第20話
梅雨の雨で冷えた指先をカップに添えて、珈琲を口にする。夏故のぬるい珈琲なのか、それとも時間が経ったが故のこの温度かはわからなかったが、味は悪くはなかった。恭子が厨房から持ち出したビスケットは、非常備蓄の中でも特に期限が近かったものだという。それらに水分を奪われながら、少しだけ胃を満たしていく。アザミはそれすらも楽しんでいるようで、右隣からは彼女の鼻歌が聞こえた。
「今後のことだが」
ふと、先生が追加の一杯を注いだ。彼は苦味に慣れたその舌を転がして、軽やかに言葉を並べる。
「美原の友人がオフロード車でこちらに向かってくれている。それに乗って帰宅。帰りの時刻は前日から通達していたものと同じ予定だが、一応、悪天候による帰宅の旨は、それぞれで連絡するように」
以上。と、口を閉じる先生の傍、「ねえ、先生」と柔らかく笑ったのは恭子だった。
「私、車はあまり知らないのですけど、オフロード車って、この人数乗せられるんですか。美原君のワゴンでも結構きつかったでしょう」
「今のところ、お前と子供達だけ乗せるつもりでいる。私と美原は残る可能性が高いな。子供達のことはお前に一任する。夜には雨も上がる予定だそうだが、路面状況を見て、私達の帰りは明日の昼頃になると思ってくれ。連絡はする」
「承知致しました。先生方もお怪我のございませんように」
先生の短い溜息が、返事の一つであることは理解していた。隣で「そんなに酷い雨なのね」とアザミが呟く。肯定の微笑みを向けると、彼女はテーブルに顔を伏せた。
「山を越えれば雨雲が来ないって、地理の先生言ってたのに。結局こんな降られるなんてね。ついてないわ」
「今年は街の方だって雨が多い年なんだ、仕方が無いよ」
アザミの言葉に、若桜が被せる。宥めるように、彼は肩を落として見せた。
「まあ、海の方まで雨が広がったっていうのは聞かないけどね。この海辺は特に雨が降らない地域として有名だったりするから。地理的に考えても、こうなるのは珍しいかも」
雨の音を耳に入れながら、若桜は続ける。彼の言葉には、蓮や樒とは違う温度があった。アザミがどんな問いを投げつけても、彼は用意していたように言葉を返した。どうも聞いている限り、彼は神や怪異という単語を与えたくないようだった。時折そこに言葉を挟む樒も、同じような態度を取っていた。ただ一人、蓮だけが、アザミの言葉へ何も返さず、ただムッと顔を顰めるばかりだった。
「先生」
そんな蓮は、我慢しきれなくなったのか、唇を尖らせたまま、先生の顔を見た。「何だ」という先生に、彼は重そうな唇を開いた。
「いつになったらその、美原の友人は来るんですか」
「着いたら美原に連絡が来ると言っていた……そういえば、美原の作業も終わらないな。さっさと食堂に来るように言ったんだが」
そう言って、先生は席を立った。恭子に目を合わせると、彼は廊下へと消えて行った。食堂の扉が閉まったのを見て、蓮が短く溜息を吐いた。山と積まれたビスケットを細い指で摘む。口に指を入れては、舌先でその表面を撫でた。そんな彼の横顔を眺めていると、ふと、その黒真珠のような瞳と目があった。左手の側、一枚、ビスケットが置かれた。食えということらしい。私が微笑んで見せると、蓮はすぐに目を伏せた。
その、乾いた菓子を前歯に押し付けた時だった。一瞬、視界が白黒と点滅する。耳元では、バチバチと小さく何かが破裂するような音が聞こえた。
「何?」
隣でアザミがそう呟いた。それが聞こえて、二秒もしない内。視界が黒く染まった。否、窓からは僅かに曇り空の微かな光が差し込んでいた。その光に被さるようにして、強烈な白が部屋を支配する。全身を包む衝撃と共に、太鼓を叩いたような音が脳の中身を掻き回した。鼓膜が破れたのではないかと思って、耳を塞いだ。前が見えなかった。何も見えない不安が、その一瞬を駆ける。息が吸えなかった。左手首を誰かが掴んだ。叫び出しそうになって、左隣に誰がいたかを思い出す。
