第2話
足が動かない。ガチガチと歯が鳴った。寒いのではない。全身の筋肉が、震えて制御を失っていたのだ。僅かに後退するが、その度に女も前に出た。数センチメートルの追いかけっこは、何の意味も成さない。
十数秒後、視界の端で青の点滅が終わり、赤が灯った。赤信号の危険性は理解している。けれど、雨の音は私の思考を奪っては、足元の水溜まりに溶かしていった。
「くらみつはなめをしりませんか」
繰り返す程に、ほんの僅かだが声が近づいているのがわかった。物理的距離を全て無視して、その声は私を磨耗させていく。
雨と言葉の隙間には、車のエンジン音があった。左耳に迫るタイヤの回転には躊躇が無い。不注意か、居眠りか、運転手は立ち止まっている私に気づいていなかった。
心臓は激しく動いているのに、血液が四肢を満たす感覚が無かった。息をしているのに、酸素が脳に行き渡っていなかった。
「くらみつはなめを」
鉄の塊が、私に触れた――――
――――そう思った瞬間に、私の腕が前に出る。否、私の腕を強く握る者がいた。焼け焦げた女を突き飛ばして、引きずられるままに前へと駆ける。背後で傘が潰れる音がした。
心臓は、確かに動いていた。肺は潰れていない。唯一、握られた左手首だけが痛んでいた。
左手首の手を辿って、視線を上げる。細い腕、骨張った肩、細い首筋。
「お前は馬鹿か」
目があった瞬間、その薄い唇から発せられたのは、そんな簡潔な罵倒だった。制服と傘の色からして、私と同時に横断歩道を渡った男子生徒だろう。しかし、同じクラスの生徒ではない。濡れた手と髪は人形のように艶めいて、黒真珠のような瞳は私を見下して離さない。罵倒されても許してしまう程に、彼は、美しかった。こんな美貌の少年を、私は教室で見たことが無かった。
「立花」
そんな見知らぬ彼が唱えたのは、私の名前だった。彼は眉間に皺を寄せると、私が口を開けるよりも前に、息がかかるほど顔を近づけた。傘を打つ雨の音が、耳を叩いた。
「今から僕が良いと言うまで、絶対に振り向くなよ。良いな」
耳元にそう囁いて、彼は口を一文字に結んだ。掴まれたままの腕を引かれる。少年は器用に片手で傘を畳むと、その途端に足を速めた。
「絶対に見るな。絶対に見るな」
歩ききれない私を背後に、彼もまた振り向かずに呟いていた。数秒遅れで、彼もあの女が見えていたのだと理解した。悪い夢のようだったあの情景に、現実感が灯る。
「たちばな」
私の頭蓋の後ろから、私を呼ぶ声が聞こえた。一瞬、振り向きそうになる。同時に、少年が走り出した。彼は「見るなって言っただろ、馬鹿が」と言いながら、雨粒を全身に受けていた。口に入った水を道に吐き捨てる。駅に近づけば近づく程、スーツ姿の会社員や、他校の生徒が横を通り過ぎていく。皮膚と服が擦れる度に、彼等は私達に視線を向けたが、少年は「邪魔」と呟いてそれらを振り払っていく。
直線、二つ目の信号は青を点滅させていた。赤に変わる直前、一つ目の白い線を踏んだ。
「前を見てろ」
握られた手首は既に青い痣がくっきりと浮かんでいた。歯を食いしばって、スニーカー裏に力を籠める。車のブレーキとクラクションが聞こえた。車両すらも気に留めず、少年は私を引き摺った。その足取りで、彼の目的地が駅の中にあることだけは理解出来た。
「たちばな」「たちばな」「たちばなさん」「たちばな」「たちばなしりませんか」「しり?」「しりま、せんか?」「おんなのこ」「かわいいかわいいおんなのこ」「くらみつはなめ」「たちばなくらみつはなめ」「くらみつはなめしりませんか」
速度を上げる程に、声は近づいた。後ろを振り返るなと言われたが、ここまで来れば、そもそも振り返りたいとも思わなかった。唇を噛みしめて、痛みで恐怖を和らげる。息が上がっていた。足はミシミシと筋繊維に歪みが生じていた。
そんな痛みすらわからなくなった頃、改札口を横切って、駅ビルの中へと飛び込んだ。
「こっちだ」
少年は短くそう言うと、上がった息を嗜めながら、エレベーターへと向かった。丁度、チンッと音がして、品の良いサラリーマンや老婦人が、ぞろぞろとその中から出て来るところだった。
少年は開ききっていない鉄扉から、未だ出ない一人の大学生らしき若者を引き摺り出した。そこに迷いは無く、自分より一回り大きな体をした男が怒鳴りつけても、彼は水浸し私を鉄扉の中に放り込んだ。
「ボタン、四階」
「え?」
「押せ、四階だ」
私がエレベーターのボタンを押すと、彼は入り込んで来るその男を蹴り出して、エレベーターの中に仁王立ちで陣取った。抜けた腰のまま、車椅子用の閉ボタンを押す。閉じる鉄扉の隙間から見えた人々の顔は、困惑に染まっていた。だがその遠く、人々から一つ飛びぬけて、黒い顔が見えた瞬間、私はボタンを連打していた。ゆっくりと閉じる扉がこうももどかしく感じたのは、初めてだった。数秒が数時間にも感じられた。
一歩、二歩、三歩、女がこちらに駆けて来る。それは既に、尻餅をついた男を跨いで、エレベーターに入り込もうとしていた。
「――――残念」
一言、少年が鼻で笑った。扉が、閉じる。
重々しい鉄の扉に挟まって、女の指が落ちる。それは白い芋虫のように私の足元へと這い進んでいた。
それを踏みつけた瞬間、少年が履いた品の良いブーツは、黒い泥に染まった。彼は閉じた傘で床を叩くと、ジッと私を睨んだ。
「立て。ここまで来れば、アレはもうお前を追わない」
多分。と付け足しながら、少年は、私に手を差し出した。僅か数マイクロメートルだけ、彼の口角が優し気に上がったのがわかった。痛む左手を庇って、右手を差し出すと、無理矢理背中と足を延ばされる。そうして、何とか立ち上がると、今度は湿ったハンカチを投げつけられた。
「サッとでも良い。拭いておけ」
眉間に皺を寄せながら、彼は制服の裾を絞っていた。
その様子を眺めながら、私はハンカチを握りしめた。
「……君、一体何者なの」
聴きたいことは山ほどあった。けれどその全てに答えてくれないだろうことはわかった。故に、出たのは短くも曖昧な問いだった。
私の問いに、彼は数秒沈黙する。小さく動いた唇が、言葉を選んでいることを示していた。
「
そう言って、彼は私に何かカードのようなものを投げつけた。それは私が持っているものと同種の学生証で、確かにそこには、私と同じクラス番号と、彼の名前が刻まれていた。
「残りの質問は、熱い珈琲と一緒にさせてくれないか。流石に、冷える」
彼の言葉と共に、エレベーターの動きが止まる。鉄扉が再び開いた。駅ビルの四階、飲食フロアのエレベーターホール。喫茶店にでも寄ったらしい老夫婦がぽかんと口を開けて、私達を見つめていた。老婦人が「大丈夫?」と声をかけたが、それすらも無視して機械的に進む少年――蓮の後ろを、私は追うことしか出来なかった。
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