第7話
自分の手に、視線を動かす。似ている。女の手は、私とそっくりだった。母に似た指の歪みも、父に似た爪の形も。その全てが、私に近しいそれだった。ただそれだけで私と完全に同じであるとは、雨粒の歪みで確証を得られなかったが、私に近づいているというのは、直感で分かった。
「くらみつはなめをしりませんか」
繰り返す言葉はやはり同じで、見えない顔から放たれているだろう声は、涼やかなままだった。頭蓋骨の内側から響くそれは、雨風の邪魔すら受け入れずに問い続ける。
「準備は整った。彼女が怪異であることは証明されて、君は怪異を明確に認識した」
そう言って、蓮は何の躊躇もなく私の隣に座った。ベッドがギシと音を立てる。彼は視点を窓に移した。彼の指先はジッと女の中心を捉えていた。
「僕の言葉に耳を傾けろ。アレの声をズラせ。アレは外にいる。僕は内にいる。僕の方が物理的距離は近い。僕の声の方が大きいのは当たり前のことだ。昨日までの意識を思い出せ」
耳元で聞こえていた女の声を遮るようにして、蓮は言った。まるで僧侶の修行だとか、そういうものを聞いているようだなと、雑念が過る。だがそのおかげで、女の声は遠のいたようにも思えた。
「そう、それで良い。僕の言葉を聞け。怪異の言葉をずっと聞いていたら、気をやってしまう」
線を引くんだ。そう呟いて、蓮は目線を私に向けた。その眉尻には、違和感があった。けれどそんな私の些細な意識をかき消す様に、彼は言葉を続けた。
「無視すれば良い。それが最善だ。アレは君が反応することを望んでいる」
「……そんなこと言ったって、ずっと聞いて来るんだよ。いつまでも無視出来ない」
ようやく出た私の反論は、全てが本音だった。それでも悪態に近いものを吐いてしまった自覚はあった。僅かな罪悪感に苛まれていると、蓮はハッと鼻で笑った。
「認識するということは、アレが君に影響を与えているということだ。しかし影響とは一方的なものじゃない。深淵を覗く時深淵もまたこちらを覗く。そういうものだよ」
「さっきから回りくどい。ハッキリ全部言って。私がすること、しないといけないこと」
多分、私は苛立っていたのだと思う。蓮の言葉の後ろ、再び声を大きくし始めた女が、鬱陶しくて仕方が無かったのだ。
そんな反応を私が見せるとは思わなかったのだろう。蓮はキョトンと肩を落として、二秒の沈黙の後、再び口を開いた。
「……つまり、君もまた彼女に影響を与えられるってこと。あっちがこっちに問いをかけてくるなら、こっちもあっちに問いかけられる。同じことをしてやれば良い。怪異は不明瞭を糧にしている。それを解いてしまえば怪異は消えるんだ。かつて神憑りや獣憑きと呼ばれたものが、精神疾患や狂犬病だったと解明されて、治療出来るようになったのと、同じように」
何処か投げやりに、蓮はそう言って口を一文字に結んだ。
彼の沈黙は女の声を大きくしていく。鈴のように軽妙なその声は、再び私の耳元に囁いた。
「くらみつはなめをしりませんか」
それらに合わせて、女の整った手が窓を掻く。ぎい、ぎい、ぎい、ぎい。硝子板は音を響かせて、脳を震わせた。その度に、意識が霧の中に放り込まれるような感覚があった。
息を止める。自分で自分の頬を叩いた。それでようやく、ズラしていた意識が、明確に女へと向いた。
息を整える。水分を含んだ梅雨の空気を吸う。唾液が垂れかけて、口を抑えた。窓の外から、カエルの声が聞こえた。
「くらみつはなめを――――」
息継ぎを知らない女は、数十回繰り返したそれを、また声とする。
「くらみつはなめって誰ですか」