「蓮?」
薄暗い視界では、彼の白い肌と、くっきりとした黒い瞳は、酷く輝いて見えた。鋭い目と静かに対話する。静寂の最後、彼は痣の刻まれた私の腕を手放した。
「雷が近くに落ちた。耳は無事か。聞こえているか」
「う、うん。聞こえてる。大丈夫だよ。他のみんなは」
私がそう唱えると、各々の声が聞こえた。恭子の「びっくりしちゃった」という間の抜けた声で、肩の力が抜ける。深く息を吸った。鼓動が速くなっていることを、そこでようやく理解する。
「ブレーカー落ちちゃったかしらね。上げて来ないと。美原君のことは先生に任せて……全員、私に着いて来てくれるかしら」
そう言って、恭子はスマホのライトを掲げた。同じく若桜と樒も手元に灯りを取る。自動的に私の手もスマホへと延びた。けれど、そんな空いた手を奪うかのように、その腕を掴む人間がいた。
「どうしよう、美代」
震える声は、アザミのものだった。彼女は引けた腰で私を見上げていた。周囲がこちらに耳を立てていないことを確認するように、首を回して「あのね」と囁く。視線を落として、彼女の口元に耳を置いた。
「珈琲飲みすぎて今もの凄いトイレ行きたい。どうしよう」
思考回路が一瞬だけ、止まったのがわかった。一大事なのは理解出来る。吐きかかった短い罵倒を飲み込んで、アザミの手を引いた。食堂の扉を開ける恭子の袖を引く。振り返った彼女に、アザミを見せた。それだけで状況を理解したのだろう。彼女は「オッケー」と小さく笑った。
「ごめん、男子三人ここで待ってて。すぐに戻ってくるから。アンタ達なら何かあっても大丈夫でしょ」
若桜の返事が聞こえてすぐに、恭子は「良し」と呟いて私とアザミを手招いた。彼女の早足はきっと、アザミのことを考えてのことだろう。時々、廊下に白い光が差し込んだ。それが遠くの雷光であることは、その音の遅れで理解出来た。
「アザミちゃん、こっち。美代ちゃんは大丈夫?」
薄い木扉の前で、恭子がライトを向けた。その光に目を細めて、私は首を横に振った。いつの間にか木扉の中に飛び込んでいたアザミを見て、小さく溜息を吐く。そんな私と目を合わせて、恭子は笑っていた。
一、二分が経った頃だった。古い建物であることが幸いしたのだろう。電気が通らずとも、水の流れる音が聞こえた。
「私も入ってきちゃうわ。少し待ってて」
アザミが出たのを確認した頃、そう言って恭子が入れ替わりに扉の中へと消えた。一瞬、再び目の前が暗く落ちた。恭子の持っていたスマホがなくなったからだった。ポケットのスマホを取り出して、アザミの足元を照らす。積もった埃と、私達の足跡が見えた。三人分の足跡。この場所に人間が来たのが久しいのだとわかった。
「美代ちゃん」
ふと、声が聞こえた。恭子が出てくるにしては早いと思った。トイレの扉を照らした。まだ動く気配は無かった。唾を飲む。
「どうしたの、美代。体調悪い?」
私の上がった息を感じ取ったのだろう。肩にアザミの顔が寄っていた。眉を下げる彼女の顔に、私は口角を上げて見せた。
「美代ちゃん」
「なんでもないよ」
「美代ちゃん」
「充電少し足りなさそうで、不安で」
「こっちだよ、美代ちゃん」
遠くから声が聞こえた。忙しく囁く声は、確かに遠かった。心臓が高鳴る。蓮の言葉を思い出す。片手で触れたポケットには、厨房から調達した塩が入っていた。指先に塩粒を固める。
「美代ちゃん」
耳元で声が聞こえた。掴んだ塩を投げつける。悲鳴が聞こえた。甲高い女の声だった。
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