第13話

「アタシ、去年イギリスに留学させて頂きまして。その折に海洋考古学研究室の韮井先生のお祖母様……の、御親族にお世話になりまして……」

「あら、留学? 凄いわねえ。将来は通訳とか?」

「英語教師を志しておりますの。今年の二学期から補習のチューターとして、附属高校の方でお仕事をいただけることになっておりますわ」

「あらあら……それは……娘をどうぞよろしくお願いいたしますね」

「あら? 美代ちゃんは優秀ですから、補習なんて不要でしょう?」


 見た目に反した優秀さと細やかな世辞を誇らしげに、赤い爪の女――和泉恭子は母の隣を歩いていた。彼女のくるくると回る舌は、自分が立花美代の友人であるという嘘を、いとも簡単に母の脳に刷り込んでいく。その口の軽妙さは、成程、この場を収めるには必要不可欠だっただろう。蓮であれば、何も喋らずに私を引き摺って歩こうとするか、母に拳の一つでも食らっていた。そんな情景が易々と浮かぶ程度には、彼の口下手さと嘘の吐けない性格を理解していた。

 そんなコミュニケーション能力を代償に理知を極めた蓮のことである。彼が事の全てを任せた恭子は、確かに優秀だった。その指先、言葉、全てが自然だった。私達を襲った焼け焦げた女を何処かに追いやったかと思えば、高らかな声で母の目を自分に寄せた。その瞬間に、痣になった私の肩を、車のドアに擦り付けて「当たっちゃった」と心配して見せたのである。そうしてそのまま、中身の無い謝罪やらを掲げて、母を喫茶店への道まで誘ったのだ。


「美代ちゃん、着いたよ」


 ふと、恭子がそう甘く囁いた。気付けば目の前には昨日も目にしたアンティーク調の扉があった。それの空間の中に入ろうとする彼女を見て、思い出す。そういえば、あの時。蓮と共に店で過ごしたあの時間、確かに恭子は店内に存在していた。あのジャラジャラとした金属アクセサリーこそ身に着けてはいなかったが、その微笑む頬の骨格には覚えがあった。


「マスター、美代ちゃんとお母様をお連れ致しましたよ」


 老婦人を前にして、恭子は微笑んだ。彼女の隣で母が頭を下げた。


「立花美代の母です。昨日は娘が大変お世話になりました。あの、昨日いただいた珈琲のお代を」

「ご丁寧にありがとうございます。お代は結構ですよ、自分が飲むために淹れたものでしたから……」


 そうやって話を始めてしまった二人を視界の端に置いて、私は店内を見渡した。耳元で金属が触れる音がした。私の耳のすぐ傍でケラケラと笑う恭子は、密やかに唇を動かした。


「蓮を探してる? 一番奥よ、あの子の特等席」


 艶めかしい恭子の、湿ったような声が耳穴をうねる。不快感は無いが、人間的な温もりも無い。友人と偽るには不足が目立つ彼女は、黒曜石のような瞳に私を映していた。その目を瞼で隠すと、首元に垂らしただろう香水の、重たい香りを振りまく。そうやって恭子は、母と老婦人の輪に入っていた。そんな彼女に背を向けて、私は早足で狭い店内の奥へと進んだ。


「蓮」


 自分の声が浮いたのがわかった。テーブルに突っ伏していた黒い頭髪が、ゆっくりと持ち上がる。眠たげな眼をこちらに向けて、彼は静かに唇を震わせた。


「……思ったよりも時間がかかったな。恭子がヘマしたか」

「いや、恭子さんは凄かったよ。何と言うか……私の名前を呼ぶ声が聞こえて、恭子さんだと思って、ドアを開けちゃって」


 私がそう言って首を振ると、蓮は鼻で溜息を吐いた。その呆気は私へ向けられたものか、それとも恭子へ向けられたものかはわからなかった。


「座れ。ばあちゃんがクッキーを焼いてくれた。珈琲もたっぷりある」


 蓮の指差しに従って、私は彼の隣に座った。対面で喋るのは苦手なのだろう。彼は私から目を反らした。


「ありがとう。また助けてもらって」


 腰を落ち着けて二秒ほどたった頃、私はそう呟いた。サーバーから温い珈琲を注いでいく彼の手元がピクリと震えた。再度傾く水面に顔を映しながら、蓮は目配せも無く口を開いた。


