第12話
無意識に打ち込んでいたのは、電話番号だった。コールが始まったと理解するより前に、プツンと音を立てて無音が響いた。
「蓮、ごめん、突然電話して。私、美代。立花美代」
無音だが、確かに向こうからは鼻息が聞こえていた。その意識をこちらに向かわせようと、必死に声を震わせる。
そこでようやく、母は私の方を向いた。「何?」と不思議そうな顔をする母の向こうでは、雨のない地下で一人、ポタポタと雫を垂らす女が、未だ母を見つめて笑っていた。
『――――現在地を』
どうしたんだ、何があった。そんな言葉も無く、蓮は冷静に、一言それだけを問う。芯の通った彼の中性的な声は、氷でもぶちまけるかのように、覚醒を呼んだ。私は震える手先を押さえつけながら、息を吸った。
「お母さんと一緒に、駅前のデパートの地下駐車場にいる」
『簡潔に言え。女との距離は』
「凄く近い。硝子を隔ててすぐにいる」
『母親を連れて走れるか』
「難しい」
『乗っている車のナンバーは』
「えっと……」
小さく、短い言葉を吐く度に、少しずつ冷静さはその鋭利さを取り戻していく。母が隣で「お友達?」と一人笑っていた。その声が蓮にも届いたのか、彼が小さく息を吸うと、一度スマホから声が遠のいた。
『今、知人をそちらに送った。大学生の
一呼吸も置かずに、蓮はそう言って通話を切った。思わず画面を見やると、そこにはただ通話終了という現実だけが残っていた。
「お友達? 女の子っぽい声が聞こえたけど、レンちゃんって、女の子?」
母はそう言って、車のエンジンを止めた。気付けば母は駐車を終えていて、その手をドアにかけていた。
「まま」
それでも女は、未だ焦げた皮膚の上に雨水を垂らして、母に甘えた声をかけていた。どう見ても、狙われているのは私ではなかった。何も気づかない母の後ろ、千切れそうな首をもたげる女は、分厚い硝子に額を当てる。
ごん、ごん、ごん、ごん、ごん、ごん、ごん…………
「まま」「まま」「まま」「まま」「まま」「まま」
硝子は、確かに震えていた。けれど母は全く気付く素振りを見せていない。きっと、今この状況を母に話したところで、何を言っているのだと、眉を顰められるだけだろう。
「お母さん」
震える喉を無理やり正して、母の腕を掴む。
「あのね、友達が……今話してた、クラスメイトとは違う人……大学生の人なんだけどね、何か、私達のこと迎えに行こうって喫茶店出てっちゃったんだって。入れ違いになると嫌だから、その人が来るまで車で待って欲しいって、連絡があって」
纏めることのできない情報の羅列に、私は数度舌を噛んだ。それを一音ずつ聞く母は、困ったような顔で私を見ていた。
「随分とおっちょこちょいな人ねえ。その人が研究室まで貴女を連れて行ったの?」
「え、あう、うん。気持ちが先走っちゃう人みたいで……」
顔も知らない女性を貶す度、気が重くなっていく。母は「仕方が無いわねえ」とのんびり口を尖らせて、その手をドアから離していた。
そんな母の手元、カリカリと音が聞こえた。それは車の窓際を掻き毟る女の爪の音だった。縁を覆うゴムの隙間、割れた白い爪が突き刺さっていた。母のいつも通りの顔を重ねる度、脳の表面をそぎ落とされるような、思考を奪われるような感覚があった。非現実と現実性が同居するこの視界は、幻覚に苛まれていると言っても過言ではない。
――――キィー、キィー、カチン。
爪を立てて女が硝子を掻いていく。ボロボロの爪からは赤い膿が垂れ出て、窓を汚していた。私には、母を隔てた窓の向こうは、既に視えなくなっていた。女の黒い顔だけが、ずっと私の視界を覆っていた。動かない眼球が、母を見ていた。私と似たその手が、私と似た目鼻立ちが、母を抱こうと迫っている。
