第23話

 一分ほど歩いた頃か。乾いた泥は次第に減って、追うべき足跡は無くなっていた。だが、その先にあるのは、ただ一つの扉のみだった。曇り硝子は黒く輝いて、内部が暗闇であることを示していた。違和感はあった。廊下はこうも明るいというのに、何故その部屋は暗く、そして中にいる筈の美原の気配が無いのか。躊躇の一つも無く、先生はそのドアノブに手をかけた。滑らかに捻る手首の動きには、意識というものが無かったように見えた。


「美原、いるか」


 半分だけ扉を開いた時、先生はそう呟いて、動きを止めた。傍で「何?」と呟くアザミの前に、手を置く。動くなという合図だった。数秒遅れて、鼻を刺す生温い空気に気付く。次第に強くなっていく臭いは、確かに鉄分を多く含んでいた。

 暗闇の中を進んだのは、蓮だった。同時に、先生が壁に触れた。手探りで電灯のスイッチを探していたらしい。カチカチと二回、音がした。しかし、光は灯ることなく、暗闇が続いた。


「雨の音がする」


 小さく、蓮がそう呟いた。彼はそのまま先へと進んで、暗闇の中に身を落とした。確かに、彼の言う通りに、部屋のずっと奥から、雨の落ちる音が聞こえた。廊下には無い音。小さく隙間風が耳を刺す。先生にも、アザミにも聞こえたらしい。二人もまた、周囲を見渡していた。

 ふと、視界の端に光が灯った。アザミがスマホのライトを灯して、先生の前に出ていた。


「星浦、待て」


 蓮の制止は意味を成さなかった。ジジジッと火花が散るような音が頭上からしていた。同時に、部屋全体が光を取り戻す。視界は白で塗りつぶされた。輪郭を取り戻すのにかかった時間は、恐らく一秒も無かっただろう。その理由は、暗闇に隠されていた色にあった。


 部屋の壁を覆うのは、白。そして黒。

 

 一瞬で入って来る情報量は膨大だった。けれどそれを処理するだけの脳が、私には備わってしまっているらしい。

 それを見て真っ先に思い出したのは、洋服屋の壁に並べられた冬物のコート。その次に浮かんだ情景は、海外ドラマで見た肉屋の、吊るされた首の無い牛や豚だった。


「てるてる坊主」


 誰がそう呟いたのかは、わからなかった。けれど言われてみれば、天井から吊り下げられたそれらは、人間サイズのてるてる坊主を逆さまにしたようだった。巨大なてるてる坊主を構成するその布の足元、否、頭は黒く滲んでいた。鉄の臭いがその染みから放たれていることは、想像に難くなかった。


「美原! いるか!」


 明りが点いてから、数秒経っただろうか。それとも瞬く間だっただろうか。気が付いた時には、先生が部屋の隙間を手当たり次第に掻き分けていた。段ボール箱を吹き飛ばしては、床に蝋燭やら木材やらが飛び散っていく。光で明かされた血溜まりが飛沫として跳ねることはなく、それらが既に固まって、乾燥していることは確かだった。

 

 そうやって惨事を眺めていると、右手に冷たい何かが触れた。それは、冷えたアザミの手だった。ふと見た彼女の横顔は、蒼白ながらも、明るい笑顔を張り付けていた。


「何、これ。人形?」


 首を傾げながら、彼女は吊るされた死体近づいて行った。「待って」と咄嗟に、アザミの肩を掴む。けれど彼女は私を力強く振り払って、乾いた血の上を歩いた。


「美代、見て」


 凄い、初めて見たわ。ヒトの死体なんて。


 いつもの口で、いつもの顔で、彼女は笑っていた。優しいその両手で、彼女は白い布を暴いていく。ボトン、と、何かがアザミの靴を汚した。梅干しのようなものが、赤黒い床に落ちていた。それが眼球であるということに気付けたのは、学校の生物の授業を真面目に受けていたおかげかもしれない。そんな考えに至る現場が、異常事態であると気付いているのは、私だけではなかった。美原を探していた先生が、アザミの腕を掴んだ。白い布の表面を撫でていた彼女の腕を、折らんばかりに、引き寄せた。


