第19話

 被った泥を全てふき取って、美原は厨房へと進んだ。抱えられた若鹿を適当な台に置いた彼は、「すみません」と再び首を垂れた。


「なあに、これ」

「弱っている所を道で跳ねてしまって。その弾みで滑って車も動かなくなっちゃったんです」

「路面状況、そんなに酷いの?」

「雨は酷いですが、それ以上に、道がヌメヌメするんですよ。妙に」


 美原の答えに、恭子は「ふうん」と鼻を鳴らした。言葉を垂れ流しながらも、彼は手を止めていなかった。鹿の大きさやらを測った後には、そのまま流れるようにメモを取っていく。「あの」と私が声を上げると、美原は優し気に口元を緩めて、ようやくその手を止めた。


「弱っているって、何があったんですか。病気とか……人畜共通感染症とか、怖くないですか」

「立花さんだっけ。勉強してるんだね。勿論、簡易的だけど感染症の有無は調べてあるよ」


 まあ、それに。と彼は声を置いて、ナイフを首元に置いた。鹿の頸動脈に刃を滑らせる。跳ねる体液を避けようとして、四肢を縮こませた。ふと瞼を閉じた瞬間、顔面に弱い風を感じた。ゆっくりと開けた視界には、蓮の手があった。


「やっぱりだ。血抜きされてる」


 美原の声を合図に、蓮が手を下げた。彼もまた前のめりにその肉を覗き込んでいた。

 心臓と共に飛び出る血液の音も、その温もりも、存在していなかった。美原は、そこから僅かに滲む肉の色を、細やかに袋やらガラス管やらに詰め込んでいた。


「やっぱりって、よくあるのか」


 換気扇の下で、先生が煙と共にそんな声を上げた。見向きもせずに美原は「はい」と笑った。


「腹に円状の切り取り線のような傷と、そこからの出血。ただし、体外に流れ出ている血液は傍に無く、個体に残された血液も僅か……殆どの個体は死亡後に発見されますが、稀に今回のような生存個体も発見されます。恐らくは生きたまま血を抜かれており……うちの教授は人為的なものだろうと」

「根拠は」

「比較的大型の哺乳類に対して、血液だけを抜き取るという行為は野生動物の仕業にしてはあまりにも不自然ですし……これだけきっちり血が無くなるということは、何かしらの機械を使っている可能性が高いです。この辺りの集落にはかつて狩猟と漁業の神様が祀られていたと言いますから、そういった信仰がねじ曲がったとか……あぁ、いや、こういう視点は、韮井先生の方がお詳しいでしょうが」


 止まらない語彙の羅列の中、美原はゴロゴロと鹿の身体を転がして、言葉にした全てを指し示していく。確かにその若い鹿の腹には、円状の傷があった。固まらない血に、蓮が鼻を近づけた。彼は眉間に皺を寄せると、カンカンと二回だけ歯を鳴らした。


「ヒル?」


 蓮が唱えた単語に、カメラを手にしていた美原が顔を顰めた。一度首を傾げると、美原は蓮の首根っこを掴んで、鹿の腹から顔を遠ざける。


「ヒルを見つけたなら離れようか。蓮君も、立花さんも、手に塩振ってから洗っておいて。ヤマビルなんかが手についてると困るからね。二人とも、珍しいものに興味があるのはわかるけど、ここは道具も足りないから、手伝わせてあげられないんだ。大学帰ってからなら、色々と解剖手伝わせてあげるからさ」


 彼のそれは優しさなのだろう。むくれる蓮の背を押して、彼は笑っていた。恭子が出していた塩を手に、私と蓮はシンクに顔を向けていた。滴る水の通り道を眺める。ジャリジャリと塩の粒が爪の隙間に入っていく。肌の水分が落ちていく感覚は、多少不快ではあった。


「ヒルだ」


 私の隣で、塩と水を撒き散らす蓮が、ふとそう呟いた。


「ヒル……って、あの、血を吸うやつ?」


 私がそう言うと、彼は静かに首を縦に振った。


「ヒルに血を吸われてるってこと? そうだとしたら、大き過ぎない?」

「普通のヤマビルな訳がないだろ」


 馬鹿。と吐き捨てて、蓮は背を向けた。それを追って、廊下に出る。雨は未だに強さを増して、硝子窓を鳴らしていた。それらの音に紛れるようにして、蓮はその小さな唇を開いた。


「怪異だ。動物の形をしている神は多い。特に古い神となれば、馬鹿が考えるみたいな、ただデカいだけの蟲の姿ってのが殆どだ」


 そうやって蓮が置いていく言葉は、私の脳内で順番に繋がっていく。成程、学校の壁に張り付いていたあの蝦蟇達も、古い神なのだと、樒が言っていた。そういったものと同じだというのだろう。そう考えれば、何となく現実を受け入れることは出来ていた。


「でも、怪異って、あんな直接生き物を殺せるものなの」

「そういう伝承があれば、そうなることもある」


 淡々とした蓮の唇を眺める。彼の細い首筋は何度も膨らんでは萎んだ。発言の隙間を縫うように歩を進める。言葉を選ぶ時間は短く感じた。どんどん歩速は上がっていた。


「美原の言っていた、かつて祀られていた神というのは、前に先生と調べていた古い神だ。その名をヒルコ。日本神話においては伊奘諾イザナギ伊奘冉イザナミが最初に産んだ子として名前が出ている」

「古い神様なんだね。ここら辺の信仰では、狩猟と漁業の神様なんでしょ? 日本神話に出てくるのとは別なの?」

「日本神話だって各地の伝承を組み合わせて作られたものだ。もしかしたらこの地のヒルコが神話に組み込まれたのかもしれない。とすると、より原始的な存在として考えて……ヒルコという神が馬鹿でかいヒルの姿をしていても不思議ではない」


 そして、と置いて、蓮は食堂の扉を押し開けた。


「狩猟の神という側面と距離的な範囲からして……諏訪の建御名方タケミナカタが入っているとすると、血を求めるだとか、そういうものが混ざっている可能性がある。そうすると、ここ最近も強くそういった存在としての信仰がされていると――――」


 考えられる。そう言おうとして、蓮がギュッと口を閉じた。彼の前には、キラキラと目を輝かせるアザミがいた。彼女を止めようと宙で手を掻く若桜と樒の顔は、酷く青冷めていた。


「それ、この辺の神様の話でしょ! 浪漫よね! 私にも色々教えて欲しいんだけど!」


 扉を閉じようとする蓮の細腕を、アザミは笑顔で掴んでいた。すぐに手を振り解いた蓮は、私を盾にして、呪文のような拒否の言葉を唱え続けていた。

 二人が私を離したのは、数秒後のこと。恭子と韮井先生が食堂に戻った時だった。

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