夏硝子 / 澪

追手門学院大学文芸同好会

第1話

 私が海の見える家に引っ越してきたのは、二月の終わりの頃だった。

 都会よりも自然が多くて、穏やかで綺麗な場所を想像していたけれど、そんなのは結局子供の幻想で、何処に引っ越したところで現実はやっぱり現実だ。新しい家から見える海は、岩肌に打ち付ける冷たく重い波がちっとも綺麗じゃなくって、磯臭くて、塩気でベタついて、私は顔をしかめてぴしゃりと窓を閉めたのだった。

 春から新しい学校に行くようになって、馴染むまでにそう時間はかからなかった。ベタつく海風と違って、さっぱりした人間関係だったから。来る者拒まず去る者追わず、前の学校にも似た雰囲気の人は居たけれど、みんながみんなそんな感じなのは少し不思議だった。それでも、私の肌には合っていたように思う。友情とかそういう、ベタつくものが、私はきっと苦手だった。


 紫陽花が色を失って、時々セミを見かけるようになる七月の中頃。私は雲ひとつない青空の下を、今にも倒れ込みそうなのを堪えながらふらふらと歩いていた。

「まさか……バスの定期を忘れるなんて……」

 この町はそれなりに広い。ローカルバスに乗らなければ、家から学校までかなりの距離がある。行きは定期を取りに戻る時間も歩いて学校に向かう時間も無くて仕方なく財布から小銭を取り出したけれど、帰りもお金を払ってバスに乗るのは勿体無いように思えて歩いて帰ることにしたのだ。それが間違いだったと気付く頃には家と学校の丁度中ほどの場所まで来てしまっていた。

「あっつい、都会より涼しいとか、全然そんなこと無いでしょ……コンビニとかも無いし……」

 冷房で涼める場所が無いにせよ、せめて何処か日陰で休憩できればと辺りを見渡してみる。高いところに小さな窓のある建物が右手側に沢山並んでいるが、入り口が何処なのかはわからない。左手側は向こうの方までずーっと海で、真夏の日差しを受けた砂浜と水面がチカチカと光っていた。仕方なく道の先の方に目を凝らすと、少し向こうに小さな小屋みたいなものが見えて、私は頬を伝う汗を拭った。


 前まで行ってみると、どうやらそこは休憩所のようだった。と言っても、エアコンや扇風機なんかがあるわけでもなく、ただ単純に日差しから逃れるための場所、という感じだった。

 滑りの悪い引き戸をガラガラと音を立てながら開くと、透き通るような風鈴の音が響いた。風鈴は小屋の内側に吊るされていて、鮮やかな金魚の彩色が施されている。扉を開けて海風が入り込んだから揺れたのだろう。

「うん?ああ、どうも、こんにちは?」

 小屋の奥から、そんなふうに声がかかる。さっきまで、目がチカチカするような日差しの下に居たせいで、暗い小屋の中に居た誰かに気付けなかった。

「えっ、あっ、どうも、こんにちは」

 だんだんと暗がりに目が慣れてきて、小屋の中に居たのが私と同い年くらいの女の子だというのがわかった。艶やかな黒髪と、学校の同級生とは違って少しも日焼けしていない真っ白な肌、ぱっちりとした目元と小さな笑みを湛えた口元はお人形のように可愛らしい。

 彼女は黙々と硝子玉に彩色を施していた。細い絵筆にごってりとしたような絵の具をほんの少しずつのせて、丸みを帯びた指先ほどの硝子玉の上を器用に滑らせる。それが朝顔の模様であるのに私が気づいた時、彼女は再び声を発した。

「座らないの?」

「あ、うん」

「隣、どうぞ」

 彼女は真っ直ぐにこちらを見て微笑んだ。彼女の手元、硝子玉に描き出される朝顔に見惚れていて、座るのをすっかり忘れていた。促されるままに、画材が置いてある少女の右手側とは反対の方に座った。

