第21話

 千切れるような悲鳴は、確かに私の目の前で響いていた。上がった息を整える。視界に輪郭を取る。頭髪を手で払っていたのは、あの焼け爛れた女ではなかった。


「すみません! 恭子さん! ごめんなさい!」


 しょっぱい。と口を開けるのは、トイレから出てすぐの恭子だった。彼女は目を丸くしつつも、またパッと笑って、私の肩に手を置いた。


「大丈夫大丈夫。驚かせちゃったわね。アザミちゃんも驚いたでしょ」

「私は恭子さんだってわかってたので、そこまで。悲鳴はびっくりしましたけど……何か口の中しょっぱいんですけど、美代に何をかけられたんですか?」

「塩よ。ヒルが出るらしいから、厨房で持たせておいたの」


 恭子の言葉に納得したのか、アザミは小さく唇を尖らせて「そうですか」と呟いた。彼女は私が咄嗟に行動を起こしてしまう質だということくらいは、理解している。それらと、恭子という人間に塩を投げつけたことを結び付けたのだろう。耳元で彼女が「おっちょこちょいよね」と囁いていた。


「悲鳴が聞こえたが、何かあったのか」


 加えて、女の声がした廊下の向こう、韮井先生の声が聞こえた。バタバタと伴う足音には彼以外の人間も含まれていた。


「何ということはありませんよ。私が急に声をかけたので、美代ちゃんがびっくりしてしまって」


 ね。と場を収めようとする恭子は、懐中電灯に照らされながら、そうやって笑っていた。そんな懐中電灯を揺らしていたのは、先程までは姿の見えなかった美原だった。


「とりあえず、全員無事が確認できましたね。このままブレーカー上げて、食堂に戻りますか」


 美原はそう言って、私達から背を向けた。彼を先頭に、廊下を進む。私の隣に蓮がいることはわかっていた。彼はスマホのライトも、懐中電灯も持たず、暗闇を軽い足取りで進んでいた。彼の傍、ふと、あの女の声が頭を過る。彼に伝えるべきかは、迷っていた。あの女が出現するのは、最早普通のことになっていくのではないかと、予感があったからだった。学校の最寄り駅にいる焼け焦げた人間達も、学校の窓に張り付く蝦蟇も、既に私はとして受け入れることが出来ていたからだ。ここ数日、確かに彼等は存在しているが、特に私へ攻撃をするわけでもない。ましてやあの女だって、突然出て来はするが、思えば彼女はいつも私に突然触れたりはしなかった。傘の外や、何か建物の外にいて、こちらが明けない限りは、襲っては来ない。理解してしまえば、恐れというものは次々に崩れていった。重かった足は少しずつ軽さを取り戻した。

 一人、自己完結に酔っていると、目の前が白く輝いた。光に慣れた目で前を見れば、意味を失った懐中電灯を持つ美原が、電子基板に指先を触れさせていた。全員の顔を見渡す。蓮の小さな溜息が聞こえた。眩しさが取れないのか、彼はずっと眉間に皺を寄せていた。


「これで何とか手元は見えますね」

「雷が収まらない限りは同じことが起きるだろうが」

「なら、地下の倉庫に蝋燭がありますから、それ取って来ますよ」


 美原の言うことには、この屋敷にはここ二十年は使われていない倉庫が複数あるらしい。その一つが地下にあり、そこには蝋燭や木材などの使用期限の無いものが無造作に置かれているという。「足元が悪いので、僕行きますね」と美原は笑った。食堂に私達を送った彼は、そうして一人、廊下に消えた。


「美原君、やっぱりこんな集団で一緒にって、嫌だったかしら」


 ふと、新しく淹れた珈琲を持って、恭子が言った。


「美原さんって、そんな人嫌いだったりするんですか?」

「そうねえ、嫌いってわけじゃないだろうけど……元々、あまりコミュニケーションが得意な方ではないと思うわ。先生となら目を合わせてくれるけど、私とは全然だし」

「先生は慣れてそうですもんね、コミュ障との会話」


 アザミはそう言って、蓮を見た。自分のことを言われているのは、わかっているのだろう。蓮はしかめっ面のまま、彼女から顔を背けた。間に座る私を見て「大変ねえ」と呟いた恭子に、私は眉を落として笑って見せた。


「僕達とはちゃんと話してくれるよ。星浦さんがヅカヅカ行き過ぎなんだ」


 そう言ってアザミを止めたのは、空のコーヒーカップを揺らす若桜だった。


「そもそも私、あの人に喋りかけてはいないわ」

「立花さんと話してる時の様子とかを見て言ってるんだよ。単純に距離が近すぎる。美原さんは得意なタイプではないと思うよ。唐突にこんな集団で動くことになって、いつもとは違う子供がいるし、それも目が合えば無駄な会話が発生しそうな女子高生と来た。そりゃ、こんなところで集まっていたくはないだろうね」


