第22話
立ち止まってしまった私の、その手を掴んだのは、アザミではなく、蓮だった。彼に押しのけられたアザミが「ちょっと」と声を上げたが、彼は止まることを知らなかった。アザミも、先生すらも通り越して、地下へと向かう。その足取りは、何処か焦りがあるように見えた。
「怪異のことは、星浦に聞かれないようにしろ」
ふと、蓮は一階から下へと降りる階段の傍で、そう呟いた。足を止めない彼に疑問符を投げれば、彼は見向きもしないまま小さく口を開いた。
「怪異というものは、知ることでその認識を共有する。例えば仏教を知らない人間にとって、仏という救いも、地獄という死後の裁きの恐れも無いように。認識出来ないモノには、利益も無いが害も無い。怪異をその場で撃退するみたいな、漫画やアニメにいるような、凄い能力者なんてのは、この世にはいないんだ。怪異から身を守る究極の術は、怪異という存在を知らずに死んでいくこと」
淡々と、けれど僅かな温もりを持って、彼はそう言った。私を引き摺る彼の手は、少しだけ穏やかだった。本心の形こそわからないが、そこに気遣いがあることだけは、理解出来た。
「星浦は、友達なんだろ。なら、守ってやれ。何も知らないように、わからないようにするんだ。怪異という存在に触れさせるな。そうやって守ってやれるのは、怪異を知っていて、傍で見守ってやれるお前だけだ」
彼はアザミを嫌っているわけではないのだと、そこでようやく確信した。蓮の足は少しだけその速度を落として、地下の廊下を歩いた。
「蓮は優しいね」
私がそう呟くと、彼は一瞬だけ足をもつれさせた。否定も肯定も無く、彼はそのまま再び歩き出した。猫背の背中はゆらゆら揺れて、目的の扉を探していた。
荘厳でよく言えばアンティーク調のデザインであった地上と比べて、地下は何処か公共施設のそれと似ていた。打ちっ放しのコンクリートと、薄い鉄板で出来た扉。扉には曇り硝子の小窓があって、薄らと中の様子が窺い知れた。また、部屋の入り口付近には、燃料置き場だの食料倉庫だの、その用途が書かれていて、これこそ正しく公共の避難施設といった風貌だった。そんな地下の廊下は、時々、濡れた足跡があった。それが美原さんの痕跡であることは、私も理解はしていた。ずっと奥へと向かっていく足跡を倣って、私と蓮は廊下をゆっくりと歩いていた。そうしているうち、背後に先生とアザミの声が聞こえた。
「勝手に二人で先に行かないでよ! また停電になったらどうするの!」
確かに。と、アザミの言葉に頷く。私が足を止めると、蓮もまた振り返って、二人を見ていた。いつも通りの冷ややかな目で、彼はアザミを見下ろす。彼女から逸らした視線を、蓮は先生へと向けた。
「先生、美原から地下の部屋配置は聞いてますか」
「何があるかくらいなら聞いているが……場所は聞いていないな。最低限、化粧室だとかシャワールームだとか、必要になりそうな場所は聞いているが、細いことはアイツに任せている。布団類を探しているなら、もう少し奥に行ってみるか」
「それはもう良いです」
先生の言葉を叩き落とすように、蓮はそう吐き捨てた。「そうか」と呟く先生の口元が慣れ切ったそれなのは、長年生活を共にしてきた功だろう。そんな先生に、蓮は再び無感情な声を吐いた。
「なら、先生と星浦は僕と美代がここにいるのを、どうやって探し当てたんですか」
ふと、建てられたその疑問を理解するには、数秒を要した。アザミと先生が辿ったであろう廊下を見る。そこには部屋だけではなく、いくつかの分岐点も見えた。思い出してみれば、美原の足跡を辿ってここまで来たものの、それ以外にも進める廊下はあったのだ。二階まで歩いた私達の靴は乾いていて、よく目を凝らさなければ、その足跡は見えない。酷く泥と水を纏っていた美原の靴裏だけが、導となっていた。
「音だよ。何を喋っているのかこそわからなかったが、声と足音だけは響いていたからな。それを頼って歩いた」
「美原の足跡を追ったんじゃないんですね」
「そうだな。途中からお前達が美原の足跡に沿って歩いていることに気付きはしたが、それよりも音の方が頼りになった」
そうですか。と相槌を打つ蓮は、数秒、考えるような素振りで首を傾げた。それは、いつだかテレビ番組で見たフクロウだとかミミズクだとかが、周囲の音に耳を傾ける姿と似ていた。見開いた彼の目は、ジッと先生を見て動くことはなかった。
「美原は今、何処にいるんですかね」
そこにあるのは、純粋な疑問。心配や不安感というよりも、アザミが見せるような興味関心と言った方が正しいかもしれない。
「音が聞こえません。足音も、物を動かす音も。美原の性格なら、蝋燭だけ持ってくるというようなことはしない筈。多分、もっとランプだとか乾電池だとか、より便利で必要になりそうなものは無いか、探していてもおかしくはない」
「既に食堂へ戻っている可能性は」
「そうだとしたら今度は動きが早過ぎませんか。それに最短で動いていたとしたら、ハッキリと往復の痕跡がある筈です。美原はこの屋敷の構造を把握しているんでしょう。けど、僕達は足跡に沿って歩いたのに、彼と会っていないし、こっちに戻ってくる人間の気配も無い」
蓮は思ったことを口にしているだけなのだろう。だが、それを受けている韮井先生の表情は、少しずつ曇っていった。
「私達で、一応、様子を見に行きませんか。荷物持ちくらいなら手伝えるかもしれないし、奥で倒れてました、とか、私嫌だし……」
おずおずと声を放ったのは、アザミだった。少しずつ小さくなっていく彼女の声に、先生が「そうだな」と肯定を押した。
「ただでさえ予想外の雷雨で避難している身だ。これ以上何かあったら堪らない」
そう言って、先生は廊下を進んだ。それを先頭として、アザミが続く。一瞬出遅れた私の手を、蓮がまた掴んだ。彼に付けられた痣は不思議と痛まず、ただその手の冷たさだけが伝わった。
「ねえ、蓮」
ふと、その冷たさに引き起こされたのは、あの女の声のことだった。下から聞こえた女の声は、今はもう聞こえなかった。けれど、僅かに残っていた不快感は、ずっと喉に閊えたままだった。黙って立ち止まった蓮の耳に、声を落とす。
「あのね、さっき、地下から――――」
あの女の声が。そう言葉を紡ごうとした時、蓮の髪の隙間、アザミと先生の姿が見えた。アザミは不思議そうな顔でこちらを見て「何してんの」と声を上げた。
「……悪い。後で聞く。アレに聞かれると、良くないことだろ」
小さく呟いた蓮の同情を、私は黙って飲み込んだ。沈黙と共に進む地下には、四つの足音だけが響いていた。
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