第4話

 翌日、学校に向う母の車の中、窓を曇らせる霧雨をボーっと眺める。

 帰宅途中、不審者に襲われ保護されたのだと、喫茶店の老婦人が家族にそう言ったのだ。結果、暫くは母が送り迎えをしてくれることになり、報告を受けた学校側も、隣接する大学教員用の駐車場を使って良いと許可を出したのだという。

 ただ、今日に限っては、母は早くから仕事だというので、いつもよりずっと早い時間に通学路を辿っていた。


「昨日、不審者に襲われたっていうのは、この信号?」


 学校の前、赤信号を見ながら母は言った。私が首を縦に振ると、彼女は「そっか」とだけ呟いた。


「こんなに近くで襲われるなんてね。これは捕まるまで一人じゃ危ないわ」

「……捕まるかな」

「大丈夫! 警察っていうのはねえ、案外優秀なのよ! お兄ちゃん見てればわかるでしょ!」


 そうやってルンルンと明るく振る舞う母の手は、ハンドルを力強く握っていた。多分、怒っているのだろう。私にでない。存在しない私を襲った不審者に対して、怒りを滾らせているのだ。

 そんな母の横顔には、不安が滲み出ていた。その不安が何処から出ているのか、私は僅かながら知っていた。けれどそのことと、私の現状は関係が無い。母の身に起こった過去は、実際にあった現実だが、私を襲ったのはオカルトだ。


「夕方の四時くらいには迎えに来るね。早退することになったら養護教諭の先生に言って。お母さん、すぐに迎えに来るから」


 大学の通用口に助手席を着けて、母はそう笑った。傘を差さなくとも良いようにと、彼女は態々屋根のある場所まで車を進めてくれたのだ。


「そんな不安そうな顔しないで。今日は帰りに駅前のデパート行っちゃいましょ。おやつにプリンと紅茶! 良いでしょ!」


 はにかむ母の顔を見て、私はゆっくりと頬を持ち上げて見せた。その表情に満足したのか、一人軽い鞄を持った私を置いて、母は仕事場である神社の方へと車を飛ばしていった。

 附属校であるうちの高校までは、大学と渡り廊下で繋がっている。入学してすぐの頃、好奇心で下校後アザミと共に大学構内を回ったことがあった。そこで数人の大学の先生に囲まれて、お茶したのを覚えている。

 そんな記憶を辿って、学校までの渡り廊下へと歩を進めた。朝の静寂は私の五感全てを際立たせる。特に耳と皮膚は過敏になっていて、鳥の声や木々のさざめきが聞こえる度、肩を震わせた。


「立花」


 私を、呼ぶ声があった。淀んだ水分が満たすの中、清涼で中性的な鈴のような声が響く。昨日とは何も変わらないその少年は、私をジッと見ていた。


「行くぞ」


 蓮はそう言って、履き慣れていない上履きを鳴らした。私は上履きと靴とを替えて、彼を追った。

 体育館の方から僅かに朝練をする運動部の声が聞こえた。それ以外は、ずっと静かで、校舎の広さを実感する。通り過ぎた職員室の席も疎らだった。足音に気付いた数名が私達を見たが、誰も声をかけてくることはなかった。

 階段を二つ上って、一本の廊下を渡り切った頃。そこに見えたのは、生物室だった。隣接する生物科準備室の扉は、僅かに隙間を作っていて、ツンと鼻を刺すような刺激臭が漂っていた。黒いカーテンで仕切られて、その部屋の中身を見ることは叶わなかったが、誰かがそこで蠢いていることだけはわかった。


「おはようございます、池未先生」


 重苦しいカーテンごと、扉を開ける。蓮の突き進む先には、ぽかんと口を開けてピンセットを持つ白衣の池未がいた。彼はすぐに「おはよう」と返すと、不安そうに眉を下げた。


「名簿でしか見たことが無いでしょうけど、夜咲蓮と言います。いつもは大学の方で過ごしていますし、実習期間は短いですから、今後会うことは無いと思いますが、以後お見知りおきを」

「あ、あぁ、そう、夜咲君ね……池未です。よろしく……」


 池未を前にして淡々と語る蓮は、ちょいちょいと廊下にいる私を手招いた。私がそれに応じた矢先、彼は池未の胸倉を掴む。


「質問があります、先生」


 教えを乞う生徒の姿とはかけ離れた態度で、蓮は静かに言った。


「生物の定義は」

「生物の定義……? えっと……そう、ですね。高校生レベルなら、細胞で構成されていること、デオキシリボ核酸を備えること、エネルギーを利用する機構があること、自分と同じ構造物を自分で作ること、自分の中の状態を一定に保つこと……くらいは言えると良いと思います」

「逆に言えば、その定義に当てはまれば、生物と言って良いということですね」


 数秒、池未は口を閉じると、強張った唇で「そうだね」と笑って見せた。彼のそんな様子を見下しながら、蓮は再び口を開いた。


「定義は認識を決定付ける。その決定により僕達は認識し、理解し、現実を成す。定義とはルールだ。即ち、ルールが認識を作るなんてことも、存在し得る」


 そう語る彼は、実に鮮やかな手さばきで、池未の手からピンセットを取り上げる。その鋭くとがった先を池未の眼球の表面に当てると、また静かにその妖艶な唇を動かした。


のろいというものをご存じだろうか。或いは、まじないと呼ぶべきだろうか。これら二つは似ているようで違うが、その根本は殆ど同じと言って良い。大まかに言って、呪いとは、ルールを作り、現実に干渉する手法だ」


 例えば、と置いて、蓮は震える池未の眼球を睨んだ。


「死人の血で穢された神木を切り出して柄を作り、ヒトの髪を編みいれた糸で布を張り付ける。そうして作られた傘を、穢れの無い乙女が雨の中で開く。すると、怪異を喚ぶことが出来る……扱うものだけ見れば、如何にもなルールだ。整合性は無いというのに、それで実際に怪異が喚べるのではないかと錯覚してしまうな?」


 コテン、と彼は首を傾げて見せた。可愛らしいとも思えるその行動を、池未は全身を硬直させて見ていた。何も反論できない彼を良いことに、蓮は言葉を続けた。


「ルールを支持する者が……同じルールとその結果を認識する者の間でしか、その不安定な現実は共有し得ない。故に、支持者である者にしか、そういった呪いは扱えないし、歴史が浅く世間に広まっていない呪いは精密に扱わなければ現実にすることが難しい」


 だからこそ聞こう。蓮の細い首筋から、そんな言葉が力強く放たれた。ビクンと、背筋が伸びる。


「何故お前はあの傘を、立花に渡した?」


 問いをかけられた池未は、半開きの口から涎を垂れ流していた。その身体は硬直したまま、何も言えないでいた。


「何が目的だった? 好奇心か? 死んだ恋人でもいたか?」


 そう問われて、やっと、池未は震える唇を動かした。ごくりと唾を飲み混むと、目を瞑って舌を回した。


「……知らない……知らない! 怪異ってなんだよ! 定義が認識を作る? 哲学ごっこなら他でやれ!」


 早く回る舌は、弁明でなければ、告白でもない。そこにあったのは、聖職者の皮を脱いで暴れる池未というただの男の姿だった。

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