第25話
私の視線に気づくと樒は「ごめん」と柔らかく頬を上げて見せた。そんな彼は、宙を眺めていた若桜と目を合わせた。
「倉庫以外に不審者が入り込んだ形跡が無いということは、その倉庫は直接外と繋がってるってことだね」
「先生がいるなら大丈夫とは思うけど、蓮が追いかけてなきゃ良いな」
「そこまで無謀な奴じゃないよ、蓮は。そもそもそんなやる気漲ってないと思うし……それより心配なのは美原さんだ。立花さんの話を聞く限り、何らかの儀式的なものが行われていたとして……」
随分と手慣れている。そんなことを樒が言った頃、私のすぐ傍、充電中のスマホが震えた。同時に鳴ったアラームを耳に、樒達も私へと目線を送った。震える電子機器の持ち主が、私であることは、画面に映る画像で判断出来た。振動を指先で止めて、耳に当てる。聞こえたのは激しく水のぶつかる音と、蓮の吐息だった。
『屋敷の裏で美原を発見した。頭を強く打っている。玄関から運び入れたい』
無駄の全てを削ぎ落として、蓮はそう吐いた。彼の言葉に押されて、恭子と目を合わせる。音が漏れていたのだろう。彼女はそっと「わかった」と呟いて、厨房を出た。
「玄関、恭子さんに開けてもらってる。そっち大丈夫? 私達も行く?」
『いや来ない方が良い。美原は先生が運んでくれる。それよりも警察と救急車だ。呼んだか』
「樒と若桜君がそれぞれ呼んでくれた。でも雨が酷くて遅くなるみたい」
『そうか。随分静かだが星浦はどうしてる』
「少し興奮し過ぎたみたいで……今は寝てる。暫く起きないと思うよ」
『なら都合が良い。そのまま寝かせておけ。ついでに、起きる前に目隠しして耳を塞いで、動けないようにしておけ』
何故そんな酷いことを。私がそう問おうとした時、電波の向こう側、蓮の強張った声が聞こえた。
『ヒルコが彷徨いている。もう屋敷に入ってるかもしれない』
ヒルコ。その名前を聞いた瞬間、脳裏にあの女の顔が映った。顔面に集まる山蛭の、その柔らかな体。粘液同士が打ち付け合う音。
咄嗟に、自分で自分の頬を叩いた。脳内で情報が巡るよりも前に、その思考を止めた。
「ヒルコって、あの、鹿の血を吸ってたやつ?」
『そうだ。粘液と新しい吸血済みの死体があった。死体はまだ暖かい。屋敷の裏から見て、二階の窓が一つ割れていた。そこか、地下から侵入している可能性がある。今いる部屋の扉をすぐに閉められるようにして、周囲に塩を撒いておけ。
雨が打つ音に混じって、蓮は淡々とそう呟く。耳が拾った音をそのままに、私は厨房の隅に置かれた大量の塩を見つめた。
『それと、絶対に暗闇にはならないように、光源を確保しておけ。暗闇の中では想像が巡る。その想像が怪異に形を与えることもある。気を付けろ』
私が了承の意を唱えるよりも前に、蓮はそう言って通話を切った。耳を打っていた電子音の豪雨は無くなって、外から聞こえる重い雨粒の音だけが脳を揺らした。スマホから漏れた蓮の言葉を聞いていたのか、樒と若桜の二人は塩の入った袋を持ち上げていた。彼らは「星浦さんを見てて」と言って、厨房を出て行った。それが彼らなりの配慮なのは理解していた。ただ、私とアザミの二人だけを残したことには、些か不安があった。アザミは怪異について何も知らないというのに、感じ取ることだけは得意なのだろうと、若桜が言っていたことを思い出す。そんな彼女と、ただ怪異が見えてしまうだけで、一人で逃げることも儘ならない私だけが残されたのだ。蓮がアザミから視覚と聴覚を奪えと言ったのは、彼女にヒルコを認識させないためだろう。それはつまり、ヒルコと相対してしまった時は、きっと彼女を置いて行かなければならないということだ。母とあの女に襲われた日も、きっと、私がそうやって『母が襲われる』と認識していなければ、母には危険が及ばなかった。
大丈夫。足は動く。手も、まだ震えてはいない。
