第5話

 するりと、蓮は池未から手を離した。背中を見るだけでも、彼が苛立っているのがわかった。蓮の手から逃げ出した池未は、よろめきながら回転椅子を落ちて、床で腰を抜かしていた。そこでやっと、私のことを認識したらしい。小さく「立花さん」と呟いて、彼は再び蓮を睨んだ。


「昨日、立花さんに貸した傘のことを言っているなら、あれは最近買ったやつで……安かったから壊れても良いかと思って、貸したんだ」

「何処で買った」

「近くの神社だよ。ほら、日曜日に蚤の市をやってる。そこで買ったんだ」


 池未の言う神社とは、おそらく私の母が務める葦皐あしおか神社のことだろう。そこはこの街の中心とも言える場所で、毎週日曜日には蚤の市を行う他、毎年夏に近づけば大きなお祭りも開催される。


「誰から買った」

「地域住民って感じの気の良いおじさんだったよ。僕が最近ここに来たって言ったら、近々雨がよく降る季節になるから、入り用だろうって、半額にしてもらったんだ」


 落ち着きを取り戻した池未は、蓮の短い問いに、そうやって丁寧に返していった。彼の主張は正当に聞こえた。そう感じたのは蓮も同じだったようで、彼は長く溜息を吐くと、ピンセットを机に置いた。そうして、机の表面を爪先で軽く二度叩いた。


「くらみつはなめを知っているか」


 蓮の言葉に、池未は訝しげな表情を浮かべた。眉間に寄った皺は、動揺か、或いは不快感を示していた。


「知らない。この学校の生徒か?」


 池未の答えはただそれだけで、叩けば出そうな埃の欠片すら無かった。本当に、何も知らないのだという顔で、彼はボーッと私と蓮の顔を見ていた。再度の溜息を吐いてすぐ、蓮は踵を返して、私と目を合わせた。


「バトンタッチ」

「え?」


 何もわからないまま、私は蓮に腕を引かれた。勢いのままに池未の前に出された私は、彼と視線を合わせて、床に正座した。


「あの、まず、昨日あったことを、全部話して良いですか」


 そうすることでしかこの場を収めることが出来る気がしなかったのだ。蓮は必要な情報を与えようとしていないし、池未は根本的に混乱したままだ。

 聞くよ。とネクタイを直した池未を見て、私はホッと胸を撫で下ろす。そうして口にしたのは、昨日の下校時のことだった。横断歩道でのこと、焼け焦げた女のこと、それを蓮が助けたこと……池未は私が不審者に襲われたというカバーストーリーこそ知っていたようだったが、それ以上のことは理解していなかったらしい。事の全てを話し終わった時、彼は腕を組んで首を傾げていた。

 

「信じられないですよね」


 私がそう呟くと、池未がハッと顔を上げた。


「いや、そういう事じゃないんだ。ただ、あまりにも僕が知り得る世界とはかけ離れた世界の話だったから……それよりも、僕が貸した傘のせいで、怖い目にあったんだね。申し訳ない。その手首も、その女に掴まれたんだろう。痛かったね。痕にならないと良いけど……」


 いや、これは。と、手痕を付けた犯人に目を向ける。当の蓮は部屋の壁を埋め尽くす生物標本を眺めていた。


「ともかく、その、怪異……女の幽霊に、立花さんは襲われたんだね。その原因があの傘にあった、と」

「予測ではそうらしいです。どうも、不特定の怪異を喚び出すそうで……特に傘の持ち主と縁のある怪異を喚んだ可能性が高いので、池未先生が何か知らないかなって、それで」

「そっか……ごめんね、僕が発端なのに……何も力になれなくて」


 結果論を唱えて、池未はそう肩を落とした。私が受け答えを考えるまでもなく、その中に口を挟んだのは、蓮だった。


「良いか、ここで話したことは他の職員に漏らすな。今回のことについて、何か情報を掴んだり思い出したことがあれば、一年三組の夜咲みつに言え。僕の双子の弟だ。僕と同じ顔をしているから、会えばすぐにわかるだろう」


 そう言って、彼は棚の硝子板を撫でた。十五歳の少年とは思えない言動を落としながら、蓮は再び池未を見下ろした。


「朝礼の時間が迫っている。カエルの標本作りも良いが、教育実習生としてしなければいけないことがあるんじゃないのか」


 時間という言葉に釣られて、スマホの時刻表示を見る。既に生徒の多くが登校する時間だった。池未の表情を見れば、サッと血の気が引いていくのがわかった。


「わかった、わかったから、君達もここを出て、教室に行くんだよ」


 白衣を脱いで、ジャケットに袖を通した彼は、そう言い残して部屋を出ていった。池未が座っていた机の上には、頭を開かれたガマガエルの死体が置かれていた。気がつけば、蓮がその頭蓋骨と皮の切れ目をピンセットで突き回していた。


「お前も教室に行ったらどうだ」


 カエルの死体に視線を落としながら、蓮は私にそう問うた。数秒、沈黙を置いて、考えたふりをして見せる。


「れっ……夜咲はどうするの」

「蓮で良い。もう知っているだろうが、双子の弟がいるからな。混同されても困る。僕は大学の方に戻るから、お前も何かあったら樒に声をかけろ」

「蓮は授業受けないの」

「テストで合格点を取れば良いと約束してもらったから、ここに入学したんだ。知っていることを五十分も聞くなんて、拷問に近い。大学の講義を聞いている方が良い。人の良い教授の部屋に行けば、珈琲とおやつが貰えるしな」