自分でも驚く程冷静に、私は張りつめた声でそう言った。眉間に皺を寄せて見せる。女の声は止んでいた。窓を引っ掻く爪も動かさず、女は私の声を聞いていた。
「どんな人なの」
「かわいいかわいいおんなのこ」
「違う。髪の色、服装、年齢、所属がわからないとこっちも思い出しようが無いの。貴女の問いは問いになってない。聞きたいことがあるならハッキリして。それとも何、貴女何もわかってないわけ? ノーヒントで」
声に出してみれば、恐れや戸惑いよりも、苛立ちの方が勝っていた。
何故傘を借りたくらいで私が、こんな不気味な女に襲われなければならなかったんだ。何故こんな悍ましい世界を視なければならなくなったんだ。
沸々と脳を沸き上がらせるのは、そんな理不尽に対する怒りだった。偶然だと言われれば、その通りだろう。それでも、私は窓の向こうにいる女へ、そうやって悪態と嫌悪を吐き散らした。
「…………くらみつはなめ」
私が息継ぎをしようと、肺を膨らませた時。その隙間を縫って、女は再び呟いた。
「だから、その女の子っていうのは」
どうにも納まらない精神を、女にぶつける。だが、様子がおかしかった。声は確かに窓の外から聞こえていて、脳に響くあの不快さを伴っていない。反らしていた視線を、前に向ける。
「雨の日に会った女の子。ずっとずっと探してる」
窓の上、女の顔がある筈のそこに目を動かす。そこには、こちらをジッと見る焼け爛れたあの黒い顔があった。
「小さな小さな女の子貴女に似ている女の子」
女の黒さが、水滴に溶けていることに気付いた。彼女は私を見下ろしながら、砂糖菓子のように崩壊していく。黒くなった口の動きは、少しずつ鈍くなっていった。
最初に眼球が一つ落ちた。手指と歯は私が理解するよりも前に無くなっていた。どろ、どろ、とろ。ワンピースごと、女は崩れ落ちる。
「みよちゃんおむかえまってるね」
窓をスクリーンに、上から下へと落ちていく女の頭は、最後にそう言って、地面にべちゃと音を立てて消えた。
数秒、雨の音だけが聞こえた。隣で「ふむ」と喉を鳴らした蓮が、窓に近寄った。かかっていた鍵を開けて、窓枠を滑らせる。風と水滴が顔にかかった。夏へと向かう新緑の葉が、一枚私の視界を覆った。
「帰ったかな」
窓を閉める彼は、そう一言だけ呟いて、鼻を擦った。入り込んだぬるい空気を、エアコンが冷やしていく。私は顔に付いた葉を床に落として、蓮の顔を見上げた。
「良くやったじゃないか。まあ、いなくなったわけじゃないけどね。あの女は今後も君の所に現れるだろうし、君に問いかけるだろう。でもさっきみたいに対処すれば良いから。教室にも、明日から入っても大丈夫だと思う。今朝は脳の情報処理が間に合わなかったんだ。一種の知恵熱のようなもの。怪異に取り憑かれてすぐは、よくあることだよ」
べらべらと回り出す彼の舌は、私の中で確信を作り出す。随分と柔らかな口調、時折上がる口角、神秘性の欠如、控えめな不快感の露出。何より、彼は今、
「……ねえ、貴方」
何? と、その少年は私と目を合わせた。彼はその瞬間に、私が言いたいことに気付いたらしい。肩を落として、パッと口を開けて笑った。
「貴方、蓮じゃないでしょ」
私が眉間に皺を寄せると、彼は笑った表情のまま、ポケットに入れていた眼鏡をかけた。その上がった頬肉は、わかりやすく嘘臭かった。黒真珠の瞳にレンズを隔てて、彼は私を見つめる。一秒が経った。
「はじめまして、立花さん。僕は
そうやって樒は無邪気に笑った。そのパーツの一つ一つは、確かに蓮と同じで、それが満面の笑みを湛えているというのが、酷く気味悪くて仕方が無かった。
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