幕間 弟の傅役は、短い春を謳歌する

その書状を火にくべながら、リードミュラー侯爵家の重臣であるアドリアン・ベッカーはため息をついた。なぜなら、それはシェーネベック子爵がたくらんだルクセンドルフ伯爵の暗殺計画は失敗に終わったことを知らせる内容であったからだ。


「まあ……上手く行けば儲けものくらいにしか思ってはいなかったが……」


それでも、もし上手く行けば、自分が傅役を務めるトーマスを世子にすることができると夢くらいは見たのだ。面白いわけがなかった。


「あの……ご主人様。侯爵様のお屋敷から使者が参られまして、至急集まる様にとのお達しが届きましたが」


しかし、部屋の外から女の声が聞こえて、ベッカーはその思いを封印した。彼女は最近この屋敷に奉公を始めたメイドであるが、その美貌と気立てを気に入り、愛人として囲っている。


「わかった。使者には承知したと伝えてくれるか?」


「畏まりました」


扉の向こうから返事が返ってきて、ベッカーは普段着から出仕用の衣服に着替えてそのまま屋敷を出立した。向かうのは当然、侯爵邸だ。


(何用だろうか……)


シェーネベック子爵の企てを知るだけに、ベッカーは平静を装いつつも気が気ではない。もし全てが露見しているのであれば、侯爵邸に足を踏み入れた途端、捕縛される可能性があるのだ。何しろ、世子を殺そうとしたのだから、れっきとした謀反である。


しかし、彼の心配は全くの杞憂だった。


「実はな、ベッカー。ボクとベアトリスは至急王都へ行かなければならなくなった」


「王都へ?」


「宰相ローエンシュタイン公爵閣下からの呼出しだ」


オットーはそう言って、今朝がた届けられた1通の書状をベッカーに見せた。そこには、「孫婿が暗殺されそうになったと聞いたので、一度説明に来られたし」と記されていた。


(つまり……伯爵は、今回の採決を王都に一任したということか……)


内々で済ます選択肢があるにもかかわらず、王都に裁きを求めれば、これ幸いにシェーネベック子爵は改易されて領地は没収されるだろう。ただ、あの子爵領は、元々はルクセンドルフ伯爵領だったのだ。そうなれば、伯爵としては損をする話となる。


ベッカーはそのことに思いを馳せて、ヒースを大したことがないと侮った。その程度のこともわからないとは……と。


「留守のことは、そなたに任せようと思う。トーマスの傅役だしな」


引き受けてくれるかと問われて、ベッカーは恭しく「承知いたしました」と答えた。


「しかし、よろしいのですか?奥方様はご病気なのでは?」


それも深刻なものではないのかとベッカーは疑っている。何しろ、一度倒れたという情報が発表されて以降、この数か月間、この屋敷の内部情報が一切手に入らなくなったからだ。それなのに同行させても大丈夫なのかと。


(買収していたメイドや庭師もいつの間にかいなくなっているし……)


その様子から、これは何かあるとベッカーは睨んでいた。だが……


「あら?おかしなことを言うのね。わたしはこのとおり元気ですが?」


当のベアトリスはこの疑惑を完全に否定して、そのうえで「可笑しなことを言うものですね」とクスクス笑った。それが果たして演技なのかどうかはわからないが、こうなっては臣下であるベッカーの立場上頭を下げざるを得ない。


「これは失礼しました。どうやら歳のせいか……要らぬ気遣いの用でしたな」


素直に謝罪して、話を締めくくった。もし、本当に病気であったとしても、彼には関係ない話だった。





やがて、侯爵夫妻が出立して、ベッカーは侯爵邸に入った。理由は、この侯爵領の統治を代行するためだ。ただ……流石に愛人を連れて行くわけにはいかない。


「すまない、メイサよ。寂しい想いをさせてしまうが、許してくれ」


「はい……承知しています。寂しいけど……ぐすん、わたし、がまんします……」


別れ際に大粒の涙を流していた彼女の顔が脳裏から離れないが、だからといって役目を放棄するわけにはいかない。何しろ、トーマスを次期侯爵にするためには、この機会は絶好のチャンスなのだ。


「ヒース様は、ルクセンドルフ伯爵領の統治で苛烈な姿を見せているからな。それを恐れているものたちに、トーマス様の慈悲に満ちたお姿を見せるのだ。さすれば、流れは一気に傾くだろう」


そう言って、志を同じくするトーマスの乳母、バルバラ夫人とともに、貧民街での炊き出しなど、具体的な計画を早速打ち合わせするベッカーであったが……


「ふふふ、男ってホント、チョロいわね。涙を見せれば、オロオロしちゃって」


ちょうどその頃、留守になった屋敷では、【歩き巫女】のメイサが早速任務に取り掛かろうとしていた。


彼女は辺りに人がいないことを確認して、ベッカーの書斎に入ると、懐から隠し持っていた手紙を引き出しの中にしまってあった冊子の間に挟み込む。開かない限り、分からないように細工して。


「ふう……これで良し。あとは、ここからオサラバするだけね」


未練もなければ罪悪感もなかった。あるのは、「ヘタクソだったなぁ」という感想だけ。あまりにも使えないから、マムシドリンクを飲ませたのに、それでも硬さが足りないのだから話にならないと。


「それじゃ、バイバイ」


誰もいない部屋にひとり別れを告げて、メイサは次の任務へと旅立つ。ベッカーの春はこうしてもうすぐ幕を下ろそうとしていた。

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