第30話

 数分歩いた頃だろうか。ふと、霧が僅かに晴れた。ほんのりと日が射して、視界が開ける。周囲は木々によって囲まれていた。傍に道は無く、私達が何処を歩いて来たのかは、わからなかった。足跡も、私達が帰路に向かうための痕跡も、そこには無い。ただ、私達がそこに辿り着いたという事実だけがあった。


「深く息をしろ。出来れば、口で。ここは酷く臭う」


 澄んだ空気を鼻で転がしていると、蓮はそう言って私の顔を睨んだ。その表情は警戒を表していた。咄嗟に、両手で鼻を抑えた。私の手から解放された蓮は、小さく溜息を吐いて、先を進んだ。彼が先陣を切ると、その数歩先には木の柱が見えた。明らかに人の手による加工が施されたそれには、塗料の剥がれた痕跡があった。それが鳥居というものであることは、近づくにつれて理解出来た。

 水分で重くなった空気の中、再び粘液が糸を引く音が激しく散りばめられていく。その中に僅かな鈴の音を聴いた。それは、年末年始によく聞く、参拝の鈴の音に似ていた。蓮の肩筋、その向こう側に目を凝らす。そこには一際艶めいたヒルコの体があった。

 動かなくなった蓮の、隣に身を寄せる。横たわるヒルコが、ジッとこちらを見ていた。蠢くのはその周囲。大量の蛭がヒルコと私達を覆うようにして、ぐちぐちと暴れ始めていた。それが何を意味しているのかは、理解出来なかった。ただ、何かを訴える動きだということは、直感でわかった。


「足元に気を付けろ。右の池は、そいつらが寝る場所だ」


 ふと、蓮がそう言って、私の身体を引き寄せた。言われるがままに目線を右下に落とす。そこには、波一つ無い水面があった。水底を視認することは出来なかったが、真っ暗な水の中、何かが揺らめいていることだけは見て取れた。


「何か、ある」


 そう呟いたのは、私だったか、蓮だったかはわからない。ただ、その声が反射して、水面が揺れたのは確かだった。


「何か沈められている」

 

 蓮がそう言って、背後のヒルコへと目を向けた。同時に私は周囲を見渡した。寝床だと言われていたにも関わらず、小さな蛭達は、その池の傍に近づこうとしない。よく見れば、池の際は道中で見た草木と同じく、僅かに枯れ始めていた。


「美代」


 思想に耽っていた私を、蓮が呼んだ。彼は一つ息を吸うと、ジッと池の向こうを見つめた。同じ視線に立つ。霧がかかって見えなかった対岸には、一人の女が立っていた。それは全体が白い人影と化していた。


「――……りりりぃ…………りりりりりぃ…………」


 ゆらゆら、ゆら。鼻歌を交えて揺れる。二十代に差し掛かったばかりのように見える彼女は、ワンピースの白い裾から水滴を垂らす。それらが何度も池の水面を波立たせた。その度に、背後で粘液のぶつかる音が聞こえた。くちゅくちゅくちゅくちゅ、鼓膜を舐め回されるような音が背中を押す。池の水が、足に触れて、その温さで意識を取り戻す。それは蓮も同じだったらしい。私よりも一歩遅れて、彼もその身を池から離した。


「みーよっちゃん」


 荒れた水面を辿って、女が私達と目を合わせた。彼女はパッと明るく笑うと、その両手を広げて見せた。

 

 ――――私は、この女を見たことがあった。


 それは、朝の身支度の時。それは、学校のトイレで手を洗っている時。それは、帰宅後の風呂場。何度も、何度も、私は彼女の顔を見たことがある。


「私?」


 その顔は、私が鏡を見た時のそれだった。本来の私よりも少しだけ明るい表情には、生気が無かった。青白く、血色は失われていた。生命的な動きの一つも無い彼女は、顔だけを私に寄せて、人間的な感情を見せつけていた。


「美代ちゃん」


 笑顔を湛えて、彼女は私の名前を唱えた。その声は、確かにあの女のものだった。硝子の鈴を鳴らした様な清涼な声。私に問いを吹きかけ、追い縋って来たあの声。

 心臓がバクバクと跳ねるように動く。血の巡りは、私に逃亡の意思を向けていた。だが、そうともいかないと、理性が訴える。私の隣で、蓮は目を丸くして、微動だにしなかった。かつて私に逃げろと言って、引き摺り走り去った彼が、あの女に釘付けになっていたのだ。


「蓮……蓮!」


 前に、進みそうだった。彼の足は、再び池の中に向っていた。あの鋭い神経を持った彼の、初めて見る動揺と無意識の姿。それがどうにも、異常で、ただ不安だった。このまま静かに水の底へ沈んでしまうのではないかと、嫌な想像が過った。

 咄嗟に、蓮の腕を掴む。足が止まった。彼は、短い息を何度も吐きながら、ゆっくりと私の方へ目を向けた。その眼球は揺れて、焦点のズレを示していた。反抗の一つさえしない彼の腕を伝って、首を撫でた。怯えた野良猫にそうするように、彼の昂った精神に蓋をする。ゆっくりと、目を瞑って、また開く。それを何度か繰り返すうちに、蓮は開いていた唇を真一文字に閉じた。


「蓮、アレ、何」


 問いを零す。彼がそれを拾い上げるまで、待ち続けた。数秒か、数分かはわからない。ただ待って、やっと開いた蓮の口を、ジッと見つめた。


「神の池に沈んだもの。沈められたもの」


 その言葉で、やっと、池の底で揺れるものが、白いワンピースの裾であることに気付いた。認識が構築されていく感覚が、脳髄の奥で弾ける。池の中へ、目をやる。蓮が落ちないようにと、私は彼を背後に置いた。私が説明を求めていることは、聡い彼なら理解していただろう。息を整えようと、何度も長い息を鼻で吸う音が聞こえた。


「池の向こうは無視しろ。今は、考えるべきじゃない」


 いつも通りの声色で、彼はそう言った。それは自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。だが、その理由を聞くよりも前に、私は黙って蓮の声に従った。


「ヒルコ達が求めているのは、池に沈められた死体の除去。そして、死体を静める重石にされた神体の回収、移動だ」

「死体と石。蓮、手伝ってくれる?」

「無理だ。僕は手伝えない」


 何故。と私が呟こうとした瞬間、蓮はその表情を僅かに歪ませた。困った様に下がる眉。何かを言おうとして、止めた唇。そこには僅かな罪悪感のようなものが含まれているように見えた。


「所謂、生物的な縄張りというものだ。ヒルコは助けを求め、僕はそれに応えたが、それは同じ言葉を使うを呼ぶ声を僕が拾ったに過ぎない。コイツらが僕一人を連れて来ずに、お前を攫おうとした理由は、そこにある」


 ギシ、ギリと、蓮の奥歯が鳴った。彼は囁くようにして、私の耳元に言葉を置いた。


「嫌われているんだ。同胞に。おかげで目が合う度に文句を言われ呪われる」


 一瞬、蓮がククッと笑ったような気がした。その音は韮井先生の笑みに似ていた。自嘲を伴った口元で、蓮はまた囁いた。

 

「僕が、歪み穢れに生まれた、であるが故に」


 神は皆、潔癖だからな。

 

 そんな彼の指先が、私の喉を撫でた。そうやって彼は私から言葉を奪った。黙っていろと言わんばかりに、爪を立てる。彼の頭が、背中に当たっていた。縋る彼の身体を受けて、私は一歩、池にその足を近づけた。

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