「何をしている」


 先生の表情には焦燥が浮かんでいた。きょとんと首を傾げているアザミがおかしいのか、それともそんなあどけない少女に迫る先生がおかしいのかは、私には理解出来なかった。そこに言葉を添えることは、きっと攪乱以外の何でもないと、私はそっと口元に手を置いた。


「良いか、二人共、よく聞け」


 一瞬の長考の後、先生は私の隣にアザミを置いて、腰を落とした。下がった視線を私に合わせて、先生は酷く冷徹な口を動かした。


「食堂にいる恭子達と合流するんだ。床の埃なんかを見る限り、この倉庫以外に不審者が入り込んでいる形跡はない。寄り道せず、真っ直ぐに。恭子の所へ行くんだ。美原と蓮のことは私に任せろ。そして、警察を呼んで……もしかしたら、救急車も要るかもしれない。とにかく、外部の助けを呼んでくれ。地下では電波が届かないらしい」


 良いな。そう言って、先生は再び私達を見下ろした。反射的に振り返った私の背とアザミの背を、その大きな手で突き飛ばした。


「行け、急げ」


 押された勢いで、私の足は思っているよりも早く動いていた。アザミが背後を取る。置いて行ってはいけないと、彼女の手を掴んだ。氷のような冷たさは、彼女の手首までも侵食していた。


「美代ちゃん」


 耳元で、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。


「アザミ、何?」


 その声が、アザミではないことは、振り返った瞬間に理解した。アザミは声を上げて笑っていた。私の名前など、唱える喉は無かった。

 辺りを見渡した。確かに聞こえたのだ。下からではなく、耳元で。いつものあの、女の声が。アザミに見えていないように、聞こえていないようにと祈る。既にいっぱいいっぱいの彼女の脳を侵さないでくれと、歩く足が速くなっていった。


「アザミ、早く歩いて。食堂に行かなきゃ」

「無理。もう疲れちゃった」

「疲れちゃったじゃないよ。今大変なの、わかってるでしょ」

「遊びすぎちゃったみたい」


 最早、言葉も通じなくなっていた。対話にならない彼女は、ついぞ足を止めた。苛立ちが募っていた。


「美代ちゃん」


 そしてまた、声が聞こえた。耳元ではなく、それは少し遠くで響いていた。いくつもある扉の中、視界に入ったうちの一つに、白い人影が入って見えた。心臓の動きは速いだけではなく、強くなっていった。シナプスがパンクする。唇に生温かい液体が触れた。自分の血だった。熱のこもった鼻腔の血管が、千切れたらしい。


「アザミ、歩いて」


 そう言って、座り込んだアザミを引き摺った。子供の様に駄々を捏ね始めた彼女を、肩が外れるのも構わずに、私は歩いた。身体が妙に軽かった。空いた手で壁を撫でる。


「美代ちゃん」


 声が聞こえた。それは私が立った扉の向こうからだった。確かにあの女の声だった。アザミにも聞こえているのかは、わからなかった。

 扉の曇り硝子には、黒い球体と、白い手が貼り付いてた。向こう側に、あの女がいるのは確実だった。けれど、何故だか嫌悪感は無かった。恐怖も、拒絶も、私の手からは失われていた。黒い顔の中、二つの白い眼球が、私を硝子越しに見ていた。


「美代ちゃん、ここよ」


 故に、私はドアノブを押した。誘われるままに、力強く、その部屋に入った。妙に重い扉を開く。その時にはアザミの手を離していた。否、その瞬間に四肢の筋肉が弛緩して、離してしまったと言うのが正しい。


「――――何、これ」


 密閉されていた部屋の中、黒い何かが蠢いていた。雨の日の空気よりも重い、水分が私の頬を撫でる。

 そこには、一人の首を吊った女の死体と、それを貪るようにして纏わりつく蛭と蛆の塊があった。

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