60項目 甘い危機感で眠れない


 ――――俺は今、朱夏の前に立っている。



 それは、"お別れ"の為だ。



 すっかり信用し切った顔で目を閉じ、ニコッと微笑んでいる。


「……早く、しなさいよ……」



 ボソッとそう呟いた、柔らかくも優しい声に、俺は思わず、涙を流した。



 さようなら……。



 そんな気持ちを携えて。



 そして、覚悟を決めると、そっと目を閉じて唇を合わせた。



 ……すると、彼女の身体は、粉雪の舞う街の中、朧げな白い光を放ちながら、淡く、儚く、夜の街に消散して行くのであった。



 これで、全て終わり。



 ……そう切なすぎるエンディングを迎えると、俺の心は空虚感に包まれた。



「これで、良かったんだ……」



 気がつけば、達成感と共に、その場に立ち尽くすのであった。――――



 ――――「……ゅう。しゅう……」



 ……途端に、そんな甘い囁きが耳を掠める。



 そこで、俺はまだ何が"現実"か分からない状態の最中、ゆっくりと瞼を開いた。



 ……すると、そこで見えたのは、眼前まで迫った"ひとつの唇"だったのだ。



 ……えっ?



 寝ぼけていた頭は、次第に冴えて行く。



 同時に、実情を理解して、激しい動揺を与えたのである。



「う、うぉっ!!!! 」



 思わず、慌てて飛び起きると俺の頭は、その唇の持ち主の"おでこ"にぶつかる。



「ごちんっ!!!! 」



 瞬間、頭部からは激痛が生じた。



 ……痛え……。



 まだ日が昇る前の暗がりの中、苦しむ俺。



 ……最中、苦悶の表情を浮かべながら、その唇の持ち主の方向を見ると、顔を真っ青にしながら、冷や汗をかく"我がヒロイン"の姿があったのだ。



 朱夏は、パジャマの格好のまま、おでこに出来たばかりの大きなタンコブを抑えながらも、完全に動揺していた。



「あ、あらっ! 周っ! おはようっ! いつまでも涎を垂らして寝ているアンタを、お、起こそうと思ってたら、いきなり飛び起きるから、びっくりしちゃったわよっ! アハハハハ〜!! 」



 突然、聞いてもいないのに取り繕い出す"異様な光景"を目の前に、俺はチラッと時計を見る。



 ……そこに記されていたのは、AM2:00。



 どう考えても、学校には間に合わない云々どころの時間ではなかった。



「……いや、早すぎだろ」



 俺がヒリヒリと痛む患部を気にしながら正論を述べる。



 すると、彼女は肩を揺らす勢いで首を振りながら、顔を真っ赤にしていた。



「そ、そうよねっ! おかしな私っ! 別に、アンタに"き、き、キッス"をしようとしていたわけじゃないんだからねっ! た、ただ、寝顔が可愛くて……。ち、違うっ! 醜くて、みるに忍びなかったっていうか……」



 ……なんか、とんでもない事を言われた気がする。



 そう思っている間に、俺の眠気は完全に吹き飛んだ。



 後、彼女のあからさまな言い訳。



 それを聞いた時、今、朱夏が何をしようとしていたのかを、すぐに理解する。



 コイツ、俺が寝ている隙に……。



 そう思うと、前夜から交際がスタートした事も相まって、途端に、照れ臭くなった。



 ……いやいや、交際を始めた瞬間、積極的過ぎないか……?



 醜い顔というワードには、引っかかったが。



 ……本当に、愛されているんだなと。



 だが、同時に、『危なかったな』と、ホッと胸を撫で下ろす。



 だって、さっき気づかないうちに"キス"でもされてしまっていたら、もしかしたら、朱夏は、人知れず"元の世界"に帰る事になってしまっていた可能性もあったから。



 ……つまり、セーフだ。



 流石に、こんな形でのお別れなど望んでいないから。



 ……いつの間にか、いなくなっているなんて、悲しすぎるだろ。



 それにリンクする様に、先程見た、妙にリアルな夢。



 あれが、俺が妄想として作り出した産物なのか、はたまた、【叡智の書】によって映し出された預言なのかは、分からない。



 ただ、事実として、俺が歩む"未来"に近い投影であった事だけは、正しいのであろう。



 哀しすぎる"結末"を目の前に、抑えられない感情の中で、涙に溺れていたのだから……。



 そんな事を考えているうちに、切ない気持ちが込み上げる。



 先日の"虚無感"も相まって、次第に表情は曇った。



 ……だが、やっとおでこの痛みに気がついて、しばらく苦しんでいた朱夏は、俺の様子を見かねたのか、こんな言葉をかけてきた。




「……もう、そんな顔するんじゃないわよ。また、いつも通り"変な悩み"を抱えているんでしょう? でも、今は、私の"彼氏"なんだから。そんな顔されたら、こっちまで辛くなるじゃない」



