第27話
暗闇に慣れたアザミの網膜は、雨空の薄暗さでも、彼女の視神経に負担をかけてしまったらしい。眩しいと言ってふらつくアザミを押し込んで、私は池未の車両へと体重を預けた。後部座席で唸るアザミと、その隣で横にさせられた美原を確認する。美原は僅かに意識を取り戻していて、小さな声で状況の説明を訴えていた。
「街に出て、病院に着き次第連絡します。僕からも事情を説明して、追加で警察にも」
「わかった。よろしく頼む」
運転席、韮井先生と目を合わせた池未、そう言ってドアを閉めた。彼の隣を陣取る助手席は、どうしても落ち着かなかった。背後で朦朧とする二人を見て、己の状態がまだマシであるのだと脳に刻んだ。
「立花さん、大丈夫?」
「え、あ、はい。私は一応、どうとも」
「疲れたよね。何か大変なことになってるみたいだし……」
「疲れては、います。けど、屋敷に残ってる皆が心配で」
そう言って思い出したのは、声もかけられなかった蓮のことだった。彼が最後に言った言葉が、脳を過った。ヒルコの声が聞こえたと、彼はそう言っていた。韮井先生や若桜の言葉を重ねるなら、彼はきっと、本当にヒルコの声が聞こえていたのだろう。それを耳に入れていた筈の蓮の表情は、思えば不思議と明るかった。考えてみれば、蓮が行っていたヒルコへの回避行動は、意思のある人間的な生物に対するそれではない。どちらかと言えば、野生のクマやイノシシを避けるような、そういったものに近かった。
「蓮、何処に行ったんだろう」
ふと、言葉が漏れた。車窓から見える木々の隙間に意識が飛んでいた。隣でハンドルを掴む池未のことは忘れていた。
「蓮……夜咲君だよね、あの」
「え? 私、何か言ってました?」
「名前を呼んでたよ。心配? トイレに行ったんじゃないの?」
「あぁ……そうなんですけど、そうでもないっていうか。彼、少し、自由気ままな所があるから……トイレって言って、別の場所にふらふら行っちゃったんじゃないかなと思って」
「そりゃ心配だ。もし道中で見つけたら拾いたいね。美原も目が覚めたみたいだしね、一人くらい入れられそうだ」
そう言って、池未は一瞬、背後に目線を向けた。そこには、自ら頭を抑えて唸る美原がいた。
「頭どうよ?」
池未がそう問うと、彼は眉間に皺を寄せて、バックミラー越しにこちらを睨んだ。
「…………あ。池未か。これお前の車か」
「そうだよ。警察も救急車もこっちまで来るの遅れるっていうから、お前と女の子達を連れて街の病院に行くところ。殴られたんだって? 吐き気ある? あるなら急ぐぞ」
「無いよ。強く殴られたわけじゃない。不意を突かれた。気絶してたのは、多分……あの感じだと、電気だな。スタンガン」
先程まで朦朧としていたにしてはハッキリと、冷静な舌の動きで、美原はそう呟いた。彼の言葉に、池未は「成程」とホッと胸をなでおろす様に笑った。
「お二人は随分と、仲が良いんですね」
そう唱えたのは、美原の隣で目を瞑っていたアザミだった。彼女はパッと口を開いて笑っていた。それは安心感をに助長させようという彼女なりの献身的な話題運びか、それともいつもの好奇心から来るものか、どれかはわからなかった。そんな彼女の言葉に乗ったのは、ハンドルを握って微笑む池未だった。
「同級生なんだよ。高校で、一緒に生物部に入ってた」
「美原さんは大学院生で、池未先生は大学四年生ですよね」
「僕は家庭の事情で、一年休学した時期があるんだ。だから本当は、美原と同い年」
そんな二人の会話を不思議そうに見つめていた美原は、再びバックミラー越しに池未と目を合わせると、首を傾げた。
「そういうお前は……もしかして、知り合いか? 先生って呼ばれて……って、教育実習か」
「そうだよ。立花さんと、星浦さんと、もう一人……夜咲蓮っていう子のクラスと関わってる」
「成程。じゃあ、丁度良かったな。面識があれば、僕を襲った人間ではないと簡単に証明出来ただろ」
「韮井先生には綺麗にぶん投げられたけどね」
