第3話 プロローグ(3)
半ば錯乱状態のナヅナは、カエデの手を強引に引き、ただひたすら森の奥へと駆けていた。
「あなた……あなた……あなた……」
夫がどうなったのか、知るのが恐ろしかった。否、心のどこかでは既に理解していた。
だが、それを認めたくはなかったのだ。
嗚咽とも叫びともつかぬ声が、涙とともに夜気に溶け、ナヅナの背後へとこぼれ落ちていく。
夜明け前の森は、なお一層の暗さをまとい、彼女たち三人の身体を無慈悲に打ち据えた。
枝々は、まるで逃走を許すまいとする意志を宿したかのように、執拗に腕を伸ばしてくる。
それらは白い浴衣を裂き、肌をえぐり、紅の牡丹のような血の花を容赦なく咲かせていった。
ナヅナは、ひたすら願っていた。
――どうか、これが悪い夢であってくれ。
だが、現実は冷酷である。
刺さる枝の感触、迸る痛み、焼けつくような息苦しさ――その全てが、夢ではないことをいやというほど教えていた。
素足で駆けるたびに、足裏をえぐる痛みが全身を突き上げる。
その一歩一歩が、ナヅナの心を容赦なく削っていった。
それでも、止まることは許されなかった。
前へ。一歩でも、ただ前へ。
その一念だけが、いまのナヅナをかろうじて支えていた。
やがて、暗闇の先にわずかな光が見えた。
――あそこまで行けば……
根拠などない。だが、ナヅナはその小さな希望に最後の気力を注ぎ込む。
ほとんど意識を手放しかけながら、ナヅナはついにその光の中へと身を投じた。
瞬間、それまで執拗に絡みついていた森の影は、不意にその力を失い、霧が晴れるように消え去った。
眩い光が辺りを包み、闇の帳を断ち切る。
ナヅナは、その場に立ち尽くした。
目の前には、断崖絶壁の先に広がる融合国の街並み。遥か眼下には、夜明けの空に照らされた川面が、朝の光を受けてきらめいていた。
それはまるで宝石箱の蓋が静かに開かれ、世界が光を取り戻していくかのようだった。
――もう、前に道はない。逃げる先もない。
けれども、その風景は、あまりにも美しく、あまりにも静かだった。
一筋の涙が、ナヅナの目元を伝い落ちた。
カエデの手をそっと放し、頬をぬぐう。
――これで終わり。
それは、絶望の言葉だったのか。
いや――違う。
ナヅナの瞳は、もはや恐怖や混乱に濁ってはいなかった。
そこには、いつかタカトやカエデが慕った、芯の強い、誇り高き母の姿が戻っていた。
ナヅナは、両腕に抱いていたタカトを、そっと強く抱きしめ直した。
そして、ふっと優しく微笑む。まるでここが彼女自身の終着駅であるかのように。
「大丈夫。タカトは、必ず助かるからね。母さんは、あなたの笑顔が本当に大好きだったよ。これからも、もっとたくさんの人を笑顔にしてあげて……。本当に、本当に、大好きだったから……」
その声はわずかに震えていたが、そこには揺るぎない母の愛と穏やかな覚悟が込められていた。
――いつもの、かあさんだ……
タカトはその胸にしがみつき、震える身体で懸命に頭をこすりつける。
そして次の瞬間、ナヅナはそっとタカトを両手で前へ差し出した。
精一杯の微笑みを浮かべながら――その瞳から、また一筋、静かな涙がこぼれた。
「……さようなら、タカト」
その声とともに、ナヅナの腕がふわりと解かれた。
タカトの身体が、母の腕から離れていく。
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