 若桜の言葉に突き刺されて、アザミはムッと眉間に皺を寄せていた。だが、そこに理解はあるのだろう。言い訳をするでもなく、彼女はただ黙って聞いていた。


「若桜、今日はお小言が多いね」

「いつもこんなもんでしょ」

「どうかな。でも言葉数は増えてるよ」


 部屋の隅で、ケラケラと樒が笑った。幼馴染同士だからだろうか、二人の間は確実に、私とアザミよりも近いように思えた。そんな幼馴染達から外れた蓮は、私の隣で静かに息をしていた。眠そうな瞼を半分開いて、先生の前に組んだ足を置く。「机の上に足を置くな」と、先生に言われて、彼は舌打ちと共に姿勢を正した。彼の怠そうな背は、数秒も真っ直ぐさを保てていなかった。すぐに曲がった背の先、頭を机に置いて、彼は私を見ていた。


「眠いなら横になれる部屋を探そう。まだ暫く、迎えは来ないだろうからな」


 蓮の頭を撫でた先生が、そう言って席を立った。そんな先生の言葉に喜んだのは、蓮ではなかった。


「探す? 屋敷の中探索するんですか? 私もご一緒して良いですか?」


 好奇心が止まらない。と言った表情で、彼女は私の手を掴んで立ち上がった。「ちょっと」と私が止めようとした時、先生は「良いぞ」と呟いた。


「蓮も来なさい。そのまま寝かせてやるから、少し頑張れ」


 先生の言葉に反応した蓮は、首を上げて、重い体を持ち上げた。ゆったりと、それでも確実に、彼は先生の隣に身を委ねた。立ち上がっているのがやっとという顔で、彼は先生のスーツの裾を掴んでいた。


「夜咲って、案外体力無いのね」


 ふと、蓮の背にアザミがそう投げかけた。長い廊下に出てすぐの事だった。先生と蓮は立ち止ることは無かったが、先生だけが「そうだな」と薄っすら鼻で笑っていた。


「……あぁ、僕のことか」


 数秒経って、蓮が振り返った。彼は歩きながらもジッとアザミを見て、その黒真珠の瞳に、彼女の訝し気な顔を映した。


「あまり名字で呼ばれないから、わからなかった」

「え? あぁ、そっか。三組にいるもんね、双子の弟。じゃあ私も蓮って呼んで良い?」


 構わない。と言った蓮は、少しだけ不思議そうな顔をして、再び前に顔を戻した。多分、アザミが許可を求めるということに、違和感があったのだろう。彼女の性格では、何も聞かずに下の名前で呼び捨てられても、おかしくはない。きっと若桜の言葉を気にしてしまったのだろうと、少しの納得を飲み混んで「良かったね」と口角を上げて見せた。目を合わせた途端にアザミはパッと明るい顔を私に向けた。

 

 そうやって二階を歩く。埃を被ったそこは、殆ど人が入らなかったことを意味していた。そんな中、蓮は見える扉に手をかけていった。どうしても眠いのだろう。ベッドが無いとわかると、途端に顔を顰めて、扉を叩きつける。次第に悪くなっていく機嫌を、物体に当てるあたり、ある程度こちらを気にしてはいるようだった。その傍で、蓮が明けた扉を開いては、何か珍しいものでもないかとうろつくアザミは、興奮を隠せなくなっていた。時折見つける絵画や古い書籍を指差しては「今度、ここを調査しに来ましょうよ」と輝く目を先生に向ける。蓮に手を焼く先生の代わりに、私がそんな彼女に相槌を打ってやった。こうなれば止まらないと、先生と私は無言で互いの疲弊を労い合っていた。


「…………無い」


 数分が経って、ある部屋の前で蓮が立ち止まった。彼が無いと言った目線の先には、木枠だけになったベッドがあった。共にそれを見た先生は「そうか」と目を丸くした。


「布団はまとめて何処かに保管されているかもしれない。リネン室のようなものがあるとは、一応聞いていたが、そこを見てみるか。丁度、美原がいる地下の方にあった筈だ」


 今にも地団駄を踏みそうな蓮の首根っこを引っ張って、先生は踵を返した。そんな二人の背を「地下!」と喜びながら、アザミが追いかけた。満足を知らない彼女の後ろ、私もまた、少しの興味を持って、足を踏み出した。


「美代ちゃん」


 その瞬間だった。また、声が聞こえた。それはやはり遠く、背後から聞こえた。しかし、振り返っても、そこには誰もいなかった。


「美代ちゃん」


 再び聞こえた声を咀嚼する。背後、耳よりずっと遠い場所。清涼な声質。けれど、音は何か籠っているようにも聞こえた。いつもとは違う、外から聞こえる不自然なそれとは、少し違うような気がした。


「美代?」


 数歩先、一階へ戻る階段から、アザミが私の名を呼んだ。女の姿を確認するよりも前に、私は走り出した。埃で滑りかけた足元を見て、ふと思いつく。


「下?」


 声が聞こえた方向を向いた。足元からはまた「美代ちゃん」と呼ぶあの女の声があった。

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