雨贄の巫女

棺之夜幟

一章 

第1話

 今年も、水の季節がやって来た。


 今朝のローカル番組の中、ニュースキャスターは、この街の雨と霧をそう表現していた。実際、毎年この時期の街は、晴れた空が恋しくなる程に、雨雲が空を覆い続けるのだ。生まれた時からここに住む私にとっては、ごく自然なことであった。


「最悪、また明日も雨?」


 だが、目の前でスマホを睨む友人――星浦ほしうらアザミには、その当たり前がどうにも受け入れ難いようだった。しかし、それも仕方が無いことだろう。というのも、彼女は高校入学に際してこの街に越して来た『よその人』である。昼休みの教室を見渡せば、似たような生徒がグループを作って同じようなことを話していた。うちの高校はそれなりに有名な大学付属ということもあって、態々遠方から志望する生徒も多い。そのせいか、一年生のうちは彼女のように、この雨の日々に鬱屈とした表情を浮かべる者が教室で声をあげるらしい。


「毎年こうだよ。そういう気候なの」

「そりゃ、美代みよはここの生まれだから慣れてるだろうけどさ。日光浴びられないって、キツイのよ」


 私が諦めを口にすると、アザミはケラケラと笑ってスマホを鞄に仕舞った。お喋りな彼女は「ビタミンが」だとか「セロトニンが」だとか、何処かで聞きかじった健康情報を垂れ流す。聞いてもいない話をしだすのは彼女の悪い癖だ。いつもはそれがそれなりに心地良いので放っているのだが、こうも似たようなことを何度も話題に挙げられれば、気分が悪い。


「良いじゃない。日焼け止め要らずよ」


 健康的なアザミの手に、自分の生白く細い指を重ねる。白粉を塗った様に白い肌は、この街で生まれ育った人間が持つ特徴の一つだ。母と父、それに加えて兄もこの特徴を持っているので、恐らくは気候だけではなく遺伝も大きいのだろうが、それでもこの陶器のような白い肌は、私の自慢でもあった。


 そんな私の白い手を掴んで、アザミはいたずらに笑った。


「そりゃ、アンタが色白美人なだけでしょ」


 貶すでもなく、彼女はそう言って、ケラケラと喉を鳴らす。気持ちがいい程に明るい彼女に、太陽の光が必要だとは思えなかった。


「それにしたってアンタ、青白くて細くて触ったら壊れそうな顔してんだからさ。時節柄仕方が無いって言ったって、少しくらい日を浴びて遊びましょ」


 私の手指をなぞりながら、アザミはまた笑う。それは誘惑を含んだ口元だった。要は、「今度一緒に遊ばないか」と言っているのだ。日頃アクティブな彼女が、連日の雨に恨めしさを感じているのは、そういった遊戯の予定を打ち砕かれているというのも大きな要因だろう。彼女が大きな身振りで表現するのは、水泳のクロールやバタフライのそれであった。


「少し遠出しましょうよ。山越えたら雨雲も無いみたいだし、丁度、今週末に海開きしてる海岸あるみたいだしさ」

「まだちょっと肌寒くない?」

「暖流が流れ込んでくるところだから、水温はそこまで低くないみたいだし、屋台がいっぱい出るからそこでご飯するだけでも……」


 そんな着地点を見失ったアザミの願望は、予鈴のチャイムに掻き消される。気付けば周りは既に午後の授業に向っていた。アザミの「ゲ」という濁音を耳で拾って、私達は億劫ながらも教科書とノートを片手に廊下を歩いた。


 案の定、本鈴ギリギリで滑り込んだコンピューター室は既に静まり返っていた。教卓パソコンの前で腕を組む教員は、私とアザミに目をつけていて、午後の時間はずっとぎくしゃくと気分の悪いまま過ごす外なかった。

 約二時間の苦行を耐えきった頃には、ただ疲労感だけが身に染みて、ホームルームで担任が何を言っていたのかさえ覚えていない。自分の体力の無さに、アザミの言葉が沁みた。成程、私は確かに、不健康な人間なのかもしれない。言葉を噛みしめるように、ギリギリと奥歯を鳴らして、昇降口に向った。


 下駄箱から防水のスニーカーを取ると、今朝ついた水滴がパラパラとスカートの裾に落ちた。丸くじわりと広がる染みを無視して、私はドアの外を見た。今朝方、パラパラと疎らに降っていた筈の雨粒は、叩きつけるようなそれに変じて、木々を震わせる程の風すら呼んでいた。下駄箱へ一緒に入れていた折り畳み傘を開けば、きっと、骨の全て裏返って、使い物にならないだろうことは予測できた。脳内を巡る不安感は、私の足を止めた。さて、どう帰宅したものかと思案するが、答えは出なかった。

 再び上履きを履くということが億劫で、立ちっぱなしにスマホを開く。天気予報は夕方には風が止むだろうと言っていた。体育館の方から、きゅっきゅと上履きの擦れる音がした。脳裏に体操着でバトミントンに勤しむアザミが浮かんだ。部活終わりの頃に顔を出して、彼女と昼の話の続きをしながら帰っても良いだろう。待ち時間を潰すために、図書室にでも行くかと、スニーカーと足の隙間に指を入れた。


「……立花たちばなさん?」


 踵が空気に触れた頃、ふと、私の名を呼ぶ声が聞こえた。聞きつけた先を見れば、そこには、着なれないスーツを身に着けた青年が、眉を下げてこちらを見ていた。ぽかんと小さな口を開ける彼を、反射的に睨む。無意識のそれに、彼は一瞬肩を下げた。


