第3話

 飲食フロアの奥、殆ど人のいないそこへ、蓮は進んで行った。隅に蹲る人影や、ボーっと立ち尽くす焼け爛れた人間達を見ても、彼は眉一つ動かさない。前に来たときには、こんな悍ましい風景ではなかった。初めて見る歪な黒と赤の世界に、私は薄っすらと目を開けて、僅かばかりの現実逃避に走った。

 近くで呻き声がする度に、私は足を止めていた。それに対して、蓮の行動には一つも迷いが無かった。酷く冷静だと思った。その動きの全てが、のだ。


「ねえ」


 私が苦し紛れに声を発した頃、蓮は一際古びた喫茶店の前で足を止めた。私を一瞥すると、「入れ」と呟いて年季の入った扉を開けた。ふわりと鼻を撫でた珈琲の薫香と、聞き馴染みの無いジャズ。それらを包み込むような温かみのある照明につられて、私は一歩、その空間に足を踏み入れた。

 予想していた通りの、アンティーク調の空間。純喫茶と呼んで差し支えないそこは、人の多い駅ビルの中にあるというのに、席は殆ど埋まっていなかった。


「いらっしゃいませ」


 店に入ってすぐのカウンターで微笑んでいたのは、一人の老婦人だった。かなりの老齢だろうことはわかるものの、それでも背筋はしっかりと伸びていて、所作の一つ一つに気品が感じられる。


「ばあちゃん、タオル頂戴」


 そんな彼女を前にして、蓮はまるで祖母の家にでも上がるように太々しく言葉を放った。老婦人は彼と目が合うと、ゆっくりと微笑みながら、乾いたタオルを数枚取り出した。ゆっくりとしている様にも見えるが、しかし無駄のない動きで、私達にタオルを被せていく。


「二人ともカウンター席に座って。濡らしてしまって構わないから」


 黙って頷く蓮に倣って、だらだらと水を垂れ流すスカートを椅子の上に置く。少し高い回転椅子は、足元が落ち着かなくて仕方が無かった。


「珈琲なら今すぐ出せるのだけど、お嬢さんもそれで良いかしら」


 カウンターに戻った婦人は、そうやって私に微笑んだ。首を小さく縦に振って見せると、彼女は手に持っていたサーバーを傾けていた。三つのカップに注がれた珈琲は、それぞれ私達と、もう一人、店の奥に座る客の前へと置かれた。本を読んでいたらしい女性は、珈琲を置かれた瞬間に顔を上げた。それまで私達の存在に気付いていなかったようで、彼女は目が合った私に少し驚いたような表情を浮かべて、ぎこちなく手を振っていた。


「それで、蓮、こちらのお嬢さんは」


 カウンターに戻った婦人が、そう言って蓮の顔を見つめた。祖母と孫にしては似ていない二人の横顔を見る。蓮は数秒の沈黙を挟んで、私を指差した。


「同じクラスの立花」


 その一言だけで、彼は口を閉じた。珈琲を口に含む彼を見て、婦人は「全く」と眉を顰める。


「お嬢さん……立花さんと呼んでよろしいかしら」


 困った様に眉を下げる彼女に、私は「はい」とだけ答えた。その返事を聞くと、婦人は微笑みを湛えて口を開けた。


「蓮は話すのが苦手なの。申し訳ないけど、何があったのか教えてくれる?」

「何があったか、ですか」

「えぇ、こんなにずぶ濡れになって、何か大変なことがあったのでしょう。ゆっくりで良いから」


 そう問われて、数分前のことを思い起こす。真っ先に浮かんだ女の黒い顔を喉奥で転がした。どう説明をつければ良いかわからないまま、私は単語の一つ一つを落としていった。

 首の伸びた焼け爛れた女に襲われたこと、車に轢かれそうになったこと、それを蓮が助けてくれたこと、ここに案内された経緯。言葉にしてみれば、現実感の無い話ばかりだった。私や蓮以外に、あの女が見えていたようには思えなかった。その上で、この気品あふれる老婦人がそれを信じてくれるとも思えなかった。


「そう、とても怖い思いをしたのね。ここはそういうのが入って来られないようにしてあるから、安心して良いわ」

「え……信じてくださるんですか。首の長い女とか、そういうの」

「信じるも何も……ねえ、蓮」


 老婦人はそう言って、蓮と目を合わせた。静かに珈琲を啜る彼は、「何」と眉を顰めていた。


「ここのお客さんは、皆、そういう『怪異』に関わる人ばかりだから」


 彼女の微笑みの横、一瞬だけ、何か巨大な鱗が這うように見えた。

 目を擦って、瞼に垂れた水滴を拭う。正常に戻った視界には、何もいなかった。


「怪異……ですか?」

「幽霊とか、妖怪とか、神様って呼ぶこともあるけれど……蓮達は『認識の副産物』と言っているわね」

「その、少し意味が」


 理解にもたつく私の横で、大きな舌打ちが聞こえた。それは珈琲を飲み干した蓮の唇に起因していた。彼はジッと私を睨むと、面倒そうに口を開けた。


「雨は何故降る?」

「え? 雨?」

「雨が降る理由は何だ」

「それは……雨雲が空にあるから……」

「その雨雲が出来る理由は」

「え、そ、それは、雲が、厚くなって……それで……」

「……一般的な話をしよう。雲を構成する雲粒や氷晶が雲の中で成長して、その重みを上昇気流が支えられなくなった時、空から降り注ぐ。それをヒトが雨と呼んでいる。ごく簡単に言えばそれだけだ」


 小学生でも知っているぞ。と、彼は表情の欠落した顔で私を罵倒する。それでも、文句を垂れる余地は無かった。


「だがこういった原理が解明されたのは二十世紀に入ってからだ。人類の歴史の中ではごく最近と言って良い。それよりずっと前……ヒトが自然現象に明確な原理を求めず、『理由』を求めていた頃。ヒトはその『理由』を


 くるくると、蓮は人差し指で宙を掻き回した。恐らくその動きに意味は無い。およそ喋る時の癖なのだろう。彼は私の視線をその指先に求めながら、また口を開いた。


「中国神話の雨師、ゾロアスター教のティシュトリア、カナン神話のバアル……雨を司る神は世界中に存在している。そもそも天候の操作はの権能であるとされていた。つまり、昔の人々は雨といったものに対して、


 実に滑らかに、彼は言葉を並べた。話すことが苦手だという割には、よく舌が動くように見えた。


「全ての存在は、誰かに認識されることで存在する。空に触れる方法が無かった時代、ヒトの世に雲粒や氷晶などというものが存在しなかった。ならば逆も然り、認識しているなら、存在していることと同義だ。雨の原因に神を見出した時代、本当に神はいたんだ」


 認識があって対象がある。と、蓮は何処かで聞いたようなことを呟いた。


「そうやってヒトの認識によって作られたモノを、僕達は『怪異』と呼んでいる」


 そう最後に付け加えると、息を使いすぎてしまったのか、蓮は何度か深呼吸を重ねて、再び私を見つめた。黒い真珠のような瞳に、吸い込まれるようだった。


「つまりその……その怪異っていうのが、私を襲ったってこと?」


 深淵に飲まれる感覚を、濁流のような情報を飲み混んで、私は蓮に問う。彼は静かに頷いた。「何故」と私が声を上げようとしたとき、彼は再び目線を反らした。その先には濡れた彼の傘があった。私と焦点が揃った時、蓮は再び口を開いた。


「あの傘、誰から借りたんだ?」


 ゆっくりと、飴玉でも溶かす様に、彼は口の中で舌を回していた。

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