第5話 忌まわしき過去(3)

 半狂乱のナヅナはカエデの手を無理やり引っ張り森の中をひた走った。


「あなた……あなた……あなた……」


 夫がどうなったのか分からない。いや、分かりたくもなかった。

 叫び声とも泣き声とも解らぬ声が涙とともにナヅナの背後へと流れていく。


 夜明け前、いっそう暗くなった深い森が容赦なく三人の体をを痛めつけた。

 まるで、森の奥へと引き戻そうとするかのように伸びてくる枝々が、ナヅナ達の白い浴衣に咲きぐるう真紅の牡丹を描いていくのだ。

 

 おそらくナヅナは、これが夢であってくれと願っていたことだろう。

 だが、この体中の刻まれる痛みがまぎれもない現実であることを痛感させた。

 枝が深く刺さるナヅナの素足は一歩踏み出すたびに激痛を突き上げる。

 そんな激痛は次第にナヅナの精神を削るのだ。


 前へ。一歩でも前へ。

 今、ナヅナの心を支えているのはただそれだけだった。


 そんな息を切らすナヅナの行く手に小さな光が見えた。

 ――あそこまで行けば……

 なんの根拠もないその目標に最後の気力を振り絞る。

 

 一歩踏み出すたびにその光は徐々に大きくなってくる。


 無我夢中に走るナヅナの体はその光の中に駆け込んだ。

 瞬間、あれほど執拗にまとわりついていた森たちが、まぶしい光とともに途切れた。


 立ち尽くすナヅナ。

 そんな彼女の目の前には一望できる融合国の光景が広がっていた。

 そうナヅナは断崖絶壁の先に立っていたのだ。

 もう、彼女の前に道はなく逃げる先はなかった。


 だが、崖の上からは遥か遠くに流れる川面が顔を出し始めた朝日に照らされてキラキラと輝いているのがよく見えた。

 眼下に広がる融合国の街並みが、まるで宝石箱のふたを開けていくかのようにきらびやかにその姿を輝かせていくのである。


 それを見るナヅナの目から一筋の涙がこぼれ落ちた。

 カエデを引いていた手を放し涙をぬぐう。

 ――これで終わり……

 それは、逃げ道を失った絶望なのだろうか……


 いや違う、今のナヅナの目は先ほどまでの半狂乱の目ではない。

 いつもの燐とした美しい母の瞳だったのだ。


 ナヅナは抱きかかえていたタカトをしっかりと両手で強く抱きしめなおすと、優しく微笑んだ。

 それはまるでココが終着駅であるかのように。

「大丈夫。タカトは必ず助かるからね。母さんはタカトの笑顔が大好きよ。これからもみんなをもっともっと笑顔にしてね。本当に本当に大好きだったから……」


 ナヅナの声は小さく震えてはいたが、いつもの優しさが戻っていた。

 ――いつものかあさんだ……

 タカトはナヅナの胸にしがみつくと強く強く頭をこすりつけた。


 しかし、ナヅナはおもむろにタカトを目の前へとつきだした。

 そして、もう一度、精一杯に笑顔を作るのだ。


 そんな微笑むナズナの目から一筋の涙。

「さようなら……タカト……」

 その瞬間、タカトを抱えていた手が離れた。

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