第3話:女神の手、あるいは――

 

 目を開けると、視界には白い天井と電灯。


 真っ白なシーツと布団。薬品の臭い。カーテンで仕切られた半個室の感じからして、ここは病院ではなく、学園内の保健室であることがすぐに分かった。


 カーテンの隙間から、この学園に常駐している女性の学校医、牛飼うしかい先生の白衣が見えたから間違いないだろう。


 その横に誰か女生徒が立っているが、顔までは分からない。


 俺は目覚めたことを伝えるべく口を開こうとした瞬間――牛飼先生とその女生徒の会話が聞こえてきた。


「――まだダメみたいだよ、あずささん」

「そうね。あと、ここでは先生と呼びなさい、渚」


 声で分かった。隣にいる女生徒は射手川だ。でも、なぜここに? それに親しげな感じからして、二人は知り合いなのか?


「はーい。つい、いつものクセで。それでみー君の様子は?」

「まだ寝てる。脳波もチェックしたけど問題なし。やっぱり影響がまだ残っているみたいね。だから、言ったでしょ? はダメだって。ただですら渚は同じクラスなんだから」


 咎めるような牛飼先生の口調。待ってくれ、それは何の話だ。安易な接触ってなんだよ。


「だって、佐々木君と島の話をしていたから……思い出したのかなあって。思い出していたら、もういいんでしょ?」

「思い出していたら、ね。シロミコの気持ちも分かるけど、焦ってまた同じ事を繰り返したら――元も子もないわ」


 シロミコ? なんだそれは。


そそのかしたのは絶対にあのオカルト部の部長だよ。あの人、色々島について調べ回っているし。もしかしたら、みー君についても」

「いずれにせよ、彼に関してはもピリついているから、こういうことは勘弁して。ただでさえ祭りは近いんだから」

「むー……でも、この気持ちに変わりはないから。無理矢理思い出させたらダメでも、ちょっとずつならいいんでしょ? もう四月からずっと我慢してるんだよ」

「……そうね」

「とりあえず添い寝でもしてこようかな!?」


 その言葉で声が出そうになるほど心臓が跳ね上がった。ここまでの意味深な会話が全部ぶっ飛びそうになったぞ!


「校医として認めるわけないでしょ」

「ちぇっ。じゃ、みー君のことよろしくね」

「はいはい」


 射手川が去っていく音を聞きながら、俺は何が何やら分からないまま、目を閉じ、思考の海に沈む。


 昨日からいったい何が起きている。


 部長の話。

 佐々木の話。

 射手川、そして牛飼先生の会話。その全てに関わっているのは、なぜか俺と女奈宇めのう島だ。


 分かっている。さっさと起きて、牛飼先生にさっきの会話について問い質せばいい。


 でもなぜか、はぐらかされるような予感がしていた。


「マジで……なんなんだよ」


 思わずそう呟いてしまう。それで俺が起きたことに気付いたのか、カーテンが開く。


「起きた? どう具合は?」


 日本人離れした彫りの深い顔に、ショートカットの黒髪がよく似合う女性――牛飼先生がそう優しく聞いてきた。


 彼女は、佐々木から教えてもらったこの学園内の美少女ランキングで、唯一生徒でないのにランキングしたらしい。美少女かはともかく、美人であることには間違いない。


 そういえば、ちゃんとこうして顔を見るのは初めてかもしれない。


「えっと、大丈夫です。俺、どうなったんですか」

「今のところ、異常はないわ。君の記憶障害についてはカウンセラーの方から聞いているから、それの影響だと思うけど……。どこまで覚えてる?」


 佐々木と射手川と会話していたことまでは覚えている。


 ああ、そうだ。


 みー君。


 それがトリガーだった気がする。なぜ、射手川は俺をそう呼んだんだ。


「佐々木君と射手川さんとの会話中に気絶した君はここに運び込まれたのよ。とりあえず、今日はもう帰ってもいいけど、カウンセラーと相談して一度病院に行くことを校医としてお勧めするわ。何か、あったら……