 ……いかん。また、彼女に"あんな想い"をさせてしまう所だった。



 せっかく、付き合い出したんだから。



 幸せにするって、決意したんだから。



 だったら、彼女がこの世から消え去る"その日"まで、とことん笑顔にしてやらなければいけないじゃないか。



「す、すまん、嫌な夢を思い出したから……。こんな、"幸せな時"なのにな」



 だからこそ、俺が、慌てて笑いながらそう言うと、彼女は得意げな顔をした。



 ……まるで、"覇者"にでもなってしまったみたいな顔で。



「そうよっ!! 周は、もう"私のモノ"なんだから、悲しい夢なんて見ている暇はないのっ! それよりも……」



 そう言葉に詰まると、耳たぶまで真っ赤にしながら、モジモジと俺の口元を見つめていた。



 ……そこで、先程の"危機"を思い出す。



 だからこそ、その事についての"釘刺し"をした。



「……ただ、抜け駆けのキスだけはやめてくれ。俺は、"ちゃんとした形"で、お前との"最初"を迎えたいからな」



 ハッキリとそう告げた途端、朱夏は自分の行動を顧みたのか、「ち、ちがぅからっ!! 」と、溶けてしまいそうな程の表情で分かりやすく爆発した。



 ……その後、「ボコっ」と腹部を思いっきり蹴られた。



 なぜ、俺が……。



「な、何を言ってんのよ、へ、変態っ!! 私がそんな、寝込みを襲うような破廉恥な行為をするわけがないじゃないっ!! バカ、バカ周っ!! 」

 

 自分が取った行動を無かったかのように、理不尽な動機で怒られた。



 だが、そんなやり取りを続けていくうちに、気がつけば、昨日感じていた彼女に対する"負い目"は、溶かされていった。



 ……本当に、俺を好いてくれているって分かったから。



 そう思って、少しだけ前に進めた事にホッとしていると、俺はもう一度、毛布の中に包まった。



「……じゃあ、もう少し寝るわ」



 ――だが、その所作も束の間。



「ぽすっ……」



 狭いローソファの隣で、そんな音が聞こえる。



 同時に、背後からは暖かい温もりが伝わった。



「……な、なんだよ」



 不意の攻撃に、心臓の音は速まる。



 ……そう、朱夏が横になる俺の背中に、抱きついてきたのである。



 あまり大きくない身長を形取るように、慎ましやかな胸や健康的な足が当たる。



 同時に、甘いシャンプーやボディクリームの匂いが、脳を刺激する。



「……せっかく付き合えたんだもん。少しくらい、甘えても良いでしょ……」



 以前の彼女からは想像が付かない程の猫撫で声で放たれた"甘え"を前に、俺はおかしくなりそうな本能を抑え込んで、彼女の好意を受け入れた。



「……風邪、引くぞ」



 弱々しすぎる言い訳を携えて。



 そんな素っ気ない返事を前に、彼女は「フフッ」と笑った。



 ……今が、幸せの絶頂なのかもしれない。



 俺は、去年の自分からは考えられない非現実的な"多幸感"を噛み締めながら、最後にこう続けた。



「……でも、こっそりキスするのは、絶対になしだぞ」



 ……だが、その瞬間、朱夏の身体は震えていった。


 

 そして、顔を真っ赤にしながらゆっくりと起き上がる。



 ……同時に、嫌な予感がして、彼女の方に振り返る。



 すると、指を「ポキポキ」と鳴らしながら"般若"の様な顔をしていたのだ。



「……次、その事を"擦ったら"、わかっているわよね……? 」


「は、はい……」




 結局、そのやり取りを最後に、朱夏はすっかり機嫌を損ねて自分のベッドへと戻ってしまった。



 ……また、やってしまった。



 しかし、この唇を死守するのが、今やるべき最重要項目。



 だって、忍冬朱夏とは、ちゃんとした形で"お別れ"がしたいから。



 不意に、消え去るなんて"結末"を迎えたら、俺はどうかしてしまうかもしれない。



 そんな事を考えながらも、今、やらかしてしまった自分の不器用過ぎる"失態"を反省するのであった。



 もっと、上手い言い回しがあったんじゃないかと。



 そうすれば、もう少しだけ、あの"甘い雰囲気"を……。



 ……そんな、不意に発動したお花畑の最中で、こんな疑問を抱いた。



 そもそも、【叡智の書】が示していたのは、『俺が、彼女にキスをする』だった。



 じゃあ、その行動が"逆"になったら、どうなるのだろうかと。



 『朱夏にキスをされる』だったら……。



 俺がこの世から消える可能性もあるのかもしれない。



 ……もう一度、会長と会って【叡智の書】に問いかける必要があるな。



 そう思うと、すっかり寝息を立て始めた朱夏に安心すると、俺はもう一度世界と"おさらば"する事にしたのであった。



 ……ちなみに、豊後さんをフッた事実については、伝えなかった。



 だって、彼女の尊厳を踏み躙ってしまう気がしたから。



 それでも尚、後輩を心配する朱夏は、彼女に『何があったの? 』と、直接電話していた。



 ……すると、当たり前の様な口調で、『なんのことですか〜? 』って、あっけらかんとしていたと言う。



 やり取りを終えて、朱夏がホッとしていたのが印象的だった。



 だからこそ、先程までの"甘い雰囲気"が出来上がったのであろう。



 もし、事実を知っていたならば、彼女は間違いなく、自分の気持ちを抑え込んで他人を思っていたであろうから。



 そんな性格なのは、俺が一番知っている。



 なんにせよ、豊後さんの対応を聞いた時、やはり、俺を諦めていないのだと、理解するのであった。



 ……同時に、再び、良心が傷んだ。

 

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