴まりさえしなければ、彼が私を助けようと石に触れようということはなかった。その事実を噛みしめて、私は蓮の頭を撫でた。


「……美代」

「蓮、ごめんね。私が引き揚げないといけなかったのは、これのせいでしょ」

「違う」

「痛かったでしょ。ごめん。すぐに治療してもらおう。車に戻って、池未さんところに」

「違う! 馬鹿!」


 蓮が叫ぶ。彼は朦朧としていた意識を鋭く尖らせて、光を得た瞳を私に向けた。痛んでいた筈の手を軸に、身を翻す。その視線は私ではなく、私の背後に向いていた。私を押し退けて、池に落とした。死体の傍の水面へ、体が落ちる。だがその水位は先程よりも圧倒的に浅く、手首までが浸かった。這いつくばってすぐ、顔を上げた。蓮に視線を向ける。彼は崩れた重心のまま、立ち上がろうとしていた。その咄嗟の行動は、彼の前から振り上げられた一本の金属バットに起因していた。


「逃げろ!」


 そう言って私に注意を向けた瞬間、蓮の頭上に、それは落ちた。一瞬の出来事だった。金属光沢が蓮の頭蓋に音を立てて吸い込まれていった。


「何、これ」


 倒れた蓮の頭の傍、揺れる金属の先を見る。それを辿れば、人間の手があった。細い指は女の手であることを示す。着込んだジャージには、泥が付いていた。全身を震わせて、息を荒くする。その顔に覚えは無かった。ただ、それが恐らく美原を襲った人間の内の、その一人であろうということはわかった。


「……動かないで……動いたらこの子殺すからね……」


 甲高い声で、その女は再び蓮の頭上にバットを置いた。動かない蓮の身体は、僅かにその呼吸を示していた。白い彼の額から、一筋、血液の雫が流れていた。


「アンタ達、屋敷に来てた子供でしょ」


 女がそう言って、黒い髪を肩に流した。再び強くなっていく雨風の中で、彼女の顔に貼り付く毛髪は、それでも乱れるばかりだった。私が静かに頷いて見せると、女は微動だにしないまま、目を見開いた。


「ここに来たってことは、車があるでしょ。渡しなさい」

「渡すって……何処にあるのかは、私、わからない……」


 震える唇で、そっと訴える。すると女は大きく舌打ちをして、蓮の頭上にあった金属バットを振り上げた。


「じゃあ大人に連絡しな。一人だけで来るように言って。車持って来てって、近くに呼びなさい」

「無理です。スマホ、水没してます」


 一種の支離滅裂さを伴った女の言動で、私は僅かに冷静さを取り戻していた。どうも、彼女は焦っている。恐らくは逃亡を図りたいのだろうが、その足も無く、私達を人質にするという形でしか何も得られないのだ。


「それに私、ここが何処かもわかりません」

「……じゃあ何でここにいるのよ」

「霧の中を彷徨ったんです。そして、呼ばれた」


 何を意味の分からない事を。と、女が腕を下げた。力が抜けたのだろう。ジッと私を見る瞳は揺れていた。池の中、足を漬けて、女を見つめる。沈黙が続いた。雨と風が鼓膜を打つ。だが、その一部に、聞き覚えるのある音があった。


 ――――ヌチ、ヌチャ、クチャ、キチャ。


 それは粘膜同士が擦れる音。池に沈む前に聞いた、あの蛭の群れ。それが何処にいるのかはわからなかった。だが、確かに私はそれを認識していた。蓮の傍にあった御神体を見つめる。その視線の移動に気付いた女が、眉を顰めた。


「それで殴ろうなんて考えない方が良いよ。女の子の腕じゃ、持ち上がらない」


 女はそう言って、蓮の肩にバットの先を押し付けた。ウッと声を上げた彼に、女の視線が向いた。それと同時に、背中を駆け抜けるような悪寒が走った。


 ――――蟾ォ螂ウ縲∝キォ螂ウ縲√♀縺?〒。


 声が聞こえた。それは確かに、声だった。だが、女とも男とも、老人とも赤子ともわからない。それが人間のそれではないことも、同時に理解出来た。


「何、この声。誰かいるの」


 女の鋭い声が、山の中をこだまする。声は女にも届いていたらしい。だが、その正体に心当たりは無いようだった。


「仲間がいるのね」

「いません。私もこの声に聞き覚えはありません」

「嘘つきなさい。だったら何でそんなに冷静なのよ!」


 声を荒げた女が、バットを振り下ろす。そこには、蓮の頭があった。しかし、着地したのはその隣、御神体を叩いたそれは跳ね飛んで、女の手から離れた。


 瞬間、本能と意識が脚部に集まるのがわかった。水と泥、土を蹴りつけて、全身を女の身体に向ける。習ってもいないのに、どうすれば女が倒れるのかがわかった。全体重を女の懐に押し込む。やせ細っていたその身体は、簡単にもひっくり返った。身動きが取れなくなった彼女の上に、自分の体重を落とす。そこから先に、理性は要らなかった。腕を伸ばして、金属バットを奪い取る。それを何度も顔に叩き込んだ。

 

 人間の顔で、一番最初に潰れたのは、鼻だった。次に眼球が凹む。頬の骨は案外硬く、陥没するには十数回の殴打が必要だった。顔の肉と皮膚を練り込んで、頭皮を桃の皮のように剥いてから、額が割れた。その奥から見えたピンク色のゼリーは、案外簡単に弾け飛んだ。肉と骨を混ぜ合って、神経の塊はペースト状の何かとなっていた。土と毛髪は均一には混ざらず、少しずつ、少しずつ、骨と共に女の長い髪が泥の中に埋め込まれていった。その時にはもう、私の理性はしっかりと私の脳を動かしていた。ただ、腕だけは本能のまま、破壊に勤しんでいた。叩き壊すことを念頭に置いて振り下ろしていた金属バットは、餅を搗く杵のように動かされていた。それを雨で冷えた酷く冷徹な大脳で理解する。

 練り込んで、練り込んで。土に還れと念じ続けた。割れた眼球の破片を肉と神経の塊に混ぜる。ハンバーグを捏ねる時の音が、ずっと脳裏に焼き付いていた。

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