「あ、えーと、教育実習生の池未いけみです。昨日クラスで挨拶したんだけど、覚えてますか」

「イケミ……あぁ、生物の」


 そういえば、珍しい名前の実習生だなと思ったのを覚えている。とはいえ、それ以上の感想が出てこない程度には、彼は影の薄い平凡な顔立ちで、それ以上のことを覚えてはいなかった。そんな彼が一方的に私の名前を憶えていたのが、少し不快で、眉間に力が入った。


「実習生が、私に何か用ですか」


 中学の時、クラスメイトの女子に手を出した実習生を知っていた。故に、これもその類だろうかと、身構える。スニーカーを履き直し、いつでも外に出られる状況は作った。ただ、返答だけは聞いてやっても良いと、私は彼の言葉を待った。


「いや、用って程じゃないんだけど……雨、大丈夫? その、手に持ってるのは折り畳み傘だよね。折れちゃうでしょ」

「駅、近いんで。走れば大丈夫です」

「近いって言ったって、信号が二つはあるでしょう。赤信号で濡れちゃうよ」


 朗らかに、無害そうな笑みを零しながら、彼は玄関扉の脇を指し示した。


「そこの、柄が木で出来た、黒い傘があるでしょ。それ、僕のだから。使ってください。明日返してくれれば良いですから」


 少し大きいかもしれないけれど。という彼の言葉に押されて、私はその傘を見た。少し大きいが、骨はしっかりとしていそうな、男性的なシルエットの傘。たしかにこれならば、この雨風の中でも対応は出来るだろう。


「……お気遣いありがとうございます。でも、夕方になれば、風が止むそうなので、図書室で少し待ってみます」

「そっか。こちらこそ気を使わせたかな」

「いえ」

「まあ、帰る時にまだ風強かったら、使って良いから。僕はフィールドワーク用のレインコート使うからさ」


 私が僅かに口角を上げて見せると、彼は「じゃあ」と呟いて何処かへと消えていった。その背へ吹きかけるようにして、溜息を吐く。池未というあの実習生に、恐らく悪意や下心は無いのだろう。それでも警戒してしまうのは、警察官の兄にちくちくとを囁かれているからかもしれない。

 一末の罪悪感を抱きながら、再びスニーカーを脱いだ。今度こそ、図書室に向かうのだと、強く頭に叩き込む。

 その瞬間、ポケットに入れていたスマホが振動する。その画面には、母からのメッセージが表示されていた。


『ケーキ買ったからお兄ちゃん帰ってくる前に食べちゃお! 早く帰って来て!』


 四十は越えた母の元気の良い文面に、私は頭を抱えた。池未に示された傘を見る。甘味と今までの思考とを天秤にかけてしまえば、答えは明白だった。


 黒い傘を開く。木の柄は滑りにくくて、ほんのりと暖かく感じられた。太い骨は、強い雨風にもびくともしない。ただ、成人男性が使う傘は、上半分の視界が遮られる程に大きく、水を受ければ重く感じた。伝う水と太い骨の重量を肩で支える。一歩、先に踏み出した。


 風に煽られながら、通学路を歩く。一つ目の信号機に差し掛かれば、大通りの直線の先に、駅を見つけた。やはりその距離は長くも無いが、短くも無く、傘無しではずぶ濡れになっていただろうことがわかる。池未の善意を噛みしめながら、チラチラと目線を上げた。傘に遮られて、意識しなければ信号の色もわからなかった。少しの不便を飲み混んで、青信号に背を押される。

 白と黒の並びを一、二、三、と数えた。足元は最早、小さな川と化していて、気を張らなければ靴の中に水が入った。浅い場所を探りながら、時々前を向く。私と同時に歩き出したらしい通行人は一人だけで、ふらふらと歩く私を特に邪魔だとは思っていないようだった。さっさと私を追い越すその青年は、同じ高校の制服を着ていた。


「すみません」


 ふと、涼やかな声が前から聞こえた。中性的で、少年のようでも、女性のようでもあった。先程の男子生徒だろうかと、前を向いた。


 視界に映ったのは、白い濡れたワンピースと白いバレエシューズだった。違和感は、あった。女性の両手が、下がっていたのだ。傘も持たず、レインコートを着ている様にも見えなかった。


「くらみつはなめをしりませんか」


 女が言う。涼やかな声は、穏やかで、何処か懐かしさすら感じられた。何か暖かなモノを心臓の下に抱くような感覚があった。けれど、何故だかそれは懐かしさと言うには不快で、意識を吸い取られるようにも感じられた。目を覚ませと、首を振った。


「くらみつはなめさん……ですか? すみません、知らないです」


 他を当たってください。そう言いかけて、女の顔を見る。傘を上げて、視界を広げた。


 ――――その瞬間、息を止めた。ヒュっと喉が細くなる。冷たい雨に混じって、脂汗が垂れる。


「くらみつはなめをしりませんか」


 そう言う女の顔は、全てが黒く、眼球ばかりが白くぎらぎらと輝いていた。引き伸ばした様な首に支えられて、その視線は約二メートルの頭上から降り注いでいた。


「くらみつはなめをしりませんか」

「くらみつはなめをしりませんか」

「くらみつはなめをしりませんか」

「くらみつはなめをしりませんか」


 ループ再生のように、女の声が繰り返される。女が口を動かす度に、食い損ねの焼肉のような臭いが降り注いだ。その口は黒く焼け焦げて、舌は燃え尽きてしまっているらしかった。


 


 状況の分析をしている自分の冷静さが、パニックを起こしていることを示していた。

 顔面に雨を受けながら、私は傘を落とした。足が動かなかった。視界の外側、僅かに緑の光が点滅していることだけは理解出来ていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る