第26話

「恭子さん、先生達は」


 一人、玄関の扉を支える彼女を見て、若桜が駆け寄った。雨と風に揺られる恭子は、パッと顔を上げた。


「いるわよ、ほら」


 彼女が大きく扉を開けると、濡れた床に滴が落ちた。その水滴の源には、韮井先生の赤い髪があった。彼が背負っていたのは、ぐったりと力の抜けた成人男性。頭から血を流す美原は、先生の背からゆっくりと恭子の膝の上に落とされた。


「幸い、頭蓋骨骨折などはしていない。呼吸も正常。気を失っているだけだ。面倒だから起こさなくて良い」

「頭を殴られたんですか」

「そのようだ。首元に火傷があったから、不意に殴られた後、スタンガンか何かで感電させられたんだろう」


 そう言って、先生は指先で美原の首筋をなぞった。それを皆が見ているうち、玄関の扉が閉じた。背後に隙間風を受けていた蓮は、誰を睨むでもなく、ただ苛立ちを誇示するように舌打ちを鳴らした。


「警察に急げと連絡しろ。美原を気絶させた奴は最低でも二人以上で行動している。恐らく地元民で、地下のあれは儀式的な殺人または遺体損壊である可能性が高い」


 足跡があった。と、蓮は零して、髪を絞る。滴る水が廊下を汚した。その手が僅かに震えて見えたのは、あの近くに落ちた雷の影響だろう。手首を何度か握ると、彼は再び廊下を歩き出した。


「蓮、何処に行く」

「ヒルコが入って来ていないか、周辺を少し見回ります」

「あのな、確かに痕跡はあるが、本体がすぐ近くにいるとは限らないだろ」

「いいや、いますよ、ヒルコは。確実に、近くにいます」


 真っ直ぐに、蓮は先生の顔を見ていた。その声色は自信があるというよりも、真っ当に事実だけを機械的に語っているという形をしていた。彼は黒真珠の瞳を見開きながら、自分の耳を指差した。



 それだけを言い残して、彼は私達に背を向けた。ゆっくりとした歩幅は、明確な行き先を定めて動いていた。私の隣では「声?」と樒が首を傾げていた。


「環形動物って喋るのかよ……」


 ふと若桜がそう溢した。彼は深く溜息を吐くと、廊下の床に腰を落とした。その表情は呆れているというよりも、目紛しい情報処理の波に、着いていけないといったように見えた。その疲労に満ちた顔を見て、己の疲弊を自覚する。ずるりと、脚が床に着いた。腰が抜けていた。四肢に力が入らなかった。


「大丈夫? 美代ちゃんも疲れたのね」


 そう言って、恭子が私の肩を掴んだ。倒れかけていた胴体が、彼女の豊満な胸部に支えられる。気がつけば、彼女の膝に頭を置いていた美原は、丁重に姿勢を正され、先生の横に寝かされていた。恐らくは恭子が応急手当てをしたのだろう。美原の後頭部を包帯が覆っていた。


「壁に背中を付けて、休んで。遅くなるって言ったって、夜まで警察も救急車も来ないってことは無いだろうから、多分、もうすぐよ」


 ですよね。と恭子は韮井先生の方へ目を向けた。先生は「そうだな」と一つだけ返事をして、閉じた玄関の向こうに耳を当てていた。その筋肉の強張りは、どうも緊張感が抜けていない様子を示していた。考えてみれば、周辺を怪異と不審人物が彷徨いているというのだ。先生の態度の方が、現状には則していた。

 ふと、僅かに先生の眉が動いた。


「向こうに誰かいる」


 数秒の沈黙の後、先生はそう呟いた。その言葉の瞬間、一瞬だけ息を止めた。確かに、僅かな人の気配があった。雨打つ木々の枝を折る音がした。雨はほんの少しだけ勢いを弱めていた。


「……すみません、誰かいませんか」


 声が、聞こえた。扉を何度か叩く男の声だった。それを避けるようにして、恭子が私をその体に引き寄せた。樒と若桜が先生の両隣に立つ。扉の前で立つ先生は、微動だにしていたなかった。


