第8話
「礼を欠いたね。悪気があったわけじゃないんだ。ただ、君が最初、僕を蓮と呼んだのが、少し楽しくて」
あっけらかんと、その少年――樒は言った。蓮とは親しみやすさの度合いが違う。コロコロと変わる表情も、選ぶ言葉も、人間らしさの領域からは逸脱していない。
「でも知り合ったばかりだろうに、よくわかったね」
「……蓮は『君』だなんて呼ばないだろうし……昨日話した時に、人間を『ヒト』って言うのが特徴的だなって、思ってて。それに、双子の弟がいることは、本人が教えてくれていたから」
私がそうやって垂れ流していると、「そっか」と樒は微笑んだ。
「蓮は今どうしてるの?」
「アイツなら『先生』の教室にいるんじゃないかな。高校の方に来てたなら、かなり疲れてる筈だし」
「先生?」
「大学の先生。僕達の面倒を見てる。ま、育ての親ってやつかな」
私の問いに、何の不思議もないように彼はそう言った。ベッドの上に置いた本を抱えて、首を傾げて見せる。樒のするその仕草は、何処か演技っぽさが抜けきれていない。
「会いに行ってみる? どうせ今から授業とか受けられないだろうし。色々聞きたいこともあるんじゃない?」
ね。と一つ置いて、彼は舌を見せて笑った。その手は私の方を向いていて、さもエスコートしようという様子だった。差し出された手に、自分の手を置く。その手首には未だ青黒い痣が浮かんでいた。ふと樒の表情を見る。けれど彼は何も見ていないかのように平常なままだった。皮膚同士が触れた瞬間、彼は私をベッドから引き上げ、その手を離した。
「着いて来て。少し歩くよ」
軽妙な樒の足を追って、彼と同じだけ足を進めた。やけに暖かな色合いの壁に沿って歩く。時折、すれ違う患者達に会釈されるが、樒は何も反応を示さないまま、鼻歌を歌っていた。彼の口元から奏られるのは、音程こそわからないものの、リズムだけ聞けば、何処かの子守唄らしかった。
そうして連れられるまま、ナースステーションを過ぎて、小さな扉へと辿り着く。その向こうは雨が滴る外界で、硝子で出来た扉板には鏡文字に『職員専用』と書かれていた。全てを無視して突き進む樒は、扉の隣でジッと私達を睨んだ看護師を突き飛ばして、外に足を踏み出した。
「壁伝いに歩けば濡れないよ。屋根があるから」
私の顔を見た樒は、そう言って再び手を差し伸べた。その手には先程触れた看護師の赤黒い唾液がべっとりと付着していた。
「どうしたの? 頭痛い? 大丈夫?」
そうやって不思議そうに口を開く彼を見て、ようやく理解する。彼には、夜咲樒には、今までの患者も看護師も、見えてはいなかったのだ。意図的ではない。恐らくは決定的に、私と彼では認識の範囲というものが違うのだ。
「……ううん。大丈夫。雨が思ったより強かったから、驚いて」
繕いを何処まで理解してくれているのかは、わからなかった。さして会話をしたわけでもない互いの情緒は、察するには及ばない。けれど樒は一言「そう」とだけ零して、私を視界から遠ざけた。
そのまま前を歩いていく彼を追う。ふと、目についた樒の背は、同世代の少年にしては薄い、少々女性的なそれだった。よく見れば、白いシャツを透けて見えるその皮膚には、無数の蚯蚓が這うような"痕"があった。赤い蚯蚓は彼が歩く度に蠢いているように見えて、私は咄嗟に目線を足元に向けた。
病院の周囲を覆う塀、その無機質さを隠す様に植えられた背の低い樹。その青々さと灰色のコントラストに目を落ち着かせながら、足の直ぐ傍、水溜まりを飛び越えた。その中に黒い塊が沈んでいるのが見えたからだった。恐らくは蛙の卵だろう。晴れの無いこの街であればきっと、来週には大量の小さな黒いオタマジャクシが泳ぐ姿が見られる。それを見たいと思うかは別だろうが。
そうやって周囲に意識を向けていると、樒が立ち止まった。彼はくるりと一回転、軽やかに身を翻すと、私と目を合わせて笑った。
「見える? 君が今朝見たやつだよ」
そう言って、彼は人差し指を空に向けた。その先を目で追うと、そこには大学内で一際大きな建物があった。たしか、前に聞いた話では、その建物は水産の学生が実験などをするところだという。淡水に棲む生物は大抵あそこで飼われているのだと、いつぞやお茶をした大学の先生が言っていた。
けれど、樒が無邪気に指し示しているのは、そんな大学実験棟などではない。その手前、建物の一部を覆っている、茶色い塊。
息を、止める。というよりも、息をするのを忘れてしまった。
――――ゲコ、ゲコ、ゲコ、ゲコ。
聞き馴染みのある――否、耳にこびりついているその音は、確かに、蝦蟇の声だった。それらは遠くで背を見せながら、鞠のように固まっていた。
足が竦む。フラッシュバックとはこういうことを言うのだろう。誰もいない大学敷地内の一角で、周囲からの視線が痛みのように突き刺す感覚を覚える。布の被っていない手足が、顔が、ひりひりと痛む。
「驚いた?」
そんな私の視界を遮るように、樒はその身を前に出す。背中が濡れることすら厭わずに、彼は悪戯っぽい笑みを、息がかかる程に近くで湛えていた。
「アレも怪異?」
私が問うと、彼は「うん」と微笑みを返した。再び彼は歩き出すと、ひらひらと置き場の無い手を振り回した。
「古い沼と田の神様だったらしい。埋め立てた沼とか、田んぼとか。その辺りを転々と移動しながら、交尾するんだよ」
「……神様、だった?」
「うーん、今でも神様と呼ぶべきかもしれない。
辿り着いた建築物の中、屋根を得た私達は、横に揃って歩いた。樒が語ることは、一つ一つが丁寧で、私の疑問を拾いあげることに注力されていた。
「複数の神様を一つにしてナントカ大神って呼ぶのは、よくあることなんだ。この辺りは特に色んな信仰が入って来てるものだからね。あの蝦蟇の神様もそうだけど、他にも水に関係した神様が纏められてる」
「それはこの辺りの気候のせい?」
「だろうって話だよ。この辺りは昔から雨が降りやすい気候だったみたいだし、雨の神様を祀ることが多かったみたい」
「雨の神様って、雨が降らない時に頼るイメージなんだけど」
「逆に火の神様だったりは、火事が起きないように祀ったりするだろう。それと同じ理屈さ。大雨を防ぐために雨の神様を崇めたんだ。いくら水に恵まれても、川が氾濫したり、土砂崩れが起きちゃ、お終いだからね」
そういうものだよ。と、彼は足を止めた。その傍には、古びた木製の扉があった。扉には『海洋考古学研究室』というプレートがかけられていた。共に視界に入った壁掛けのホワイトボードには、『韮井ミツキ:授業』『菊蔵廉二郎:出張中』と書かれていた。そんな情報の全てを無視して、樒はドアノブに手をかけた。
樒が開いた扉の中は、紙とインク、そして珈琲の匂いに満たされていた。窓以外の全ての壁を覆う本棚と、それらを埋め尽くす書籍の山。幾つかのデスクと、それらから追いやられるようにして置かれたソファとテーブル。大学の研究室と言ったらこうだろうと想像した時、凡そ思いつくような全てを詰め込んだそこには、学生の一人も見えなかった。
「…………――――縺頑ッ阪&繧難シ」
その中で、小さく、息をするものがあった。
ソファの上、黒い髪を乱して横になっていたのは、蓮だった。
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