第14話
それから、蓮は何も喋らなかった。否、私が何も聞けなかったというのが正しい。何処かのお喋りAIのように、蓮はこちらから掛けた言葉にしか反応しないらしい。私のカップが空になる度に、珈琲を注ぐ。ただそれだけの存在に、蓮は成り下がっていた。
その沈黙が、酷く心臓を刺激して、何とか話題を掘り起こそうと必死だった。カウンターの方では母の元気な声が聞こえていて、帰ろうと言えるような雰囲気ではなかった。
記憶を少しずつ削り出して、思案する。蓮との間で不思議だったこと、出来る質問はあるか。彼の腹の虫を刺激しない程度の諸問題を、提起しなければならない。
「……ねえ、蓮」
辿り着いた問いは、私と蓮の間だけで有効だろうものだった。故に、私は口を小さく開いて、彼の耳元に向けた。
「さっき女に襲われたときのことなんだけど」
「恭子が触れたら女が溶けたんだろ。塩をかけられた
冷たくなった珈琲を口にして、蓮はそう言って私を流し見た。私からの問いを待ち構えていたかのように、彼は再び苦味に溢れた口を開いた。
「お前があの女にとり憑かれて怪異に近づいたように、恭子も長年怪異にとり憑かれ、その怪異に近しい性質を持っている」
「そっか、怪異が見えるのって、怪異にとり憑かれたり、怪異に近づいた人だけ……なんだっけ」
「そうだ。恭子は昔、人魚の肉を食ったらしい。故郷の海に打ち上げられた、美しい人魚の死体を」
淡々と語る蓮は、フッと小さく唇を尖らせた。それが嘲笑を含んでいることは、何も見ずとも理解できた。
「海の人魚……雨の中に現れる女……塩をかけられた蛞蝓って……そういうこと?」
直感で気づいたことを文章化するのは難易度が高かった。拾い上げた単語と要素を、摘むようにして蓮に提示する。彼は小さく頷いていた。
「隠喩か、本質かは問えないがな。そもそも大抵の場合で、この街の怪異は塩を苦手としている。多分、この街の中心が神社であることが影響しているんだろう」
「葦皐大神様……雨の神様が関係してるの? 蛞蝓の神様がいるとか?」
「それもありそうだが、もっと根本的な話だ。神道では塩は清めの性質を持っている。葬式の時に清めの塩なんか貰うだろ。アレは神道における死を穢れとする考えから派生したものだ。この街は元々、神道の影響が強い。故に、怪異……特に死霊の類は塩に弱い。あとは、そう、雨は真水だからな。雨と縁が強い怪異は、大抵の場合で海に縁がある奴らに弱い。淡水魚を海水にぶち込んだら弱るだろ。逆もあるけど」
最後は経験則だが。と、投げやりに彼はそう言うと、クッキーを口いっぱいに頬張った。これだけ喋れば後はわかるだろうという意思表示か、それとも疲労感を指し示そうとしてくれているのか。どちらにしても、これ以上は説明をする気が無いことだけは理解できた。
そんな彼の目線は店の表側、母達が喋っていた方に向いていた。彼は珈琲を一口飲み干すと、背筋を正した。蓮が真っ直ぐに見つめる先、まるで合図でもされたかのように、母がこちらへと向かっていた。
「貴方が蓮君ね。昨日、美代を助けてくれた子」
優しげな口元を湛える母は、他所行きの声色でそう言葉を置いた。自然な形で私の前に座る。蓮は僅かに緊張を見せる首元を、コテンと傾けて見せた。
「助けた、というと語弊があります。信号で動けなくなっていたところを、引き摺って走った、というのが正しいかと」
「それを助けたと言うのよ。ありがとうね」
母娘だな。と、蓮の目が私を見る。そうでしょう、と私は肩を竦めて見せた。僅かに微笑んだように見えた蓮は、再び無表情を貼り付けて、母を見ていた。
「蓮君の保護者さん……韮井先生で良いのかしら。先生の方にもご挨拶願いたいのだけど、大学の先生ってご多忙でしょう。いつ研究室に行けばお会い出来るかしら」
「あぁ、それなら……」
最低限の愛想を浮かべて、蓮は淡々と母の問いを潜り抜けていった。彼が口下手であることは、薄々母も気付いていたのだろう。次第に簡潔になっていく母の口は、やがて蓮に単語での応酬を許すまでになっていた。