「あれ? ここであってるよな? あの、すみません……あ、鍵空いてる?」


 意味の無い独り言を漏らす。その声に、何故だか覚えがあった。声と共に開いた扉の、その隙間。風に運ばれた雨粒が、先生の顔を打つ。その瞬間、先生の赤い髪が揺らいだ。


「待って! 先生! その人は!」


 そこでようやく、男の声に覚えがあることを思い出した。上手く力が入らなかった足がもつれて、私はその場に伏した。見上げた視界では、黒いウインドブレーカーが宙を舞っていた。否、舞っていたのは、それを身に纏った男の体だった。先生の足元、背中を大きく叩きつけて、男は天井を見上げていた。上手く息が吸えなかったのだろう。彼は肺を守ように蹲ると、大きく咳をしていた。


「池未さん!」


 男――池未の名前を呼ぶ。追撃を試みようとしていた樒と若桜が、その手足を止めた。


「池未先生、なんでここに」


 私と同じ困惑の声を上げたのは、樒だった。彼は池未の前に膝を付けると、その顔を覗き見た。睨むような目で、池未は樒を見上げていた。


「…………よ、夜咲君……また君か……」

「また? え、僕、何かしましたっけ?」


 また別の困惑が浮かぼうとした瞬間、私は樒の首根っこを引き上げた。どうやら何か勘違いとすれ違いが起きているのだと、私は精一杯の言語を吐いた。池未が自分達の高校に来ている教育実習生であること。蓮と出会った雨傘の関係者であったこと。その時、蓮が彼に尋問を行おうとしたこと。そんな拙い言葉の羅列が終わると、玄関扉の前に陣取っていた韮井先生が大きく溜息を吐いた。そこには現状の混乱と、蓮に対する呆れのようなものが混じり合っていた。


「池未で良いのか。私は韮井ミツキ。夜咲蓮と夜咲樒の保護者だ。うちのが迷惑をかけた上に、投げ飛ばしてしまってすまない。怪我は無いか」

「あ、はい。な、成程……彼が双子の……えっと、怪我は無いです。少し背中は痛みますが」

「そうか。ところで、君は何故ここに? 美原に呼ばれたか?」


 謝罪も束の間、韮井先生がそうやって問うと、池未は腰を摩りながら困った様に眉を顰めた。


「そうですが……子供達の避難を頼まれましたが、どうして美原が倒れてるんですか」

「全てを簡潔に説明するのは難しい。だが要点を絞るならば、現在、この屋敷の周辺に不審人物がうろついている。美原はそれに襲われた。命に別状はないが、早く街に出て病院と警察に頼りたい。君の車で、美原と……出来れば子供達は全員ここから離れさせたいのだが、出来るか」

「わかりました。子供達はここに居る三人で全員ですか」

「いや、あと二人いる。女子が一人厨房で休んでいて、もう一人は……トイレだ。そういうことにしておいてくれ」

「はあ……そうですか、いや、あの、少し人数が多いですね。美原は頭を打っている様なので横にしたいですし……美原を乗せたとしたら、子供ならあと二人程度を乗せることになるかと思います。通報等はしていますか」

「救急車と警察には、既に。だがそれらを待つよりも、君に運んでもらった方が早いだろう。怪我人と状況に慣れていない二人……美原と、厨房にいる女子生徒の星浦と、この立花を頼む」


 韮井先生の言葉に合わせて、恭子に背を押された。彼女はそっと微笑むと、「アザミちゃんを呼んで来て」と耳打ちした。私が足先を厨房に向けると、彼女は美原の肩を叩いていた。塩の撒かれた廊下を踏む。現実感の無い救いが、何故だか心臓の上の辺りで違和感を吐いていた。


 ――――帰れる? 本当に?


 何故だか、嫌な予感がした。直感とでも言えば良いのか。それとも根拠の無い自信とでも取れば良いのか。状況は好転している筈なのに、曖昧でふんわりとした、霞のような不安感が頭蓋骨の裏を叩く。


「美代ちゃん」


 ふと、また声が聞こえた。確かにあの女の声だった。厨房への扉の前、雨が打ち付ける硝子窓に、あの女は居た。雨で濡れた黒い皮膚が、首からちらちらと見えた。


「美代ちゃん」

「今は貴女に構っている暇は無いの。邪魔しないで」


 自分でも驚くほど冷たい言葉が、自然と唇から吐き出された。もしかしたら、睨みつけすらしていたかもしれない。厨房の扉に手をかけて、握りしめていた。


「ごめんね」


 一言、涼やかな声でそう呟くと、濡れた綿飴のように彼女は消えた。その姿を眺める自分に、恐怖心が無い事に気付いた。そこにあったのは、怒りだとか、苛立ちだとか、そういった不快感ばかりだった。

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