 近くで見ると、余計に美しく見える。彼女も、彼女の手元にある硝子玉も。

「ねえ、君、学校の人でしょ?ほら、制服着てるしさ、いいね」

 随分中性的な話し方をするのだな、と思った。男女入り交じって遊ぶ幼い子供のような話し方。彼女の言葉は好奇心に満ちていた。

「そうですけど、いや、学校の人っていうか、学校帰りっていうか」

「そっか、珍しい」

 珍しい。その言葉に私がつまづいて首を傾げると、彼女は「みんなバスで前を通り過ぎるだけだから」と言葉を次いだ。

「ああ、確かに、この近くって全然人が住んでないもんね」

「そう、ここらは工房ばっかりだからね、居るのは職人のおじさん達だけだよ」

 工房というのがなんの工房なのか、なんとなくわかる。風鈴や彼女の持っている硝子玉は、百円均一のお店に並んでいるのとは全く違う味を持っていた。綺麗さが、繊細さが違う。

「あの風鈴ね、私が吹いて作ったんだよ」

「そう……なんだ」

 半分開けたままになっていた引き戸からまた風が吹き込んで、心地好い音が響く。美しい彼女が、あの美しい硝子細工を作ったのだと思うと、どうしてか胸の奥の方が少し疼く気がした。

「ね、硝子吹いてみる?」

 彼女がそんなふうに提案する。手元の硝子玉には瑞々しい朝顔が咲いていた。

 彼女に連れられるまま、コップや箸置きなど、綺麗な硝子製品が沢山並ぶ工房の中を奥へ奥へと進んだ。途中職人のおじさん達が何度か声をかけてきたけれど、彼女が何事か言うとみんな決まって私に「ありがとうな」と言った。どうしてお礼を言われているのかはわからなかった。

「荷物、その辺の好きなとこに置いてね、硝子細工は気になったのあれば持って行って良いよ」

「そうなの?高いんじゃない?」

「私が作ったものだから、値段を決めるのは私だよ。それをいいものだって思ってくれる君になら、タダであげたっていいかな」

 微笑んだ彼女を見て、どうしてか「タダより高いものはない」なんて言葉が脳裏をよぎった。あれは何にも変え難いものだという意味だったろうか。

「ああ、でもそれより自分で吹いてみるのがいいよね、ちょっと待ってて」

言うと、また何処か見えないところに行ってしまった。仕方がないので荷物を置いて少し見物することにした。

 硝子細工というのを、私はまじまじと見たことはなかったし、ましてや自分で買ったこともないけれど、道中見たたくさんの作品から、多くの人がこの美しさに惹かれる理由はなんとなく理解できた。硝子は世界を切り取って小さく閉じ込めたようだと思った。彩色を施されたものはとくに。

「準備できたよ」

 棚の向こうから彼女が顔を出した、鼻の頭が煤けて黒くなっている。

「炉の傍は暑いからね、これ使って」

 そう言ってハンドタオルを差し出してくれる、作業する時によく使うものなのだろう、端の方が擦り切れたようになって年季が入っていた。

「ありがとう」

 受け取って首にかけて、彼女の後ろをついて行くと少し開けた場所に出た。真ん中に炉があって、換気扇の轟音と炎の音が鳴り響いている。それほど近づかなくても熱気を感じられた。この場所であの繊細な作品たちが生まれるのかと思うと少し不思議だった。

「じゃあ、やってみようか」

 その言葉に、私は強く頷いた。


 結局、その日私が上手く膨らますことができたのは一つだけだった。いくつも硝子をダメにしてしまって、私は彼女に謝り倒したけれど、彼女は「気にしないで」と嬉しそうに笑っていた。

「私はもっとたくさん失敗したからね、君は筋がいいほうだと思うよ」

 氷の入った麦茶をくるくると回しながら彼女はそう言った。工房とは違う建物、彼女が今住んでいるらしい場所に案内されて、お菓子をご馳走になっていた。彼女の部屋の中は、工房に負けないくらいに硝子細工で溢れていた。綺麗な橙のグラデーションになっているグラスから、透き通るような青の花瓶まで、さまざまな作品が並んでいて、それでやっぱり「気に入ったものは持って行っていいよ」と彼女は言った。