 そう語る彼は、まるで近所の野良猫のようだった。つまらなさそうにする欠伸も、伸ばす背骨も、誰の目も気にしない不遜な態度も、全てが人馴れした野良猫のそれだった。


「そっか、それは少し羨ましいな」


 私が零した言葉は、蓮の耳に拾い上げられる。彼は鼻で小さく息を吐くと、ドアに手をかけた。


「無い物ねだりだ。教室で過ごせるならそうした方が良い。同年代に人脈を築いておくのも学びのうちだ」

「……なら、朝のホームルームだけでも教室にいたら?」

「それが出来たら最初からやっている」


 ムッと彼は鼻筋に皺を寄せた。私の知らない事情があるということだけはわかった。背中を丸めて苛立ちを訴える彼に、私は口を閉じた。生物室の前、冷たい廊下に出る。隣の三年生の教室には既に人が集まっていて、皆担任教師を待つ間、ペチャクチャと舌を回していた。それらを不快そうに見つめる蓮は、舌打ちを鳴らして、そそくさと大学の方に足を向けた。


「あ、蓮」


 私の声に、蓮は振り返った。その顔には苛立ちが詰め込まれていた。


「放課後、またあの喫茶店にいる? 喫茶店の人にも昨日助けてもらったお礼とかしたいからさ、お母さんと一緒に行きたくて」


 私の問いに、彼は一瞬力の抜けたような表情をすると、首を傾げた。小さく「うん」と頷いて、蓮は口を開いた。


「居てやるから、途中で来ないなんてことになるなよ。待ち損はしたくない」


 私が「わかったよ」と笑って見せると、彼は再び駆け足で廊下を進んだ。その背中が消えるのを見送って、私は自分の教室へと足を向けた。

 階段を一つ降りれば、聞いたことのある声がまばらに聞こえた。本降りになった外の雨を眺めながら、少し濡れた体を震わせて、皆談笑に興じていた。あと十分もすれば各教室に担任教師がやって来るだろう。


「美代! おはよう!」


 教室に入ろうとした直前、私の背後を取ったのは、アザミだった。彼女は高らかに私の名前を叫ぶと、そのまま腕を取った。「おはよう」と私が笑うと、彼女は小さく笑って、耳元に唇を近づけた。


「少し良い?」


 転じて、彼女は静かにそう言って、私の瞳を見る。アザミは気迫で私を押し退けて、ずるずると女子トイレへと私を移動させた。

 連れ行かれたトイレの、鏡の前、反射越しにアザミと目を合わせた。すると、彼女は眉を下げて口を開いた。


「平気?」

「……何が」

「聞いたよ、不審者に襲われたって。顔色酷いよ。教室入って大丈夫?」

「大丈夫だよ。襲われたのは外なんだから、学校の中は」

「そうじゃない。周りの目が平気かって聞いてんの。誰が拡散したのかは知らないけど、美代が不審者に襲われたってことは、もう学校中に行き渡ってる。少し悪意がある広まり方をしてるところもある。悪戯されたとか、幻覚を見て暴れただけ、とか」


 アザミは淡々と、感情を押し殺して語った。彼女の表情は、私の替わりに怒っている。そんなふうに見えた。

 ――――誰か昨日の出来事を見ていた?

 けれど、そんな彼女の心配を他所に、私の脳は酷く冷静に思考を始めていた。同時に、現状答えに辿り着くことは出来ないということも理解していた。


「……だったら、いっそのこと、胸張って教室に入っちゃった方が良いね。不審者に襲われはしたけど、無事だったんだって、今の私を見れば、皆そう思うでしょ」


 付け焼き刃の解決策を、私は口に置く。コロコロと笑って見せる私に、アザミは困ったような顔をしていた。ついぞ黙ってしまった彼女の手を引いて私は再び教室に戻った。あと二、三分もすれば、朝のホームルームが始まる。席に着けば、昨日と同じ日常に戻るだけだ。そう念じて、私は教室の扉を開いた。


 教室の、無数の目線が私を刺す。確かにそれは不快で、吐き気がした。

 けれど、アザミの言ったような悪意は、より、あまり耳に入らなかった。

 

 ――――ゲコゲコゲコゲコゲコゲコゲコゲコゲコゲコゲコゲコゲコゲコゲコ…………

 

 人間の声を聞き取るよりも前に、私の耳は、爆弾のようなカエルの鳴き声に支配されていた。耳腔でオタマジャクシが這うような感覚。鼓膜が震えると同時に、足元が崩れる。膝を床に付けた私の肩を、アザミが掴んだ。彼女が何か言っているのはわかった。けれど何を言っているのかは、全てかき消されて、何も理解出来なかった。

 視覚情報を得ようと、私は真っ直ぐに、視線を上げた。こちらを見る生徒達の隙間、教室の窓が目に入る。


 げこ、げこ、げこ、げこ


 そこには、重力を無視したガマガエルが、群れを成して張り付いていた。

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