 そう言って、牛飼先生が魅惑的な笑みを浮かべる。その笑顔に嘘はないように見えた。


 嘘はない。だけどもそれは、とは限らないことぐらい、俺にも分かる。


「はい……あの、」


 俺は何かを聞こうと、口を開くも――


「なに?」

「……いえ、何も。ありがとうございました」


 結局何も聞けず、俺は保健室を後にした。


 校舎内に夕日が差し込み、世界をオレンジ色に染め上げていた。マリンスポーツ系の部活動以外は基本的にあまり活発ではないこの学園の放課後は、とても静かだ。


 ひとりぼっちで無人の校舎を歩いていると、やけに孤独感を感じる。背後に、暗い影が忍び寄っている気がするのに……俺には振り向く勇気すらない。


 何が過去と向き合おう、だ。


 俺はやっぱり怖いんだ。あの空白の八年がどうだったかを知るのが。


 たまらなく怖いんだ。


 だから俺は――無意識で東校舎の三階へと足を向けていた。


「……やあ。どうしたんだい。死にそうな顔をしているな、海色君」


 オカルト部の部室の扉を開けた俺へと、部長がいつものようにそう声を掛けてくれた。


 言い知れぬ安心感が俺を包む。


「今日は散々でしたよ。射手川と会話したせいで、気絶するし……訳の分からないことだらけで、余計に混乱してきました」


 俺が愚痴るようにそう言って、部長へと歩み寄った。


「気絶、ね。心的外傷後ストレス障害……いわゆるPTSDというより、解離性障害と言ったところか。よほど、ショックな出来事だったんだね。無理もない、君はその事故で両親を亡くしたのだから。だからそれに関わる何かを見聞きすると……頭痛や記憶障害が発生する。そんなとこだろう」


 部長がズレた眼鏡をスッと細い指で押し上げた。俺は椅子に座る部長を見下ろしながら、問う。


「部長。部長は何を知っているのですか」

「君の症状から、推測しただけだよ。直接的ではないとはいえ、そそのかした私にも原因はある。すまない、海色君。知的好奇心に私はどうにも弱くてね」


 部長があまり申し訳なさそうな様子でそう言って微笑んだ。


「俺、怖いんですよ。何があったのかを知るのが。これまでは意識しなくても済んだのに、昨日からずっとそれが音もなくにじり寄ってきているよう気がして気持ち悪いんです」


 俺は泣きそうになっていた。ずっと抱えていた不安が爆発したのかもしれない。


 いつの間にか膝が床に付いていた。まるで、椅子に座る部長に乞うかのような格好だ。


「こんな言葉を知っているかい、海色君。〝幽霊の正体見たり、枯れ尾花〟――恐ろしいと思っていたものも、正体を知れば案外大したものではない、という意味なんだがね。君が過去に恐怖しているのはそれが未知だからだよ。人は闇を、未知を恐れる。だから火を使い、知識が生まれたんだ」

「過去を知らないから、怖い……ってことですか」

「その通り。だから、君は過去を知るべきなんだろうね。だが問題は過去を知ろうとするほど、君に症状が出て負担が掛かるという点だね」


 部長の言う通りだ。だけどもなぜ射手川との会話、そしてみー君という呼び名で発症したのだろうか。


 ああ、そうだ。それについては部長が知っているはずだ。


 俺は椅子に座る先輩の顔を縋るように見つめた。


「部長は、なぜ射手川が俺の過去と関係があると知っていたのですか。彼女は俺を、〝みー君〟と呼びました。それが発症のトリガーだったと思います」

「みー君ね。海色だから、みー君か。まるで、幼い頃から知っているかのような呼び方だろ?」


 部長が右手で、俺の髪をくしゃりと撫でた。


「つまりはそういうことだよ。射手川渚は女奈宇めのう島出身で、そして君の過去を知っている。君は忘れているのだろうが、きっと君と射手川はあだ名で呼び合う程度には仲が良かった。いわゆる幼馴染みってやつだな」

「じゃあ、つまり俺は――女奈宇めのう島出身だって言いたいんですか」


 そんな予感はしていた。いくら馬鹿な俺でもそれぐらいは予測がつく。


「その通り。私は最近女奈宇めのう島について色々と調査をしていてね。そこでたまたまとあるニュースを見付けたんだ。ニュースと言っても、この雨花市のホームページにある新着情報欄に小さく載っていただけのものだけどね」

「ニュース?」

「そう。しかも十六年前のものだ。ふふふ、当然自動削除されていたが、復元してみた。デジタルタトゥーとはよく言ったものだ。そしたらそこに、こう書かれていたのさ――〝女奈宇めのう島にに男子が産まれた。名は――〟」


 それ以上部長は何も言わず、俺を見つめた。


「それが俺ですか」

「そう。まさか、民俗学部唯一の部員の名前が調査中に出てくるとはね。だから昨日、君にああして話を振ったわけだ」


 なるほど。部長は女奈宇めのう島について色々と探りを入れたいから、ああして俺に提案したわけだ。


「そういうことは、先に言ってください……」

「いやあ、すまない。なんせ射手川達島民は警戒心が異常に強くてね。まともに相手してくれないが、君ならあるいは……と思ったんだ」

「勘弁してくださいよ」

「悪い悪い。だがこれで分かったろ? 君は島での過去を知りたい。私は排他的な、かの島の人魚伝説について調査したい。ある程度、目的は一致している」


 部長が悪そうな笑みを浮かべて、手を俺へと差し伸べてくる。


「改めて問おう。海色君、私と共に、女奈宇めのう島を調査しないか?」

 その手を、取らないという選択肢は俺にはなかった。


 部長が一緒なら怖くない。そう思えたんだ。だから俺は女神の差し伸べる手を――その手に取ったのだった。



 あるいはそれは……悪魔の手だったのかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る