第11話

 母が迎えに来たのは、それから二時間程経った頃だった。連絡の行き違いか、母は私が病院で過ごしていると思い込んでいたらしい。夕方の雨を眺める中で、スマホが震えたと思えば母の「何処に行ったの!」という声が鼓膜を割いた。挨拶も無しに消えて良いものかと、足が躊躇した。それでも、韮井先生の「勝手にしてくれ」という吐き捨てられた言葉に押されて、私は母のいる附属病院までの道を辿った。樒のようにわざわざ裏道を選ばなければ、大学構内を濡れずに行き来する道は簡単に見つけることが出来た。屋根付きの渡り廊下を歩く度に、この施設が、雨と雪ばかりのこの地に合わせて作られたのだとわかった。

 そんな雨の中で薄らと輝くような、白く潔癖な硝子扉を潜る。受付ロビーの前、並ぶソファの列の中に、少しだけ毛先を濡らした母がいた。


「お母さん」


 丸まっていた母の背に向けて、声を転がす。振り返り際、その眉間に僅かな皺があった。一種の苛立ちのような、または不安感のようなそれを顔に貼り付けて、母は静かに立ち上がった。


「勝手に何処行ってたの。心配したでしょ」


 そう言って母は両手で私の顔を包んだ。その姿は何処までも『親』としてのそれで、その言葉に嘘偽りは無いのだと理解する。


「ごめん、様子見に来てくれた友達が、大学の研究室で一緒にお茶しようって言ってくれて……」

「それは知ってる。病院の人から聞いた」

「え?」


 曰く、韮井先生が病院に連絡を入れていたということらしい。不満を垂れ流しながら、母は雨露のついた私の肩を叩いていた。成程、韮井先生は母の連絡先は知らない筈だし、現状こそが彼に出来た最善だっただろう。私から連絡をしておけば、という小さな後悔を飲んで、私は背を押す母の隣を歩いた。


「……で、その大学の教室って、何処なの」


 大学の駐車場、私が助手席に座った時、母はそう言ってスマホを取り出した。


「えっと……海洋考古学研究室だけど……行くの?」

「今度ね。お昼頃から居たなら、結構な時間預かってもらったんだから、お礼言いに行かないと」

「預かってもらったって、そんな、託児所みたいな」

「あのね、貴女は高校生で、本当だったら高校の教室で勉強してるの。今回は理由が理由だから皆が心配してくれて、優しくしてくれてるけど……傍から見たらただのサボりだからね? 高校の方の保健室ならまだしも、殆ど関係の無い人が、厚意でサボりの女子高生を預かってくれたのよ? 親として頭下げに行かないと駄目でしょ」


 それだけ言って、母は車のエンジンをつけた。フロントガラスに叩きつける雨が、ワイパーによって掻き分けられていく。


「そっか、そうだよね。ごめんなさい」

「別に謝る必要は無いのよ。私は事情を知ってるんだから。でもね、ちゃんと貴女から連絡くれれば、私も研究室の方に行って、そこで直接ご挨拶出来たかもしれないんだから……」


 くどくどと垂れ流される説教が、肋の隙間を指す。けれど悪い気はしなかった。それは安心感に覆われていた。ふと、研究室で先生の小言を聞いていた蓮の顔を思い出す。無表情で攻撃的な語彙の彼が、何処か穏やかな表情をしていたのは、今の私と同じような理由だったのかもしれない。


「そうだ。ねえ、お母さん」


 思い出したふりをして、私は信号待ちの母へ顔を向けた。運転中の目線を逸らすことなく、母は「何?」と声を転がした。


「昨日、私のことを助けてくれたクラスメイトがね、今、駅ナカの喫茶店にいるの」

「喫茶店って、あの、警察と家に連絡くださったご婦人の?」

「うん。話聞く限りだと、身内らしくて。お礼したいから今日の夕方、会いに行くねって、言っちゃって」

「そうねえ、元々そのつもりはあったし、行っちゃおうか。駐車場から少し歩くけど、そんだけ元気なら大丈夫ね」


 ケラケラと笑う母は、そう言ってアクセルを踏んだ。その道筋は駅前のデパートに進んでいて、母はその地下駐車場を使うつもりらしかった。

 車のエンジン音を子守唄に、僅かだが眠気が視界を霞ませる。母の「こら」という声で、周囲を見渡す。駅はもう目の前にあって、信号を進めば、駐車場には一、二分で辿り着くだろうというところだった。

 こんなところで眠ってはいけないと、顔を二回ほど擦る。自分の手先が温かなことに気づいて、その熱を瞼越しの眼球に当てた。頭は冷えていて、思考も明瞭だった。少しの圧で押された視界は多少ぼやけていた。


「帰りデパ地下で何かお惣菜でも買って行っちゃうか」


 楽しげな声に当てられて、「そうだね」と私は母の方を向いた。


 その瞬間、太鼓でも鳴らしたかのように、全身の内臓が跳ね上がった。不明瞭だった視界はくっきりとその輪郭を示していた。焼け焦げた肉の匂いが、鼻腔に想起される。


「くらみつはなめをしりませんか」


 私の視界に、母の向こうに、車のすぐ傍に。それはいた。キリンのように首をもたげて、ジッと私を見つめながら、その女は焦げた顔を覗かせていた。

 にんまりと上がる口角。焼け焦げた皮膚から僅かに漏れる体液。ボロボロと崩れる組織が、雨水と共に張り付く。


「お母さん」


 思わず、私は声を漏らした。裏返った声は水分を含んだ空気に反響していた。母は目線をこちらに向けることもなく、「今度は何?」と笑っていた。


「早く車、進めて」

「何言ってんの。信号まだ赤なのよ」

「でも、外」

「雨強くなって来たよねー。まあ、地下道歩けば良いでしょ」


 そうじゃない。そう言おうとして、声が詰まった。怪異などというものをどう説明しろというのだ。酷く冷静な自分の思考が、判断を鈍らせた。


「おかあ、さん」


 私がもたもたと唇を惑わせているうちに、女はその視線を母に向けた。ぎょろりと動いた眼球は、しっかりと母の横顔を捉えていた。


「おかあさん」「みよ」「みよちゃんのおかあさん」「くらみつはなめしりませんか」「くらみつはなめ」「おかあさん」「くらみつはなめおかあさん」「くらみつさん」「まま」「みよちゃん」「みよちゃんまってる」「くらみつ」「みよちゃんまま」「しってる」


 女の涼やかな声が、まるで風鈴の如く脳を掻き乱す。何も聞こえていない母は、やっとアクセルを踏んだ。しかしその速度は殆ど人が歩く速度と同じだった。


「もっと早く出来ないの」

「え? 無理よ。混んでるんだもの。あと少しだから、我慢して!」


 震える私のこともわからずに、母はそう言って駐車場の入り口へと車を進めた。それに伴って、母の向こう側にいる黒い視界も、トコトコと歩いていた。


「まま」「まーま、はやく」「はやくして」「がまんするみよちゃん?」「がまんしたよー?」


 私達の言葉を反芻するように、女はそう呟いていた。文法も、理解も無い言葉の羅列に、思考処理の全てが割かれる。唇を噛み締めて、ようやく、私は自分の手にあるスマホを見た。

 スマホケースに入ったメモ用紙。そこには、韮井先生が手書きした蓮の電話番号とメールアドレスが滲んでいた。

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