第28話

 重い鉄の塊は四人の人間を乗せていたというのにも関わらず、巨大で柔らかなその物体は潰れるということを知らなかった。それが普通の山蛭ではないことくらい、池未もわかっていただろう。そもそも山蛭という単語が出て来たのかさえ定かではない。だが、彼はそれを轢き殺してでも前に進もうと、アクセルを踏みしめていた。けれど、山の斜面と道に撒き散らされた粘液、そして道に集まった蛭の群れが隙間に挟まって、タイヤはその場で回転するだけだった。


「なになになに! アレ何!」


 言葉を失って、ただ喚くしか出来なくなったアザミが、そう指を刺した。彼女の指先は、車窓の外、巨大な蛭に向いていた。甲高い彼女の声で、これが現実であることを理解する。幻想を失った視界は、周囲の状態をこと細やかに私に教えていった。

 ある程度大型である筈のこの車両を覆いつくそうと、無数の山蛭が硝子と鉄板を上っていく。尺取虫の如く這うその様子は、動物的ではあるが、生きた温もりというものに欠けていた。都会ではまず見ない山蛭の匍匐は、想像していた数倍は素早かった。見る見るうちに車両を覆うその塊は、一つの大きな生物のようでもあった。

 薄暗かった車内は、次第に暗闇へと転じた。硝子の隙間、蠢く蛭の口が視えた気がした。目張りでもすべきかと、一瞬の長考が走った。


「美代」


 ふと、私を呼ぶ声が聞こえた。女の声ではない。かと言えば、成人男性のそれでもない。車内からではなかった。それは確かに、車の外からの声だった。

 助手席の窓を叩く手があった。叩き割ろうとしているそれでは無い。私は扉を押し開けようとした。その手を、池未が掴んだ。


「何やってんだ」

「蓮が呼んでるんです」

「蓮……夜咲君か。彼が、いる筈がない。外がどうなってるのかくらい、わかるだろう」


 池未の手は震えていた。確信の持てない情報に、彼は首を傾げていた。この異常事態の中で、明らかにこちらを飲み混もうとしている蛭の海へと出て行こうとしている少女がいるのだ。気でも狂ったと思っているに違いない。


「美代、出て来い」


 また、声が聞こえた。今度は、美原にも聞こえていたらしい。彼も私と同じ方向を見ていた。


「お願いします、扉を開けさせてください」


 私がそう唱えると、池未はその手の力を強めた。何度も蓮に掴まれて、青い痣が浮かんでいる手首が、痛んで仕方が無かった。それでも、その痛みが、自分がまだ正気であることを教えていた。


「ヒルが入ってくるかもしれない」

「それは、そうかもしれません。けど、多分、大丈夫です」

「根拠が無い」

「根拠はありません。けど、蓮が出て来いと言うなら、私、多分、ここから出ないといけないんです」


 語ることのできる理由は無い。きっと池未に説明をしたところで、理解は出来ない。今起こっていることが異常現象であるという以外、説明出来る事実が無い。その根本を語る口は、私には無かった。ただ、蓮が正しいのだということは、今までの彼の行動に対する信頼と言う形で、私の中に根拠を構築していた。


「何してるんだ、お前。出て来い。ドア開けろ」


 馬鹿。そう罵倒する言葉で、確信した。扉の向こうには、蓮がいる。しかし、池未は未だ、私の腕を掴んでいた。彼を押し倒して、運転席に手を伸ばした。運転席側のドアにあるボタンを出鱈目に押していく。ガタン、ガチン、と音がした。それがドアロックを解除する音だということは、直感で理解出来た。

 引き留められる一瞬を搔い潜って、助手席のドアを開ける。重い扉を押すと、バラバラと四方八方から冷たい舌のようなものが降りかかった。それが山蛭であるということはわかっていたが、考えている暇は無かった。


「走るぞ」


 雨と木々の騒めきの中で、黒い髪を艶めかせる少年がいた。彼は、蓮は、助手席から落ちる私を受け止めて、山の方へと引き摺った。空いた扉を振り返る。

 ぽっかりと開いた助手席。その大きな入口には、何故だか蛭の一匹も入り込もうとしていなかった。乗用車一つを飲み混んでいたその蛭達は、その全てが首を擡げて、こちらを見ていた。目も鼻も見当たらないのに、それらは全て、私を睨んでいるのがわかった。


「お前らはそこにいろ! すぐに戻る!」


 蓮がハッキリとそう叫ぶと、ぽかんと口を開けていた池未が、車から身を乗り出した。彼は「待て」と声を上げたが、その口は一瞬にして結び閉じた。

 背後から、粘液同士を擦る音がした。車両を覆っていた蛭の群れが、一つの塊となって、地べたを這っていた。同時に、池未の隣にあった巨大な山蛭も、こちらへゆっくりと進み出した。その様子を睨んだ蓮が、ふと、その足を止めた。


「ヒルコ、そうだ、こっちに来い。お前が欲しいはこっちだぞ」


 そう言って、蓮は再び走り出した。引き摺られるまま、泥と草木の上を駆け抜ける。ふと、違和感があった。それは、時折、草木が茶色く枯れていることだった。誰かに踏まれたのではない。動物に食べられているわけでもない。形を保ったまま、冬の枯草のようなものが、纏って生えた地点が、川のように筋を作っていた。


「足元気を付けろ。死体が転がっている」


 一歩先を行く蓮の声を拾って、足元を見る。たしかに意識して見れば、足元には時折、鹿の角や骨、あるいは腐乱した肉やらが散乱していた。


「蓮、これ、何が起きてるの」


 私が問いを投げかけても、蓮は何も言わなかった。黙って着いて来いということなのは、重々承知だった。振り返らずとも足を止めてはいけないことは明白だった。背後からは変わらず粘液が絡みつく音と、草を掻き分けるあのぶよぶよとした皮と体液の塊が這う音がしていた。

 そうして、雨雲が霧に変わる頃、蓮が手を離した。勢いを失った身体が、前のめりに倒れ込む。それを何も言わず、何も見ずに、蓮が受け止める。彼の腕の中に納まった肺が、何度も膨らんだり、萎んだりしていた。


「息を整えろ。これから一仕事あるぞ」


 深い霧の中、薄い酸素を何度も吸った。数秒の後、どうにか動悸を収めて、蓮と目を合わせた。


「ここどこ」

「山の中」

「そうじゃなくて」

「寝床だよ、ヒルコと名の付いた、山と雨の神のな」


 彼はそう唱えると、私の腰に手を置いて、僅かにその身を引き寄せた。体温に触れる。雨に濡れた表面の全ては、冷えていた。けれど、じんわりと指先に届いた温度は、確かに哺乳類のそれだった。

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