二章
第16話
約二週間ぶりの日差しは、まだ六月に入ってすぐだというのに、痛いほど強く感じられた。
呪われた傘を開いたあの日から、ほんの二日がたった朝のこと。蓮から初めて受け取ったメールには「海に行かないか」という簡素な文が添えられていた。話を聞けば、韮井先生が他の大学教授と合同で近隣の海へ調査に行くというので、それに同行しないかということだった。個人的な興味と、気晴らしに良いだろうという母の後押しで、私は水の街を離れて、隣の市へと足を運んでいた。
晴れた海辺、黒く湿った砂地は、独特の潮の香りを醸し出していた。それが干潟と呼ばれている事くらいは、常識的に理解していた。
「……では、韮井先生達は、二時間以内に戻って来て下さい。三時間後には、潮が満ちて、帰路が消えてしまうので」
そう言って白い歯を見せて笑ったのは、韮井先生と懇意だという大学院生の
「何かあればご連絡ください。天候不良の時はすぐに引き返してもらって……あの、少し山登るんですけど、あそこにある洋館に避難してください」
丁寧に、物腰柔らかに事を示していく美原に対して、先生は淡々と頷くばかりだった。広がった干潟の反対側、美原が指し示した鬱蒼とした山の中腹には、確かに蔦の這う古びた洋館が建っていた。道中で聞いた話では、昔この海辺で財を成した網元が建てたものらしい。空き家になったそこを市が買い取って、イベント用の倉庫やら、避難所やらに活用しているとのことだった。
「それじゃ、ここらで」
日を浴び続けて数分、美原はそう言って、空のバケツとスコップを鳴らしながら干潟の彼方へと消えていった。そんな彼に背を向けて、先生は私達に目を配った。その無言の指先が示す方向には、湿った砂の道と、その先にポツンと浮かぶ小さな島があった。
否、島と呼ぶと少し語弊があるかもしれない。黒い岩と、そこに申し訳程度の草木。そして、その岩自体を神だとでも言うかのように、海の上に建てられた赤い鳥居。その様相は異質で、それでいて神聖さを極める。立入禁止区域でなければ、きっと観光資源にくらいはなっていただろう程に。
「晴れた大潮の日にしか歩けない参道と、名前の失われた
歩き出した先、私の隣でふとそうやって囁いたのは、頬を紅潮させるアザミだった。古いデジタルカメラを首に下げて、好奇心をむき出しにする彼女は、私以上に胸を高鳴らせている様子だった。
蓮の誘いに乗って集まったのは、私だけではなかった。樒は勿論の事、先生に師事する恭子や、何処からか私の交友関係を聞きつけたアザミ。そして、蓮と樒の幼馴染だという、
「興奮するのは構わないが、怪我だけはしてくれるなよ。責任取らされるのは私だからな」
振り返った先生が、私とアザミを見てそう言った。この日差しの中で涼しげに笑う先生は、誰の事を気にするでもなく、無機質に干潟の上を歩いた。恭子を最後尾にして、その後ろを追う。一番浮き足立ったアザミが先生の隣を歩こうと駆けた。
「気を付けてますよ! だからこんな綺麗な海だって言うのにスニーカーと長袖長ズボンなんです! 干潟は貝の破片が多いですし、葦の群生地だったりすると葉で皮膚を切りますから!」
「……君は私の方より、美原に着いて行った方が良かったんじゃないか?」
先生の言葉は的を射ていた。アザミの興味関心は、友人である私から見ても生物学のそれに向いているし、聞けば中学まで暮らしていた場所もこういった素朴な海辺の村だったという。進路志望先も海洋生物の方だというのだから、美原や彼の師事する教授に声をかけた方が賢明だろうとは思えた。
「知らない人に囲まれて干潟漁るのはちょっと、気が引けます。私、干潟はエンジョイ勢ですし。こっちには美代も、同級生もいるし……まあ、他校の生徒と大学生もいますけど」
アザミがそう言って目を配ったのは、最後尾を歩く恭子と若桜の二人だった。日傘を差す恭子は涼しい顔でケラケラと笑っていた。対して、若桜は少しだけ困ったように眉を下げて、口を開いた。
「星浦さんだっけ? あのねえ、この調査に飛び入りで参加して一番アウェイなのは君だからね?」
柔らかな物腰の中、刺々しく言葉を吐く。その様相は何処か蓮や樒にも共通しているように見えて、彼らが幼馴染であるという事実に納得が行った。
「私、そういうの気にしないタイプだから」
「君が気にしなくとも周りが」
「神経質な男ねえ。彼女いたことないでしょ」
尽くの言葉を切られた若桜は、パクパクと口を動かすばかりで何も言えずに黙り込んだ。長い溜息を吐く彼に、恭子がゲラゲラと盛大な嘲笑を浴びせて、背中を叩きつけていた。それが、どうしても不憫に見えて、歩速を抑えてアザミから離れた。項垂れる若桜の隣を歩くと、彼の柔らかな目元が、私に向かって動いた。
「ごめんね、アザミは、結構、その……」
「何で君が謝るのさ。恭子さんと似たタイプなんでしょ、多分。制御不能だけど嫌じゃないよ」
困ったように笑う彼の、その手慣れた言葉には、何処か気苦労が滲み出ていた。その苦労をかける先が、幼馴染であるという蓮と樒なのだろうことは察することが出来た。
「蓮なんかに比べれば楽なもんだよ。なあ」
若桜はそう笑って、前を歩く蓮に声を飛ばした。当の本人は何も言わず、ただ鼻を鳴らすばかりで、応答の一つにもなっていない。恐らくそれが彼の嘲笑であることは、若桜の眉と口元のアンバランスさで理解出来た。
「相変わらず猫みたいな野郎だよ、全く」
そんな彼の呟きに気づいてか、蓮の足が止まった。彼はジッと右目で若桜を睨むと、小さく口を開いた。
「うるさいぞ、ごちゃごちゃと」
噤んだ口元、蓮はそう言って再び前に進んだ。眼前へと迫った赤い鳥居を見上げる。その木肌を覆う朱の塗装は、所々で剥げていて、海風に晒されたその年数を物語っていた。それを駆け足で潜れば、目の前には黒い岩肌があった。そこまで近づいて、その周囲に巻きつく黒ずんだ縄と錆びた鎖が目に入った。
そんな巨大な岩を、猫のように飛び登っていく人影があった。目で追った先では、涼しい顔をした蓮が、私達を見下ろしていた。
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