第44話 悪人は、伯爵領に立ち寄る
「これは、伯爵閣下!すぐに支配人を呼んで参ります!」
突然来訪したヒースを見て声を上げたのは、サーシャの手下だったラザロという男だ。今はこの劇場前で掃き掃除をしていたところだった。
「あの……ヒース様。ここは一体……」
王都に向かう途中に寄ったルクセンドルフは、エリザにとっては3年振りの故郷だ。だが、昔の記憶を辿って思い出そうとしても、目の前の派手な建物はやはり見覚えがなかった。そんな彼女に養父であるロシェル司教は囁く。
「ここは、閣下が手塩に掛けて育てられた歌劇団専用の劇場です。初めは酒場や宿で歌ったり踊ったりしていたのですが、物凄い人気でして……こうして専用の劇場ができたのです」
「へえ……そうなんですか」
それは一体どういうものなのかはわからなかったが、エリザは見てみたいと思った。ヒースが手掛けたものなら、きっと凄いものだと疑わずに。
「お……これは伯爵閣下。ようこそお越しくださいました」
そのとき、建物の中から身なりの整った婦人が姿を見せた。そして、挨拶もそこそこに「こんな所ではなんですから」と言って、一行を中へ案内した。
「思っていたよりも広いな」
入口から中を見下ろして、ヒースは感想をまず述べた。そこはすり鉢のようになっていて、底に部分に広い舞台が用意されていた。
「およそ、千人から2千人入ります」
「えっ!そんなに入るんですか!?」
それはこの領都の人口のおよそ10分の1にあたる人数だ。そのことを思い出して、エリザは声を上げた。そして、ヒースも同様に思ったのか、サーシャに問いかけた。「いくら何でも大規模すぎるのではないのか」と。
しかし、サーシャは笑って答えた。
「何を仰ってるんですか、閣下。今やあの娘たち『スターナイト・シスターズ』は、領の内外問わず大人気の歌劇団なのですよ。今日だって入場券は完売してますし、近隣の宿もどこも満室ですわ」
だから、もっと広くてもよかったんじゃないかと後悔しているというサーシャ。ヒースは今一つ信じられずにロシェルを見たが、彼も頷いて彼女の言葉を肯定した。
「ところで、閣下。そちらのお嬢さんは?」
話がひと段落ついたところで、サーシャは話題を変えてきた。その言葉に、そう言えばお互い紹介がまだだったなと思い、ヒースは間に立った。
「彼女はロシェル司教の娘でエリザだ。ワシの婚約者だ」
「エリザです。はじめまして」
礼儀正しく挨拶をする姿は、まさに上流貴族の令嬢といったもの。だから、サーシャは何も疑わずにロシェルに言った。「あんたも隅には置けないわね」と。もちろん、実の娘ではないというわけには行かない彼は、苦笑いを浮かべて誤魔化した。
「そして、エリザ。こちらは、この劇場の支配人を任しているサーシャだ。本業は金貸しをしているが、とてもいい女だ」
「サーシャ・クランプトンです。閣下とは彼是3年の付き合いになりますが、今はこの劇場の支配人をしています。言っておきますが、愛人とかではありませんから、誤解はなさいませぬよう」
ヒースの物言いは、いつもこのように誤解を招きかねないと、サーシャは笑いながら言った。現に『スターナイト・シスターズ』の歌は、そのほとんどが若き伯爵を恋い慕うソフィアの想いを題材にしたものだ。
「なあ、そろそろソフィアの誤解を解かなければまずいような気がするのだが……」
「いいえ、このままで行くべきだとわたしは思います。『スターナイト・シスターズ』が人気なのは、平民と伯爵との恋愛というあり得ない奇跡の物語が受けているという背景があるのです。むしろ、愛人なり側室になさることを検討される方が望ましいのではないかと」
婚約者がいる前で堂々と熱く語るサーシャに、ヒースは苦笑いを浮かべた。そして、その表情を看取って、サーシャの方もエリザの存在を思い出して自身の失言に気がついた。
「こ、これは、大変申し訳ありません。エリザ様の前でわたしは何と言うことを……」
「いえ、お気になさらないでください。ヒース様は伯爵であらせられますので、側室や愛人ができることはすでに覚悟してると言うか……」
だから、そのソフィアに会ってみたいとエリザは言った。その言葉にヒースもサーシャも、そしてロシェルも驚いた。
「……本当に会わせてもよろしいので?」
サーシャは、ヒースに確認した。しかし、彼は首を振った。
「あのな、エリザ。本当にワシにはその気はないのだ。だから、会わせてしまうと、婚約していることも伝えなければならないわけで……そうなるとソフィアがショックを受けて、今晩の初公演が台無しになってしまう可能性があるのだ。わかるよな?」
そんな説明で伝わるのかと、サーシャは呆れたような顔でヒースを見た。まるで、浮気がバレた亭主の言い訳ようだと思いながら。しかし……
「わかりました。そういうことでしたら、お会いするのはまたの機会にしますね」
なぜか、エリザはそう言ってあっさり折れて希望を取り下げた。
「あの……本当にいいのかい?」
あまりにも物分かりが良すぎるため、サーシャは気になってその理由を訊ねた。すると、エリザは言った。「ヒース様が嫌がっていることだけはわかりましたので」と。
「ホント、素晴らしい婚約者だねぇ……」
この分なら、ソフィアが付け込む余地はないなと思いつつも、サーシャは心の底から感心して二人を祝福したのだった。
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