「まま」
女がそう呟く度に、背中が濡れた。自分の汗で、体温が奪われていく。冷えていく指先を掴んで、震えを隠した。圧力が血液の流れを妨げることくらいはわかっていた。それでも、歯か手指に力を入れることでしか、この長い五分を耐えることが出来なかった。
「来ないわねえ」
ふと、母がそう言って背中を座席に押し付けた。フロントガラスを前にして、母はその細い腕と脚を組んで、溜息を漏らしていた。背後にいる焼け爛れた皮膚と白い眼球さえ無ければ、きっとファッション雑誌を飾れるような画になっていただろう。そんな母に焦点を当てれば、焼け焦げた女の顔から、意識が反れた。
「……多分、車何処にあるかわからなくて探してるんじゃないかな」
「そうねえ。美代、連絡出来ない?」
「連絡先貰うの、いっつも忘れちゃってて……」
「本当におっちょこちょいな人ねえ」
「本当にそうね……あ」
ケラケラと笑う母の後ろ、唐突に、視界が晴れているのがわかった。
白い指も、黒い顔も、硝子を削る爪も無い。そこには、ただコンクリートの塊が並んでいた。
反射的に、ホッと胸をなでおろす。無機質さへの安堵を持って、息は静かさを取り戻す。スマホの画面を見れば、既に五分は過ぎていた。件の和泉恭子という女性の姿を探す。きょろきょろと首を振っていると、フロントガラスの隅、しゃらしゃらという細かい金属の擦れる音が聞こえた。
「みよちゃん」
背後から聞こえた声は曇りの無い清涼な女声。見知らぬ救いの声に、心が躍った。無意識に手はドアを開けようとしていた。
――――その瞬間、一つの不自然に気付く。硝子を隔てた声が、こんなにも明瞭に聞こえるものか。
ドアは既に開いていて、車の温い空気を外気の熱と混ぜ込んでいた。顔を上げる。暑気が撫でる頬に、冷たい雫が垂れた。濃厚な雨と焼けた肉の臭い。それらが口の中を蹂躙した。
「みよちゃん」
焼け爛れた女は、車から出ようとする私の肩を掴んで、笑っていた。白い歯が輝いて、三日月のように弧を描いていた。
「みよちゃん、みよちゃん、みーよっちゃん」
子供のように、ケラケラと笑う。女のひび割れた爪が肩の肉に刺さっていた。下唇を噛んで、痛みを受け流す。
「美代? どうしたの?」
ドアに引っかかっている私の背後に、母の声がかかった。同時に、運転席のドアが開く。
瞬間、肩の痛みが無くなった。シャツ越しに赤い液体が指先に染み出した。
前のめりに車の女は長い首を伸ばしていた。その先には、車から降りた母がいた。何もわかっていない母の、小さな口が動く。
「駄目ッ!」
全ての痛みと思考をかなぐり捨てて、声を上げる。地下駐車場に反響する二つの音。その意味を母が理解するよりも前に、女の唇が母の顔に触れる。
――――その、一瞬。女の身体が、溶けた。
本当の瞬く間の出来事だった。母がとぼけた顔を崩すより先に、女の前身は、塩をかけたなめくじのように水分と粘液を床に落として、縮んだのだ。
そんな小さくなって消え逝く女の傍、乾いたコンクリートに赤いハイヒールを鳴らす足があった。排気ガスに塗れた酸素を吸い込みながら、顔を上げる。
「どーもこんにちは! キョーコちゃんです! お待たせ!」
細い金属アクセサリーを全身で鳴らしながら、その女は笑っていた。赤い唇が弧を描く。キツイ化粧と香水の匂いに蹴落とされて、私は顔を下に降ろした。
その視線の先、女の足元には、薄っすらと赤い雨水が滴っていた。
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