第31話
蓮の言葉の意味は、多分、今は咀嚼出来ない。きっと、韮井先生にでも補足をしてもらわなければ、何も返答は出来ないだろう。ただ一点、ここにあるのは、蓮がこの池のことには触れられないという事実だった。そして、現状の最適解は、私が一人でこの池から死体を引き上げることだ。
「美代ちゃん」
池の向こう側では、変わらずあの女が笑っていた。綺麗な白い皮膚は、私が自慢としている陶器のようなそれと同じだった。彼女の呼ぶ声に応えてはいけないと理解しながらも、私はそっと水に足を漬けた。
「蓮、目は反らさないでね」
溺れたら助けてよ。
私を見下ろしていた蓮に、そう微笑みかけてやる。すると、彼は「わかってる」と眉間に皺を寄せた。腰まで浸かった水の冷たさに毛を逆立てる。靴越しに触れた水底は、意外にも浅いように思えた。抵抗力の中を掻き分けていく。冷水の中にも、温度の違いを感じていた。胸元の表層水と、足元の底水では、体温を奪う速度が違う。少しずつ溶けていく自分の温度を感じながら、一歩ずつ池の中心を目指した。
数歩、水の底を撫でた頃。一気に重力と浮力を受けた。重力が私を水底に押し付けて、浮力がそれを阻止する。咄嗟に力を抜いて、口と鼻を上に向ける。競技的な水泳こそ得意ではないが、幼少の頃に兄から仕込まれた着衣泳の心得がここで役に立った。僅かな背後の視界、蓮が手を伸ばしていたのが見えた。
「大丈夫、こっから深いみたい。少し潜るね。どう沈んでるか、見て来ないと」
その指先に不安があったのは、顔を見なくとも理解出来た。彼を背にして、顔面を水に着ける。水の中では、全てが歪んでいた。澄んだ水の中を、少しずつ潜っていく。白い何かがゆらゆらと揺れていた。それはまるでこちらに手を振っているかのようだった。否、振れていたのは、白い足とワンピースの裾だった。
逆さまの白い女。その正面に沿って、私もまた身体を沈めた。足、太腿、腰、手、胸、腕、首。その全てが白く、薄暗い水の底で輝いていた。
首に巻かれた白い縄が、その細い首に食い込んでいた。その縄から下、顔面は黒く焼けて、千切れかけた舌が飛び出していた。息を止めているというのに、何故だかあの雨の街で嗅いだ、焦げ付いた肉の臭いが鼻孔を巡った。
一度目を瞑る。リセットされた視界。白い縄の先は、すぐに見つかった。丸い石。否、それは教科書のページに見るような、アンモナイトの形をしていた。
――――これが、御神体?
軟体生物の始祖を思わせるその形、角度の無い表面を指先で撫でた。水底の泥を巻き上げて、引っかかりを捉えた。浮力に任せれば、胸元にそれを引き寄せることが出来た。一息の終わりを感じて、石を手放す。上を見た。煌めいた水面を目指して、泥を踏みつけた。
だが、浮上するのは私の息ばかりで、身体はいつまでも底に沈んだままだった。
足元を見る。足裏には感覚が無かった。否、体全体の触覚が、少しずつ失われていることに気付いた。そんな足を、白い手が掴んでいた。黒い顔にはめ込まれた白い眼球が、こちらを見ていた。腕だけを動かして、女は私を水の底に引きずり込んでいた。笑ってチラチラと見える歯が、星の如く白く輝いていた。
「美代ちゃん」
女はそう呟いて、またケラケラと笑った。視界が歪む。目が霞んだ。思考に霧がかかっていく。酸素が欲しい。願望はそこに集約されていった。
蓮を呼ぼうとして、そこに空気が無い事を思い出す。声が出ない。暴れようとも、四肢に力が入らない。何も聞こえない。水の流転する音だけが、鼓膜を叩く。一際大きい気泡が、鼻と口からどろり、とろけ出た。
その気泡の向こう、遠い水面が揺れていた。じゃぶ、じゃぶ、じゃぶ。それは猫を風呂に入れた時の動きにも似ていた。薄っすらと僅かに残る視界に、彼はいた。
彼は――――蓮は、私の腕を伝って、水底に手を付けた。一瞬だけ見えた彼の表情は、いつも以上に白く、青くも見えた。私の足を掴む女の手に、蓮が手をかけた。
