第24話
不思議と、息は整っていた。軽くなった両手をぶらつかせて、私は長く伸びた首筋を見上げた。傍には倒れた椅子があった。不思議と腐敗臭は感じられなかった。否、鼻の機能が全て死んでしまったのかもしれない。自分の呼吸の代わりに、ぐちぐちと粘液同士がぶつかり合う音がしていた。白いワンピースは暗い部屋の中で輝いて見えた。その上を這う山蛭の黒さは、より一層艶めいていた。
「貴女、何でここに」
独り言にしては大きな声で、私は死体に語りかけていた。裸足の彼女は、何も答えなかった。
顔に群がっていた山蛭達が、ぼとぼとと落ちて、私の足元に集まろうとしていた。薄っすらと見えた女の顔は、黒く焼け爛れていた。
「美代ちゃん」
また、呼ぶ声が聞こえて、「何」と死体に声をかけた。
「美代ちゃん!」
返事をしてすぐのことだった。肩を引っ張られて、私は廊下の蛍光灯を見上げていた。私の顔を上から覗くのは、あの焼け爛れた顔ではなかった。
「恭子さん、何で、ここに」
「美原君が遅いもんだから、様子を見に来たのよ。貴方達が二階から降りて来る音は聞こえてたから、一緒に下にいると思って」
そう言って、恭子は私の背を撫でた。意識の目覚めを促されて、周囲を見渡した。廊下の壁に背を付けて、アザミが笑っていた。彼女を囲みながら、樒と若桜が顔を見合わせていた。「何があったの」と尋ねる恭子の顔を見上げながら、私は膝を伸ばした。ふらつく足を支えられながら、口を開いた。
「死体を見つけたんです」
「死体? 何処に?」
私は最も手短なそれを指差した。暗い部屋の中、首を吊った女に人差し指を添えた。けれど、そこにはただ、暗く狭い空間があるだけで、ダンボールの一つも無かった。
「あったんです、そこに。あの女の死体が」
眼球が揺れた。自分の口が何を言ったのか、先程まで見ていた世界は何だったのか、疑問が脳と一緒に視神経までも揺らしていた。息が上がる。横隔膜は動いている筈なのに、酸素が肺に達している感覚が無かった。
「美代ちゃん、落ち着いて。ここには何も無いわ。大丈夫、怖かったわね。ゆっくり話して。先生達の場所へは案内出来る?」
私が首を横に振ると、恭子は「わかった」と言って、私の身体を摩った。きっと私の身体は冷え切っていたのだろう。摩擦熱が温かく、妙に心地よかった。
「先生が、美原さんと蓮のことは任せて、地上に戻れって。そこで、警察と、救急車を呼んで欲しいって、それで」
「うん、わかった。じゃあ、一緒に戻りましょう。アザミちゃんも落ち着かせないと。温かい飲み物を用意してあげる。連絡は若桜達がするから。少しだけ歩いて。厨房には、すぐだから」
ね? と、穏やかな彼女の声は、いつか幼い私が泣き喚いた時の母のそれと似ていた。無理矢理作った微笑みを浮かべながら、彼女は私をそっと抱いて、歩幅を合わせた。背後では未だゲラゲラと横隔膜を震わせるアザミの両腕を掴んで、若桜と樒が半ば強制的に歩かせていた。少女らしい甲高い声は、階段を上り切った直後に、ぴたりと止んだ。同時に、若桜の慌てる声が聞こえた。どうやらアザミの意識が無くなったらしい。「ちょっとごめんね」と恭子が言って、歩幅を広げた。厨房の冷たい床の上に私が足を置くと、彼女は実に滑らかな動きで私を近くの椅子に座らせた。私を放った恭子は、再び廊下に消えた。再度厨房に入った時には、三人でアザミの身体を支えて、動かない彼女の名を唱え続けていた。
「アザミ、大丈夫なんですか」
「呼吸は正常だから、命には別条無いと思う。疲れたんでしょう。彼女、感受性が強いみたいだから、少し気をやってしまったのね」
パイプ椅子を並べた簡易のベッドの上にアザミを置くと、恭子はそう言って私の肩を撫でた。アザミの傍では、樒と若桜の二人が、それぞれスマホを耳に当てていた。淡々と進む事の次第を、私はボーっと眺めるだけだった。
