2-6 旅の準備

 侯爵の許しも出たので、さっそくセインは旅立ちの準備を始めた。

 しばらく滞在することにはなるが、あまり荷物を増やしたくないので、衣類などは最低限にして、あとは現地で調達することにした。こちらでしか準備できないものだけ、厳選して持っていくことにする。

 まずは墨、これがなくては始まらない。

 もちろんセインが丹精込めて作ったものである。料理長に頼んでおいた膠を使って、きちんとした手順で丁寧に練り上げ、木枠をつかってよく知る形に整えた。本来なら、硯で丁寧に磨りたいところだが、残念ながら手に入りそうもない。

 そこで、似たようなものがないか姉に相談したところ、それに準ずるものがあった。

 薬草を磨り合わせたり、粉にするために使う乳鉢である。硯に使う石に比べると、多少は表面のざらつきが荒いが、それでも墨のおりはそれほど悪くなかった。できたら形も本来の物に近づけたかったが、今回は時間が無いので諦めた。

 その代わりに、筆の方は満足がいく物が出来た。

 侯爵に許可を取って、馬の毛をいくらか貰うことができたからだ。筆の柄は既製品だが、十分にいいものが数本できたのでしばらくは困らないだろう。

 そして、短冊の追加は……


「……持ってきたぞ」


 別館のギシギシと軋む階段を上って、断わりもなく部屋に入ってきたのはイゼルだ。いかにも不機嫌そうに、長方形の白い包に入った物を差し出した。


「ノックをしろと教わらなかったか?」

「っ……てめぇ! くそ、こんなもの……」


 セインに差し出していた白い包を、カッとなって床に叩きつけそうになって、寸前で止め、ぶるぶる震える手をもう一度、押し付けるようにセインの胸元へ突き出した。


「ありがとう。父上にもお礼を……」

「自分で言えばいいだろ! 父上は俺のことが嫌いなんだ、だからこんな仕打ちを」


 下に見ていたヤツのもとへ、お使いに使われたのを父親の嫌がらせだと思ってか、イゼルは勝手に癇癪を起した。だが、おそらく短冊を切りそろえる作業をしているのがイゼルだから、それを必要としているセインのもとへやっただけだろう。


「いいか、父上に目を掛けられたからっていい気になるなよ! ……っう!?」


 イゼルはいつものようにその胸倉を掴もうとして、いきなり巻き起こったすごい熱気に弾かれたように手を離した。後ずさりしてセインを見ると、その肩口に乗る小さなひよこがこちらを向いていた。セインは熱を感じていないように平然としているが、これだけ離れても、イゼルはやがて顔を向けていられないほどになる。


「お、お、お……っ! 覚えてろっ!」


 捨て台詞なんだか、悲鳴なんだかわからない裏返った声で、イゼルは部屋を飛び出した。乱暴に開けられた扉が、今度こそ壊れそうな音を立てて、蝶番が一個外れた。


「ったく、出かける前に修理しないとだな」


 イゼルの大きな声や乱暴なしぐさに、セインはそれほど恐怖を感じなくなった。まだ腕力や体力ではぜんぜん敵わないので、今のところは半分やせ我慢に近い状態ではあったけれど。


「ありがとな、コウキ」


 肩から手のひらに乗せると、セインは小さなひよこの頭を撫でた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る