「離せ」
確かに、彼がそう言った。口元の動きと、そこから漏れる空気の量は、その事実の明瞭さを示していた。
だが、女は変わらず笑うばかりで、動こうとしない。否、笑ったように口を開けて、再びただの死体に戻っていた。私の足を掴んで固まる死体に。
蓮の僅かな機微で、彼が舌打ちしたことに気付いた。彼は水底の石に手を伸ばした。一瞬、顔を強く顰めて、歯を鳴らす。息を大きく吐きながら、それを引き上げると、私と目を合わせた。彼は無言で、私の胸元に石を投げつけた。咄嗟に、それを抱きとめる。重さは変わらなかった。だが、妙な温もりを感じた。無機物である筈のそれは、確かに、胎動と似たリズムで私に熱を伝えていた。
それと同じだけの熱が、背中を覆った。私で石を包むようにして、蓮が私を抱きとめていた。彼はそのまま水底を蹴った。
その瞬間に、視界が開いた。長い水のトンネルを潜ることも無く、私は一秒もしない内に、顔面を大気に曝け出していた。
甘い甘い、酸素を吸う。鼻と口に入った水を、全て吐き出した。抱き締めていた石を、岸に放り投げる。それを覆っていた筈の白い縄は朽ちて、土と混じり合おうとしていた。その朽ちた縄の先、あの女を見る。岸の傍、崩れかけの身体を浮かす腐乱死体があった。池の向こう側にいたあの女は、既にいなくなっていた。
「蓮……蓮?」
私を後ろから抱きしめていた彼の名を呼ぶ。だが、その存在は、水の中には無かった。
霧を失った陸上を見る。雨の中には、ヒルコ達さえ存在していなかった。
「蓮! 何処!」
混乱と焦燥が頭を支配する。何度息を吸っても、脳には酸素が足りていなかった。興奮が頭部の温度を上げる。温度変化を伴った耳孔から、水が漏れた。
「…………逞帙>…………」
ふと、音が聞こえた。それは蓮の声だった。見上げた陸の上、蓮が蹲っていた。両腕をすっぽりとその身体で覆い、震えながら浅く息を吸う。上下する彼の背中は、病に苦しむ幼子のように小さく見えた。
「逞帙>……逞帙>……」
何を呟いているのかは、わからなかった。だが、それがいつか寝ぼけた彼が口遊んでいた寝言と同じ言語であることは、直感で理解出来た。
「蓮、大丈夫?」
「逞帙>」
「どうしたの、見せて」
彼の身体の下を覗き込む。酷く冷えた彼の背中から伝って、彼の喉元に指を置いた。心拍は上がっているが、確かにリズムだけは感じられた。正常な呼吸を確かめて、蓮の身体を押し倒す。無理矢理に重心を移動させたというのに、彼は何の抵抗もしなかった。
「蓮」
意識が途切れないようにと、彼の名を何度も口にした。その度に、彼は頷く素振りを見せていた。
仰向けになった蓮の、握られた手を見る。ガタガタと震えるそれは、固く閉じていた。
「蓮、手を見せて」
それが、彼のこうなった理由だと、直感で理解する。冷たい氷のようになった手を揉みしだいて、柔らかく温めた。ゆっくりと開いた彼の掌には、彼の爪が食い込んでいた。だが、それはさして重要なことではなかった。
幾つも出来た水泡は、蓮の掌の上で膿を吐き出して潰れていた。皮が剥がれて、地面に落ちる。新鮮なタンパク質の臭いがした。かさぶたの裏側が埋め尽くすような、そんな斑の表面を、空気に晒す。僅かな風が吹く度に、彼は手を再び握ろうと必死になっていた。
「逞帙>……逞帙>…………痛い、痛い……」
泣きそうな声で、蓮がそう言った。理解の及ぶ言語を、彼は魘されるように呟く。そんな中で、ふと、蓮の傍で転がる石に目が行った。あの水の底から引き揚げた黒い石。アンモナイトの化石であろうその表面には、僅かな肉片がこびりついていた。そのピンク色の肉は、蓮の震える掌と同じ色をしていた。
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