そう言って、池未はケラケラと喉を鳴らす。しかし、その数秒後、彼の表情は凍りつくように冷ややかなそれに変わった。口を一文字に結ぶと、喉仏を上下させて、唾を飲み混んだ。流れる汗こそ見られなかったが、その横顔は緊張を表していた。
「……それで、お前を襲った人間は、どんな奴だったんだ。何が起こった」
転じた話題と、それを問う池未の低い声が、車内の温度を二度程度下げた。小さく息を吸う音が聞こえた。バックミラー越し、美原が頭部の傷を指していた。
「一人は若い女。屋敷の地下室で……あー、色々見つけちゃって。驚いてる隙に、走って逃げる姿を見つけて、追いかけた。もしかしたら、その……何か事件に巻き込まれた被害者かと思ったんだ。そしたら、地下室の奥に、外に通じる階段があった。それを上がってく音がしたから、更に追いかけて……外に出たら、木の棒か何かで殴られた。振り返ったら、男がいた。多分、僕達と同年代。その後、一瞬バチッって音がして、目の前が真っ暗になった。多分、女の方が後ろから……ってことだと思う」
全てを遠慮がちに語ったのは、私やアザミに配慮してのことだろう。彼は私達があの地下倉庫の惨状を見たことは知らない。だが、何となく想像はついた。蓮の言っていた通り、相手は二人だったのだ。
「姿を見てるなら、道中に現れてもわかるな」
「居たらすぐに言うよ」
わかった。と池未は小さく手を振った。一瞬、車窓の景色が早く流れた。アクセルを一気に踏んだらしかった。エンジンの音が耳を打つ。泥と雨水を弾き飛ばすタイヤが、私の下で回っていた。だが、違和感があった。その回転数と、車窓の動きが一致していないような気がした。その違和感は池未も感じていたらしい。彼の横顔、眉間に皺が寄るのがわかった。硝子越しに、先の道を眺めた。そこにはハマるような泥溜まりも無い。そもそも、道そのものが、既に車が通れるように舗装されていた。タイヤが滑るような路面には見えなかった。
「池未さん、あの……」
足元がおかしくはないか。そう声をかけようとした時だった。池未は再び、アクセルを踏みつけた。慣性が私や後部座席の二人をシートに叩きつけた。
「どうした、何かあったか」
上半身を起こした美原が、そう声を上げた。だが砂と水を撒き散らす音ともに、再び車両は速度を上げた。無言で進む池未の横顔は青白く、ただ真っ直ぐ前だけを見ていた。
「なんだ、あれ」
池未のその呟きが聞こえたのは、私だけだった。彼は二度、バックミラーに目を移した。その反射した視線の、向こうを見る。身体を持ち上げて、車の背後を見た。同時に、美原とアザミが同じ方向に身を捩じった。
「何? 鼠?」
アザミのそんな独り言を、耳だけで拾う。確かにその視線の先には、鼠のようなものが浮かんで見えた。と、言うよりも、『それ』はこちらにずるずると音を立てて向かっていた。鼠のような丸みを帯びた茶色い物体。それが幾つも重なって、木々の隙間と舗装された道路を這う。車両の速度は次第に落ちていった。明らかにタイヤの回転と速度が合っていない。状況の理解が間に合わないまま、車両の背後に貼り付いた『それ』に焦点を合わせる。
「ヒル?」
その鼠の正体をそう形容したのは、美原だった。飛び、貼り付いては落ちる。芋虫のようでいて蛞蝓のようでもあるそれは、確かに山蛭の腹だった。何度もぐにぐにと拍動して、そして墜ちていく。それを繰り返すうち、貼り付く個体の量は増えていった。時々、背後からブチブチブチと袋状の何かを踏み潰す音が聞こえた。それはいつか遊んだ水風船の弾ける音と似ていた。
「池未! 前!」
私と目が合った――否、私の向こう、車の先を視認した美原が、そう叫んだ。バックミラーから目を離した池未は、ハンドルを横に滑らせる。その一瞬、フロントガラスに見えたのは、確かに蛭だった。だが、それは自治体のパンフレットに掲載されているような、可愛らしい山蛭ではなく、車の硝子に貼り付いているそれでもない。
「ヒルコ」
その言葉が脳裏を駆け抜けた。人間サイズのその巨大な蛭は、動くことも無く、私達を乗せた鉄の塊を受け止めた。
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