「別に。礼を言われるようなことはしていない。昨日は、引っ張って、逃げて。そして今日は嘘つき女を一人向かわせただけだ」

「そっか。でも私は助かったんだよ。母さんだって、今日は危なかったし。それに対して、私が勝手にお礼を言ってるだけ。受け取るも受け取らないも、蓮の自由だよ」


 カップの中身をくるくると、私は意味も無く回した。砂糖とミルクは既に溶けていた。一緒くたになったそれらを唇に近づけると、蓮の顔が私に向いた。


「すまない」


 そう一言だけ置くと、彼は再び目を伏せた。合わない視線を交差させて、蓮の唇を視る。薄い肉は、白い歯を隠して、喉の震えを刻んでいた。


「お前を襲う女のことも、池未に傘を売った奴のことも、わからなかった」

「調べてくれてたの?」

「言うほど調べたというわけではない。この喫茶店に来る連中から聞き取りをしただけだ。ここには街中の怪異憑きやら祓い屋……怪異事件に関わる人間が集まってくる。一人くらい、何か知っている人間がいないかと思ったが……情報が少なすぎると言われてしまった」


 蓮はそう言って、机に顔を押し付けた。不貞腐れているとでも言うのか。それとも、落ち込んでいるという方が相応しいかもしれない。彼は脱力した四肢を落として、その黒い真珠のような瞳をこちらに向けた。


「調査しようがないなら、気を張る他ない。まだ直接的な危害こそ加えられていないが……最終的にどうなるかはわからない」

「最終的にって……その、もしかして、死ぬ、とか」

「あり得る。この街では怪異に憑き殺されるなんて、交通事故よりもよくある話だ。今日にいたっては母親も巻き込まれかけたんだろう。なら、他にもクラスメイト何かにも伝播する可能性もあるな」


 淡々と、蓮はそう言って口元にクッキーを運んだ。頭に浮かんだのは、アザミの顔だった。彼女の底抜けに明るい表情が、雨に濡れていく。


「……母さんを……いや、誰も巻き込まないでおくには、どうしたらいい?」


 無意識に出た言葉は、自分にしては良い子のフリをしすぎていた。そんなことより本当は自分が助かる方法を知りたかった。あの女に襲われないことが重要だった。けれど、自分のことを諦めている自分もいた。


「現状では何も分からない。だが恐れる必要も無い」

「恐れなくて良いって……そんな、無責任なこと」


 静かに私を見つめる蓮の顔を見て、下唇を噛んだ。八つ当たりに近い言葉を、吐きかけようとしたことに気づく。珈琲のせいか、それとも疲れているのか。精神の動きが、何だか激しかった。

 私がそうやって唇の血を啜っていると、蓮が手を上げた。その指は最短距離で私の血を拭った。


「お前が襲われた時、僕が助けに行けば良いだろ。それに、周りが巻き込まれる前に、全て片付けてしまえば何も問題は無い」


 冷淡な口先だった。けれどその口角は僅かに上がって、一瞬の慈しみを抱え込んでいた。

 だから。と蓮は再びつまらなさそうに表情を落として、声を置いた。


「自棄になられると困る。お前の身に降りかかっていることは、全てお前自身のことだ。お前もちゃんと解決に協力しろ」


 そう言って、蓮は空っぽのコーヒーカップに口をつけた。胸元にある小波のような精神を、私はそっと唾とともに飲み込んだ。

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