外聞 蓮

第15話

 喫茶店から帰った晩のこと。僕が覚えているのは、玄関先で「疲れた」「無理」「寝る」などと単語を吐いて、前のめりに倒れたことくらいだった。

 その記憶は確かに現実で、ベッドの上で目覚めた僕の鼻には、止血用のティッシュが詰め込まれていて、体のあちこちが痛んだ。多分、コンクリートとタイルの中に受け身もせずに倒れ込んで、傘やら何やらに巻き込まれながら気絶したのだろう。上半身を起こして見渡せば、タオルやら救急箱やらが僕の周りを囲んでいた。手際の悪さからして、手当をしたのが韮井先生や樒ではなく、先生の妻であるリサだということが推測出来た。自分の細腕に皺を作って貼り付く絆創膏が、酷く不快だった。

 喉が乾く。多分、口を開けて寝ていたのだろう。頬も舌の上も乾いて仕方がなかった。清涼で冷たい水を求めて、リビングへと向かう。廊下を歩けば、熱を持った頭が、冴えていくのがわかった。虚ろだった思考は、確かに形を元に戻していく。


「蓮。起きたか。まだ夜だ。薬飲んでまた寝なさい」


 僕がリビングの扉を開いた時、そう僕に吐きかけたのは、キッチンで珈琲を淹れる先生だった。彼は食器棚からもう一つマグカップを取り出すと、そこに牛乳を注いだ。「冷たいままで」と僕が呟くと、先生は黙ってそれらをテーブルに置いた。先生の赤髪は、ほんの僅かに濡れていた。きっと、風呂に入ったばかりなのだろう。トントンと二回机を指先で叩いたのを合図に、僕は先生の前に座った。冷たい牛乳を一口、喉に通す。先生のカップからは湯気が立ち上っていた。


「朝になったらリサに礼をしておけよ。玄関から部屋までお前を運んで、応急処置をしてくれたんだからな」

「……リサさんは、もう寝てるんですか」

「今何時だと思ってる。樒も寝てるからな、ゲームしてても良いが、あんまり騒ぐなよ」

「そんなに餓鬼じゃないですよ。というか、先生も寝なくて良いんですか」

「私は今週末の準備がある」


 そう言って、先生は手元の書類束を叩いて見せた。そこには近隣にある海岸と、その傍に建つ洋館の写真が添えられていた。どうやら、隣の市にある海岸で、学科学部を跨いだ合同調査をやるらしい。一瞬見えた文言には、生物資源の教授陣の名前があった。


「……調査も良いですけど、リサさんを放置して良いんですか。新婚でしょう、アンタら」

「餓鬼が首突っ込むことじゃない。私が何年リサと付き合ってたと思ってるんだ」


 そう言われて、自分の指を見た。自分の知る限りの年数、指を折りたたんでいく。そうやっているうちに、先生は「あのな」と声を上げた。人差し指を唇に置いて見せる。静かにしろと言ったのはそちらだと、無言で言って見せれば、先生は長い溜息を吐いていた。


「そもそも私にどうこう言う前にだ、お前の方はどうなんだ」

「立花美代のこと言ってるんですか。別にどうもこうもしませんよ。怪異については、塩でおよそ撃退出来そうだということは掴めましたし、対症療法としてそれは教えましたけど」

「いや、もっとこう、なんかあるだろう。二人で遊びに行く約束をするだとか、勉強を教えるだとか……」


 この人は何を言っているだろうと、思わず口元を抑えた。飛び出しかけた牛乳が、口端に漏れる。


「男女の関わりが全て恋愛に繋がるだなんて思わないでくださいよ」

「そりゃ、畜生の発情期じゃあるまいし、全てが全てとは思わないが」

「なら」

「だがお前が同年代のお嬢さんに興味を示すなんて、初めてだろう。邪推くらいさせてくれ」


 先生はそう言って、ククッと口元を歪めた。確かに、先生からすれば、僕がこうもヒトに興味を示したのは、初めてかもしれない。先生との生活の中で、僕が少女と対話することなど、一度も無かった。誰にでも愛想の良い樒と比べれば、心配にもなるだろう。


「……初めてじゃ、ないですよ」


 隠した口の、その先で、僕はそう呟いた。先生には聞こえていなかったらしい。彼は珈琲を啜って、書類に目を落としていた。

 先生が知っている僕は、ざっと数えてここ十年間の僕だ。けれど、十五歳の僕には、先生の知らない五年間がある。その五年という過去の記憶に、一人だけ、薄らぼんやりと少女への好意があった。

 机に置いていたスマホの画面を見る。たった一つだけの未読メールは、立花美代のものだった。その名前を見るだけで、彼女の白く陶器のような肌を思い出す。僕の指先には、彼女の柔らかな肉と、細い骨の感触が残っていた。けれど、その感覚は初めてのものではなかった。たった五年の朧げな記憶の中に、立花美代と似た姿と、それに対する僕の感情があった。静かに息をする。吐息で撫でるようにして、感覚を思い起こした。

 齢十かそこらの少女の、白い睡蓮のように華やかな笑み。立花美代の立ち姿が、なぜだか、重なったのだ。それと。


 ――――レンって言うのね。綺麗な名前。


 ふと、巡る記憶の中に、違和感があった。僕の名前を唱える少女の顔が――――幼い立花美代の顔が、のだ。前髪を掻く。映像をカットアンドペーストしたような、そんな人工的な記憶の繋ぎ目。首筋と肩に、ミミズが這う様な不快感があった。爪先で、腕の絆創膏を剥がす。ジクジクと傷口が痛んだ。その痛みで上書きしても、不自然さは掻き消えない。傷を抉る指先の動きは、少しずつ早くなっていった。

 

 冷静さと焦りの間で、この感覚に覚えがあることを思い出す。脳裏に、樒の姿が浮かんだ。


「アイツ……クソが……」


 思わず毒を吐く。冷静さを上回って、一種の苛立ちが表情筋の制御を奪った。ピクピクと頬の肉が動くのがわかった。


「蓮?」


 先生の声で、現に抜け出す。スマホを握りしめた僕を見て、先生は訝しげな表情を浮かべていた。画面から目を外して、首を傾げて見せる。先生は僅かに眉を顰めると、短く溜息を吐いた。


「立花のお嬢さんからか?」

「アドレス交換として、メールを送るように言っておいたんです。ご期待に添えるような浮ついたことは書いてませんよ」

「茶々入れて悪かったよ。その詫びと言っては何だが、お前に一つ、提案があるんだが……」


 そう言って、先生は手元の資料を僕の前に突きつけた。肩を落とした先生を見透かして、紙面の文字をなぞる。そのほんの小さな隙間、手書きのメモが挟まっていた。

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