第9話

 毛布を被って、蓮は細かく震えるように唇を動かしていた。青白い皮膚はその黒い髪に映えて、光っているようにすら見えた。


「逞帙>逞帙>逞帙>繧?a縺ヲ縺頑ッ阪&繧……」


 その言葉を理解することは出来なかった。ガタガタと震える歯だけが、彼の悪夢を訴えていた。

 魘される彼の顔に、指先を置いた。蓮は「ウゥ……」と獣のように唸って、犬歯を剥いた。


「放っておいて良いよ、無理に起こすと首をへし折りに来る」


 樒はそう言ってコーヒーマシンの前を陣取った。慣れた手つきで彼は珈琲を淹れていく。その手が用意しているマグカップは四つあった。


「これ……何語喋ってるの」


 蓮を眺めながら、彼が口遊む言葉をなぞる。その言語は、私の知り得る日本語或いは英語といったポピュラーなものではなかった。けれどそれが何処か遠い国のものではないことも、直感で理解出来た。


「さあね。言語学の先生に解析してもらったりもしたけど、およそ現在の地球上では用いられていない言語らしい」

「双子の兄弟でもわからないもの?」

「これが不思議なもんでさ。昔は……本当に小さい頃は、僕もこの言葉で喋ってたんだ。けど、日本語で喋れるようになった時には、もう蓮が何を言っているのか、わからなくなっていた」


 自分の問いが、あまり善良なものではなかったのだと、樒の顔を見てわかった。「そう」と私は彼から目を反らした。

 彼の伏せた目は深い黒で覆われていた。蓮を見つめるその視線は、羨望と憐れみを混合した汚らしい色をしているように見えた。


「日本語で喋れるように……ってことは、貴方達、出身は海外?」


 気を紛らわすために、別の問いを投げつける。その意味を理解したのだろう。樒は笑って口を開いた。


「似たようなものかな。一応、日本国籍だけどね」

「帰化したってこと?」

「大体そんな感じ。明確にそうだとは言えないけど」

「……日本語がお上手だこと」

「そりゃ、十年も使ってれば立派な母国語だよ。もう日本語話者やってる方が長いんだから」


 湯気と共に立ち昇る珈琲の香りに塗れて、ケラケラと笑って見せる。日本語表現の曖昧さを上手く使う樒は、のらりくらりと軽やかに指先をサーバーのボタンに触れさせていく。蓮がカップに琥珀色の液体を注いでいくと、その音に反応して、蓮の肩が動いた。彼はゆっくりと頭を上げると、薄らぼんやりとした瞳で、私を見ていた。


「……鄒惹サ」……?」


 何を言っているのかはわからなかった。けれど、彼が、しっかりと私を認識していて、私の名前を呼んでいるということだけはわかった。


「……菴輔〒縺薙%縺ォ…………いや……樒が連れて来たのか……」


 寝ぼけ眼から覚醒に近づいた彼は、はっきりとそう言って、上半身を起こした。頭を掻き乱して、ソファに身を委ねた。下半身を床に着ける彼は、まるで魂でも抜けたように脱力していた。


「蓮、ちゃんと起きないと冷凍庫のアイス食べちゃうよ」


 樒がそうやって言うと、蓮は大きく舌打ちを鳴らした。乱れていたシャツを直す。立ち上がった彼は、そのまま躊躇なく樒の傍に寄ると、彼が持っていたカップを奪った。


「それ、砂糖入れてないけど」

「良い、別に」


 同じ声、同じ顔を合わせる。苦味が強かったのか、それともそういう癖なのか、蓮は眉間に皺を寄せながら珈琲を啜っていた。呆れ顔の樒は、私を見て、「座って」と近くのデスクを指差した。


「立花さんはミルクと砂糖入れる?」


 樒の問いに、私は首を二回縦に振った。するとコーヒーマシンの隣、山のように積まれていた砂糖のスティックと、ポーションミルクを二つずつ、彼は私と蓮に投げ付けた。そうやって軽い動きで樒は珈琲を置いた。知らない人間のコートがかかった椅子は、どうも落ち着くことが出来なかった。二度三度息を吸って、カップに砂糖とミルクを入れた。広がっていく白に反射する蓮の横顔を見た。

