第6話

 ――――目が覚めた時、自分から瞼を開けることは出来なかった。薄っすらと睫毛の隙間から見えた世界は、白く濁っていた。耳から拾う音で、すぐ近くに雨の滴る窓があることはわかった。それがカーテンで覆われているのかさえ、確認する勇気はなかった。左右感覚すらも溶けていて、皮膚に覆われた暗闇の中、記憶と思考を巡らす以外に、出来ることはなかった。

 教室に入って、その後のことはあまり覚えていない。けれど、蛙の声に紛れて、自分の雄叫びが校舎に響いていたことだけは、しっかりと思い出せた。同時に、数十のカエルの裏側が網膜へと造影される。ゲコゲコゲコゲコ、と鳴く度に、膨らんだり縮んだりする、白い腹。硝子板を震わせて大きくなっていく鳴き声。押し迫って来るそれらに、鼓膜と肺を潰される感覚。その全てが、脳の皺に刻み込まれて、きっと一生忘れないだろうということを理解する。連鎖的に、池未が解剖していたあのカエルの脳が思想の隙間に入り込んだ。

 吐き気がして、反射的に口を押さえた。目を瞑ったまま、上半身を起こす。窓を見ないようにと、蹲って目を開けた。

 目の前に広がったのは、白いシーツと硬いベット。そこに落ちる自分の影と、ベットの傍にひっそりと佇む誰かの脚。

 

「咄嗟の行動にしては悪くない。仰向けのまま吐瀉すると吐瀉物が肺に混入する可能性がある。その格好の方が良い」

 

 聞き覚えのある、冷たい声だった。眼球を、首を動かす。滲んだ視界には、黒縁眼鏡の硝子の向こう、黒真珠のような瞳で私を見下ろす少年の姿があった。

 

「あぁ、でも、意識があるならエチケット袋に吐けよ。本を汚されたくない」

 

 そう言って蓮は膝に置いていた本を閉じた。眼鏡を片付けると、手元にあった紙袋を開ける。その妙に丁寧な手指の動きは、時間稼ぎをしている印象だった。

 

「……ここ、何処? 保健室? 何で蓮がいるの?」

 

 吐き気と感情の全てを飲み込んで、蓮に問う。その問いが欲しいのだろうということは、何となく察していた。

 

「ここは大学の敷地内にある附属病院。僕は然るべきをするように『先生』から頼まれてここにいる」


 蓮はそう言って、疑問符を浮かべる私へ開いた紙袋を放り投げた。パイプ椅子をギシギシと鳴らして、彼は私から目を逸らした。そうして再び開いた口は、「あー……」と言葉を選ぶ素振りを見せた。

 

「……現在、お前は教室に入ろうとした時に、パニックを起こして倒れたということになっている。多分覚えていないだろうが、当初は意識があったから、高校の保健室に一時隔離になった。が、落ち着いた後に意思疎通が出来なくなったので、保護者に確認をとった後、附属病院へ移送、個室で一時様子見をしている……と言ったところだ」

「表面上……母さんとか、学校にはそう説明してあるってことね」

「飲み込みが早いのは悪くない。不審者に襲われたショックや流された噂を聞きつけて、精神的に疲弊しているというのが、周囲が認識しているお前の状況だ」

「嘘は言ってないけど、当事者の認識とはズレてるって感じね……」


 こくこくと、小さく頷く蓮の様子からして、私の考えていることは、凡そ彼の認知と同じ方向を示しているらしい。実際、私が疲弊を示しているのは、生きた人間に対するそれではない。もっと別の、理解しようもないことだ。


「それで、蓮が私にする『処置』って、何」


 ベッドから足を下ろして、背筋を伸ばす。蓮もまた、私を目線が合った瞬間に、関節を鳴らして背骨を伸ばした。


「準備の手伝い」

「準備?」


 反射的に聞き返す。予測通りの反応が返ってきたのだろう。蓮は鼻で小さく溜息を吐いた。彼は椅子から腰を上げると、ベットの周囲を閉じていたカーテンを開ける。柔らかな灯りとシンプルながら心地良い内装は、一般的な病棟の個室ではないのだろうと想像させた。私の周りをぐるぐると回って、一周、蓮はカーテンをまとめる。そんな彼の背後には、土砂降りの雨と震える木々の枝を映す窓があった。


「雨が降っているという現実は、今、外を眺めている全ての人間……少なくとも一般に正常な知覚を持っているとされている者に共有されている」


 唐突に、蓮はそう語り始めた。彼の細い首の後ろ、窓枠の中で動く木々に目を奪われた。それでも耳は彼の言葉を拾い上げて、しっかりと脳に伝えていく。


「しかし、知覚はいつでも変化する可能性を秘めている。例えば頭部の打撲、投薬、脳腫瘍、感染症による脳症、精神疾患……誰だって。そして見える世界が変わった時、人間は皆それを幻覚、症状、障害と呼ぶ。何故なら正常とは多数決によって決められるもので、多くの人間はニュートンとガリレオが示した様な幻覚視界を支持しているからだ」


 ハッと鼻で笑う彼の眉間には、深い皺が刻み込まれていた。けれどそれは、この数時間で見た、見下すようなそれではない。どちらかと言えば、その表情は諦観を含んでいた。


「けれど、その知覚を持つ者にとって、その世界は現実だ。一人しか知覚出来ない世界を幻覚と呼んでいるだけのな。だがこれが、少数派とはいえ、一部の人間に共有できたとしたら」


 蓮の言葉に挟まって、雨音が近づく。意識的に、彼の姿を網膜に映す。そうでもしなければ、雨が打ち付ける窓をずっと見てしまいそうだった。


「怪異を視るとは、そういうものだ。少数の人間による幻覚の共有。その世界に生きる者にのみ見える延長線上の感覚。それが霊感、或いは第六感と呼ぶものを、持つということ。そしてその資格は、ある一つの条件によって与えられる」


 脳を埋めるように聞こえる蓮の言葉は、そうして、一度、床に落ちた。彼の鋭い視線が私に刺さった。咄嗟に、数ミリだけ目を反らした。その目線の先には、窓硝子があった。

 雨はこの数秒でどんどん強くなっていた。風が鳴く。外の木々はなぎ倒されるのではないかと思えるほどに、その幹を揺らしていた。梅雨に似合わない突風。その中に、意思を持って動くものがあった。眼球を動かす。蓮の顔に焦点を当てる。彼は僅かに口角を上げていた。


「おめでとう、立花美代。見える世界が変わるということは、成長発展と呼んで良い。祝福しようじゃないか。


 蓮の背後、揺れるのは白いワンピースと長い首。その女は確かに、そこにいた。顔は窓の外に出てわからなかった。締め切られている窓。豪雨と風に掻き消されて、その声は聞こえるはずがなかった。

 それでも、何があろうとも、その『声』は聞こえるのだと、確信があった。


「くらみつはなめをしりませんか」


 女が言った。横断歩道で聞いたあの涼やかな声だった。


「怪異を視るということ。それは、怪異に取り憑かれるということ。そして、同時に――――」


 蓮は愛おしそうに、手の甲で窓を撫でた。彼の眼球は動いていない。ずっと彼は私だけを見ていた。彼の手と、硝子板を挟んで重なるのは、焼け爛れた女の、窓に張り付く指先。


「自分自身が怪異に近づくということ」


 その手は、私と同じ、人形のようにきめ細やかな、白い皮膚で出来ていた。

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