第3話 忌まわしき過去(1)

「逃げろ!」

 タカトの父天塚正行あまつかまさゆきの苛立つ声が廊下の闇を切り裂いた。

 庭をうががう障子の白肌しろはだ青白あおじろ月光げっこうを静かに揺らす。


 バン!

 その須臾しゅゆの後、白き障子が開け放たれた。

 力任せに引かれた木の枠は、壁とぶつかり跳ね返り敷居のさんからこぼれ落つ。


 廊下よりもさらに暗いそんな部屋の中から両脇に子どもを抱えた女がとび出してきたではないか。

 その両脇に抱えられている子供は5歳のタカトと姉のカエデ。

 どうやら先ほどまで眠っていた様子で、二人の子らは眠たそうにまなこをこすっていた。


 一方、飛び出した女のまなこには恐怖の色が広がっていた。

 女の名はナヅナ。

 タカトとカエデの母親である。

 月明かりに照らし出されたナヅナの顔は蒼白そうはくにひきつり小刻みに震えていた。

 だが、その大きく広がる瞳孔は、先ほどから廊下の奥で時折ときおり光る金属音をしっかりとにらみつけている。


 先ほどから玄関へと続く廊下の奥では、二つの足音が刀を激しく打ち合い移動しているのがよく分かった。

 おそらく一つは、正行のものだろう。

 さすれば、もう一つは招かれざる客のものなのか。

 その攻防がまさに一進一退であるかのように熾烈な足音はうねぐるう。


 我に返ったナヅナは庭先の明かりの元へと素足のまま飛び降りた。

 しかし、踏み石をふみ外した体は二人の子らを抱えたまま大きく前へと傾むく。

 倒れゆく体で潰さぬようにと、ナヅナはカエデをとっさに自分の影の下から押し出すのがやっと。

 残ったタカトを抱きしめた体は、そのまま白き玉砂利の海へと突っ込んでいった。

 擦れる体。

 まるで土砂が崩れるような音がとどろいた。


 うぐぐぅ


 ナヅナの体を激しい痛みが突きぬける。

 いまや胸元まであらわになっている白き肩は真っ赤に染まっていた。

 だが、それでも震える膝に力を込める。

 おびえ立ち尽くしていたカエデの手を右手でしっかりとつかみとると、一歩、また一歩と踏み出しはじめたのだった。


 だがしかし、そのあゆみは数步で止まてしまった。


 ――廊下の奥にいたはずじゃ……


 絶望にうちひしがれるナヅナの目。

 ナヅナが見上げる先には、雲間から漏れる美しい月明かりによって照らし出された一人の魔人の姿があった。


 そんな獅子の顔をした魔人の左腕は、二の腕から先が欠損し、まるで獣にでも食われたかのようである。

 大きな筋肉から伸びる右腕は、唯一の得物えものである鋭い爪を光らせていた。

 

 魔人たちは、こことは異なる魔の国からやってくる。

 人を食べるためにやってくる。

 そう、魔人にとって目の前のナヅナは、ただの肉でしかなかった。


 その飢えた緑の視線がナヅナを凍りつかせ絶望の淵へといざなった。

 だが、その視線は徐々にナヅナから胸に抱くタカトへ落ちていったのだ。

 それを本能的に感じたタカトの目は、先ほどまであんなに泣きじゃくっていたにもかかわらず、今や恐怖によってからめとられ、ただただ静かに震えるのみであった。


「やっぱり、嘘だったのね」

 ナヅナはつぶやいた。

 それはまるで自分が知る未来と異なっているかのような無気力な声。

 己が命を諦めたナヅナの体は静かにその場に崩れ落ちた。

 だがしかし、横に立つカエデは、その魔人の緑の双眸に恐怖しながらも強く見据え続けていた。


 目の前に迫りくる恐怖にタカト自身、自分の鼓動が否応いやおうもなく早まっていくのが分かった。

 おびえる口角から白い吐息が小刻みに漏れ落ちていく。

 そんな吐き出される白い息を魔人の手がゆっくりとかきちらしてくるのだ。

 

 今まさに、魔人の手がタカトの顔を掴みとろうとしたその刹那!

 鋭い剣撃が地をはうような残影を残し、その手を上空へと跳ね飛ばす。


「あなた。ご無事で!」

 それを見るナヅナの目からは自然と涙があふれ出してくる。


 一方、跳ね飛ばされた腕を押さえる魔人の双眸は憤怒の色で染まっていた。

 大きく裂き開く口が不気味な赤を覗かせる。

「この死にぞこないがぁぁぁぁぁぁぁ!」

 発せられた大きな怒号は周囲の全てを震撼させるには十分だった。


「早く逃げろ!」

 正行はナヅナたちを背に隠し魔人へと強く睨みを利かす。

 それは魔人の動きを制するかのように一分の隙も無くその緑の目へと注がれていた。


 正行の体は魔人のそれと比べると少々見劣りした。

 ただ、見劣りはするとはいえ、その胸板は厚くてたくましい。

 しかし、そんな胸板の下のわき腹からは血がとめどもなく滴り落ちている。

 おそらく、先ほどの戦いで切り裂かれたのだろう。

 だが、正行はその傷を構うこともなく剣を正面に構え続ける。

 そんな覚悟を決めた背中からは一切の恐怖を感じさせなかった。


 ナヅナは正行の声に小さくうなずくと再びカエデの手をとった。

「ご武運を……」

 やっとのことで声を絞り出す。

 しかし、これが夫との今生の別れになるかもしれないのだ。

 ならばなおのこと運命を共にしたかったに違いない。

 しかし、それがかなわぬ希望であることはナヅナには分かっていた。

 こみあげる無念と悔しさに強く唇をかみしめる。

 そんなナヅナは庭先にある森に目をやると、まるで未練を振り払うかのごとく体を翻したのである。

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