第18話

 蓮が雨を予期した後、すぐに空は灰色に染まっていった。海辺での天候の急変はよくあることだと、恭子がアザミに笑いかけていた。けれど、それが少し異常であることは、蓮の横顔で察することが出来た。けれどその理由を聞く間も無く、蓮は私の腕を掴んで、陸地へと足を進めていた。近くで見る彼の唇は、何かボソボソと呪文のような意図のない言葉を垂れ流すばかりだった。

 そうして山の洋館に着いた頃には、雲は分厚く日差しを遮って、夏日の昼間だというのに薄暗い空間が広がっていた。


「降られたな。予報じゃ明後日までは降らない筈だったんだが」


 数十秒の後にやって来た先生が、そう言って玄関扉の鍵を開けた。先生を含めた三人は道中で降り出した雨に打たれたらしい。毛先に滴る水分は、建物の影に隠れていた私達よりも多いように見えた。


「美原君にご連絡は?」

「してある。数分後には上がってくるだろう。だが思っている以上に雨脚が強い。街に戻りたい所だが、土砂崩れで途中の道路が封鎖される可能性もある。軽く温かいものを飲食出来るようにしてくれ。台所にある備蓄は自由に使っていいそうだ」

「承知致しました。まずは珈琲でもご用意しましょうか」


 そんな恭子と先生の会話を背に、洋館の中へと足を踏み入れた。煉瓦独特の冷たさが内部を覆っていた。しかし雨風が直接身体に被されないだけでも、十分に過ごしやすかった。

 玄関に入ってすぐ、手慣れた様子で蓮が電灯を点けていった。無言で進む彼の後ろを追う内、「食堂にいてね」と恭子が声を上げていた。その次の瞬間には、蓮は廊下に並ぶ中でも重々しい木製の扉に手をかけていた。言われなくともとでも言うかのように、彼は何の躊躇もなく扉を開ける。僅かに生ゴミのような臭いが鼻腔をくすぐる。しかし古い家屋特有のカビ臭さは無く、定期的に人間が入っていることだけは推測出来た。数秒経って明るくなった部屋では、中央に鎮座する無駄に長いテーブルが、そこを食堂だと教えてくれた。


「タオルを貰ってくる。立花、ついて来い。乾いた手が足りない」


 塩粒のついた指で、彼は私の手の甲をなぞった。その指先から腕を伝って、その瞳を見る。彼の目は黙ってついて来いと、話があるのだと訴えていた。故に、私はただ黙って彼の隣を走った。濡れた足元で僅かに転倒しかけるが、それを認識した次の瞬間には、蓮が首根っこを掴んで私の体を支えていた。


「恭子、タオル」


 厨房に響かせた蓮の声は、十五の少年とは思えない程に幼さを溢していた。ヤカンで湯を沸かす恭子の裾を、クックと引っ張る。その様子は姉と甘えん坊の弟という関係を醸し出していた。


「タオル? 先生が出してくれてるわ。寒い?」

「いや、なら良い。塩は無いか」

「塩……あぁ、そうね。袋一つくらい開けても怒られないでしょ。美代ちゃん、こっち来て」


 恭子に呼ばれた体は、無意識に彼女の傍に駆け寄っていた。塩という単語で、何をしたいのかは理解していた。恭子が指し示した先に目を向ければ、古びた紙袋に詰まった食塩の山があった。


「この雨、呼んじゃったのかもしれないしね」


 乱雑に引き裂いた袋の傍、流れ出る塩を突きながら、恭子は目を伏せた。その意味を尋ねるよりも先に、蓮の腕が私の首元から伸びた。


「雨を呼んだのが立花だとは限らない。だが雨が降ったなら、あの女が出てくる可能性はある。正確な出現条件がわからないから何とも言えない。だが地下駐車場に出現したということは、屋内にも出るということだ。今回は他を巻き込んでも困る。どうにか対処しろ。無理そうなら僕か恭子の傍にいろ。若桜はダメだ。ビビりだからな」


 私の肩と首に塩を擦り付けながら、蓮はそう言って長い溜息を吐いた。その言葉の傍、恭子はケラケラと笑って、カップを用意していった。


「アザミはわかるけど……樒君は? 頼ると駄目?」

「樒は僕と違って勘が……度胸はあるが具体的に対処するのは難しい。そもそも怪異に気づかないこともある」

「怪異……病院で、多分、霊とかそういうのだと思うんだけど、確かに、見えてないことが多かったかも……わかった。でも、そうだとしたら、樒君も危ないんじゃ……あの女がいるかもわからないんだし、突然襲われでもしたら」

