第29話

 冷えた霧の中、濡れた蓮の髪から、一滴の雨水が垂れた。それを合図とするように、耳元でくちゃくちゃと咀嚼音が聞こえた。背筋を細かい針が突くような、そんな不快感があった。見上げた蓮の顔に、変化は無かった。


「触るな。これはお前のものではない」


 ふと、蓮がそう唸った。威嚇の意思を持って、彼は私の背後に牙を向けていた。「どうしたの」と私が問うよりも前に、彼は舌打ちと共に私の身体を解放した。霧の中に立たされた足は、震えて曲がりかけていた。


「座らない方が良いぞ。出来るだけ目線は上にあった方が良い。コイツはそうやってこちらを推し量る」

「コイツ?」

「よく見ろ。もうお前の目の前にいる」


 蓮の言葉に、私は背筋を伸ばして、目を凝らした。霧の白さに混じって、黒い山のような影があった。霞掛かった視界、それはこちらをジッと見ていた。

 それは確かにこちらを睨んでいるというのに、そこに眼球は無かった。あるのは分厚い皮と、伸縮自在の袋状の身体。こちらに向けられた口は吸盤に刃を取り付けたようで、吸血生物として実に合理的な形をしていた。ただ一点、人間と同じサイズをしている以外は、それは進化論的な説明が付けられる姿をしていた。


「ヒルコ。この山の神であり、雨の神でもある。周りに落ちているのはコイツの子供だ。所謂、眷属だと思ってくれて構わない」


 そう言って、蓮は視線を下に向けた。巨大な蛭――ヒルコの足元には、車両を覆っていたあの無数の蛭が落ち葉のふりをして蠢いていた。嫌悪感は、あった。だがそれに反応するだけの気力が失われていた。そんな私の腕を掴んで、蓮は再び目線を上げた。


「お前が欲しいのは、この巫女だろう。だが、コイツはお前の巫女ではないし、先約がある。ここに残してやることは出来ない」


 蓮の口上は、ヒルコに向けられていた。彼の唱える言葉の一つ一つは、理解を伴わなかった。だが、彼が私の事を『巫女』と指示していることだけは、無知な私でも理解出来た。


「ねえ、蓮。何でヒルコは、襲って来ないの」


 口を閉じたのを見計らって、そう問うと、彼は一秒ほど考え込んで、また目線をヒルコに向けた。彼は指でヒルコを指し示すと、小さく溜息を吐いた。


「そもそも、コイツは、コイツらは、人間の血は吸わない。実際、他の隣接した山と違って、この山だけはヤマビルによる登山中の吸血被害は報告されていない」

「え? 鹿の血は吸ってたのに?」

「鹿はこの山のモノ。人間は外部の存在。ヒルコは山の神だ。自分の所有物である鹿の血は吸うし、肉や穀物も供物として受け取るが、人間の死体や血は受け取らない。寧ろ、ヒトの死や傷病気は穢れにあたる。この山にヒトの死体を置けば置く程、コイツらは弱っていく」


 蓮がそう語ると、ヒルコはその吸盤のような口を彼の手の上に伸ばした。それを掴んで、蓮はその手を濡らした。その掌には、傷一つ、血液の一滴さえ存在していなかった。


「屋敷の周り……ずっと煩いと思えば、どうも、僕に助けを求めていたらしい。おかげで目が覚めてしまった」


 その上。と、蓮は一転してヒルコを睨んだ。それは先程の威嚇よりも、ずっと敵意を剥き出し、悪意さえ重なっているように見えた。


「巫女を寄越せとせがんで来た。終ぞ、僕から離れた隙を狙って、お前を手に入れようと他の人間まで巻き込んだ。まあ、やりたいことはわかるけどな。やり方というものがある。全く、これだから古い神というのは話が通じなくて困る」


 溜息を吐く蓮の姿は、いつかカフェで見たそれと同じだった。気の抜けるような態度は、神と相対するためのそれではない。何処かヒルコと対等に、彼はぶつぶつと文句を垂れ続けていた。

 

「……巫女を、私を欲しがってるって……その、どういう意味なの?」


 零れ出た私の問いに、蓮は一瞬眉を顰めた。同時に、ヒルコが私の顔面に口を伸ばした。生臭い血の臭いが、嗅覚を狭める。雨の臭いも、草の青い臭いも、全て獣と血の腐臭に上書きされていった。


「世話をしてくれる人間が欲しいんだ。自分の社を掃除して、住処の移動を手伝って欲しいらしい」

「それって、神社の人がすることじゃないの」

「神社として機能してれば、そこを管理する神職のやることだが……こういった限られた地域の山神なんかはな、氏子……地域の人間がやったりするんだ。でも、今はそれをする人間がいないらしい」

「信仰がなくなったってこと?」


 神様と呼ばれていたものが、その信仰を失っていくのは、よくあることだ。それは、神社に関わって来た家系だからこそわかる。似たようなことを、父が教えてくれたことを覚えていた。民間の信仰が仏教や神道によって染められて形を変化させたり、そもそも信仰の形自体が無くなっていくことだってある。


「いや、違う。そんな風化とは全く別だ。もっと、自然的であり、また人為的でもある。だからこそ、直接お前を欲しがったんだ」


 私の発言の全てを否定して、蓮はそう唸った。それを合図に、ヒルコがぶるぶると震えて、私達から視線を反らした。ゆっくりと、その全身の筋肉を動かす。足元にバラまかれた蛭達もまた、ヒルコと同じ方向へ向かって動き出していた。


「少し歩くそうだ。疲れているなら、乗っても良いと言っているが、どうする」


 そう言って、蓮はヒルコの背を指差した。湿った粘液が、ぐちぐちと蠢く。それは冷たい人間の舌に似ていた。全身を服越しに舐められる感触を想像して、私は何度も首を横に振った。「そうか」と声を落とした蓮は、私の腕を掴んだ。この霧の中である。迷うことの無いようにということだろう。私は、彼のその手を振りほどいた。目を丸くした蓮の手を、握り返して見せた。


「何度も掴まれて、もう痛くて。ほら、青痣になってる。でも、迷子は嫌だし……触られるの、嫌だった?」


 私の傾げた首に合わせるように、蓮は丸い目をそのままにして、同じ方向に首を捩った。数秒の沈黙の後、彼は「いや」と否定を置いて、ヒルコの方へ視線を移した。握った彼の手は氷のように冷えていたが、次第に恒温動物のそれを放つに至る。神経を尖らせれば、彼の心音がわかった。

 汗ばんでいく互いの掌を押し付けて、私達はヒルコの背を追った。風は無く、道を塞ぐほどだった雨も消えて、そこには粘液同士がぶつかり合う音だけが残されていた。

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