第4話 忌まわしき過去(2)

「逃がすか!」

 魔人は目の前の正行から視線をそらした。

 まるでその様子は最後の希望をとりこぼすまいという焦りにも見えた。

 力いっぱいに踏み込まれた魔人の足が走り去るナヅナを追いかけようと深く地面をえぐり取る。

 その力強さがナヅナの胸に抱かれたタカトをどうしても必要なのだと強く物語っているようでもあった。


 しかし、そんな魔人の爪を正行の剣の腹が受け止めたのだ。

 押し込まれる魔人の力をひたすら耐える。

 だが、これほどまでに体格が異なる力比べは無謀でしかない。

 その証拠に剣を支える右ひじの肉が麻ひものごとく音を立てて切れていくのが分かった。

 その激痛はいかに覚悟を決めた正行であったとしても、その顔を無情にも歪ませていた。


 だが、あと一時いっとき……あと一瞬!


 そんな正行の気迫が剣を強く押し込むのだ。

 足の指は地面に深く食い込み裂けていく。

 剣もまた激しい悲鳴を上げ続けていた。

 だがそれでも正行の体は徐々に後ろへ押されていくのである。


 しかし、正行がさらに力をこめた瞬間のことだった。

 ついに限界を迎えた剣は無惨にもくだけ散ったのだ。


 右ひじは支えを失い魔人の腕へと倒れゆく。

 何が起こったか分からぬ視線は徐々に徐々にと落ちていく。

 そして、自らの胸に突き刺さった魔人の腕をとらえた瞬間、正行はおのが運命を理解した。


 口から吐き出される大量の血。

 背中を貫く白い爪。

 その爪先からは深紅のしずくがポトリポトリと滴り落ちる。


 まるで邪魔者を見下すかのような緑の視線は、赤きしずくを垂らす右腕を無造作に引き戻した。


 その須臾しゅゆの後、正行の体に大きく空いた穴から噴き出した大量の血。


 タカトは見てしまったのだ、その光景を。

 そう、ナヅナの足が、ならぬと分かっていても振り返ってしまっていたのである。


 いまだ宙に舞う剣の破片が月明かりを激しく散らしていた。

 そんな月明かりが吹き上げる正行の血によって、ゆっくりと赤黒く染め上げられていくようであった。


「アナタァァァァッァ!」

 ナヅナの悲鳴が、その静けさを切り裂いた。


 正行は無意識に足をだし自らの体を支えきる。

 しかしもうその体には愛する妻の顔すらかえりみる力は残っていない。

 だが、正行は消えゆく意識を振り絞る。

「分かっていたことだ! 自分がなすべきことをしろ!」


 その強い一言に、ナヅナは自分を取り戻した。


 だが、目の前で夫の命が消えてゆく。

 かけつけたい。

 抱きしめたい。

 一目ひとめ最後に叫びたい。

 ただただ……あなたと叫びたい。


 そんな感情がナヅナをぐちゃぐちゃに包み込む。

 しかし、沸き起こる嗚咽と共にその感情を無理やり胸の奥へと飲み込んだ。


「お願い! カエデ走って!」

 呆然と立ち尽くしているカエデの手を力任せに引っ張った。

 もう、そこには先ほど見せた母親の愛情の片鱗など全くない。

 ただ、ただ、何かをしなければならないという使命感があるのみだったのだ。


 魔人は正行の肩を掴みとると無造作にたぐり寄せた。

 獅子の顔に降りそそぐ正行の血が、その緑の眼光をさらに怪しく引き立てる。


「我が愛しきソフィアの贄となれ!」


 大きな口が正行の頭に食らいつくと、ミシミシと嫌な音を立てその頭蓋骨をかみ砕いたのである。

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