「こういう時は先生が傍にいてくれる。今回は若桜や星浦……美原のことも見ていてくれるだろう。だが先生にばかり負担をかけるわけにもいかない」


 だから。と蓮は呟いて、唇を結んだ。その先に何があるのか、推測は出来ていた。それらを全て汲み取って、私は口角を上げて見せた。


「大丈夫。恭子さんの傍にいるよ。私も先生を困らせたくないし、蓮も疲れてるでしょ」


 私がそう笑うと、彼は「そうか」とだけ呟いて、目を逸らした。

 そんなことを話しているうちに、耳を裂くような甲高い汽笛の音が厨房に響いた。沸いた湯を取りに、恭子が動いた。咄嗟に、塩をポケットに入れて、彼女の背を追った。「手伝います」と言えば、恭子はパッと顔を明るくした。


「じゃあ、僕は先生を手伝いに行くから」


 一人、蓮がそう言って廊下へと足を向けた。その背中は少し小さく、影が落ちて見えた。


「美代ちゃんって意外と察するの下手よねえ」


 ふと、隣で恭子がそう笑っていた。恭子の言葉の真意を問うより前に、ジッと彼女を睨む蓮の不機嫌そうな顔が、何故だか私の胃を痛めて仕方がなかった。


「恭子、美原の分の珈琲は……何だ、何かあったか」


 硬直した空気を裂いたのは、不思議そうに私達を見下ろす韮井先生だった。彼は厨房に顔を入れると、傍にいた蓮の腕へ数枚のタオルを置いていく。問答無用で手伝いを割り振る彼の姿は、何処か母親のそれに似ていた。


「何も。別に。それより早くタオル持っていきましょう。多分、若桜が震えてる」


 冷たく言う蓮に、「そうか」とだけ落として、先生は厨房の扉を広く開けた。蓮が素早く廊下に消えると、先生は真顔で彼の背を見つめていた。


「何だアイツは……いや、良い、それより、そうだ、恭子。美原の分を急ぎで頼む。ぬるま湯も用意してくれ。桶いっぱいに」


 如何なさいました。と、恭子は首を傾げた。問いを立てる中でも、彼女の手は止まっていなかった。そんな彼女に感心を寄せつつも、先生は眉を下げて口を開いた。


「山道の途中で車が滑って動かなくなったらしい。荷物は置いて来たそうだ。外は土砂降りで、本人も泥だらけで玄関に立ち往生している」


 先生がそう言った瞬間、電灯がチカチカと点滅した。外が雷雨となっていることは、それだけで理解出来た。微かに聞こえる轟音が、風の障りを知らせる。外で立っているという美原の泥と雨水に塗れた姿が、何となく頭を過ぎった。


「美代ちゃん、珈琲持ってもらえる?」


 ぼーっと耽っていた私の隣で、恭子が湯を揺らした。急いで一人分のコーヒーカップを持った。チャプチャプという音を追いかけて、廊下を歩く。食堂から続いた塩の円をなぞって、玄関へと向かった。

 廊下には雨と風の音が響いていて、吹き荒ぶ汽笛のような音が耳に入った。それはどうやら、二階か何処かの窓が開いてしまっているのだろうと、恭子が呟いた。そうして音の中を歩くうち、ぴっちりと閉まった玄関の扉が見えた。トン、ドン、ドン、と、リズム良く誰かが扉を叩いていた。それが扉の下部から聞こえているのは、恐らく手が塞がっているからだろう。


「美原君! 美原君! 大丈夫!?」


 床に桶を置いた恭子が、急いで扉を開けた。体当たりと共に押し開けた外界からは、強い空気圧と水滴の塊が入り込んだ。

 一瞬、息を呑む。僅かに鼻奥への不快感があった。薄らとした血の臭い。けれど誰かが擦りむいた程度では感じられない、その濃厚な香り。それらに伴って、常温に放置された肉の生々しい刺激が、脳を刺した。


「すみません、お騒がせします」

 

 声が聞こえた。それは確かに美原の声だった。反射的に閉じた瞼を開ける。そこには、舌を垂らした小さな鹿の死体と、それを抱えて歯を鳴らす美原の姿があった。

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