 蓮は静かにこちらを見つめていた。その表情からは、彼の妙な疲労感だけが読み取れた。


「ねえ、蓮」


 彼に聞きたいことが、纏り無く存在していた。教室に入れない理由に、あの蝦蟇が関係しているのか。口遊んでいたあの言語は何だったのか。私の目の前に現れたあの女について、何かわかることはあるか。それらを吐き出したいがために、唇を動かした。

 けれど、その行為は、部屋内の減圧と共に掻き消された。割りでもするのかという程に、古びた扉が本棚に叩きつけられる。そうやって部屋に入り込んだのは、眉間に皺を寄せた赤毛の男だった。


「全く、学内完全禁煙なんざ誰が得をするんだ……」


 煙草臭い溜息を吐きながら、男はそう言ってポケットからハンカチを取り出した。肩の雨水を掃う彼を見て、樒が口を開いた。


「先生、珈琲淹れましたよ。飲みます?」


 砕けた声色で、そう言うと、男はハッと顔を上げてこちらを見た。彼の視線は蓮を捉えた後、すぐに樒に移った。


「何だ、樒、こっちに来てたのか。立花のお嬢さんは目を覚ましたのか。まだ帰宅したという連絡は受けていないが」


 手に持っていた鞄を教員用デスクに放り投げて、男は言う。その翡翠色の瞳には、私が入っていないようだった。どうも、高身長が災いしてか、書類の中に埋もれている私に気付いていないらしかった。


「先生」


 蓮がその通った声を一つ鳴らす。ふいに、男が振り向いた。


「あっ……えっと、立花美代です。お邪魔しています」


 男と目が合って、滑るように出たのは、そんな当たり障りない言葉だった。驚いたように目を丸くする彼は、「あぁ」と喉を鳴らした。


「気が付かなくてすまない。私は韮井ミツキ。海洋考古学という学問を中心に、ここで史学なんかを教えている」

「……大学教授?」

「そこまで良い肩書は持っていないが、気軽に『先生』とでも呼べば良い。高校生も大学生も、さして変わらん」


 男――韮井先生はそう言って、口角を上げた。その特徴的な目は、鋭く私を刺す。しかしそれが好意的な視線であることは、何となく蓮達を見る目から理解は出来た。


「まだ下校時刻には早い。ここでゆっくり過ごすと良い。夕方になったら、お母様が迎えに来るんだろう。ご家族や学校関係者への説明はきちんと作ってあるから、安心しなさい」

「あ、ありがとうございます。何から何まで」

「私は仕事をしているだけだ。どこぞの理事長が寄越しやがった仕事をな」


 冷め始めた珈琲を啜って、先生はソファに腰をかけた。ふと、彼は顔を顰めて蓮に目を向ける。


「ここで寝るなと言ってるだろう、蓮。講義の聴講も、図書館利用もしないなら、家で寝なさい。リサがいて落ち着かないなら喫茶店でも良い。無理してここに居る必要はない」

「……本を読んで、うとうとしてただけですよ」

「そうだとしても、お前はただでさえ……」


 弱々しい蓮の口に、先生はそうやって言葉を被せた。苛立っているだろう蓮の顔は、どうしてだか、今まで見た中で一番柔らかいように見えた。


「……駅ナカの喫茶店にいます。帰宅する頃には、連絡しますから」


 そう言って、蓮は空のマグカップを樒に手渡した。あの暖かな表情は抜け落ちていて、元の無表情に戻っていた。けれど、彼の言った『喫茶店』という言葉は、先生に向けられたものではなく、私に向いて置かれたものだろう。朝、彼を呼び留めたのは私だ。彼の都合を知らない私が、何か、彼に負担を強いてしまったらしい。何も言いだせないまま、私は蓮の背を目で追った。


「僕は学校戻ろうかな。頼まれたことはやったし、任せて良いでしょ、先生」


 構わない。と手を振る先生に、樒は「じゃあ」と笑った。同じ姿をした二人は、揃って部屋を出る。けれど、るんるんと足取りが軽やかな樒に比べて、蓮は一人、とぼとぼと力が無いように見えた。


「さて」


 二人だけになった部屋、先生が一言呟いた。彼は二杯目の珈琲を淹れ始めると、長い溜息と共に、私を見つめた。


「聞きたいことがある……という顔をしている。何でも話そう。『くらみつはなめ』のこと『蓮』のこと」


 ギシ。と音を立てて、先生は奥歯を鳴らした。それはおそらく歓迎を意味しているが、伴う圧力は、私の背筋に冷たい汗を垂らした。

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