「そうだ、そういえばアレがあるんだ」

 思い出したように彼女は小さな冷蔵庫を開けて、そこから瓶ラムネを二つ取り出した。

「いいの?麦茶もらったのに」

「いいのいいの、こっちの方が美味しいよ。それに麦茶だけじゃ喉が乾いたのは収まらないでしょ」

 確かに彼女の言う通りだった。私の喉はまだまだ水分を欲している。貸してもらったタオルがびしょびしょになるくらい汗を流したからだろうか。

「それじゃあ、遠慮なく」

 瓶ラムネを受け取って、そうして私の手が止まる。

「これ、どうやって開けるの?」

 ビー玉で口を塞がれた硝子瓶、開け口をひねろうと力を込めるがびくともしない。

「あ、違う違う、はい、これ」

 手渡されたのは円筒状の突起がついた小さな蓋。

「それをさ、硝子玉に押し当てて、勢いよく叩くんだよ」

 よくわからないまま言われた通りに勢いよく叩いてみる。カチン、と音がして数瞬、ラムネの泡はとめどなく私の手元で溢れ出した。

「わっ、わ、わ、うわー!」

 私の手をすっかり冷やしたところで、ラムネの泡の勢いは収まりをみせる。そこで、堪えきれないとばかりに彼女は笑いだした。

「あっはははは!いいねえ、私もやる!それ!」

 ぶわわわーっと泡が彼女の手の上で広がる様子を見て、私は思わず、彼女と一緒に笑っていた。ラムネで手がベタつくのは、もう気にならなかった。

「ねえ、海見に行こうか」

 頷かない理由はなかった。


「楽しかったぁ……」

「そうだね……」

 砂浜の流木の上で、二人並んで座っていた。ああして笑い合ったのに、彼女も私も、お互いにまだ名前を知らないのがとても不思議で、けれどもそれで構わないとも思った。

「私さ、今日バスの定期忘れてよかった」

 言いながら手に持った硝子細工を眺めた。もしも今日、偶然定期を忘れて、気まぐれに歩いて帰ろうなんて考えなければ、きっと一生こんな楽しい思いはしなかった。

「なんの話?」

「ううん、別に、楽しかったって、それだけ」

「そっかぁ、良かった」

 彼女はしばらくぼうっと海を眺めていたけれど、不意に呟くように言った。

「私、学校って苦手なんだ」

「……?」

「多分、君と同じ学校の生徒なんだけどね、不登校なの、私」

「そうなんだ」

「うん。なんというか、来る者拒まず去る者追わずっていうのかな、この町の人って大抵そうなんだけどね、それって何か怖いなって」

「どうして?」

「だって、それって居ても居なくてもいいよってことじゃない」

 ああ、そうか。楽なのは求められないからなのか。そんなふうに一人納得する。どちらでもいい、という空気が、私には心地よくて、彼女には恐ろしい。そういうことなんだろう。実際、私は彼女の話を他の人から聞いたことはなかった。多分、自分に直接関わりのないことには本当に興味がないんだろう、それは確かに少し恐ろしいことにも思えた。

「私は、」

 言いかけて、少し迷う。今日初めて会った私がそんなことを言うのは、わかった気になっているだけなんじゃないかと、そんなふうに思ったから。けれど。

「……私は今日、あなたに会えて良かったよ」

 彼女は少し驚いたような表情を見せる。遠くで風鈴の音がした。

「そっか、嬉しい」

 微笑んだ彼女はやっぱり綺麗で。硝子細工が綺麗だったのも、今思えばそのどれもこれもが彼女の一部みたいなものだったからだろう。彼女が創り出したから彼女の一部で、それなら私が吹いた硝子細工は、きっと私の一部なのだ。

「また来ていい?」

「うん、また来て」

 次は彩色をしよう、そう言って笑った。

 今は海の絵を描きたい気分だ、ベタつく潮風も、硝子の音と一緒ならば好きになれるだろうか。私の硝子細工は、綺麗な世界になるだろうか。

 夏はまだ、続く。


あとがき


 最後まで読んでいただきありがとうございます!

 二作目は高校時代に書いたもののリメイク作品となりました、読み返すとここはこっちの方がいいんじゃないか……みたいな部分が結構あり、逆にここは本当に好きに描写できてるな……という部分もあり。取捨選択、修正を繰り返しながらの制作となりました。

 今作のテーマは夏、そして硝子細工でした。音、色、匂い、空気感をめいっぱい詰め込んで描写できたと思いますので、その辺りを読んで感じ取って頂けていれば幸いです!

 さて、今作の二人の少女はその後どのような夏を過ごしたのか、その関係性はどのように変化していくのか、余韻の部分は前作同様、読み手の皆様へ委ねるものとして、あとがきの締めくくりとさせていただければと。

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