「蓮君、お姉さんか妹さんはいない?」
「いません」
間髪入れずに答えを吐き出した蓮に、母は「そっか」と笑った。そのすぐ後、ようやく蓮が自ら口を開いた。
「あまり良くないことを聞くかもしれませんが、立花家にもう一人、娘さんはいませんでしたか。年齢としては、恭子と同じくらいの」
一瞬、母の顔から表情が机の上に落ちたのがわかった。息が止まった。喉の奥から、気泡が昇る。冷淡に母を視る蓮の横顔は、そんな空気感すら思考の中に入れているような、鋭い眼光を放っていた。
「昔、と言っても十年は前ですが、立花さんと似たような少女を見かけたことがあって。もしかしたら、と思ったのですが」
繕いの口角を持ち上げて、蓮は冷たく暗い瞳を母に向けた。母の沈黙を数秒浴びて、彼は「人違いですか」と口を閉じた。
「……うちの娘は美代だけよ。もしかしたら、親戚の子かもしれないわね」
母は重たい目をそのままに、そうやって笑って見せた。肯定も、理解も示すことなく、蓮はただ首を縦に振った。
再びの沈黙。その隙間を縫うようにして、母の背後に、老婦人が盆を持って立った。
「蓮、そろそろ帰らなくて良いのかしら。韮井君が心配しちゃうわよ」
「……うん」
鼻を鳴らして、蓮は席を立った。一礼の後、顔を上げると、彼は目線を私へと注いだ。
「……連絡、するから。何かあれば。あぁ、先にお前からメール送ってくれ。アドレス知らないから」
一人で淡々とそうやって指示する姿は、言葉数の少ない彼なりの、場のバランスを取り戻そうとするそれだった。私は「うん」と喉を鳴らして、そんな彼の目的に乗じて見せた。
「私達も帰ろうか。お兄ちゃんとお父さん帰って来ちゃうから」
母がそう声を高らかに上げ、私の手首を掴んだ。その手は酷く汗ばんでいて、精神の揺らぎを表していた。恐らくは、蓮の問いが、母の記憶を刺したのだろう。きっとそれを、蓮も分かっていた。
「あら、美代ちゃん帰っちゃうの?」
母の足が店の外に向いた頃、カウンターに座っていた恭子がそう笑った。彼女は手元から紙の包みを取り出すと、そっと私の掌の上に乗せた。
「これは?」
「お守り。怖い時用」
そう言って恭子は、その長い爪の先を私の人差し指に擦りつけた。そこには白い結晶が固まっていて、妙な見覚えがあった。口元を抑えるフリをして、唇に撫でつける。唇を舐めれば、焼けるような塩味が脳を駆け抜ける。そんな私の表情を見て、恭子はカウンター席に置かれた塩の瓶を小さく振って見せた。
「ありがとうございます」
自分の顔が、ぎこちない笑みを浮かべていることは、理解していた。けれどそれが、和泉恭子という女性の気の使い方だということもわかっていた。
背後、母から名前を呼ばれて、振り返る。母に揃って、頭を下げる。予定調和のようなそれを、ただ人形のように遂行していった。
そうやって、最後に見た蓮の顔には、ほんの少しだけ落胆が浮かんでいた。
喫茶店の前、数歩歩いた先で、私はスマホを取り出した。滲んだメモを見返して、蓮のメールアドレスを入れていく。それだけは、忘れないうちにしておかなければならないと、直感していた。
「美代、どうしたの。お夕飯買いに行くよ」
立ち止まっていた私の数歩先で、母はそうやって、少し困った様に笑っていた。「ごめん、少し待って」と一言置いて、私は流れるように、蓮へメールを送る指を動かした。
けれど、その指は、一歩近づいた母の顔を見て、止まった。
「アザミから連絡来て、心配されてたから、早く返さないとと思って」
訝しむ母に、そう言って思考を隠す。納得の表情を浮かべる母の顔で、私はメールの全文を消した。
日常に戻ろうとする母の隣。駅ビルの中、昨日までいなかった筈の焼け爛れた人々に、私は目線を送っていた。
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