一人、頭の中で確認したのは、そんな自分の四肢の動きだった。ヒルコというものがどんな存在かは、未だ想像出来ていない。そもそも現実に存在する山蛭というものを見たことが無かったものだから、どのように向かってくるのかも理解していなかった。
そうやって自己の問答を繰り返す中、再び厨房の扉が開いた。一瞬、蓮が戻って来たのだと錯覚する。だが、そこにいたのは、空になった塩の袋を持った、樒だった。蓮の名を呼ぼうとした口を押さえて、私は再び息を吸った。
「ねえ、樒、ひとつ聞いておきたいんだけど、ヒルコって……」
どんな神様なの。そう唇を動かそうとした、その時だった。顔を上げた樒の眼鏡が、一瞬だけ光って、視界が黒く塗りつぶされる。数秒経った頃になって、雨音も、樒達の声も、何も聞こえないことに気づいた。耳鳴りが治まると、ようやく自分の心臓が動いていることを理解した。手先がビリビリと震えていた。精神が反映されているものではない。恐らくは、電気と衝撃によるもの。
「またか」
そう言ったのが若桜か、樒かはわからなかった。ただ、状況が芳しくないのは理解出来た。暗闇の中、覚えのある空間へ手を伸ばす。スマホの画面に触れる。電源ボタンを押す。充電されていた二つはどれも懐炉としての役割しか果たせなかった。唯一、私が膝に置いていたスマホだけが、僅かに周囲を照らした。
「コンセントに繋いでたのが仇になったね。立花さん、懐中電灯探してくれないかな。ブレーカーまた上げに行くから」
僅かな焦りすらも無い声は、樒のものだった。彼はほんの数ミリだけ声を弾ませて、私の正面で囁いていた。私が何処にいるのかわかるのなら、懐中電灯くらい何処にあるのか見えているのではないか。そんな疑問を伏して、私はスマホのライトを点けた。その光の筋は真っ直ぐにアザミの顔を照らしていた。
「…………何? もう夜?」
その一瞬、アザミと目が合った。ハッキリと「美代?」とその口が動く。咄嗟に動いた手は、スマホを床に捨て去って、彼女の顔を掴んでいた。
「目を瞑って。耳も塞いで」
「え? 何? あれ? 何起きてるの? あ、また停電?」
「あのね、アザミ、お願いだから眼を閉じて。静かに息をして。何も言わずに耳を塞いでて。動かないで」
暗闇の中、何も見えない空間で、私はアザミの耳元に囁いた。奪った彼女の両手を、無理矢理その耳に置く。困惑を口にする彼女に、私はただ唱えた。
「お願い黙って、何も視ないで、何も聞かないで」
握りしめた彼女の手は、酷く冷たかった。数秒の沈黙の後、アザミはハッと小さく息を吸った。そのまま何も言わなくなった彼女の表面を撫でる。体育座りで体を縮こませた彼女は、確かにしっかりと、耳を塞いでいた。
「待ってて、大丈夫だから」
そう言って、床に着けていた膝を浮かべた。床を弄っていると、その指先に、僅かな振動があった。私が放り投げたスマホを取り上げたのは、樒だった。彼に腕を引かれて、厨房を出た。扉を背中で抑えつけた。廊下に出れば、窓から差し込む薄暗い外の光が、視覚を作り上げていた。
「周りは塩で囲んだ。ヒルコは入って来られない。と、思う。そもそも星浦さんは認識が出来ていないから、彼女単体ではヒルコの影響は出ないと思う。けど、君は」
「わかってる。私がいるとアザミを襲うヒルコっていう構図が出来上がっちゃうんでしょ。大丈夫。理解はしてるつもり」
酷いシュレディンガーの猫だと、私は強張る頬を上げて見せた。そんな私を見て、樒は困った様に笑っていた。窓際に立つ若桜は、私達の間に手を入れると、交互に目を合わせた。
「とりあえず、玄関へ。ここはもう暗闇の方が、彼女を守れる。先生達を手伝おう」
若桜の背に向って、足を滑らせた。足元はじゃりじゃりと小さな音を立てていた。ふと、その足音が四人分あったのは、気のせいだったか、それとも私の現実だったかは、定かにはならなかった。
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