「あの、恭子さん」
一人、私の肌に触れていた彼女の名を呼んだ。恭子は微笑みを浮かべて、私の目を見ていた。
「アザミ、変だったんです。死体を見て、笑って。子供みたいになって」
「そりゃあ、脳味噌パンクしたんでしょ。星浦さん、蓮と似たタイプだし」
ふと、恭子よりも前に声を上げた人物がいた。それは通報を終えた若桜だった。彼はアザミと自分の額に手を置くと、数秒、目を瞑った。
「蓮と似たって、どういうこと」
「そのままの意味。彼女、かなり怪異に干渉されやすいタイプだと思う。蓮と同じで、他人の感情とかが何となくわかるくらいには。本人が認識してるかどうかは別として」
「怪異に干渉される? 視えてるんじゃなくて?」
「ほら、妙に勘が良い人っているでしょ。野性的って言うか、共感能力が高いって言えば良いのかな。ああいう人の中にはさ、無意識下で怪異を認識してるっていうのかな、そういう人もいるんだよ。ここに着いた頃の星浦さん、凄い興奮してたでしょ。あれ、たまに蓮もなるんだよね。神域とかそういうやつの……空気感? とかにさ、当てられちゃうんだよ」
そういう感じ。と曖昧なことを若桜は呟いて、アザミの髪を撫でた。きっと似たようなことをいつも蓮にやっているのだろう。慣れた手つきで彼女の周囲を整えると、彼は床に座り込んだ。梅雨にしては厚手の服に、熱が籠ったのだろう。発汗が激しいように見えた。
「美代ちゃんも、初めて学校で怪異を視た時、倒れたんでしょう? アザミちゃんの場合は、美代ちゃんを心配し過ぎたりしたのかもね。貴女の気持ちを汲み取って、そこで死体を見てしまったから……ショックが大きすぎたのもあるのかもね」
そう言って恭子は手に持った白湯を私に近づけた。受け取ったそれに唇を付けて、温もりを胃に収めた。そうして顔を上げた頃、スマホを仕舞う樒と目が合った。彼は少しだけ眉を下げると、小さく溜息を吐いた。
「警察の方は雨が少し収まらないと、屋敷までは辿り着けないって。急ぎはしてくれるみたいだけど、安全が確保できるように固まってろだってさ」
樒は眼鏡を拭きながら、そう言って、口角を上げた。呆れた様子の背中は、蓮と同じように丸まっていた。
「救急車の方も同じことを言われてる。突然の雨で、土砂崩れが起きたりしてるみたいだ。これじゃ、美原さんが呼んだ人も来るか微妙だね」
「そう……とりあえず、先生と蓮が戻るのを待ちましょう。私は定期的に二人へ連絡を入れてみる。三人はスマホ、充電しておいて。また停電すると面倒だし……」
若桜と恭子の対話を眺めて、私は再び白湯を喉に通した。その隣、私に寄ったのは樒だった。彼は私の顔を覗くと、にっこりとまた口角を上げた。
「死体、先生と蓮が残ったってことは、何か変だったんでしょ。浮浪者の死体とかではないね」
「……興味で聞いてる?」
「違うよ。ここに居る全員へ危険が及ぶか、及ばないか、判断材料にしないと。不審者が屋敷に入り込んでるなら、女と子供しかいないここは危険だ。急いで先生達と合流する必要も出て来る」
ねえ。と、妙に楽し気に、樒は呟いた。私の肩を撫でていた恭子と目が合った。彼女も同じことを聞こうとして、一歩引いていたのだろう。「聞かせて」と彼女もまた、私に微笑んだ。
「……地下の、美原さんの足跡を辿ったら、死体があって。てるてる坊主みたいな」
そうやって見た全てを言葉にしていった。恭子が相槌を打つ度に、どうしても視線がアザミに逸れた。白湯が冷めた頃、耳元で樒の深呼吸が聞こえた。彼の眉間には深い皺が刻み込まれていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます